聖ウルスラ・レドホフスカ


ユリア・レドホフスカ(1865年4月17日-1939年5月29日)は、修道名マリア・ウルスラ・オブ・ジーザスであり、ポーランドのカトリックの修道女であり、イエスの苦悶の心のウルスラ修道会の創設者です。レドホフスカはポーランドの独立を熱心に支持し、追放される迄ロシアに定住して修道院を開設していた間、スカンジナビア各地の会議でその事について頻繁に講演しました。然し、彼女はスカンジナビア諸国に修道院を設立し続け、現地の信者の為にフィンランド語の公教要理を翻訳し、後に独自の修道会を設立し、後にローマから教皇ベネディクト15世の命令でその運営に携わりました。彼女の死は、彼女が住んでいた場所や訪れた場所のヨーロッパ全土で、とてつもない悲しみを引き起こしました。すぐに聖人認定の手続きを開始するよう求める声が上がり、数十年前に教区の調査が行われていたにも拘らず、1981年10月15日に開始されました(彼女は神の下僕の称号を授与されました)。彼女の英雄的な美徳が確認され、1983年に尊者と称されました。ヨハネ・パウロ2世は1983年にポズナンで彼女を列福し、その後2003年半ばにサン・ピエトロ広場でレドホフスカを列聖しました。


生涯


ユリア・レドホフスカは、1865年4月17日のイースター直後に、ロースドルフの著名な貴族の家に、アントニ・ハルカ・レドホフスキ伯爵とその2番目の妻ジョゼフィーネ・サリス・ツィーゼル伯爵夫人の10人の子供のうち5番目として生まれました。ハルカ・レドホフスキ枢機卿ミェチスワフは彼女の父方の叔父でした。1874年に財政難の為、全員がザンクト・ペルテンに転居し、そこで彼女と妹のマリア・テレジアは、ロレート修道女会が運営する文法学校に通いました。1882年、死期が近い事を知りながら故国に帰りたがっていた彼女の父親は、タルヌフ近郊のリプニツァ・ムロヴァナに土地を取得し、1883年にそこへ移った。そこで彼女の父親は1885年に天然痘で亡くなった。彼女の妹マリア・テレジアも天然痘に罹ったが回復した。父親は彼女が修道女になりたいという願いを祝福した後に亡くなった。その後、兄弟の叔父である枢機卿が彼らの面倒を見た。1886年8月18日、彼女はクラクフのウルスラ修道会の修練院に入った。1887年、彼女は修道服を授かり、マリア・ウルスラ・オブ・イエスの修道名を授かった。彼女は1889年4月28日に永久誓願を立てました。1904年に修道院の院長に選出され、1907年までその地位に留まりました。クラクフでは修道会が女子大学生の為の家を開設し、当時それは新しい現象である事が証明されました。マリア・ウルスラはしばしば聖体礼拝に何時間も費やしました。教皇ピウス10世の特別な祝福を受けて、彼女はサンクトペテルブルクに行きました。そこで彼女は、牧師コンスタンチン・ブドキェヴィチの命令でそこに住んでいたポーランドの子供と若者の為の住居である聖カタリナハウスの建設に取り組みました。ロシア帝国ではローマカトリックの施設は違法であった為、修道女たちは私服を着る事を強制されました。ロシア帝国による信仰への弾圧が強まると、彼女はロシア統治下のフィンランドに移り、そこで大部分がプロテスタントだったフィンランドの漁師たちの為に歌と教理問答を翻訳した。マリア・ウルスラは、病人や漁師とその家族の為の無料診療所も開設した。然し、彼女の使徒的熱意はすぐに不当な注目を集め、ロシア人は彼女の行動を監視し始め、もう我慢できないと判断した。1914年、彼女はロシア帝国から追放され、中立国スウェーデンに避難したが、ロシアに残った宗教家たちとは連絡を取り続けた。スウェーデン滞在中、彼女はエキュメニズムに身を捧げ、その為にルーテル教会の大司教ナタン・セーデルブロムと共に働いた。1915年、彼女は新聞「ソルグリムタル」を創刊した。レドホフスカはストックホルムに定住し、語学学校と女子向けの家政学学校を設立。1917年には3か国語で『ポーランド語』を出版。デンマークでは1918年にオールボーに孤児院と家政学学校を設立。1920年、自分の使命に加わった40人の修道女と共にポーランドに戻り、ローマの許可を得てプニエヴィの修道院をイエスの苦悶の心のウルスラ修道会に改組。同修道会は1920年6月7日に設立された。ポーランドでは、後の教皇ピウス11世となる教皇大使アキレ・ラッティが彼女の活動を奨励し祝福した。1928年、彼女は10年代の初めにベネディクト15世から同修道会の運営を依頼されてから暫く住んでいたローマに宗教センターを設立した。1930年、彼女は30人の修道女をフランスにいるポーランド人女性労働者の下に派遣した。レドホフスカは著名な弁論家で、ポーランド独立の権利を頻繁に訴え、擁護した。彼女は様々なフォーラムで演説し、国家指導者や貴族仲間に時折演説する事もあった。1939年半ば、彼女はローマのカサレット通りの修道院で癌の為、亡くなった。仲間の修道女が彼女が夕べの祈りに来なかった事に気付き、彼女のドアをノックした所、ロザリオを手にして亡くなっている彼女を発見した。彼女の腐敗していない聖遺物は1989年5月29日にプニエヴィの修道院に移された。2005年、彼女の修道会はカナダやフィリピンなどの国々の98の修道院に832人の修道士を抱え、1923年6月4日に教皇の承認を受けた。


