ライトノベル・漫画・アニメ等で『現代思想〈恋愛/友情〉の現在』を考えていくために書いたメモ。

 本記事はX(旧Twitter)スペースで9月28日におこなう現代思想〈恋愛〉の現在』『現代思想〈友情〉の現在』読書会のために書かれた。すばらしく雑に書いているのでこの内容はおおむね無視してもよい。あとで加筆するかもしれない。あとガガガ文庫が好きなのでガガガ文庫を中心に話をします。

 

 

俺ガイル以前の(ゼロ年代)自意識フィクション

 90~ゼロ年代の終わりなき日常(?)のことはよくわからないものの、ライトノベルや漫画のなかでたびたび描かれてきたのは主人公の「自意識」だったように思う。あるいはジェンダーロールとの軋轢かもしれない。

 わかりやすいのは桜庭一樹GOSICKシリーズだ(現在は角川文庫だが発売当初は富士見ミステリー文庫だった)。

 ある程度まで抽象化された近代国家と戦争表象が見え隠れするなかで、周囲や兄に対してコンプレックスを抱えている主人公・久城一弥は、自身を奮い立たせるためにたびたび「帝国軍人の息子」であることを言い聞かせるように内心で語る。どうしてそう言うのかといえば、そのように肉体的・精神的に振る舞うことができないからだ。アニメ版や挿絵等を見てもわかるように、彼の身体は筋骨隆々の軍人というステロタイプのイメージからは離れている。

 身も蓋もない言い方だが、ライトノベル等はこういうスポーツ系で活躍することのむずかしい男性像を主人公にしたうえでヒット作を生んでいる。

『”文学少女”』シリーズの井上言葉くんや、ライトノベルではないものの、ナルコレプシーという持病のためにヒロインを助けることの成否に悩まされることになるLittle Busters!』の直枝理樹くんなど。(このあたりをぜんぶ”草食系男子””文化系男子”とくくってしまうのはどうなのか)

 森岡せんせいの本が浅野いにおイラストなのは象徴的だと思う。もう少し進むと「比モテ」とかの言葉も出てくるだろうか。まだソラニンが映像化されていないものの、全国各地のヴィレバンには浅野いにお作品が並んでいたはずだ。小学館ビッグコミック系列だけれど、花沢健吾には手を出さないあたりの人が読んでいた記憶がある。

 草食系男子はともかく、ゼロ年代前半におけるライトノベルのこのあたりは身体的要件の比重が大きいのであって、いわゆる「ラブコメ」的な自意識に踏み入るほどではなかったはずだ。

 もちろん富士見ミステリー文庫はある時期から「LOVE寄せ」と呼ばれる路線返校をおこなうのだが、それが商業的に劇的なヒット作につながっていったかはいまいちわからないところがある。また男性ファンより女性ファン向けに行ったという意見も見た。

 とはいえ、木ノ歌詠『幽霊列車とこんぺい糖』(新装版)のあとがきでも次のような言及がある*1ので、このあたり歴史的な事実といってよいだろう。

二〇〇三年十二月には思い切った路線変更が実施され、「L・O・V・E!」というコンセプトが銘打たれました。富士ミス愛好家たちの間で「LOVE寄せ」と呼ばれたリニューアルです。これにより、恋愛や青春が前面に押し出されるようになりました。

 もちろん、ゼロ年代中期くらいに涼宮ハルヒの憂鬱のようなアニメ化にめぐまれたヒット作はすでにあったが、じゃあキョンハルヒがどのくらい個々人の感情と向き合いつつコミュニケーションしていたかというと、そうではないだろう。そのあたりを全面的テーマにする『消失』映像化はもっとあとだ。なにしろ当時のオタクはアニメオリジナル回サムデイ イン ザ レインの砂糖ひとつまみ程度しかないデレに対してすら号泣していたと記憶している。おまえ記憶の話ばっかだな。ごめんて。

 その一方で、明確な「ラブコメ」としておそらく多くの人が挙げると思われるのは竹宮ゆゆことらドラ!』シリーズで、これはうたい文句としても刊行の時点から超弩級ブコメと言い続けていた。その一作前の『わたしたちの田村君』については、ふたりの女の子のあいだで揺れ動く主人公の悩みの話をしていたが、いかんせん二巻で終わったこともあり、そのあたりが前面に出ることも、多くの読者の目に入ることもなかったと思われる。

とらドラ!』主人公の高須竜児くんは、当時のラノベにしては明確な家事労働担当者(いまでいうヤングケアラー的な立ち位置)で、松居一代の「松居棒」をパロディにしたお掃除アイテム「高須棒」を使っているくらいに掃除オタクだが、自分の性格に対して目つきがめちゃくちゃ悪くて不良扱いされていることのギャップに悩んでいる、ふつうに恋をしている純朴な少年だった*2

 いっぽうヒロインの逢坂大河は、木刀を持って主人公を襲撃・ご飯めっちゃ食べる・主人公にだけ当たりが強い、という、定番に対する逆張りみたいなキャラ造形をしており、意図的に、中高生の考える男女イメージを逆転させた状態で物語をスタートさせている。そしてこのふたりはお互いの恋をそれぞれ応援する戦友ポジからスタートして、終盤になると恋愛を意識していくのだが、お互いの家庭へのコンプレックスから自縄自縛に陥る……それはまあみなさんがじっさいに読んだりアニメ見たりしてください。

 高須くん以後、ライトノベル・アニメで家事労働の話が出るかというと、あまり、という感じがする。自炊するキャラクターはいるが、その家庭環境が物語の結論レベルに関わってくるかというと難しい。2011年スタートの『俺の彼女と幼なじみが修羅すぎる』は親が不倫しまくった結果、主人公が「恋愛アンチ」を名乗るところからスタートするが、それはそれとして、恋愛そのものを拒絶している感じではない。

 このあたりは帰納法的な論説ではあるが、杉井光は2020年の段階で「ライトノベル」を以下のように定義している部分を引くとわかりやすいかもしれない。

 ライトノベルとは、
『十代後半あたりの青春期に抱く憧れを、読者の心を惹きつけるための原動力として恥じることなく用いた小説』のことである。

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 この定義には毀誉褒貶あるとは思う、しかし”「憧れ」「原動力」「恥じることなく」の三点が肝なので心に留めておいていただきたい。” と杉井が書いていることからもわかるように、現代ラブコメジャンルに即してざっくりいうのであれば「憧れ」≒「異性への興味」ということになる。つまり、概ね恋愛のことになってくるのではないか。これについては結論は出ないと思うのでいったん措く。

