「瀬戸内の海賊・村上武吉の戦い」

山内譲著「瀬戸内の海賊・村上武吉の戦い」講談社刊 を読み終えた。

古代から現代に至るまで瀬戸内海は交通の幹線であり続けているが、この地域に海賊と呼ばれた集団が種々存在したことは広く知られる。

なかでも中世や戦国時代を通じ瀬戸内海に君臨した村上海賊は有名で、小説の題材にもよく取りあげられ最近でも作家・和田竜氏の「村上海賊の娘」は本屋大賞も受賞した力作である。

この本は小説世界を脱し文献史料をもとに学術的に海賊の実態に迫ろうとするもので、その方法として戦国時代の村上海賊の頭領の一人・村上武吉に焦点を当てその動向を解明していく。

ちなみに著者は中世瀬戸内海地域史の専門家である。

村上海賊はよく三島(さんとう)村上氏と云われるが、これは因島(いんのしま・備後国広島県)、能島(のしま・伊予国愛媛県)、来島(くるしま・伊予国愛媛県)それぞれの島を根拠地とする三氏が、時に離散することはあるものの多くの場合同族として結束して活動して来たことに由来する。

この三島は瀬戸内海中央部のいわゆる芸予諸島と呼ばれる多数の島々が集まる海域にあり村上武吉能島村上氏当主として三島村上氏のリーダー的存在でもあった。

尚現在、この芸予諸島を経由して本州と四国を結んでいるのがしまなみ海道である。

著者は海賊には歴史的に形成された4つの顔があり互いに密接な関係を持ちながら存在するとしている。

・船旅をする人や海上輸送に携わる人を襲う略奪者。

荘園領主や国家権力に抵抗するもの。

・航行する者たちから警固料を支払って貰い海賊を上乗りさせることにより航海の安全を確保する。

・権力の側例えば戦国大名の下で水軍として活動する。

村上武吉はこれら4つの顔を持ちながら毛利氏と結び付いて、織田氏や九州大友氏との抗争などで力を発揮していくが、秀吉の天下統一の過程で出された「海賊禁止令」により挫折、海賊は終焉を迎えることになる。

余談ながらこの村上武吉豊臣秀吉などの圧力に抗してどのように生きたのかを主題にしたのが作家・城山三郎の小説「秀吉と武吉 目を上げれば海」である。

村上武吉の死後も能島村上氏はその操船術が高く評価され、萩藩毛利家の船手として三田尻(みたじり・山口県防府市)を拠点に藩主の参勤、朝鮮通信使の応接などを含め、近世江戸時代を海と関わりながら生き残ることになる。

🔘この本は2005年に刊行された比較的古いものだが私にとって今年の五本の指に入るような興味深い本であった気がしている。

🔘今日の一句、周南市鹿野で見た風景

 

山の田に植えたる如く稲孫(ひつじ)伸ぶ

 

🔘施設の庭、セイヨウニンジンボク

蜂が蜜集め

 

 

墓参り厚狭へ帰省④周南市鹿野・清流通り

墓参りで帰省し立ち寄った記事の最終回は、漢陽寺の見学を終えて同級生に案内して貰った、周南市鹿野地区の「清流通り」と呼ばれる観光スポットで、「平成の名水100選」にも選ばれている。

漢陽寺の裏手から潮音堂を介した水は整備された水路をたどり、さらに所々に設置された水門から高低差を利用して田畑や生活用水として流れていくようになっていて、通りのあちこちからせせらぎの音や水落ちの音が聴こえて来る。

①龍雲寺(りょううんじ)

漢陽寺と同じ臨済宗南禅寺派の寺院、何と言っても私が興味を覚えるのが、この寺域が中世に陶(すえ)氏の最有力家臣であり、この地域を領した江良(えら)氏の屋敷跡であったことである。

江良氏は戦国時代、西中国地方の覇権を巡る大内氏、陶氏、毛利氏の抗争のなかで歴史の表舞台に度々登場してくる。

実際に現場に立つと山を背にした豪族の屋敷らしい、いざという時の戦闘をも想定した雰囲気がよく伝わって来た。

また石垣を見ると、中世の様式である石を加工せず様々に組み合わせて積み上げる、いわゆる野面積み(のづらつみ)が一部残されていることもわかった。

②弾正糸桜

桜の季節には美しく近隣に聞こえた枝垂れ桜で、江良氏の屋敷土塁跡に有るため江良氏の代々の官職・弾正忠(だんじょうのじょう)に因んでつけられている。

種田山頭火句碑

この地域は山頭火の妻に縁があったらしく

 

