プロローグ:滲む輪郭
その日の午後、さやかは自転車で帰宅する途中、近所のスーパーで母に頼まれた牛乳を買った。店から出てベンチに腰を下ろすと、心地よい風が顔に触れた。日差しは柔らかく、風も優しい。それなのに、胸の奥に広がる重苦しさだけは、どうしても消えない。
「……どうして、こんなに息苦しいんだろう」
頭の中には絵のイメージがぼんやりと浮かんでいるのに、手が動かない。そんなもどかしさが、彼女の胸をぎゅっと締め付けていた。深い息を吐き出してから、自転車に乗って家へ戻る。
玄関を開けると、父親の声がリビングから聞こえてきた。
「だから、その資料!いつまで待たせるんだよ!」
スマホを握りしめ、低く苛立ちながら文句を言っている。どうやらまた、仕事のやり取りでキレているらしい。さやかは靴を脱ぎながら、わざと小さな声で「ただいま」と呟いた。
「おかえり」
父は返事をするものの、視線をスマホに釘付けにしたまま。まるで、さやかがそこにいることすら忘れているかのようだ。さやかは一瞬、父に声をかけようか迷ったが、ため息をついてそのまま自分の部屋へ向かった。
かつて、父親はさやかの絵を見て「すごいな、さやか」と微笑んでくれた。さやかは、彼に褒められることが嬉しかったし、その言葉が彼女を前へ進ませていた。
だけど今――父はスマホの画面ばかり見ている。さやかが「ただいま」と言っても、こちらを振り向くことすらない。数年前から、こうして無視され続けていることに、さやかはどこか諦めを感じていた。
部屋に入り、ベッドに横たわると、ふと視線の先にスケッチブックが目に入った。手に取ってページをめくるが、広がるのは真っ白なページ。昔は、絵を描くことが楽しかったはずなのに、今はこの白いページが自分を押し込めているようだった。
「どうして……描けないんだろう……」
鉛筆を握り締めるたびに感じるのは、以前のような自由さじゃない。まるで、このスケッチブックが未来を決める道具になってしまったみたいに重たく感じる。描けなくなった自分を前に、焦りと不安がどんどん心を蝕んでいく。
父親の言葉を期待している自分。褒めてほしい、見てもらいたい――でも、それが叶わないことは、もう分かっている。
「……期待するだけ無駄なのかな」
そう思っても、どこかで彼の言葉を待っている自分がいる。手にしたスケッチブックは、単なる紙の束ではなく、彼女の未来と繋がっている。スケッチブックを開けば、描けない自分が映し出される。それが、どれほど重く、つらいことなのか。
まるで自分が作り上げた「理想の自分」に追い詰められているようだった。もっと上手くなりたい、もっと期待に応えたい、そう思うほどに、描くことが遠く感じてしまう。
「……私、何をしてるんだろう」
また一つ、ため息をついて、スケッチブックを閉じた。いつも優しかった父親の笑顔は、今では遠い記憶の中にある。現実の父親との間にある距離が、さやかの胸を一層苦しくさせていた。
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健一は狭いアパートの一室で、ギターを膝に乗せて座っていた。28歳。彼は10年以上も音楽に打ち込んできたが、最近は何をしても上手くいかない。バンド仲間も次々と去っていき、ステージに立つ機会もなくなりつつある。
「なんだかな……」
ギターの弦に指を滑らせ、コードを鳴らしてみた。音は確かに響いている。技術的には問題ない。それなのに――
「なんか、違うんだよな……」
音はちゃんと出ている。リズムも崩れていない。だが、どこか心地よさがない。まるで、音楽がかつての自分の体から離れていってしまったように感じられる。弦を指で弾くたびに、「何かが足りない」という違和感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
かつては、音楽に没頭するだけで心が踊った。ステージに立って、バンドのメンバーと一緒に音を合わせると、全てが一つの流れに乗る感覚があった。その瞬間、自分がどこにいるべきかが自然に分かっていた。でも、今は――。
「これが俺の音楽なのか……?」
健一はギターを抱えたまま、ため息をついた。音が出せないわけじゃない。でも、自分の中にあったリズム、その「流れ」が失われているような感覚が、どうしようもなく不安を募らせる。
「もう、何をしてもダメかもしれない……」
ギターの音が、まるで空虚に響くようだった。自分が音楽に向いているのかどうかすら、わからなくなってきている。
――ピンポーン。
突然、インターホンが鳴った。健一は無愛想な表情のまま、ゆっくりと立ち上がる。ドアを開けると、そこにはコンビニの袋を持った大家の老婦人が立っていた。
「健ちゃん、最近見ないから心配してたのよ。これ、お惣菜持ってきたから、ちゃんと食べなさいね」
「あ、どうも……」