 

『俺ガイル』以後の主人公の自意識問題

 ゼロ年代ブコメはめちゃくちゃ多かったはずなのだが、『とらドラ!』以外にあの巻数の長さで、現代の群像劇ラブコメをやって、商業的にもヒットし、いまでも語られつづけているものを述べるのは難しい。

 ただし、2011年に刊行されたのち、多くの男性読者を「八幡は俺だ!」と思わせたすごいライトノベルシリーズとしてやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。の話をしないわけにはいかない。

 タイトルに「ラブコメが入ってる! というのもそうで、この後発作品では『文句のつけようがないラブコメ』とか『《このラブコメがすごい!!》堂々の三位! 』などがあったはずだが、俺ガイルほどの影響力はなかった。『俺ガイル』の影響については、近年「俺ガイル研究会」という人々が活動していますので、批評に興味がある方については、以下のリンクを。

note.com

 端的にいうと、『俺ガイル』は物語冒頭で、先生に提出するレポートにおいて、青春を謳歌している人々に対して中指を立てるようにその青春は「嘘」であると看破し、「リア充爆発しろ」*3と述べていくぼっち主人公・比企谷八幡くんがどんどん青春イベントに巻き込まれていく話だ。しかしそうして出来事に巻き込まれていけばいくほど、青春の在処と自身が求めているものや信念との落差に傷つき懊悩していく。というとかなり雑かもしれない。

 主人公・八幡くんは、当初はめちゃくちゃ口の回る、斜に構えて「俺はあいつらとは違う」的なメンタリティでクラスの連中を見ているオタクなのだが、ストーリーが進むにつれ、彼自身も他者と関わらざるをえなくなるし、その有能さを周囲も理解するようになってくる。けれども彼自身は、周囲の働きかけを素直に受け入れない。それは青春の「嘘」に迎合することのなるからだ。彼が欲しいのは「偽物」ではない。

 このあたりを強引にパラフレーズすると、結局「この感情/関係は本当なのか?」という自意識の迷宮へと向かっていくことになる。『現代思想』でも語られいた昭和後期~平成にあった「お見合い結婚」的家族観から「恋愛結婚」的な家族観、そしてそれすらも次第に解体されていく現代の恋愛観と近づいていくかもしれない。

 けれどもこれはけっこう外部要因(家族観)と内部要因(自意識)を無理やりくっつけている見方なので、雑すぎるきらいがある。それにこうした見方では、ライトノベルや漫画における、(草食系/文化系/非モテ)男性のジェンダーロールへのジャンル的な疑念といったものは検討されていないことになってしまう。

 とはいえ同時代のラブコメとして、男性キャラクターの恋愛アンチ的自意識を明示的に扱ったのは、永椎晃平『星野、目つぶって。』ではないか

 これはかなり現代のラブコメライトノベルの文脈に乗っ取って描かれた作品。主人公の小早川くんは教室で寝たふりをして過ごすくらいには陰キャ気質を備えているが、ヒロイン星野海咲のメイク担当(すっぴんだと別人くらい違うため)になって、周囲の人間関係の解決をはかっていくうちに、次第に多くの人から好意を向けられることになる。しかし彼は、他者からの好意を受けることができないと吐露する。

告白からの初手が「逃げる」である。

この自己肯定感のなさこそ、むしろ現代ラノベ・漫画の男性主人公では。

 このあたりをいわゆる「ネオリベ的な(自己責任論的な)」価値観のもとハックしようとしていったのが、屋久ユウキ弱キャラ友崎くんで、主人公・友崎くんに対してスクールカーストトップのクラスメイト・日南葵は「人生をクソゲーだと言うのは本気で遊んでいないからだ」といった意味のことを述べる。友崎くんは彼女の指南に応じて、陽キャのコミュニケーションや生き方を知ることで、自分なりの物の見方を獲得していく。それはヒロインのように努力して結果を得ることそれ自体への疑念や虚しさも含まれていく。

 来年アニメ化する裕夢『千歳くんはラムネ瓶のなか』では最初から陽キャの話をすることで、生きづらさの諸相を改めて検討していく。

 おそらくアニメ化することはないだろうが(だいぶ前に完結しているので)、こうした陽キャコミュニケーションとオタク的価値観の中間をやろうとしているのが、初鹿野創『現実でラブコメできないとだれが決めた?』だった。友崎くんでも徹底して検討されることのなかった、「努力」と「身の程」というものを常に並べて相対化することで、ラブコメ的価値観っていうても結局みんながうまく成功した世界でしかないよね、的な読者と物語の距離の苦しさをテーマにする。

 というわけで、こうしたガガガ文庫の文脈のなかで出てきたのが雨森たきび『負けヒロインが多すぎる!』なので、主人公の温水くんが(最終的にヒロインとの恋愛関係を構築するかは措いておくとして)アニメ化された物語において、ラブコメにおいて強く期待されうる男性性とは距離を取っていることについては、もうすこしこのあたりの「自意識」や「身の程」的な感触を抜きに話すことはできないような気がする。

 このほか、『ワキヤくん主役理論』『友人キャラは大変ですか?』などの「立ち位置」的なものをどのくらい人間が自覚していくか、などは、ゲーム的な文脈だけでなく割と当たり前の話だと思います。内田樹ですら言及するレベルですからね。

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ブコメにおける結婚について

 こうした作品群から見えてくるのは、「本当の自分」をどう他者から承認されていくか、という問題系であり、でもそれって、無意識のうちに理想というか解決装置としての異性を召喚しようとしていないか? という疑問も浮かんでくる。

 このあたりをうまく解体する方法として、あえて順番を逆転させた(お見合い/契約/嘘の)結婚から恋愛関係に向かっていくスタイルで、だいたい『現代思想』ではドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が取り沙汰される。とはいえ、漫画・ライトノベルのほうはどうだろうか。来年もラノベ原作がアニメ化される予定だが、多く見るイラストがぜんぶ家事労働を担当しているやつなのが不安要素として大きいのですが……。

