「ボーは恐れている」をみた

アリアスター、お前はホラー監督でいろ!

前半は面白かった あのクッソ不条理な感じ、カオスな感じは好き

全裸の人殺しおじさんがいる横で踊ってる変質者がいたり、部屋に侵入してきた暴れてる奴らの中に普通に皿洗ってるオッサンがいるシュールさ

いったい何を見せられているんだ

中盤のオオカミの家の監督が担当したらしき映像は、思ってより面白くなかった もっとビジュアルのセンスオブワンダーが見られると思ったのに

 

その後ボーのママによるネタバレパート

その後の理不尽裁判

 

旧約聖書ヨブ記がベースになってるらしいが、やっぱり前2作のがおもろかったよ

 

 

「オーメンザファースト」をみた

意外と面白かった

ローマ教会エゲツナ物語

 

音楽とか雰囲気は昔やったアウトラスト2を思い出した

あっちの元ネタは人民寺院事件らしいが、あっちもカトリック教会の聖職者による性犯罪が主人公のトラウマにあった気がする あんま覚えてないけど

 

怖さはまあまあ 映画館でみたら怖かったかもねー

千葉市科学館とプラネタリウムに行った

 

8階は音、目の錯覚、色、数字についての子供向けの展示物

なかなかおもろい

飛行機の音をヘッドフォンで聞くやつとかその場にいるようにしか感じねぇ

音による空気の振動やら光の回折と干渉とやらを実験器具みたいなものでひたすら視覚的に見てく

 

9階まず昔のオモチャの展示

俺、けん玉うますぎることが判明した

70年代からのラジオ、テレビの歴史 持ち運び用のテレビがあったらしく、画面がバカみたいに小せぇ

あとデザインが無駄にオシャンティ

俺も深海に連れてってくれや! ちなみに船内にも入れる 気分はキャメロンのアビス

 

 

 

10階は宇宙、環境問題、生物、虫、魚など

なんでもすり抜ける素粒子ニュートリノを世界で初めて観測した!って話の映像を延々と見てた

 

あと宇宙開発の歴史

冷戦の時の宇宙開発競争の時代から今まで

 

プラネタリウムまで時間があるのでひたすらヘンテコ実験映像ルームみたいなところで1人で映像を見てた

透明なガラスのピタゴラスイッチだのプカプカ浮かぶ超伝導体だの

すげー

 

そんでやっとこさプラネタリウムだ!

 

前半後半に別れてて、前半の星座解説はオモロイが、ナレーターの声の催眠効果が高かった

後半は、お前は頑張ってるんやでみたいなナレーションが流れ、見覚えのある千葉県内の映像と銀河を内側から見る映像が流れ、なかなか迫力あった

 

おもしろかったー

「魚座どうし」感想 ナミビアの砂漠 山中瑶子 監督作

まさかのNetflixで見れた

ndjc若手映画作家育成プロジェクトの作品群のめちゃんこ見つけづらい、下の方にあった

 

ナミビアもそうだけど会話がリアルすぎる

そんでもって不快エンタメ度が高ぇ

リアルが故に不快指数が高いんだなこれが

 

子供視点でみる自分勝手な親のウザさっぷりったらたまらんね

 

まーた応援したい監督が増えたしまった

「ナミビアの砂漠」感想2 ラストシーンの意味 ヘンテコ映画の存在意義

 

 

dudemans.hatenablog.com

ラストシーンの意味

冒頭から他人のシリアスな話題にも上の空でロン毛の彼氏の言い分を理解しようとしない主人公はラスト、自分でも意味のわかっていない中国語を話す。彼氏がどういう意味か聞いてわからないと答える。そしてわからないことを2人で笑う。

主人公はわからないことが嫌いで、ロン毛の元彼氏が謝り泣き始めると、変な人と笑って吐き捨てる。脱毛に意味はなくまた生えてくるのにネットで調べることもせず通い続ける人たちをバカにするような話もする。他人が理解できない。そしてついには自分自身のこともわからなくなっていく。