健一は戸惑いながら、袋を受け取った。彼女はにこやかに笑い、背を向けて去っていった。その背中を見送りながら、健一は袋の中身を確認し、再びため息をついた。
「……なんか、すげぇな」
その一言は、自分への自嘲を含んでいた。健一は再び部屋に戻り、ギターを見つめる。かつては、あれほど夢中になったギター。今では、まるで自分を嘲笑うかのようにそこに置かれているだけだ。
窓の外を見ると、通りを行き交う人々の姿がどこか遠く感じられた。彼が夢見た音楽の道は、いつの間にか彼の手からすり抜けて、虚無感だけが残っている。
「俺は……何やってんだろうな」
日常に追われながらも、音楽から離れていく自分が嫌になる。だけど、音楽に戻ることもできない。この狭間で、健一の心は引き裂かれたままだった。
「……もういい」
ギターを乱暴にソファに投げ出すと、健一は床に腰を下ろし、頭を抱え込んだ。彼の中で感じていた「リズムのズレ」。それは、音楽だけの問題じゃなかった。人生そのものが、何か大きくズレているような気がしていた。
かつては、音楽をやっている自分こそが「本当の自分」だと思っていた。音楽にのめり込み、その瞬間だけが自分を満たしてくれた。でも、今はその感覚が失われている。
「俺は……どこに行けばいいんだ……?」
健一はギターを握りしめた手を解き、窓の外をぼんやりと見つめた。かつて感じていた「流れ」。それをもう一度見つけ出すことができるのだろうか――彼は、その答えを見出せないまま、ただ時間だけが過ぎていくのを感じていた。
第1章:見えない枷を抱えて――さやかと健一の初めての出会い
その日、さやかはいつものカフェ「アリエ」にいた。16歳の彼女は、窓際の席に座り、スケッチブックを開いたまま、ずっと手を動かせずにいた。
「描きたいものは頭に浮かんでるのに、どうして手が動かないんだろう……」
そう思いながら、もう何度目かのため息をつく。カフェの柔らかい音楽や、外を歩く楽しげな人々の姿がどこか遠く感じられ、自分だけが違う場所にいるような感覚があった。
「なんで私だけ、こんなにダメなんだろう……」
ふと気を抜いた瞬間、手元が滑り、スケッチブックが床に落ちてしまった。慌てて拾おうとしたが、スケッチブックは隣の席に座っていた男性の足元に転がった。
「あ……すみません!」
思わず声をかけると、その男性はスケッチブックを拾い上げ、さやかに差し出した。短髪で眼鏡をかけた28歳くらいの彼は、どこか疲れた表情を浮かべていた。
「これ、君のだよ」
さやかは少し気まずそうにスケッチブックを受け取りながら、お礼を言った。
「ありがとう……」
すると、男性はふとスケッチブックを見て、何気なく言った。
「真っ白だな」
その言葉に、さやかの胸に小さな怒りが湧いた。
「だから何?」
思わず強い口調で返してしまった。最近ずっと描けなくて悩んでいたことを、初対面の人にあっさり指摘されるなんて、まるで心の奥をえぐられたような気持ちだった。
男性は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにはにかんだように笑い、肩をすくめた。
「ごめん、余計なこと言ったな。俺も、ちょっと似たような状況だからさ」
「似たような状況……?」
「うん、俺もさ、ギターが全然弾けなくなって……いや、弾けないっていうか、何弾いてもピンとこないんだよ。前は普通に弾けてたのに、今はどの音を出しても、どっかズレてる感じがしてさ。自分のリズムが合わなくなったみたいなんだ」
健一が話すその言葉に、さやかは不思議な親近感を覚えた。彼もまた、どこかで自分の中のリズムを失ってしまったのだ。彼の目には、その焦りと無力感が浮かんでいた。
「どうして、そんなことになっちゃったの?」
「うーん、なんか、感覚がズレてるっていうのかな。前は気持ちよく弾けてたのに、今は何かが噛み合ってない感じがするんだ。頭ではわかってるんだけど、体が追いつかない……まるで、自分だけが別のテンポで動いてるみたいなんだよ」
彼は少し遠くを見るような目で呟いた。その姿を見て、さやかは少しだけ自分と似たものを感じた。
「私も……絵が描けないの」
ぽつりとつぶやいたその言葉に、男性はゆっくりと頷いた。
「そっか。君も、どこかで感覚がズレちゃったのかもしれないな」
「うん……前は普通に描けてたのに、今は全然ダメ。どうしてか分からないけど、手が動かなくて……すごくイライラする」
さやかは、自分の中に溜まっていた気持ちが少しずつこぼれ出すのを感じていた。絵が描けないことへの苛立ちと不安、それを誰かに話すことができたのは、これが初めてだった。
「分かるよ、その気持ち。俺も、ギターを弾いてるときにさ、昔は感じられたものが、今は全然感じられないんだ。音がズレてるっていうか……自分がどこかに置いてけぼりにされたみたいな感じ」
彼の言葉に、さやかは小さく頷いた。そう、まさに自分もそんな感じだ。何かが少しずつズレていって、自分だけが取り残されているような気がしていた。