 結婚については〈百合〉ジャンルが構造的にもそうだが、近代以降の価値観を解体する要素を入れているのがよくわかる。

 百合姫誌上で連載されている、コダマナオコ『嘘つき花嫁と同性結婚論』では、物語開始時に結婚している女性が「産む」役割を期待されたことで息苦しさを感じる描写があるほか、雨水汐『女ともだちと結婚してみた』では同性婚がすでに法整備されている架空の日本を舞台にし、一巻の終盤において、同性のパートナーが病院に運ばれたときに面会するシーンを描いている(これは法整備がなされていないと同性では面会が拒絶されてしまう場合があるといった議論をふまえている)。入間人間『人妻教師が教え子の女子高生にどハマりする話』もタイトルはともかく、主人公の結婚生活について匂わせる程度であるが、家庭になにかしらの複雑さを抱えている節がある。

友情ベースでのお試し結婚であるが、他者に向けて明確に立場を告げるシーンでもある

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 おそらくは美少女ゲームのエンディングスチルの文脈を踏まえているのだろうが、長期連載のライトノベル作品では最終巻が花嫁姿になることもある(恋愛相手の選択→将来→結婚/出産)的なイメージだろうか。先日、完結した鷹野由志『陰キャだった僕の青春リベンジ』白鳥士郎りゅうおうのおしごと!最終巻告知イラストでは花嫁表象を採用している。前者についてはバッドエンド回避という意味合いもあるが……。

 このあたりはじっさいの個別的な物語を考えると、前述した『とらドラ!』含め、家族観へのコンプレックスを抱えている登場人物もすくなくないはずなのだが、選択としての結婚はどうしても個々の領域での話に終わってしまうことで、ジャンル的な話をすることのむずかしさもある。ジェンダー×小説ガイドブック』において「結婚・家族」の項は次のようにはじまっている。

 結婚とは、個人的な出来事でありながら、そこに異なる層がいくつも積み重なっている。そして、それらの層が不可視化されやすく(特に〈恋愛を中心とした)個人的な出来事という性質のみが際立つところに、厄介な点が凝縮されている。(太字は傍点)

 

ブコメのなかの友情のはなし

「友達以上恋人未満……ってよく言うでしょ? その言葉、ぼくはあんまり好きじゃないんだ。だってその言い方だと、友達は恋人の下位互換みたいじゃないか」

 この台詞は八目迷『ミモザの告白』最終巻に登場する台詞だが、ライトノベルにおいては前述の扱いをされることがほとんどであることは多くの人が感じているのではないか。アニメ化の決まっている七菜なな『男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!)』などはもうタイトルからしてそうであるし、そういう話だ。ここでは質問が意味をなさない。『ミモザの告白』は主人公の友人がある日、出生時に割り当てられた性別とは違う制服を着ていることを目撃し、それによって生まれる周囲のリアクションや恋愛観の再構築が描かれていく。

 しかしそれはそれとして、恋愛が前提とされているライトノベルブコメにおいて、友情そのものの価値が検討されていくことはほとんどない(くわえていえば、主人公の友達はすくないことが多いので、ホモソーシャル的な価値観への検討もなかなかされることがない)。

 とはいえ、ポリアモラスな関係や恋愛を介在させない関係のほうがよかったんじゃないか、とキャラクターが瞬間的に語ることがないわけではない。あるいは結論を出さない状況のほうが心地よいのではないか……みたいな求められる誠実さの関節をはずしていくラノベもある。とはいえ、それらはみな「インモラル」的な位置に作者も読者も向かうので、しっかり問題意識を持って取り組んでいるかというとわからない。

 ラブコメ漫画であれば、明確に「恋愛」と「友情」を対立軸においた作品がある。9℃『幼馴染のお姫様』だ。第一話では主人公はラブコメ文脈にありがちなミステリアスな出逢いを果たすのだが、じゃあそれまで大事にしていた友情はどうするのか? という問いかけが生まれる。

カンザキイオリ「ラブコメに嫌われている」

 恋愛感情がわからない(アセクシャル/アロマンティック)ようなキャラクターを主眼としたラブコメ、というのは語義矛盾っぽいし、どのように描くべきかはおそらく多くの書き手が避けているか、意図的にメインの物語から周縁化させている印象がある。このあたりはようやく書かれつつある、といったほうがいいかもしれない。

 参考になりそうな実写映画であれば、玉田真也監督・アサダアツシ脚本『そばかす』がある。主演は三浦透子。主人公は恋愛がわからないため、家族からレズビアンではないか、といわれることもあれば、勝手に見合いをセッティングされることもある。友人として仲良くなった男性が急にせまってきたことに対して「恋愛感情がわからない」旨を説明しても、馬鹿にしてると逆上されてしまう。


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 あるいは男女恋愛的なノリに物語を回収しない映画であれば三宅唱監督『夜明けのすべて』がある。PMS(月経前症候群)で自身をコントロールできなくなるときがある主人公とパニック障害を抱えている同僚の話。トリガー誘因的な描写などがあることと、登場人物が正しい知識で関わるわけでもないものの、部分的にそれぞれの生きづらさを見つめ合っていく様子を描く。完璧な解決があるわけでもない日常を暮らしていくあたりは、物語のあとの延長が感じられるし、カップル的な要素を排した演出が一貫している。


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 また海外の事例ではあるが、『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』では2000年代以降の交流サイトの成立によって自身の状況を知ることや相談できる人が増えたということが書かれている。

 

〈百合〉のなかの友情

 2024年現在、また百合の定義で揺り戻しが発生している印象がある。かつてよく言われていた悪しきフレーズ「百合とレズは違う」、つまり百合は清純な関係であり、レズビアンは含まない、といった言説が否定されつづけた(そうか?)結果、「性愛描写がなければ百合ではない」派閥が生まれているのを感じる。現代思想でも「サッフィズム」にたとえていた語りがあったが、うーん、そういうんじゃないと思うけどな……。

 とりあえず、百合といえるが、友情をテーマにしている小説を三つ。島本理生『七緒のために』、青山七恵「二人の場合」、稲葉真弓「ヒソリを撃つ」。それぞれライフステージが違うなかでの友情が描かれている。おすすめ。

 

エンディング:THE SALOVERS「HOT HOT HOT!」


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*1:https://x.com/sai_zen_sen/status/1661298440549306368

*2:見た目不良系は『僕は友達が少ない』の主人公像につながったかもしれない。

*3:このミーム的な態度は作中で再検討されていく。

君と破滅したくない物語:中西鼎『宮澤くんのとびっきり愚かな恋』、それからラノベと性愛の話。

「恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ。精神病の一種なのよ」

――『涼宮ハルヒの憂鬱』より

 恋愛感情についてラブコメが抱える巨大な問題、それは「めんどくさい」に尽きるかもしれない。涼宮ハルヒ女史がなぜ孤高のヒロインである(かのように思える)のかはそのめんどくささやじとっとした重さをありえんくらいのおもしろ記述速度で語りの内部からからっと吹き飛ばし、世界的な規模で起こる激ヤバ改変イベントを「動機」ではなくほとんど「結果」のみ出力されたものとして記述するからだ。