へうへうとして水を味ふ

 

の句碑が立てられている。

どうしようもないところのある山頭火だが、彼なりの水へのこだわりが見えてくるような気がし、飄々ではなくへうへう山頭火の句らしい。

④水車

清流通りに相応しく水車小屋に水車が実際に回っているが、最近製作または修理されたのだろうかまだ新しい。

余談ながら昔ながらの水車で最も重要な箇所は回転する車軸の軸受の部分であり、この部分の材料や構造、油供給などの良し悪しが寿命耐久性に決定的に影響する。

その為興味を持って見てみたが、この部分は現代版水車そのもので、ベアリングを使用した金属軸受が使われていて、耐久性にはベストながら少しだけ残念な気持ちもある。

⑤通りで見た水路を覗く萩の花

鶏頭

番外編・藤掛山

江良氏の居館は現在の龍雲寺の場所がその一つだが、戦時を想定した持ち城はその北方約1kmのところにある藤掛山城といわれ、徳山へ帰る道すがらにありその姿を確認させて貰った。

🔘今日の一句

 

野面積み遺す古刹や萩の花

 

 

 

墓参り厚狭へ帰省③周南市鹿野(かの)・漢陽寺(かんようじ)

今回の厚狭への帰省で、立ち寄りを計画したもう一箇所が山口県周南市鹿野の臨済宗南禅寺派名刹・漢陽寺で、この地に暮らす中学同級生に案内して貰った。

(余談ながら歌舞伎で大盗・石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」と見得を切るのが京の南禅寺山門である。)

このブログでも2019年12月27日『周南市「漢陽寺」名前の由来』などで触れたことがあるが実際に訪れるのは初めてになる。

訪れてみて寺の山号が鹿苑山(ろくおんざん)ということを初めて知った。鹿苑とは字のごとく鹿の園で、一般に釈迦が法を説いた場所とされる鹿野苑(ろくやおん)から来ている。

すなわちこの山号は古くからの鹿野の地名にも関連しているのではないかと思われる。

禅宗名刹らしい山門

(更に余談ながら京の金閣寺の正式名称は鹿苑寺である)

以前にも書いたが、寺の開基は中国地方に覇を唱えた大内氏26代・大内盛見(もりはる)で、父である24代・大内弘世(ひろよ)がこの地に建てた庵を引き継ぎ祈願所として建立されたものである。

その為瓦や釘隠しにいわゆる大内菱といわれる紋が入っている。

大内氏滅亡後は毛利氏の庇護も受け、釘隠しのなかには大内菱とあわせて毛利氏の一文字三星紋が入っているものがある。

なんと言ってもこの漢陽寺を代表するのが昭和期の著名な庭園家・重森三玲(しげもりみれい)が手がけた多くの庭で以下はその一部。

曲水の庭

 

蓬莱山池(ほうらいさんいけ)庭

祖師西来(そしせいらい)の庭

地蔵遊化(じぞうゆうげ)の庭

九山八海(くせんはっかい)の庭

以前のブログでも触れた開山・用堂明機禅師像。

消災石

開山禅師にゆかりの災いを消す石として祀られている。

鐘楼

寺の裏手にある約90mのトンネル水路・潮音堂(ちょうおんどう)

江戸時代初期、この地の水不足に対応するため岩崎想左衛門重友が私財を投じ、錦川の支流から約200mの水路を形成したうえでノミとツチで漢陽寺裏山を掘削して遂に鹿野村一帯を潤したと伝わる。

(書いている途中に、つい同じ目的で成し遂げられた厚狭の寝太郎用水を思い出した)

水路出口の上にあるのが岩崎重友の頌徳碑(しょうとくひ)

🔘次回に載せる龍雲寺などと併せ、これだけの規模の禅寺が歴史を刻んでいるのは、鹿野という場所が地図を見るとわかるように周防の中心部から石見国(いわみのくに・島根県)に抜ける街道筋にある豊かな土地であることがその一因と思われる。

🔘今日の一句

 

墓の道草踏む音に虫の声

 

🔘施設の庭のひまわりの種を食べに来ている小鳥、食堂からのガラス越しなので少し不鮮明だがヒワの仲間?。

 

 

墓参り厚狭へ帰省②徳山・児玉神社

厚狭へ帰るついでに立ち寄りを計画したのが、山口県周南市鹿野(かの)にある漢陽寺(かんようじ)で、2日目は忙しいなか案内して貰う予定の中学の同級生と徳山駅で待合せ。