「でも、なんでだろうね?好きなことなのに、どうして急にダメになっちゃうんだろう?」
「それが分かれば苦労しないんだけどな……でも、あんまり焦らない方がいいかもよ」
彼はそう言って優しく笑った。その笑顔が、さやかの胸に少しだけ温かさをもたらした。
「焦らない、か……」
「そう。お互い、感覚がズレてるだけかもしれないし。少しずつ戻るかもしれないよ。リズムが狂ってるときは、無理に合わせようとすると逆に空回りしちゃうこともあるからさ」
彼の言葉はまるで、自分に向けられたものではなく、自分自身に言い聞かせているようだった。でも、その言葉に、さやかは少しだけ気持ちが軽くなった。
こうして、16歳のさやかと28歳の健一は、偶然にも「迷子同士」として出会った。
第2章:特別な瞬間――二人の心が触れ合う夜
二人が歩き始めた夜道は、静かで、どこか夢の中にいるようだった。街灯の光がぼんやりと二人を照らし、彼らの足音だけが淡々と響く。
「健一さんって、音楽の道に進んだんですよね?」さやかがふと口を開く。
「ああ、そうだな。昔はそれだけが俺の全てだった。音楽がなければ、俺は俺じゃなかったってくらいにさ」
健一は遠い記憶を手繰り寄せるように夜空を見上げた。彼の声には、懐かしさと同時に、どこか深い哀愁が漂っていた。その横顔に、さやかは自分と同じ不安と苦悩を感じた。
「でも、今は……?」
「今は、何をしても空回りしてる。弾いてもピンとこないし、自分のリズムが全然掴めないんだ。音楽が好きだったのに、今はそれが負担になってる気がしてさ……でも、不思議と君と話してると、少し楽になるんだ」
健一の言葉に、さやかは驚いた表情で彼を見つめた。「私と話すと?」
「そう。君も感じてるんじゃないか?自分が何かに引っかかって、うまく動けないって」
その言葉は、さやかの心に深く染み込んだ。まるで健一が、自分の中の葛藤を代弁してくれているように感じた。彼もまた、自分と同じように迷子であり、何かを失いかけている――その事実が、彼女に少しだけ安心感をもたらした。
「健一さんも、同じなんだね……」
さやかはそっと夜空を見上げた。月明かりが彼らの上に静かに降り注ぎ、まるで世界が二人だけの空間を作り出しているかのようだった。
夜風がふっと吹き、さやかは少し寒そうに肩をすくめた。健一はその仕草に気づくと、少し間を置いてから、さりげなく彼女の歩調に合わせて歩き始めた。言葉はなかったが、その行動は、彼が彼女のことを気にかけている証拠だった。
「……大丈夫だよ、さやか」
健一は柔らかい声でそう言い、彼女を見つめた。その言葉には、どこか父親のような優しさが宿っていた。彼女の胸が一瞬だけ熱くなり、涙がこぼれそうになったが、ぐっとこらえた。不安や迷いを分かってくれる人がいる――その感覚に、さやかは少しだけ心が軽くなった。
「健一さん……」
さやかはかすかに微笑みながら頷いた。言葉はなくても、彼女の心には健一との絆が確かに感じられた。お互いが迷子でありながら、互いの存在がそれぞれにとっての道しるべのように思えた。
「ありがとう……」
夜風がそっと二人を包み込み、健一はさやかの歩調に合わせたまま静かに歩き続けた。二人の間には、言葉にはできない深い理解と、共感の余韻が漂っていた。
第3章:境界の崩壊――現実がねじれ始める
さやかは、どこか不安げな表情で健一に話しかけた。
「健一さん……最近、妙なことが続いてるの」
彼女の声には、以前とは違う緊張感が漂っていた。無邪気さが消え失せ、代わりに曇った瞳が彼を見つめる。健一はその異様な様子に気づき、少し身を乗り出して彼女の話を聞こうとした。
「妙なこと?」
「うん……父さんが、なんだか別人みたいに見えるの。朝は普通だったのに、帰ってきたら全然違う人みたいで……服装も、話し方も、目の感じも全部……」
さやかの声は次第にかすれ、言葉を発しながらも、その話が現実とは思えないという戸惑いが滲んでいた。けれど、胸の奥底には、その違和感が確かに存在していた。抑えようとしても、じわじわと広がり続けている不安を無視できなかった。
「最初は自分が変になったのかと思ったの。でも……だんだん、現実そのものが歪んでるような気がして……」さやかは目を伏せ、震える手を膝の上でじっと見つめた。その手の震えに、健一は小さく息を呑む。
「父さんと話してても、全然噛み合わないの。言葉も……態度も、全部……何かが違うの。今まで感じたことのないズレ……」
健一はしばらく黙って聞いていたが、彼女の言う「ズレ」という言葉に、自分も思い当たることがあるのに気づいた。最近、自分も周囲との感覚が微妙に狂っていると感じていた。音楽スタジオで感じた微妙な違和感――自分と周囲の音がかみ合わない、妙なリズムのズレ……。
「もしかして……世界そのものが、少しずつズレてるってことか?」
健一はぼそりと呟いた。
「私、もう分からなくなってきた。私がズレてるのか、世界がズレてるのか……健一さんも、そう感じたことある?」