 このようにして、数々の事件において、探偵によってふりまわされるワトスンはその最終的な出力をあたかも「従うしかなかった」といいたげな消極的共犯関係として書き残す。つまり、キョンがしばしば口にする、

「やれやれ」

 である。語りはこの一言で除湿されている。しかしその向こう側にあると思われる共犯的な恋愛模様を透かし見ることで同時に読者は快楽を得ていく構造を持っている。真冬のこたつでアイスを食べるようなものだ。最高にぜいたくなのである。われわれは何重もの条件を重ねた先にごくごくありふれたシンプルなものを口にする。しかしこれは「めんどくさく」「重く」「湿度の高い」もので、語りの第一段階では忌避されていたものではなかっただろうか?

 さて、中西鼎『宮澤くんのとびっきり愚かな恋』は、まったくもってハルヒとは似ても似つかないが、他者と取り結ぶ関係のなかに、こうした一縷の見えない「希望」めいたものを見出そうとする姿勢がある。シンプルに、あるいはロマンチックにいえば、「真実の愛」あるいは「果たせなかった約束」といったものだろう。

 しかし読んでみると、どの人物たちにも、最初それをうまく選べなかった/手にできなかった経験がある。なにより幼馴染の藤代瑠音はおそらく何度もこれを取りこぼしてきた経験があることが察せられる。以下は主人公に述べるもっとも印象的なセリフだ。

「ねえワタ、約束してくれる?」

「何を?」

「私が最も嫌なことを絶対にやらないってこと」

(…)

「私が恋人にされて一番嫌なことはね、私を好きになるにあたって、なんらかのストーリーを作られることなの。情熱的なラブストーリーの演者みたいな気分になって、私を私でなくてドラマの中にいる『恋人』のように扱うことなの」

 むろんこの約束は、最初から破綻することが約束されている。というより現在進行形で「破られている」。なぜなら主人公の恆は物語の語り手の位置にいるからだ。彼は藤代瑠音に対して「めんどくさく」て、「重く」て、「湿度の高い」感情を抱いたうえで物語に立っている。ワタはルインを「幼馴染」であり「初恋の人」として見つめている。つまり「見るなのタブー」を犯している。

 では、それをのぞくわれわれはなにを見ているだろうか。ハルヒキョンのあいだにうまれる共犯的なラブコメ関係だろうか。こたつアイスだろうか。もしくは高速でクラッシュしていくレーシングカーの暴力的な破片の輝きだろうか。

 とはいえ、ルインの言葉はたしかに重要であるものの、ごく一般的な欲望としても受け止めることができる。なぜならこれは小説に限った話ではないからだ。わたしたちは恋愛について語ろうとするとき個々人間で起きた「物語」をベースに語るほかない。よいものであれ、悪いものであれ。

 保健体育的な知識ではなく、なんらかの個別的な何者かを語ろうとするとき、その人物の本質はどこにあるのかというとき、当該人物の身体的特徴を述べることはその人の本質とは言いがたい(と思いたい欲求がわれわれにはつよくある)。なぜなら人間を物理的に還元可能なモノとして扱いたくないからだ。

 しかしそのようにしてだれかを語ろうとするとき、結果として出力されるものは、その人そのものというよりは削られ、再形成され、矮小化され、実物とはいいがたいくらいに変容したなにものか、つまり「モノ」でしかない。端的にいえば任意の人間がしゃべる「元カノ/元カレ」話はすべて歪曲されている。すべて歪曲されているんですよ、ほんとうなんです、信じてください(真剣な目で)。

  つまりなにが言いたいかというと、なんらかの枠に押し込めなくても、人はそんな簡単に他者全体を語ることはできないはずで、であればその禁を犯さないためにはすべての口を閉じるほかに手段はないことになる。しかしこれは馬鹿げた話でもある(交通事故に遭いたくないので一度も家から出ないようなものだ。そんな生活はふつうの人間にはできないと思うし、そもそも推奨されない)。

 要するに、ここでルインはワタに「しゃべらないでね」と言っているようなもので、ほとんど人間ではない理想の存在が想定されているといってもよい。だからこれも「モノ」化といえる。しかしこうすることで、ルインとワタはそれぞれが持つ「理想」というフィルターを通して互いをふれあわせていく。

 むろんこれは虚構である、けれども「虚構」の関係を維持しなければ「理想」を見ることもできないという皮肉がある

 この取り結びによっておそらく、ワタがその恋愛(的?)関係を維持するためにできることはひとつしかない。「しゃべらなかったよ!」とルインに対して嘘をつき、約束の履行を見かけ上でもつづけていくことだ。

 こうしてどうしようもない虚構を維持するために、さらなる虚構が必要されている。そしてワタは語り手という位置からルインを物語化し、記述しつづけていく。するとどうだろう、約束というものの尊さそれじたいも、おとしめられていくことになる。けれどもすでにダブルバインドに陥った彼は、その選択を振り払うことができなくなっている。ラストシーン(これはもうホラーである)の目を閉じた主人公は、まるで罰を与えられている神話のキャラクターのように見えないものにしばりつけられている。

 とはいえ、彼はドラマティックアイロニーのなかにいるのか、神話的暴力/神的暴力(雑ベンヤミン引用)にさらされているのか、まだ判断ができかねないところでもある。

 

性欲とライトノベルと個人的な感覚について

 ところでラノベは青少年の読み物なので、ハプニングはあっても積極的なエッチシーンは書きません! みたいなお約束*1がだんだんグズグズになってきたと感じるようになったのは、鷺宮『三角の距離は限りないゼロ』5巻発売、つまり2020年なかばくらいのタイミングで、当該巻では主人公がヒロインの脚をなめたりしていて、「電撃、攻めてんね!」とおもった記憶がある。このシリーズでは際どいシーンは幾度か訪れるものの、最終的には清い交際に落ち着いて幕を閉じる。

 しかしその翌年には西条陽『わたし、二番目の彼女でいいから。』のシリーズ刊行がスタートし、結果、長年必死で守られてきたレギュレーションはブルドーザーが通ったあとのように破壊されていく。このレギュレーションがないことにされてよかった点といえば、ポルノちっくな物語が楽しめてうれしい! というよりは、ラノベで描くことのできる人間のバリエーションが増えた、というものだろう*2