このラストはわからないことを受け入れるラストだと思う。彼氏は主人公の行動や言動が理解できないし主人公も彼氏の無神経さや倫理観を理解することができない。わかりあえない人同士が理解できないまま、完璧ではないもののわかりあった一筋の光を示したシーンだと思う。

 

テーマを決めてから脚本を書いたりはしないので、いろんなテーマが見えてくるのは書き終わってからだったりするんです。この映画には、もともとカナには人の言葉が全く響かなかったのが、次第に響いてくるようになるっていうストーリーラインがあるなと思って。多分、書いてる途中でそうなったのかな。まだカナのマンションの隣人(唐田えりか)も出てきていない段階で、“この映画はどうやって終わるんだろう?”と思った時に、カナがだんだん人の話を聞けるようになってきているのが見えた。そんなふうに、最初はとりあえず無意識に任せて書いてから、後で何をやりたかったのか、自分で答え合わせをするような書き方をしています。

 

1対1で対面した二人のカットバック(※二つ以上のカットを交互につなぐこと)が、劇中にはよく登場します。それらを追っていくだけでもカナの変化がわかり、最後のカナとハヤシのカットバックでは、一つの到達点に至るというか。それも含め、カメラマンの米倉伸さんと話したことを教えてもらえますか?

はい。まさにそういうことを話しました。「最後の二人のカットバックで、やっとカナが相手とフェアな地平に立てるんじゃないかという、希望みたいなものを映せるといいね」って。そこまではずっとこう、なんというか、上下関係とか、権力の奪い合いとか、マウンティングの連続なんだけど……。

 

ginzamag.com

 

 

 

三幕構成じゃ扱えない複雑性

主人公は病名をはっきり言わない精神科医に、病名は大切だと言う。わからないことが苦手な主人公は自分のことを理解したいと思う。心理カウンセラーに最近の自分について、よくわからかいと吐露する。

問題は複雑ですからね。複数の障害(adhd 境界性パーソナリティ、躁鬱)が重なり合うことがあるし、グレーゾーンかもしれないし、生い立ちからスキーマができあがって、カウンセラーが言っていたように、こうでなきゃいけないという思い込みがあるかもしれない。この映画のように決定的なストレッサーが描写されるわけじゃなく日常の些細なことからストレスが溜まり、自分を客観視できなくなってるのかもしれない。

問題は複座で自分のことを100%理解することは難しい。

ハリウッド的な三幕構成や成長譚でこのような物語を語ることは難しい。主人公の成長すべき欠点や病気を限定して、起承転結という枠組みに入れ込まなきゃいけませんからね。

日々のストレスによりイライラする、主人公の複雑な生活を描写するときに枠組みは邪魔じゃないすか

欠点を直して万事解決みたいなストーリーじゃありませんから

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘンテコアート映画の存在意義

別にアート映画かくあるべしと言うわけじゃありませんよ

たいして見てないですし、意味不明な映画よりアイアンマンの方が好きですし

 

でも俺なりに色々考えたんやけど、ただ意味不明なこと、奇抜なことするのは誰でもできるじゃないですか

そうじゃなくて、メインストリームの映画じゃ語れない物語をどのように語るかのhowの部分が結果的に実験的になってしまうものだと思う。

ナミビアの砂漠の複雑なストーリーを枠組みに入れ込まず複雑なまま語ることだったり、関心領域のただ、見ている人をセリフで責めるんじゃなく、お前らコイツらと同類だぜと感覚的に感じさせることにより、自分の関心領域の狭さにハッとさせられる体験だったり、パーフェクトデイズの主人公の視点で淡々とした日常を淡々と見せることで、主人公の価値観そのものを理解できるようになったり、マーベル映画じゃ語り用のないテーマを語り、感情を抱かせてくれる。

だから最初から奇抜なもんを作ろうとしてやるんじゃアカンのですよ

どのように観客にテーマを伝えるか、howの部分を考えた末に、結果的に実験的になってしまったみたい映画はよくできたアート映画だと思うんですけどねぇ

 

 

 

 