さやかの目が、まっすぐに健一を捉えた。その瞳には、恐怖と混乱が色濃く映し出されていた。
「俺もさ……最近、ちょっとおかしいことが起きてるんだよ」健一は小さな溜め息をついて、続けた。「スタジオでさ……もう一人の自分みたいなのが現れたんだ。俺を批判して、否定して……」
健一がその話を語るうち、ふと、言葉にできない違和感が胸に渦巻いた。目の前のさやかが感じている不穏さと、自分の感覚が重なっていく。
「うまく言えないけどさ、最近どうもおかしいんだ。自分が何かに取り残されているような気がして、どれもこれも空回りしてるみたいで……」
さやかは黙って健一の話を聞いていたが、そのうち彼の体験と自分の違和感が同じだと気づき始めた。
「健一さんも……感じてるんだね、そのズレ……」
「もしかしたら、俺たちが狂ってるのかもしれない。感覚が狂うって……すごく怖いんだよな」
さやかはその言葉に頷き、息を呑んだ。「私も……最近、自分がズレていってる気がするの。周りがどんどん変わっていくみたいで、何もかもが……遠く感じる」
二人はお互いの目を見つめ、沈黙が流れた。その静寂は、まるで世界の歪みが二人を飲み込もうとしているかのようだった。不穏な影が二人の間に忍び寄り、現実の輪郭が少しずつ揺らぎ、崩れていくような感覚が彼らを包み込んでいく。
「健一さん、どうしたら……」
さやかの言葉は途切れ、二人は夜の闇に囚われたかのように、ただその場に立ち尽くしていた。
第4章:健一の崩壊――無数の「自分」との対話
冷たい風が健一の頬を撫でる。その夜、いつもの道を歩いているはずだったが、どこかが妙に違って感じられた。足元の地面がわずかに揺らいでいるようで、胸の奥にじわじわと不安が広がっていく。
「変わらなきゃ……でも、どうやって……」
健一は心の中で何度も繰り返した。これまでに何度も挑戦した。音楽のスタイルを変え、新しい方法を試し、自分を追い込んだ。けれど、うまくいかない。いつも何かが噛み合わないままだった。
歩いているうちに、視界が微かに歪み始めた。街灯の光がまるで生き物のように蠢き、健一の周囲が不気味に揺れて見える。彼は立ち止まり、深呼吸を試みたが、その瞬間、目の前に無数の「自分」が現れた。
「なんだ、これ……?」
健一は凍りついたようにその場に立ち尽くした。そこには、彼自身が何人も、異なる姿で立っていた。ステージ衣装を着たミュージシャン風の健一。冷たい笑みを浮かべ、ギターを持っている。次に現れたのは、疲れ果てたサラリーマン姿の健一。スーツに身を包み、無表情で立っていた。
ミュージシャンの健一が口を開いた。「俺は成功してるんだ。ステージで、光を浴びて……」
その声に、健一は胸の奥が反応した。思わず引き込まれそうになる。「これが……俺がなりたかった姿かも」と、心がざわつく。
しかし、ミュージシャンの健一の口元が歪んで笑った。「でもな、何も残ってないんだよ。孤独な光の中に立ってるだけさ」
健一の心臓が冷たく縮んだ。希望は一瞬で打ち砕かれ、その言葉が彼の胸に重く響いた。次に、サラリーマン風の健一が淡々と言った。
「俺は安定した生活を手に入れた。家族も、仕事も、順調だよ」
その言葉に、健一の心はふわっと揺れ動いた。「これが本当に求めていたものかもしれない」と、思わずその言葉に寄り添おうとした。しかし、次の瞬間、そのサラリーマンの健一がうつむいて呟いた。
「でも、何もかも空っぽなんだ。虚無だけが残ってる……」
健一はその言葉に、足元が崩れていくような感覚を覚えた。理想に近づけるかと思えば、すぐにそれが崩れ落ち、裏切られる。自分の描いた未来も、期待もすべてが消え去ってしまう。無数の「自分たち」が彼を取り囲み、様々な人生の道を見せつける。だが、それらのどれもが不完全で、何かを失っている。
「どれを選べばいいんだ?」健一の声は小さく震えていた。
「選べよ、どの道を選ぶんだ?」ミュージシャン風の健一が囁く。
「選ばないと、君は何も得られない」サラリーマンの健一も続ける。
彼らの声が重なり、周囲の空間が歪み、揺れ始めた。健一の心は完全に支配され、どの道を選ぶべきかのプレッシャーに押し潰されそうだった。まるで視界が収縮し、彼の思考が絡み取られていくように感じた。
「何かを選ばなきゃ……選ばないと……」
その時、静かで穏やかな声が聞こえた。
「選ばなくてもいいんだよ」
健一は驚いて顔を上げた。そこにいたのは、他の「自分」とは違う静かな健一。彼はどこか落ち着いた佇まいで、健一を見つめていた。
「君が選ばないことは、君が何かを失うことじゃない。大切なのは、自分がどう感じるかだよ」
その言葉に、健一は混乱した。選ばなくてもいい?自分が感じることが大切?彼はその意味を考えながら、さらに問いかけた。
「でも、選ばないと……どうすればいいんだ?」
静かな健一は微笑み、ゆっくりと答えた。「どんな道でも、今を感じて進んでいけば、それが君の道になるんだ。未来の成功や失敗に囚われることなく、今この瞬間に集中すれば、それが正しい道になる」