 また性愛関係がぐちょぐちょになることによって、最終的な恋愛の諸相を性的な関係/欲望のあるなしでジャッジすることが不可能になる。ゴール(といっていいのかわからないが)が全方向にある/無効化されたと考えることで物語のありようがあたらしく転回していく。果たしてそれが最終的に焼け野原になるかどうかはこれからの未来に期待するしかない、といったところだ。

 ただ、人によって考え方は異なるだろうが、個人的な考えを述べると、一般的な意味における「性欲」をわたしは「人間の本質」だとは欠片も思っていない。

 一側面ではあると思っている。そもそも性的欲求のない人もいるだろうし、環境や個体差などなどによってつよかったりよわかったり、好悪の傾向も異なっているものだと思う。であるので、現代ものにおいて「性欲を描く」=「作品として優れている(真実を描いている)」みたいな言説にはかなり違和感がある。

 もちろんそのいっぽうで「性欲が描かれていない」=「ファンタジーである(悪い意味で)」と判断する人がいることもわかる。下心を隠してヒロインと関わっている人間の都合のよさ、悪い意味での聖人らしさになっている、みたいな描写としてそういう人の目に映っている感触はなんとなくだけれども、わかる。

 いや。

 いやでもさあ!!!!

 その議論って、性欲と恋愛感情が同一のものであると暗にみなしてませんか!!!

 結局ここ十年くらいのライトノベルがやってきた恋愛への屈託っていろいろあると思うんですけど、「だれが性的に魅力的であるのか」とか「だれが好きであるのか」以上にずっと「いま抱いているこの感情は本物であるのか」とか「この感情そのものを自分も抱いていいのか」みたいなところが大事じゃあなかったんですか????

 それにここ数年の現代ラブコメラノベはそれよりももうちょっと先というか、どのくらい他者(ヒロイン)をトロフィーや物語装置にせずいかに対等な人間として関わっていくかをめちゃくちゃ考えているのであって、その過程における性欲ってポルノやインモラルな気配には役立ちますけど、それって感情をどう捉えていくかという自意識ストーリーの成立においては絶対の条件ではないですよね、という気持ちがつよくあります。

 ライトノベルというジャンルは重なっては違うかたちを描いていく波のようなもので、古くは幼い頃出会ってた/約束/運命/許嫁その他に対して、ヒロインレースを介してからの結論として現在の気持ちのほうが尊重されるべきだよね、みたいな選択に積極的意味を見出す物語として深化していったのだし、主人公の立ち位置についても、強烈な劣等感や場違い感を乗り越えてその人と向き合っていくまでの決意の話になっていったのだし、さらには劣等感のなさそうな陽キャみたいな読者から相容れない存在にだって見ているものはあるのだと内面を見出していったのであって。

 現代ラブコメ主人公の内面というのは、その都度メタ的なジャンルの検討にさらされ、「恋愛」への視野を開いてきたのであって、「性欲」という面についても乗り越えるべき壁や弱さとして目の前にあるのか、物語において必要とされないから語られない部分なのか、読者サービスだから入っているのか、そもそもほんとうにないと思っているからないのか、要らないからないのか。いろいろとあると思います。

 だからせめてねえ、「ない」として語られることがどういう戦略でなされているのかくらいは考えて発言してくれてもね、ええんとちゃいますかね!!!

 

(……お茶を飲みます。)

 

 で、『とびかな』の話に戻ると、メインキャラ四人それぞれにそれぞれの性欲が描かれている。ぜんいん態度が違っている。そして恋愛への理想もまた違う。

 具体的な表現は引用しないけれども、恋愛感情イコール性欲とは決してなっていないし、むしろ、その記述面での表出と現に抱いていると思われる感情、なにより彼ら/彼女らがほんとうに欲しいもの(結局それが「愛」なのかはわからない!)が、それぞれ違う場所にあることが語られている。なんなら語り手の宮澤恆くんがどれくらいまともなレベルで語ることができているかもわからないのだ。主観であるし、それにしては饒舌な表現のときと落ち着いているときの落差もまあまあある。

 だからこそ、ここにアポリアがある。

 一度すべての儀礼的/形式的な「好き」をホラー的に脱臼させてみて、そのうえでなお「好き」をどこに措定できるのか。その意味で、『とびかな』はまったく伝統的な現代ラブコメ自意識ライトノベルなのだ。しかも、ヒロインたちもそれぞれ異なる自意識を表明してしまうような、殺し合いのような。

 ところでわたしは藤代瑠音を、ファム・ファタールだとはぜんぜん思わない。その言葉を使うのが個人的にあんまり好きではない以上に、もっとも状況に踊らされている存在こそが彼女じしんだからだ。彼女にできることは肉体的には多くの人間と寝ることであるが、そのじつ、自分でコントロールできない部分については「約束してくれる?」と願うことしかできない。

 まあでも、おそらくそういうところが果南のブチ切れポイントに加担していると気づいていない彼女も彼女なんですけどね。

 

 えーと、つまりそれって、「めんどくさい」ってことですか?

 

(最初からそう言ってますよね???)

 

 

エンディング:Galileo Galilei「恋の寿命」


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おまけ

ところでこれって本当ですか?

 

*1:だれが決めたのかわからないが、おそらく週刊少年ジャンプあたりのレギュレーションが求められていたっぽい。

*2:なぜなら地上派でのアニメ化は不可能になるわけでどんなに人気を得たとしてもファン数はアニメ化作品よりは下になるからだ。一番波及力の高いメディアミックスが見込めない。

光と色と音と距離:『きみの色』について。

【※本記事では映画『きみの色』のネタバレを含みます。未見の方はご注意ください】

 


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 タイトルの通りです。二回観ました。どちらも通常上映(IMAXではなく)。変な色味になってしまっている可能性を避けたかったので。ちなみに宗教的解釈などはほぼしません。あしからず。

 

一回目の感想。

 たいへんおもしろかったが、物語のどの部分に焦点を置いて観ればよいのかがかなり難しく、意図的に記憶に残るような印象的な言葉遣いなどが避けられていた印象だった。強いていえば、「よいの、ですか?」「え!? わたしたちがインターネットの世界に!?」だろうか。ブルーレイもなると思うよ。カタルシスになりやすいところをあえてはずした作劇になっているのもそうだし、まさか予告編のトツ子の台詞が物語を象徴したり総括するような中~終盤ではなくて、冒頭だったこともぎょっとした。