聖人


列福手続きは、1949年3月16日から1957年4月9日まで行われた情報提供手続きの中で、ローマ教区で開始されました。調査が完了すると、2つの別々の手続きが行われました。1つは1950年6月23日から1951年6月2日までクラクフで行われ、もう1つは1931年5月13日から1951年5月28日までヴィヴィエで行われました。彼女の著作は全て照合され、それらの著作が公式の教義に準拠しているかどうかを判断する為に調査されなければなりませんでした。それらを閲覧した神学者は、1966年7月12日にそれらを承認しました。正式な訴訟の紹介は、彼女が神の下僕の称号を与えられた1981年10月15日まで行われませんでした。 使徒的手続きは省略された為、これまでの調査結果はローマの列聖省に送られ、1982年12月10日に同省はこれらの手続きを承認した。1983年1月18日には同省とその顧問が同位体を承認し、1983年3月29日には同省のみが独自に承認した。1983年5月14日、ヨハネ・パウロ2世が彼女が英雄的な徳の高い人生を送った事を確認した後、彼女は尊者に任命された。レドホフスカの列福は1983年の変更前の2つの奇跡に依存していた為、2件(どちらもクラクフで発生)が調査された。 最初の奇跡は1971年9月27日から1972年2月17日まで調査され、もう1つは1973年4月16日から1974年2月26日まで調査されました。これらのプロセスは1982年12月10日に検証され、1983年4月7日に医療専門家委員会がこれらの奇跡を承認しました。神学者も同様に1983年5月17日に承認し、1983年6月7日に聖職者会議が承認しました。ヨハネ・パウロ2世は1983年6月9日に最終的な認可を与え、1983年6月20日にポズナンを訪問した際にレドホフスカを列福しました。列聖には最後の奇跡が必要であり、この事件は1998年4月16日から1998年6月26日までポーランドで調査されました。医療専門家は2000年3月30日にこの事件を承認し、神学者は2002年2月1日に承認しました。2002年3月12日に聖ヨハネ・パウロ2世が列聖式を承認し、2003年3月7日に枢機卿会議で列聖式の日程を定めた。列聖式は2003年5月18日にサン・ピエトロ広場で5万人の観衆の前で行われた。