「……でも、俺はどうしても先のことを考えてしまうんだ。正しい選択をしたいんだよ!」
健一はそう叫んだ。しかし、静かな健一は首を振った。
「正しい道なんてないんだよ。リズムを感じろ。それが今、君に必要なことなんだ」
その言葉が、健一の中に響いた。リズム――それは、彼がずっと見失っていた感覚だった。未来や過去に囚われて、今この瞬間の感覚を忘れていた。
健一の視界が少しずつ戻っていく。目の前の無数の「自分たち」が一人、また一人と消えていき、周囲の空間が静かに戻り始めた。暗闇に包まれていた街の光が少しずつ蘇り、冷たい夜風が彼の頬を撫でた。
「リズムか……」
健一は小さく呟いた。ずっと見失っていた自分のリズム。それは、未来や過去に囚われていたときには感じられなかったものだった。
「今を感じることが、俺にとっての道なんだな……」
健一は、自分に言い聞かせるように呟いた。そして、再び歩き出す。その足取りは軽く、心の中には静かで穏やかなリズムが流れていた。
第5章:さやかの崩壊――「父親の無限の姿」との対話
さやかは、街の中をふらりと歩いていた。夜の静けさが心地よく、風が頬を撫でる。しかし、その一瞬の平穏は、まるで幻だったかのように消え去り、彼女の目の前に突如として無数の「父親」が現れた。まるで、日常の街が非現実的な世界に変貌したかのように、彼らは次々と姿を現した。
まず最初に現れたのは、スーツ姿のビジネスマンの父親だった。彼は営業スマイルを浮かべ、手には名刺を持っていた。
「おやおや、さやか君!これを見てくれ!これは将来への確実なステップだ!」
ビジネスマンの父親は、スーツのポケットからスマホを取り出し、まるで商品を売り込むかのようにアプローチを始める。
「さぁ、この数字を見てくれ!これが君の未来の鍵なんだ、資料を見てくれ、資料を!」
彼は必死にスマホを操作し、ありとあらゆる市場のデータをさやかに見せつける。
「このマーケットは急成長している!将来的に見れば、私を選ぶ以外に選択肢はない!ああ、これが君の人生のベストチョイスだ!」
その営業トークはどこか滑稽で、しつこいくらいに自分を売り込んでくる。彼はまるで、さやかの未来を決定づける重要な取引の一部かのように振る舞い、絶え間なく話し続ける。
「スマホで確認してくれ、さやか君!この株価を見ろ!安定だ、安定だ!」
ビジネスマンの父親は、さやかの反応など気にせず、次々に資料を押し付けてくる。
「資料だ!スマホを見ろ、早く!今なら間に合う!私は君の将来を守ってみせる!」
その押し付けがましい態度に、さやかはつい笑ってしまう。
「私、選んでないんだけど……」
そう呟いても、ビジネスマンの父親はスマホに夢中で、さやかの声を完全に無視していた。
そこに詩人の父親が現れた。彼は風に揺れる髪をかき上げながら、優雅な仕草でスケッチブックを抱え、詩を朗読し始めた。
「さやか、君が描く未来は無限だよ。見たまえ、このスケッチブックの白きページは、君が紡ぎ出す夢の舞台だ」
詩人の父親は、うっとりとした表情で、詩をさやかに向けて歌い上げる。
「君の心の中には、色鮮やかな世界が広がっているんだ。その世界を、自由に表現することが君の使命さ」
彼はスケッチブックをさやかに差し出しながら、わざとらしく優雅な動きを見せる。
「『白きキャンバスに描かれる、夢の風景、君の未来は虹のごとく煌めき渡る』……どうだ、詩的だろう?さぁ、私と共にこの世界を歩もう!」
さやかはスケッチブックに目を奪われ、心が揺れた。自分も、かつてこの真っ白なページに夢を描いていた。自分の未来を、この紙の上に広げるように――そう信じて、何度もペンを握った。しかし今は、その夢が霞んで見える。詩人の言葉が、さやかの胸に響き、彼の世界に引き込まれそうになる。未来を切り開けるのは自分自身で、スケッチブックに描くことでそれが可能だと、彼女は少し信じかけていた。
しかし、その次の瞬間、ヒーロー姿の父親が派手なマントを翻しながら登場し、ポージングを決めた。
「俺こそが正義だ!さやか、お前は俺を選ぶべきだ!」
彼は無駄に意味のないポーズを繰り返し、筋肉を見せつけるように腕を広げる。
「俺がいれば、お前を悪から守ってやる!この街の平和も、お前の未来も、全ては俺の腕の中にあるんだ!」
そのポーズの無意味さに、さやかは思わずまた笑ってしまいそうになる。
しかし、その軽やかな笑いは次第に冷たい恐怖に変わっていった。父親たちの顔が笑顔のまま、少しずつ歪み始めたのだ。彼らは次第に声を荒げ、お互いを攻撃し始めた。
「お前が守れるわけがない!」「この詩がなければ、さやかは潰れてしまう!」
彼らは怒声を上げながら、取っ組み合いを始め、ついには周囲の街の人々まで巻き込んでしまった。人々は混乱し、避けることもできずに巻き込まれていく。
「お前なんか必要ないんだ!」
「この街も、お前も、俺が守る!」