 台詞や演出に合わせてだろうか、全体的なカメラの撮り方(という言い方にするが)もミニシアター邦画的な質感というか、ダイナミックなカメラそのものの移動がなく、基本的に人の高さから映すようなカットが多かった。それでいて気持ちよくなるところはしっかり描くのもよい。トツ子が「わくわく」に思い至って走り出すあたりの劇伴でバスドラがドッドッドとなっていくのはわかりやすい鼓動に見立てた演出で、吹き抜けから見えるスカートの広がりが文字通り開放的な画面をつくる。

 色味は時間や季節に合わせた変化があって、とにかく観ていて楽しい。それでいてさりげない人体の運動と弛緩の描かれ方は心地よく、信じられないくらいに人間ってこういう動きするよな、というところと瞬間的にファンタジーになるところ(トツ子の輪郭は場面によって膨らんだりシャープになったりするであるとか)の配分もよく、人を惹きつける絵のよさが終始あったという感じ。

 とりわけキャラクターデザインの段階で目(というか睫毛と眼球)に落とし込まれたものが想像よりも多く、きみちゃんがメトロノーム代わりにニュートンのゆりかごを使うとき、瞳孔がその運動を追って一瞬左右に揺れるあたりなどもここまで描くのか、という作画の偏執具合のすさまじさを感じる。

 モチーフについて。冒頭からバレエの少女たち、そして噴水と『エコール』っぽいものをちらつかせる悪い癖がまた出ている。とはいえあくまで引用であって物語を補強するようなものではない。かもめ食堂もそう。はてしない物語っぽい本が出てきたのはなんだったのか。起きたことを直球で描かない自己韜晦への目配せだろうか。

 色について。ポスター等の段階でキャラクターに三原色らしきものがあてられており、前日くらいに配信されたサントラもどうやらRGBっぽい数値がトラック名にあてられており、「じゃあ三原色か~~~」という予断が入ってしまった。よくない。

というわけでサントラのディスク1にあった数値を可視化してみた。左上はトラック番号。

 作中の画面表現に比べると圧倒的にアースカラー中心で、そのなかでもきみちゃんの「色」として表現される発色のつよい青がやはり目立つ。正直作中で出てくるサントラの内容を憶えているほどの記憶力はないので、どのような対応関係になっているかはこれを読んでいるみなさんが考えてください。

 ラストのトラック34は完全な白(255,255,255)。作中で完全に画面がホワイトアウトするのはライブシーンのあと、つまり「ジゼル」が流れてトツ子が踊る前後(二回)。しかしこのダンスシーンはなんだったのか。テルミンとピアノ、遅れてエレキギタークリーントーンが入るということは三人の奏でる音楽に聞こえるが、花々は咲きすぎていやしないだろうか。春であればトツ子は卒業しているのでは?(ライブのとき森の三姉妹のクラスTシャツは記憶が正しければ「3-C」だったはず)。反対に、ライブのあった二月であれば花はあそこまで咲いていない。浮遊した時間。心象風景だったのだろうか*1

 色については、あとでネットで適当に漁ったら山田尚子監督自身が、「光の三原色」である旨を語っていたものがあったはずで、三原色が混ざりきった、ということなのだと思われる。具体的にそれがどういう意味になるのかは、わからない。

 しろねこ堂の三人の楽器はモノトーンが多めだ。鍵盤もそうだし、きみちゃんのリッケンバッカー*2も白と黒のカラートーンのモデルだし、ZOOMのエフェクターも銀色の筐体だ。トツ子が使っているAKAI(のたぶん)MIDIキーボードはメーカーのモデルそのままなので筐体の左右が赤いものの、カラフルな色がわかりやすくついているのはギター弦(ダダリオ)のボールエンドくらい。ただしきみちゃんはクリスマス会の夜にトツ子から言われたことを受け取ったのか、ライブのときには左手首に青いバンダナのようなものを巻いている。

きみちゃんのリッケンバッカー、正確なモデルは不明。テールピースがいわゆる「R」タイプではないのでカラフルなボールエンドが見える。

 ライブシーンについては後述する。

 

二回目の感想

 一回目の印象ではエピソードが積み上がっていく印象を受けたが、二回目を見ると、個々のエピソードが反響しあうように組み上がっているのがわかる。

 きみちゃんは聖歌隊にいながら歌うことのできなかった後悔や自分の感情を見つめ直し、日吉子先生の「歩き直すことができるのです」という言葉やイザヤ書の43章4節の言葉を受けて「あるく」の歌詞を書き上げて、苦しいや悲しいも含めた「聖歌」を歌っているし、トツ子も幼少期から抱えていた自分が他人とは違うこと(たとえばうまく音楽に合わせて踊れなかったことなど)をライブという空間や音楽を通して捉え直そうとしている。

 というか。

 公式HPのこれがほとんど「答え」じゃないですか。

 思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほど良く考えているな、と思うことが多いです。「自分と他人(社会)」の距離の取り方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。

山田尚子監督の企画書より)

 それと、画面上に散らばっている色の多さ。チャペルの壁や柱もそうだが、なにげないコンクリートや木の表面にも小さな色が(現実以上の色彩の数で)散らばっている。序盤でも体育館のラインとジャージの色で三原色(だったような?)があったりする。

 けれども「色」というのはあくまで色であって、伝達のための記号や言語にはなっていないことに注意しなくてはならないと感じる。

 若い=青い、みたいなアレゴリカルな慣用表現はわたしたちの生活にはふつうにあるけれども、きみちゃんがクリスマスプレゼントを選ぶときにトツ子が見たあの「色」について、「素敵すぎた!」とは言えても、具体的にどのような「感情」を持っているかは最後まで説明がされない。トツ子自身その意図を読み解いているわけではない*3(ある程度まで推測はできるかもしれないが)。

 つまり本作において、「色」はコミュニケーションの媒介にはなっても、それ以上にはなっていないのではないか。

 というかそもそも彼/女らは結局どこまで互いのうちにあるものを交換していたのだろうか。しろねこ堂の前で「なにかあった?」と訊ねたトツ子に対して、きみちゃんは「学校辞めたこと、言えてないんだ」と起きた出来事をそのまま返していたわけではないことを思い出す。寄宿舎の夜、トツ子は「言いたくないことは、聞かないよ」と伝える。だからきみちゃんの抱えている鬱屈した感情や後ろめたさのようなものを正面から理解していたわけではない。ある程度まで感じることはあっても、おばあちゃんとおなじ制服に袖を通して喜ばれたことや聖歌隊の練習といった嘘をついて島でバンド練習をしていたことも、知らない。