映画の限界性

主人公の映画なんか見て何になんだよというセリフや、脚本を書くクリエイター気取りの彼氏に、脚本なんかやらずに他のやり方で人を助けろ(記憶が曖昧だが、こんなこと言ってませんでしたっけ?)と言って、何をするべきかクリエイターなら自分で考えろとも言ってました。

「『あみこ』を撮った前後の時期は、『四六時中ずっと映画のことを考えているのが映画監督としてあるべき姿』みたいなことを本気で思っていました。たとえばひどいことを言われたり、されたりしても、『これは映画のネタになる』とか……人にも言われますからね、私が『いやなことがあった』と話しても、『映画のネタになるから糧にしなよ!』とか結構簡単に言われたりして、ちょっと感覚が麻痺していってしまったんです。そのあとに映画業界の労働環境や性加害の問題が表出して、それまでの自分のモードが変わって、『え、なんか映画しょうもな』と、映画づくりに対して疑念が生まれました。」

「それからコロナ禍で制作が延期になり、わりと自分と向き合う、『無理に映画を作らなくてもいい』ような時間ができて、今思い返せばその期間が私にとってはすごくよかったです。『生活をないがしろにしてでも映画のことを考えるのが、映画監督として真っ当である』みたいな思い込みから抜け出せて本当によかった。そういう考え方が、映画のためなら他人を踏んでいいということにつながりかねないと気づきました。あまり映画のことを信じすぎないようになったというか。映画だけのためには絶対に生きたくないし、生きている過程、その延長に映画を作れたらいい。それを最優先したいと、ここ数年ですごく考えていました。」

www.bunkamura.co.jp

 

 

映画本編の物語とは関係ないセリフですが、考えさせられるセリフですよね

見てる側にも突きつけられるし、監督自身の自虐にも感じる

たしかに映画を作っても見る人は限られますし、映画でテーマを語るくらいならその労力や金を、寄付に使ったり、NPO団体に就職したり、もっと結果がわかりやすいやり方で解決する方法あるやろと思ってしまうこともあります。見ている側もただ映画を見て色々語って考えておしまい。はい次の映画みたいなただエンタメとして楽しんで終わりみたいなところもあると思います。

監督は映画というメディアを神格化せず、限界性も考えているんですかね?

 

これについては他の記事でもうちょっと深ぼってみます。

「ナミビアの砂漠」感想 複雑さをそのまま描く

 

 

一見淡々と進むストーリーに見えて主人公の超絶複雑な心理を描写してる作品だった

 

 

原因を一つの何かに集約させない作り

主人公は中盤、精神科医から躁鬱もしくは境界性パーソナリティ障害と診断されるが、今はまだどちらかわからないと言われる。

どちらかはっきりしないし、どっちもかもしれない。

主人公が具体的に何の精神疾患にかかっているか、はっきり示されない。

 

親の存在もまったく描写されない。

彼氏と喧嘩し、お前には実家があっていいよな!と吐き捨てたり、精神科医との会話で家族との関係についての会話だったり、心理カウンセラーからの、なぜロリコンの例を思いついた?という質問などなどから、主人公は親からのネグレクトを受けていたと思われる。

 

全てをはっきりさせずに曖昧なのは、1つの精神疾患問題を集約させないためだと思う。

主人公が仮に精神科医に言われていたように躁鬱だとして、

主人公が今の彼氏に鬱憤をぶつけるのは、主人公に背を向けて仕事をし続ける様子が父親と重なったとか、元恋人の赤ちゃんを中絶させた彼氏の子供の命に対する興味のなさが、自分の父親を思い出させたみたいなことが考えられ、だから躁鬱になり感情を制御しないで彼氏に当たり、彼氏の方も主人公を心の底から理解できていないので、激しく反撃してしまう。主人公の精神状態も悪くなる。

こう何かしらの病名や原因を探し出して一つ解決すれば万事解決みたいな心理描写にするのではなく、色々な要因、心の問題や人間関係、社会的な問題が絡み合って主人公の複雑な性格はできあがっているのだと思う。

 

 

 

 

 

 