奇跡


彼女の列福に繫った最初の奇跡は、1946年3月26日のヤン・コロジェスキの治癒であり、列福に繫った2番目の奇跡は、1946年4月16日のイエスの苦悩の心のウルスラ修道会の修道女マリア・ダヌータ・パウラクの治癒でした。レドホフスカの列聖に繫った決定的な奇跡は、ダニエル・ガジェフスキの治癒でした。ガジェフスキは、1996年8月2日に意識を失う直前に見た故修道女がいなければ、感電死していたはずの状況で、感電を免れました。


守護聖人


彼女は2006年からシェラツの守護聖人であり、2016年からはプニエヴィの守護聖人です。レドホフスカは、ポーランドの少女、孤児、教育者の守護聖人でもあります。




イエスの最も優しい御心に捧げる黄金のチャプレット


このチャプレットは、イエスの聖心のメダイが付いた金と赤のロザリオで唱えられます。


父と子と聖霊の御名において。アーメン。


冒頭で、次の祈りを唱えます。


永遠の父よ、私の罪と聖なる教会の必要を償う為に、私はイエス・キリストの最も聖なる御血を貴方に捧げます。(毎回100日間の耽溺、ピウス7世、1817年)。


大珠で、次の祈りを唱えます。


柔和で謙虚な心のイエスよ、私の心を貴方の心に倣わせて下さい。(1日1回300日間の耽溺。ピウス9世、1868年)。


10個の小珠で、次の祈りを唱えます。


主イエスの優しい御心、もっともっと貴方を愛させて下さい。(300日間の耽溺。ピウス9世、1876年)


環状部分の大珠で、次の祈りを唱えます。


マリアの御心よ、私の救いとなります様に!(300日間の免罪符。ピウス9世、1852年)


このチャプレットの締め括りとして、次の祈りを唱えます。


イエスの聖心よ、私を憐れんで下さい。マリアの汚れなき御心よ、私たちの為に祈って下さい。イエスの聖心の聖母よ、私たちの為に祈って下さい。どこにいても愛されます様に、イエスの最も愛しい御心よ!



聖ウルスラ・レドホフスカの執成しによるイエスの聖心へのチャプレット


聖ウルスラ・レドホフスカ – 5月29日


このチャプレットは、通常のロザリオで祈ります。


父と子と聖霊の御名において。アーメン。


冒頭で「使徒信経」「主祷文」「天使祝詞」「栄唱」を唱えます。


大珠で、次の祈りを唱えます。


おおイエスよ、貴方の心に勧めます。「貴方の心の通りに見て下さい」と貴方に言います。心を働かせましょう。おおイエス様、私は貴方を頼りにしています。貴方を信頼しています。私は貴方に完全に身を委ねます。私は貴方を確信しています。おお、愛に満ちた心よ…私は貴方に全幅の信頼を置いています。なぜなら、私は1人であらゆる悪を行う事ができるからですが、私は貴方の善意に全てを期待しています。アーメン。


10個の小珠で、次の祈りを唱えます。


聖ウルスラ、私たちの為に神の心を求めて下さい。


このチャプレットの締め括りとして、次の祈りを唱えます。


イエスの神聖なる御心よ、私たちは毎日もっと貴方を愛して下さいます様、心から祈ります。(3回)


私たちの主イエス・キリストの功績の為に、おお神よ、貴方の御子の至聖なる御心の美徳を忠実に模倣した聖ウルスラの取り次ぎを通して貴方に捧げられた祈りを受け入れて、私たちに恵みを与えて下さい。私たちは自信を持ってそれを求めます。アーメン。聖ウルスラよ、私たちの為に祈って下さい。








サムネイル

おはようございます。昨日は、「イエスの最も優しい御心に捧げる黄金のチャプレット」専用ロザリオを製作しました。この専用ロザリオは、普通のロザリオなんだけど、チェーンや十字架、大珠や小珠も全て「赤🔴」と「金色」と色指定されています。写真左側が、海外で販売されてる専用ロザリオです。


ホントは今回、英語版Wikipediaの「イエズスの聖心」の記事を書く予定でしたが、予定を変更して「イエズスの聖心」とも関係の有る「聖ウルスラ・レドホフスカ」の英語版Wikipediaの記事を、掲載しました。


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