ようこそケビンの部屋へ

自称歴史愛好家ーここ10年「桶狭間の戦い」について考察を続けてます。

私見その2ー信長と義元の行軍時系列表を作成してみた①

前回私は今川義元は信長が桶狭間に来ていることを知らなかった。との説を提唱いたしました。
現在では織田信長は迂回奇襲などせず桶狭間山の義元に向かって正面から突撃したとする「正面攻撃説」が通説とされてますが、この説だと大軍を擁した今川義元が遥かに数で劣る織田信長に何故負けたのかの説明が困難です。そこで近年「後退追撃説」が提唱され注目されています。この説では義元は撤退中に襲われたとしており、義元討死の経緯に関してある程度納得できる説明がなされています。しかしこの説を支持されている先生方も義元は撤退中に信長来襲を把握していたとしています。
なのに大昔の「迂回奇襲説」に戻って「義元は信長が来ていることを知らず、桶狭間山で奇襲されたなんて今更何言ってんの⁉」と皆さんは仰られると思います。
しかし『信長公記』の桶狭間山の記述を読めば読むほど「義元は奇襲を受けた」と考えざるを得ないのです。
そこで今川義元織田信長が進軍して来ているのを知らなかったということが実際に起こり得るのか?これを検証する為織田軍と今川軍の行軍時系列表を作成してみようと思い立ちました。

図1:『信長公記首巻』時間記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)

しかし『信長公記』の「桶狭間の戦い」の章に時間が書かれてる部分は3箇所しかなく、その時間も干支のみ(図1)の為2時間もの時間幅があります。そこで『信長公記』に書かれている事柄を距離と移動速度から行軍時間を割り出し、時系列表にしてみました。(図2)

図2:織田・今川行軍時系列表

旧暦の5月19日は新暦では6月21日となり日の出時刻は4:35頃*1ですので4時頃から空が白み始めます。この時代の戦闘は夜明けとともに始まるのが通例なので今川の鷲津丸根攻撃開始が4:00。それと同時に伝令が砦を立ったとすると、全速力で走ったとして(時速10km)*2も清州到着は6:00(①)
伝令を聞いた信長はついに堪忍袋の緒が切れて*3清州を出立するのが6:30(②)
信長始め主従6騎は7:20に熱田神宮に着きますが(③)直属の足軽達200人が着くのは8:30(④)
足軽が揃ったのを見て熱田神宮を立ったのが8:40(⑤)。ところが最短経路の海沿いの道(下道)が満潮で通れず、遠回りして内陸の道(上道)を通った為、騎馬の信長達が丹下砦に着いたのが9:30。(⑥)
足軽達は10:40(⑦)になってやっと丹下砦に到着。
一方今川義元は砦を落とした後も大高城で信長来襲に備えていたが、一向に現れないので、「もうやって来ない」と判断し9:50大高道おおだかみち*4を通って沓掛方面への撤退を開始(A)。但し義元自身は輿に乗っての移動の為桶狭間山に到着した時は11:00を過ぎていた。(B)*5
但し皆さんからご指摘される前に白状しておきますが、この時系列表は二つの仮説の上に成り立っています。
まず熱田から丹下砦までの上道の経路は確定されていません。『信長公記』では信長は辰の刻(7時~9時)熱田神宮にいて(図1の①)、午の刻(11時~13時)に善照寺砦に入ったと読めます(図1の②)。鷲津・丸根攻撃からの時間の流れを計算した結果信長熱田出立は8:40頃となりました。

図3:熱田→丹下砦まで「上道」と「下道」の想定経路

善照寺に午の刻に入るには、足軽達は丹下砦に10:40には着いていなければいけないので、そこから計算して「上道」の距離を12kmと設定し、1888年国土地理院地図から天白てんぱく公園辺りを経由した経路を作成しました(図3)。私はこの経路は熱田神宮からある程度高度がある場所を通り、天白川を川幅が狭くなっている中流域辺りで渡る経路になっているので、非常に合理的で真実に近いものと自負しているのですが皆さんはどう思いますか?
次に今川義元は大高城を9:50に出立し、大高道を通って11:00に桶狭間山に布陣したとしていますが、こちらも史料的な裏付けは無く全くの仮説です。*6
信長公記』には大高城から桶狭間山まで義元がどう進んだかの経路は書かれていません*7し、他の史料もありません。だからこそ私は最短経路である大高道を通って桶狭間山に向かったとするべきだと考えます。しかも義元は輿に乗って移動しているので大きな街道以外は通れない筈なのですから。
以上の仮説を取り入れて四苦八苦の末何とか時系列の前半部分を作成しました。
このように両軍の動きを時系列で追っていくと
大高を出立した時織田信長はまだ丹下砦にいた為、今川軍は信長来襲を予期できなかった。
ことになりますが如何でしょうか?

*1:カシオ高度計算サイトで確認しました。なおサイトでは1900年~2099年の間しか計算できなかったのですが、1900年で4:35:25、2099年で4:35:51でしたので1560年も4:35前後と考えて良いと判断しました。

*2:ラソンの平均速度は時速18km程ですが、鷲津丸根から清州への道のりは山あり谷あり川ありですので時速10kmが限度だと考えました。

*3:6/23投稿『信長公記』を読み解くその8ー信長はどのような秘策を持って出陣したのか?を参照

*4:旧大脇村(現在の豊明市栄町)から桶狭間神明神社の南側を通って大高に至る道。この時代主要街道の一つとなっていた。

*5:信長公記』にはに「おけはさまやまに人馬の休息在之」との記述があり、その後「午剋(11時~13時)戌亥に向て」となっていますが、何時に着いたのかは書かれていません。

*6:「後退追撃説」の大高から桶狭間の経路に関しては7/14・21の投稿「何故今川義元桶狭間山に陣取ったのか?①②」で詳しく論じていますので是非御一読ください。

*7:私は『信長公記』は18日夜大高城に入ったと書いてあると考えています。その理由は6/2の投稿「義元は18日何をしていた?②」で詳細に論じていますので宜しければそちらも御一読ください。