私は待合せよりかなり早めに徳山に着き、駅から比較的近い児玉神社に行って来た。

児玉神社は徳山生まれの日露戦争陸戦の大功労者・児玉源太郎大将を祀った神社である。

萩毛利藩の支藩である徳山藩士であった児玉家は、幕末の動乱のなか紆余曲折を経て年少の源太郎が家督を継ぎ、戊辰戦争に従軍後陸軍軍人として能力を発揮累進する。

台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣など要職を歴任し総理大臣候補と目された。

特に台湾総督時代後藤新平などを起用した近代化への取り組みや、日露戦争に於ける現地満州軍総参謀長としての活躍が特筆される。

司馬遼太郎さんが明治の青春を描いた「坂の上の雲」では生涯の友でもあった乃木希典とも対比したりして、全編を通じ非常に好意的に児玉源太郎像が描かれている。

日露戦争講和の翌年55歳でその生涯を終えたが、日露戦争前後の心労が影響したのではといわれる。

世間的に高名だとは言えないが、山口県人の先輩のなかで特筆される人物のひとりである。

本殿

明治陸軍の総帥・山県有朋が児玉の死を惜しみ、「老いの坂道で杖が折れたようだ」と詠んだ歌碑

台湾総統李登輝さんが児玉の台湾時代を讃えて揮毫された「浩気長存」の碑

近くの公園にある児玉源太郎

児玉神社の参拝を終えて駅に戻って来たが、未だ待合せに充分時間があり、駅に隣接した周南市立駅前図書館に寄って見た。

この図書館はTSUTAYAの関連会社が運営するユニークな都市型図書館でスターバックスコーヒーなども併設されている。

たまたま地方史関係を探して座った席の目の前が児玉源太郎の資料が集められた書棚で、ここの本を時間まで読ませて貰った。当然ながらこの棚に「坂の上の雲」も揃えられていた。

現在住んでいる神戸市垂水の図書館が現在駅前に新築中で、このような洒落た都市型図書館になって欲しいものである。

🔘今日の一句

 

ホバリング習わずこなす赤蜻蛉

 

🔘施設の庭で見つけたショウリョウバッタ(精霊飛蝗)草の中に踏み込まないと見つけ難い。

国際収支の分析からみた財政赤字についての着眼点

大蔵省の財務官といえば事務次官級の職位で為替など国際的な業務を担当し、歴代「ミスター円」などと呼ばれる。

前財務官の神田眞人(かんだまさと)氏が文藝春秋9月号の特集「日本経済伸るか反るか」のなかに「日本はまだ闘える」と題して寄稿している。

今年財務官当時、様々な分野の専門家を集め、国際収支のデータを「日本を診察するための道具」と見立てて日本経済の課題と対応策を取りまとめ、その内容を一般向けにかみ砕いて説明したものである。

その結論は、必要な改革を怠れば深刻な事態に陥るが、他国がやっているような市場メカニズムに新陳代謝を委ねて生産性や賃金の上昇を図るいう普通の政策をしっかり実施出来れば日本は復活出来るというものである。

詳細内容はここでは触れないが、この多岐にわたる分析のなかで私が日ごろ最も気になる国の財政赤字について、直近の状況を二点指摘し注意を促している部分があり、とても興味深く読んだ箇所を整理書いておくことにした。

①従来その殆どを国内で消化していた日本国債だが、現在の海外投資家の保有率は14%程度有り今後もその消化の依存は一層高まる。

その為彼らの財政への信認が失われると大変なことになるということを意識しておく必要がある。

日本人の投資行動において自国通貨(円)資産を好んで保有する傾向が弱まっている。その状況では海外資産に匹敵するくらいリターンを高めない限り内外投資家は円資産に投資しない。

今後国債が国内において低金利で消化されることを当然視することは出来ず、より高いリターンを求める投資家に促される形で金利が一段と上昇する可能性を考えるべきである。

🔘赤字額や率の問題とは別の視点で、今まで以上に財政赤字の持つ危険性が高まっていることを示唆しているように見受けられる。

首都直下地震南海トラフ地震など大災害に直面する前に何としても財政再建に道筋をつけておく必要があると感じる。

🔘これを書いている途中、次期アジア開発銀行総裁に政府がこの筆者を擁立するというニュースを読んだ。

🔘今日の一句

 

故郷の通学路にて野菊待つ

 

🔘施設の庭の片隅、ムクゲ木槿

墓参り厚狭へ帰省①松嶽山(まつたけさん)・正法寺(しょうほうじ)