それぞれが自分の正しさを押し付け、戦いは凄惨なものへと変わっていく。ビジネスマンの父親はスマホを投げつけ、詩人の父親はスケッチブックを武器のように振り回し、ヒーローの父親は無駄にカッコつけたポーズをとりながら暴力を振るう。街中が騒乱に包まれ、何もかもが破壊されていく。
その凄まじい光景を、さやかは呆然と見つめていた。
「……もう、無理……」
ふと、背後から柔らかな声が聞こえた。振り返ると、最後に現れた父親がそこにいた。彼は穏やかな表情で、他の父親たちとは違い、ただ静かに立っていた。
「さやか、彼らを見てごらん」
その言葉に、さやかは再び目を向けた。無数の父親たちは狂ったように争い合い、自分の正しさを主張し続けていた。だが、それがどこか無意味で滑稽に見えてきた。
「君が作り上げた理想の姿が、君自身を苦しめているんだよ」
「……私が?」
さやかは、呆然としたまま呟いた。彼女はただ父親を求め、理想を追いかけていただけだった。だが、その理想が、今は彼女を押し潰そうとしていた。
「どの父親も、君の一部だ。どれか一つを選ばなくてもいいんだよ。彼らは皆、君の中にあるものだから」
さやかの胸に、ふっと何かが落ちてきた。それは、まるで自分の内側で張り詰めていた糸が切れたような感覚だった。理想の父親像に縛られ、選択を迫られていた彼女の心が、少しずつ解き放たれていく。
「君が何を選ぶかではなく、どう感じて生きていくかが大切なんだ」
その言葉に、さやかは静かに頷いた。彼女はこれまで、理想の父親を追い求めていた。それが、自分を守り、導いてくれると信じていた。しかし、今ここで感じる自分のリズムこそが、本当に大切なものだと気づいた。
「リズム……」
ふと、健一の言葉が頭をよぎる。彼も、リズムがずれていると言っていた。そして今、さやかは自分の中でそのリズムが少しずつ整っていくのを感じた。身体の奥から、自然と湧き上がるような感覚――それが、彼女にとっての「今・ここ」だった。
さやかは、静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。騒がしかった街の喧噪は、次第に静まっていく。無数の父親たちは一人、また一人と消えていき、彼女の前には静かな夜の街が広がっていた。
第6章:二人の再会――交差する可能性と近づく心
健一とさやかが再び出会ったのは、あの日のカフェだった。健一がカウンターでコーヒーを待っていると、さやかがふと顔を上げて彼に気づいた。
「健一さん?」
その声に、健一も振り返った。「さやか?久しぶりだな……」
互いに少しぎこちなく微笑み合いながら、同じテーブルに座った。再会した瞬間から、不思議な安心感が漂っていた。
「どう?」健一が尋ねる。
「うん、少しずつ、描けるようになってきたよ。健一さんのおかげかも」と、さやかは軽く笑った。
「いや、君自身が変わったんだろう」と健一は軽く肩をすくめたが、どこか嬉しそうだった。
二人はそのまま自然と会話を続け、カフェを出てからも並んで歩き続けた。夜風が頬を撫で、彼らの間に静かな沈黙が流れる。
「こうして一緒に歩いてると、不思議と安心するんだ」と健一がポツリと漏らす。
「私も。健一さんといると、自分が少しずつちゃんと戻っていく感じがするよ」とさやかが答えた。
その言葉に、健一の胸の奥で何かが揺れた。二人の間に芽生え始めた感情は、静かに、でも確実に育ちつつあった。しかし、彼らはその感情に焦ることなく、今この瞬間を大切にしていた。
その後も二人は時折会い、互いの悩みを語り合った。ある日、さやかがまた絵の制作に行き詰まってしまったとき、彼女は健一に連絡を取った。
「また描けなくなっちゃった……」と、カフェに駆けつけた健一に話す。
健一はしばらく考え込んでから、「無理に描こうとしなくてもいいんじゃないか?感じたままに手を動かしてみるのも、いいかもしれない」と優しく提案した。
さやかはその言葉に少し驚いたが、素直にスケッチブックを開き、手を動かしてみる。健一の言葉に背中を押されるように、彼女の手は次第に滑らかに動き始めた。
「こうして君の手が動く瞬間を見ると、なんだか安心するよ」と健一はぽつりと言った。
「健一さんがいてくれるから、描けるのかも」と、さやかは少し照れくさそうに笑った。
その言葉に、健一はまた心が揺れた。彼女の存在が、自分にとっても特別なものになっているのを、徐々に実感していたのだ。
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そんなある晩、健一は突然さやかに電話をかけた。
「少し話したいことがあって……今夜、会えないかな?」
健一の声には、いつもとは違う緊張感があった。さやかはすぐに彼に会いに行った。
「どうしたの?」と彼女は、いつものカフェの隅で座っている健一に静かに尋ねた。