男には理解できない

今作に登場する男キャラは総じて自分にしか興味がない。

主人公のロン毛の元彼氏は主人公に執着します。主人公が逃げ出すと泣き出すくらいにです。ロン毛は主人公のことを理解してると何度も言いますが、主人公の複雑な心理が理解できてるはずもなく、それを聞いた主人公はわかった気になるなとさらに怒りに拍車がかかる

主人公の今の(元不倫)彼氏もそうです。

ごめんと言えば解決すると思ってる節があります。ごめんの、なぁなぁ性ってありますよね。彼なりに理解しようとして色々考えるも、やはり理解できない。ごめんで思考を停止して、それでも喧嘩が終わらないと1人になりたいとアパートから出て行ってしまう。対話がないですよね。一方的です。

彼氏の赤ちゃん中絶の話の罪滅ぼしとして、脚本を書く様子も、過去の行いと書いてる脚本の内容が真逆で、欺瞞性に溢れた行動を主人公は許せないんでしょう。

その後、男の精神科医に診断してもらいますが、ずいぶんと雑な診察でしたね。

 

 

 

 

 

 

 

自他境界ゆるゆるな2人

それでも主人公と彼氏は別れない。

クソほど喧嘩したあと、ちょっと一息してお腹すいた?と飯を食うみたいな謎の関係になっています。

序盤からこの2人は自他境界の薄い2人だと思ってました。1つのトイレで一緒にションベンするくらいですからね。カップルでもなかなかハードコアですわ。

どれだけ喧嘩して暴力を振るいあっても付き合い続けるのは、主人公は、幼少期のネグレクトから愛着障害があり自己肯定感が低い、寂しいから彼氏に依存してしまい、彼氏も主人公にある種依存してしまい共依存のようになってしまっているとも考えられますが、いかんせん説明がないので、憶測でしかないです。

 

 

 

 

 

 

唯一気持ちが理解できるかもしれない人

主人公の苦しみは幼少期の性的なネグレクト(推測)や冒頭の男に吐かれる暴言など、女性故の苦しみが背景の一つにあると思います。

だからなのかわかりませんが、理解しようとしない、しようとしてもできない男キャラに比べて、登場する女性キャラ(心理カウンセラー、隣人)は主人公に寄り添うことができ、主人公も彼女の話を聞き入れます。(心理カウンセラーの質問にまじめに答え始め、認知行動療法の効果が出始め?ます)

隣人の人に、わかるって言われるのが嫌そうな顔をしてるけど本当は嬉しいでしょ?と言われていましたが、理解しがたい主人公の行動や心理を理解してくれる同性の理解者が欲しかったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

徹底した主観描写

冒頭主人公が友達との会話で話題に興味がなくなると、音が会話ではなく周りの環境音やモブ達の会話にフォーカスが当たるようになります。

謎の主人公脳内ランニングマシーンのシーンでもイヤホンを取ると、その取る瞬間の音というのが再現されています。

心理カウンセラーに話を聞いてもらうシーンの後、彼氏の会話シーンが続きますが、以前と異なりロングショットが使用されています。そして謎の脳内ランニングマシーンのシーンでロングショットで喧嘩してる自分たちを主人公がスマホで見ています。

なんやねんこのシーンって感じですが、認知行動療法がそこそこ上手くいっていて、暴走する感情とそれに身を任せる自分をランニングマシーンで走り続ける自分に見立てて、そんな自分をスマホでみる、自分を客観視できるようになったというシーンだと自分は捉えましたが、ここはよくわかんないです。

 

 

 

 

 

 

 

まとめ

社会の隅っこで生きる、何を考えてるかわからない人の生活と感情とその複雑さを描いていますが、単純なレッテル貼り、例えばトー横キッズはなんちゃらみたいな雑な単純化をせず問題は複雑で、その複雑なものをそのまま描く。

観客はそれをただ見ることしかできませんし、100%感情移入させない作りになっています。

主人公やその周りの環境について、この映画を見ただけでは推測の域を出ず、観客も100%主人公を理解することはできません。

 

ラストシーンの会話、主人公かスマホで見てるナミビアの砂漠と動物の動画については色々考えたんですけど、よくわかりませんでした!

 

dudemans.hatenablog.com