彼岸の入りということもあり故郷の厚狭へ墓参りで帰って来た。

神戸より西のせいか山口県の方が少し暑い気がしたが、秋の気配も感じつつ墓参りを済ませた後、タクシーで松嶽山・正法寺に参って来た。

今回の墓参り帰省では、今までこのブログで何回か取りあげさせて貰っていても実際には行ったことがない二箇所を、この機会に訪れておこうと決めていてその一つが松嶽山である。

厚狭の街方向から見る松嶽山

西北にそびえる標高324mの松嶽山は厚狭の第一の象徴で、いつも背後にこの山をみて生活している印象があり、その山頂近くにある真言宗正法寺は古代からの花山法皇伝説などが残る古刹である。

壇ノ浦の源平合戦元寇の折りの加持祈祷、中世の悪党等との所領争い、長門国守護職・厚東氏との関わりなど、厚狭の歴史を語るうえで欠かせない史跡で、このブログでも都合10回程度は何らかの関連で取りあげてきた。

TVの「ポツンと一軒家」に出て来そうな崖が迫る危険な道を辿りながら何とかたどり着いたが、史料にある「隆盛時山中に十二の坊、山麓に五十の坊を持つ大伽藍」はなかなか想像しにくいながら、真言宗特有の山岳信仰と結び付いた雰囲気は充分感得できた。

また私の生まれた村などに今でも残る弘法大師信仰に影響があった山と寺であったことも、その位置関係から充分理解出来る。

現在の正法寺

境内から厚狭の街方向を見たが木々に遮られ残念ながら見えない。

道筋で今年初めての彼岸花に出会った、田の畔に咲く彼岸花が懐かしい。タクシーの運転手さんの話では今年は猛暑で花が少ないらしい。

🔘この日下山後、二冊目の本を送ったことで連絡のついた10年来会えていない中学時代の友人ひとり、高校時代の友人ひとりと別々に待合せ、各々と近況を話すことが出来て良い帰郷一日目になった気がする。

🔘今日の一句

 

秋風と帰りなんいざ故郷へ

 

 

「わたしの金子みすゞ」/小城羊羹②昔ながらの羊羮

🔘「わたしの金子みすゞメディアファクトリー刊は懐かしく少し不思議な絵と詩がコラボした本である。

金子みすゞさんはこのブログでも何回か触れたことがある、大正から昭和初期の私の同郷・山口県日本海側仙崎出身の童謡詩人。

絵を描かれているのは漫画家・ちばてつやさんで私も「紫電改のタカ」「あしたのジョー」「のたり松太郎」「あした天気になあれ」など特徴的な人物像が記憶に残っている。

ちばてつやさんが仕事に走り続けるのを止めて、ゆっくり歩き始めた頃に出会ったのが金子みすゞさんの詩とのことで、『この本は「みすゞお姉さんとてっちゃんの絵日記」みたいなものです』と書かれている。

全ての詩と絵を載せるわけにはいかないので私の好きな「大漁」を。

朝焼小焼だ大漁だ 大羽鰮の大漁だ

浜は祭りのやうだけど

海のなかでは 何萬の

鰮のとむらひするだろう。

ちばてつやさんも書いておられるが、金子みすゞさんの常人にない発想に驚かされる。

🔘9月1日のこのブログに懐かしい佐賀県の名産・小城羊羹を頂いたことを書いたが、どうもその前後に、昔の羊羮は表面に砂糖の結晶が浮き出ていて硬かったことを話したらしく、今度はまさにその昔ながらの羊羮を頂くことになってしまった。

製造販売元では、練(煉)羊羹をアルミの包装にそのまま流し込み、空気に触れさせないで表面が軟らかい普段よく見るようになったものと、昔ながらの表面が硬いものと2種類の羊羮を製造されているようである。

竹の皮に包まれた昔ながらの羊羮

アルミ包装されたものと昔ながらのものと比較

製造元に聞くと、昔ながらのものは練羊羹を作ったあと一日寝かせることで表面が空気に触れて砂糖が結晶化し、例えば竹の皮に包んだような状態でもある程度日保ちがするようになるらしく、いわば昔の生活の知恵のひとつであることがよくわかった。

また昔ながらのものは一時製造を止めていたが世間の要望もあり復活させたものであるらしい。

高齢化が進むと経済活性化の小さな切り口のひとつが「昔ながらの」かも知れない。

それはさておき早速味わったが本当に何十年かぶりの感触と味が沁みた。

🔘今日の一句、今月2回目の園芸サークルの活動日は秋から冬にかけての野菜・大根、春菊、ほうれん草、スティックセニョール等の種蒔き。

 

畝立てて老体集い大根(だいこ)蒔く

 

🔘施設の庭、オミナエシ(女郎花)