健一はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと語り始めた。音楽の道に戻るべきかどうか、それに伴う恐れ――挫折や再びの失敗への不安を正直に打ち明けた。
「俺、自分が本当に何をしたいのか、また分からなくなってきて……」と健一は、コーヒーを飲む手が震えていることを隠そうともしなかった。
さやかはその言葉にじっと耳を傾けていた。彼の迷いや不安が、彼女にとってもとても理解できるものだった。自分も同じように、何度も壁にぶつかり、何を求めているのかが分からなくなっていたからだ。
「大丈夫だよ、健一さん。私もずっと迷ってた。何を描けばいいか、どうやって進めばいいか。でも、少しずつ、自分のリズムが戻ってきたんだ」
さやかの言葉が、健一の心に静かにしみ込んでいった。彼女もまた、同じように悩み、でも少しずつ前に進んでいたのだ。
「リズム……か。そうだな、俺も最近、少しずつ自分の感覚が戻ってきた気がするよ」と、健一は思わず呟いた。
二人はその夜、お互いの弱さをさらけ出し、静かに支え合うことで、心の距離がさらに近づいた。しかし、その感情が恋愛という形で明確になることはなかった。ただ、互いに必要な存在であることを、無言の中で確かめ合った。
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「私たち、いい距離感だよね」と、さやかは軽く笑った。
「そうだな……お互いに頼りすぎず、それでいて支え合ってる」と健一も穏やかに答えた。
二人のリズムは、いつの間にか共鳴し合っていた。微かに芽生えた恋心は、まだ静かに育てられるべきものであり、今はお互いのリズムを大事にすることが優先だった。
第7章:快い別れ――それぞれの航路を選ぶ
ある日、健一はさやかとの待ち合わせ場所である公園に向かっていた。彼の手には一通の手紙が握られていた。それは、健一が以前音楽活動をしていた頃に知り合った海外のバンドからの招待状だった。彼らは、健一が再び音楽の道に戻ることを期待し、新しいプロジェクトに参加しないかと誘ってきたのだ。
公園のベンチに座りながら、健一は手紙を見つめていた。音楽への情熱が再び湧き上がる一方で、さやかとの関係を思い悩んでいた。もしこの誘いを受ければ、さやかとは離れ離れになる可能性がある。だが、彼女との絆が深まる今、この道を選ぶことに迷いが生じていた。
そのとき、さやかが軽やかな足取りで現れた。いつもの笑顔で健一を見つめる彼女を見て、健一の心にさまざまな感情が交錯した。彼女にこのことをどう伝えるべきか、言葉を探していた。
「どうしたの?」と、さやかが優しく問いかける。
健一は手紙を差し出し、少し息を整えた。「俺、音楽に戻るかもしれない。海外から誘いが来たんだ」
さやかは一瞬驚いたが、すぐに微笑んだ。「それって、健一さんがずっと望んでいたことだよね?」
彼女の笑顔の奥には、少しの不安と寂しさが見え隠れしていた。彼が夢を追いかけることを応援する一方で、彼が遠くへ行ってしまうかもしれないという恐れも抱いているのだろう。その感情を感じ取りながら、健一は再び彼女に話しかけた。
「でも、君を置いて行くことになる。それが、どうしても心に引っかかってさ……」
健一の言葉に、さやかは一瞬迷った。彼を引き止めたい気持ちもあったが、それ以上に彼が選ぶ道を応援したい気持ちが勝っていた。彼が自分の夢を追い続けることが、健一にとって大切なことだと理解していたからだ。
「健一さん、私は大丈夫だよ。あなたが選ぶ道は、あなた自身のものだから。それを尊重したいと思ってる」と、さやかは優しく微笑んだ。
その言葉に、健一は胸が軽くなるのを感じた。彼女が自分の選択を理解し、応援してくれることが何よりも嬉しかった。彼もまた、彼女がこれから歩む道を尊重したいと心の中で感じ始めていた。
「でも……俺たち、ようやくお互いのことを分かり合えてきたのに……」健一はまだ心の中に少しの未練を感じていた。
「うん、それは確かにそうかもしれない。でも、だからこそ今はお互いの道を進む方がいいんじゃないかな」さやかは優しく語りかけた。「私たちはお互いを支え合ってきたけど、それに依存するわけじゃなく、それぞれが自分の道を進む時期が来たんだと思う」
その瞬間、健一の頭の中にふと浮かんだのは、二人が体験してきた「リズムのズレ」だった。健一はさやかと一緒にリズムが崩れていく瞬間を経験し、それを共に乗り越えてきた。その時のことを思い返しながら、彼は口を開いた。
「覚えてるか、あの時……俺たちがそれぞれズレを感じていたことを」
「うん、覚えてる。あの時は、私たちの世界がバラバラに崩れていく感じだったよね」とさやかは微笑みながら、懐かしそうに振り返った。「でも、そこから私たちは少しずつ自分のリズムを取り戻していったんだ」
健一は頷いた。「そうだな。それを乗り越えたからこそ、今は自分のリズムで歩けるようになった」