 きみちゃんについて。彼女はいわゆる「いい子」を演じていて、表情も劇中でそれほど崩れることはない。それでいて口数もトツ子に比べれば多くない。けれどもおばあちゃんとの会話のときのちょっとした言葉の間や、瞳のかすかな揺れは生まれているし、なにより島に行ったときの帰り道、トツ子と別れた瞬間には、だれにも見せないつもりであったろう「よそゆき」でない顔にもなっている。しかしそうした彼女の内面は、音楽のなかで語られようとする。「反省文」として。「あるく」として。

 トツ子について。他人と違う、という意味で彼女は高校でもなんらかの壁を抱えていた(ように表現されている)。「毎日聖堂で祈って」いたのは、むろんカトリックの信仰ゆえであるが、ルームメイトの「森の三姉妹」とのあいだにも見えない壁はあった。物語において、彼女たち三人とトツ子を「画面上において」二段ベッドの柱やはしごが遮っている。しかしライブをおこなうと決めたあと、その障壁は取り払われて描かれる。彼女が「ニーバーの祈り」を通して考えていたのは「心の平穏」だった。その続きである「勇気」と「知恵」については彼女の行動が示している。

 

ライブシーンと曲について

 ライブシーンで使われた曲は三曲であるが、正式なフルコーラスの音源版ではなく、ライブシーンに合わせた(おそらく一部別録りの)演奏になっている。

 差異が顕著なのは、「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~」で弾かれているギターの音だろう。配信されているサントラのディスク1と2にそれぞれ入っているので聞き比べることができる。きみちゃんの歌声についてはそれほど差はないが(ライブ中、彼女の表情が明確に変化するのも終盤の一瞬くらいしかない)、ギターは正式なフルコーラス音源版と比べると明確に拙く演奏されている。バッキングが荒々しいのもそうだし、映画館で聴くとハイが利きすぎているのがよくわかる。若干耳障りなのだ。加えて左手のコードチェンジの際のノイズも多い。彼女の緊張は顔には出ないが演奏には明確に出る。

 きみちゃんの表情がそれほど崩れないとは先に書いたけれども、彼女はライブ前に手で顔を覆っており、ライブの一、二曲目ではほとんど「目を閉じている」。彼女がまぶたを開いて、観客のほうを見れるようになるのは、「あるく」のラスト「歩けそう? 聞こえそう?/音の波と この声」と歌い上げ、エフェクターを踏んで音色を歪ませ、アンプにピックアップを近づけてフィードバックノイズを響かせたあとだ。

 きみちゃんは最後まで泣いた顔を見せることはないが、「苦しい気持ちや悲しい気持ち」を音としてだれかに向けて表現することはできる。

 しかしこのライブシーンは他者や家族との和解を描いている段である(はず)のに、ひどく異様な演出がなされている。

 映画の観客は、音のニュアンスとセットリストを通して、奏者の緊張が弛緩し、会場が盛り上がっていくさまを見守ることになるのだが、MCは一度も挟まれないまま終わりを迎えるし、(聖バレンタイン祭の)観客同士のコミュニケーションは描かれても、奏者と観客のあいだに言葉は交わされない。一曲目が終わったあと、応援するかのようにルームメイトのひとりから「トツ子ーー!」と呼ばれても、トツ子自身は手を振り返すことすらせず、そのまま鍵盤を弾きはじめる。

 その前の日吉子先生との会話もそうだ。彼女が「反省文」を「歌」にするように言ったのにもかかわらず、その歌詞については感想を述べず、「リフ」や「ミュート」といった演奏面についてしか言及しない。最後の演奏で彼女はライブ会場を去って、くるくるとひとり踊るけれども、以降物語に登場することはない。

 であれば音楽は、言葉は、届いていただろうか? 届くべき人に。相手に。そのとき、決して言葉にならなかった苦しみや悲しみに答えてくれた人がいただろうか?

 わたし個人は、決して届いていなかっただろうと考える。

 

きみちゃんとトツ子の関係について

 歌の歌詞について。「反省文」と「あるく」についてはきみちゃんの作詞によるものであるとフレーズからうかがえる。「水金地火木土天アーメン」についてはトツ子の作詞で、劇中に映っていたノートの書き込みからは「惑星=ME」(正確な書かれ方であったかは自信がない)で、きみちゃんが「太陽」に喩えられていた。これは序盤のドッジボールで球をぶつけられたこと、そして惑星と太陽の話を授業で聞いたりなどした経験が生かされているように思われる。

 しかしここで気づくべきは、きみちゃんの作詞した「あるく」では「光より愛に沿う/花となり 咲きたい」と歌われていることだ。きみちゃんは自分を太陽だとは思っていない。ここにふたりのすれ違いがある。いや、その表現は適切ではない。彼女たちは、ぶつかっていない。「色」を「音」に、「言葉」に変えたとしても、彼女たちはお互いを譲り合うように尊重し、一定のやさしい「距離」を取りつづける。

 ラストシーン。ルイくんを見送るときに、きみちゃんはいままでにないくらい、歌っていたときでも見せなかったくらいに声を張り上げる。そしておそらくその声は、船のデッキにいるルイくんには届いていない。「音」の波は減衰し、届かない。彼女が絞り出した「頑張れ」という言葉を聴き取ることができたのはトツ子だけだ。しかし光の波は、「色」は届く。大きく振り返されるカラーテープ。色は飛び散っていく。

 この物語において、「光」や「音」は幾度となく飛び交っている。色は彼/女らを包み込んでいるし、きみちゃんやルイくん、トツ子の見ている世界は「音」というかたちに変換され、表現される。夕暮れや植物たちの淡いフィルターを通した色で、わたしたちはその暖かい世界を観察する。

 しろねこ堂の三人は、たびたび音楽を通して、お互いのうちにある言葉にできないレベルの感情を交換しているようにも思える。きみちゃんの悲しげなフレーズをルイくんがオルガンの和音で包み込んだように。あるいは即興でジゼルを弾いてみせたように。たしかにそれらは優しい。けれどもそれはたんに優しいだけかもしれない。

 一方で、劇中に起きていた明確な「物理的衝突」は三回しかない。一回目はドッジボールをきみちゃんがぶつけたこと。二回目は奉仕活動明けの再会のとき、旧教会で感激したルイくんに抱きしめられること。そして最後、エンドロールのあとにトツ子がきみちゃんを腕を引いて、抱きしめたことだ。