さやかもまた、リズムが整っていく感覚を胸の中で感じていた。今や二人は、自分たちのリズムを大切にしながら歩んでいる。そのリズムを尊重することで、お互いを支え合いながらも依存しない関係を築けるようになったのだ。
「さやか……君は本当に強いね」と、健一はしみじみと呟いた。
「そうかな?ただ、自分の心をちゃんと感じ取れるようになっただけだよ」と、さやかは少し照れくさそうに笑った。
「感じ取ることか……そうだな、俺もようやくその意味が分かってきたよ」と健一も微笑んで答えた。
二人はしばらくの間、公園のベンチに座って夜空を見上げていた。風が木々を揺らし、星が輝いている。お互いを大切に思いながらも、それぞれの道を尊重し合う関係――それが二人にとって今の最良の距離感だった。
「私たち、いい距離感だよね」と、さやかはふと笑った。
「ああ、そうだな。お互いのリズムを尊重して、それでもちゃんと繋がってる気がする」と健一も穏やかに答えた。
二人は、今お互いが必要な存在であることを感じていた。だが、すぐにその感情を恋愛として形にすることは考えていなかった。今はそれぞれのリズムを尊重しながら、進むべき道を歩んでいく――それが二人の出した答えだった。
さやかはふと、健一の言葉を思い出す。「リズムがズレる」という感覚が、彼女にとっても少しずつ理解できるようになっていた。
「健一さんといると……自分のリズムが少しずつ整っていくのが分かるんだ」
健一はその言葉に、静かに頷いた。「君も、俺にとってそんな存在だよ」
二人はお互いに笑みを交わし、再び静かな夜の街を歩き出した。未来を焦らず、今この瞬間のリズムを大切にしながら――。
エピローグ:静かな航路の先に――30年後の再会
それから30年の時が流れた。遠くでさざ波の音が聞こえ、風がそっと木々を揺らしている。静かで、穏やかな午後。緑が豊かな小さな村の中、古びたベンチに一人の女性が座っていた。彼女はかつて「月原さやか」と呼ばれた女性だ。
さやかは年齢を重ね、顔には年月が刻まれていたが、目の奥にはどこか鋭さと落ち着きが同居していた。彼女は遠くの空を眺めながら、静かな時間に身を委ねていた。
その時、少し離れたところからゆっくりと近づく足音が聞こえた。さやかは音の主を確認し、微笑んだ。そこには、かつて「一之瀬健一」と呼ばれた男がいた。彼もまた、年齢を重ねたが、目の奥には若い頃と同じ情熱が光っていた。
「……久しぶりだな、さやか」
健一はベンチに腰を下ろし、二人はしばらく無言で座っていた。夕暮れが近づき、空は優しいオレンジ色に染まっていく。
「元気だった?」健一が穏やかに問いかけた。
「ええ、おかげさまで。そっちはどう?」と、さやかも微笑みながら答えた。
二人は互いの顔を見て、懐かしさと安心感に包まれながら語り合い始めた。健一はこの30年、音楽に全力を注いできた。海外での活動も増え、数々のプロジェクトに参加した。だが、家庭を築くことは選ばず、音楽だけに身を捧げた道だった。
「結婚とか、家族を持つことは、結局選ばなかったんだ。音楽に集中できたから、それでよかったんだと思ってるよ」と健一は語った。
「私は……家庭を選んだけど、いろいろあったわね」とさやかは穏やかに振り返った。「子どもたちも独立して、家族としての役割は終えた気がするけど、それなりにやってこれたと思うわ」
「お互い、ちゃんと自分の道を歩んできたみたいだな」と健一が笑う。
その時、風が静まり、周囲の景色がゆっくりと変わり始めた。二人の前に、無数の「可能性の世界」が広がり、別の人生を歩んだ二人の姿が現れた。
ある世界では、さやかは詩人として名を馳せていた。彼女は自由な表現者として成功を収め、多くの人々に影響を与える存在だった。別の世界では、健一は家庭を築きながら音楽活動を続け、穏やかな日々を過ごしていた。どの世界でも、彼らは違う選択をしながら生きていた。
そして、ある世界では二人は結婚していた。二人は愛し合いながらも、時にぶつかり合い、支え合いながら共に人生を歩んでいた。
「私たち、結婚してた世界もあったのね」とさやかがふっと笑う。
「そうだな。でも、それも一つの可能性に過ぎないんだよな」と健一は肩をすくめる。「どれが正解だったかなんて、もうわからないけどさ、どの道もありだったんだろうな」
無数の可能性が次々と消えていく中、二人は静かにその光景を見守っていた。どの世界でも、二人はそれぞれの道を選び、歩んでいた。そして、今こうして再び出会っていることに、深い安堵感があった。
「どの道を選んでも、私たちはここで再会する運命だったのかもしれないわね」とさやかは優しく微笑んだ。
「そうだな、結局どの世界でも君に会えたんだ。今度は何年後になるんだろうな?」と健一は冗談交じりに問いかけた。
「さあね。でも、まだ私たちの旅は続くんだろうから、きっとまた会えるわ」
二人は風が再び吹き始める中、静かに佇んでいた。どの道を選んでも、彼らの航路にはいつも「意識の船頭」が舵を取っていた。そして、その旅路はこれからも続いていく。