 劇中、授業シーンで再生されていた資料映像は、太陽系の惑星の動きを描いたもので*4、トツ子にとって「わたしは惑星」であり、きみちゃんが「太陽」であるということをつよく意識させたものだった。しかし、であれば彼女たちは、最後まで衝突しないまま終わるはずだ。

 にもかかわらず、トツ子はきみちゃんを抱きしめる。「変えられないものを受け入れる心の平穏」を願っていた彼女は「変えられるものを変える」選択をした。届いているのかわからない、どこにもつながらないきみちゃんの叫びを聞いてしまったうえで、接触できない太陽に接触すること、あるいは、相手を太陽のような存在だと思わなくなることを選んだ。

(…)今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほど良く考えているな、と思うことが多いです。「自分と他人(社会)」の距離の取り方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。ふとその糸が切れたときどうなるのか。

 だからこそ、それが距離をなくす、つまり抱きしめるという行為につながる。

 ではそこでなにが見えるだろうか。

 簡単だ。

 なにもない、が見える。

 色というのは光の波のようなもので、長さの違う光の波で、いろんな色のかたちになる。

 RGBの設定値をすべて0に設定したときに見えるもの。光の波を遮ったときに見えるもの。きみを抱きしめたときにしか見えない色。すべての見えない光。

「昼、太陽があなたを打つことはなく、夜、月があなたを打つこともない」

 なにひとつ明るくない、綺麗でも素敵でもない、きみが、きみだけが、見える。

see you

 優しい物語、優しい言葉、優しい距離。それらをすべて捨てたところにある色がささやかに、けれど言葉よりも、音よりも、ずっと明確に示されている。なにかを隔てたあいだでの伝達ではなく、すべてが重なったときにしか生まれない色。光じゃない場所を見つめたときに見える色。わたしたちが、いつも見ようとしてはいない色。

 だからこの物語のタイトルはたしかに、間違いなく『きみの色』なのだ。

 

エンディング:Akira Kosemura「Light Dance」


www.youtube.com

 

 

おまけ

きみちゃんの単音ギターリフ

 

*1:結局気になってしまい小説版を参照した。「卒業式を終えて、入学式を迎えるまでのわずかな時間」とのこと。

*2:リッケンバッカー日本版:リッケンバッカー日本版ウェブサイト:rickenbacker-jp.com

*3:また、悪感情などが見える、といった一般的な?共感覚フィクションとはすこし態度が異なる。

*4:識者によればこの映像もミスリーディングな部分があるそうだが。

ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」から遠く離れて

【※本記事では、ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」、有栖川有栖「四分間では短すぎる」、古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』(「春の章」「夏の章」)、米澤穂信「心あたりのある者は」、阿津川辰海「占いの館へおいで」、青崎有吾「十円玉が少なすぎる」の真相に言及しています。未読の方はご注意ください】

光永康則『棺探偵 D&W』より。まして今やネットの時代なので、こうしてわたしも本記事を書いています。

 密室やアリバイといえばミステリの大きなサブジャンルであり、おおざっぱな分類といえますが、よりマニアックかつ現代日本の作家や読者に愛されている趣向として、ハリイ・ケメルマンの短編「九マイルは遠すぎる」を嚆矢とする推論の展開をテーマとしたディスカッションのスタイルが挙げられるかと思います。

 ほんの数年前の出版事情を例にみても、ごく短いあいだにおなじ東京創元社から刊行された戸川安宣・編『世界推理短編傑作集6』および小森収・編『短編ミステリの二百年5』といったアンソロジーにそれぞれ同作が収録されたことから、この短編の持っている歴史的な重要性がうかがえるかと思います。ただし後者については白須清美による新訳ですので、既読の人も、改めて読み返してみることをおすすめします*1

 編者による評価ではなく、現代で活躍する日本のミステリ作家側からのラブコールかつ応答作の例としては、有栖川有栖「四分間では短すぎる」米澤穂信「心あたりのある者は」青崎有吾「十円玉が少なすぎる」古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』阿津川辰海「占いの館へおいでなどが挙げられます。加えて2024年現在、森晶麿もこの趣向で短編連作に挑戦しているとのことですので、いわゆる「九マイルもの」の人気はまったくおとろえていないようです。

 さて、ではこの「九マイルは遠すぎる」とは具体的にどのような物語だったでしょうか。上記の有栖川有栖「四分間では~」では、語り手のアリスが端的にあらすじを紹介してくれていますので、以下にそのくだりを引いてみましょう。

 こんな物語だ。〈わたし〉は、友人で英文学者のニッキイ・ウェルト教授と〈推論〉について話しているうちに、「十語ないし十二語からなる一つの文章を作ってみたまえ」と言われる。「そうしたら、きみがその文章を考えたときにはまったく思いもかけなかった一連の論理的な推論を引き出してお目にかけよう」と。そこで出し抜けに返した言葉がーー

〈九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。ましてや雨の中となるとなおさらだ〉。

 ウェルト教授はこれだけの文章に込められた意味を論理的に掘り出していき、ついには思いがけない事実に到達してしまう。

「推論というものは、理窟に合っていても真実でないことがある」ことを証明するためにふたりのキャラクターが当該の文章からディスカッションを重ねていくという、会話文中心の展開(捜査パートがまったくないということでもあります)で、最終的には想像もつかない場所にたどり着くというのが本作の魅力です。ジェイムズ・ヤッフェ『ママは何でも知っている』と並ぶアームチェア・ディテクティブの古典として現在は広く読者に受け入れられています。

 また、おそらく2024年現在、この「九マイルは遠すぎる」についてもっともミステリ読者に共有されている作品評は小森収によるものかと思われます。

 本格ミステリ大賞の評論賞を受賞した『短編ミステリの二百年』シリーズ*2の評論・解説パートにおいて、日本での評価が固まるまえの作品受容の経緯を説明しつつ、小森は「九マイル」を以下のようにまとめています。

 謎解きミステリの魅力の核は、名探偵の展開する推論にある。エラリイ・クイーンが強く意識し、持ち込んだ、このテーゼを、分かりやすく結晶化してみせたのが「九マイルは遠すぎる」でした。

 この部分については、ウェブ連載「短編ミステリ読みかえ史」にもほとんどおなじ文言で語られていますので、一緒にリンクを貼っておきます。

www.webmysteries.jp

 また『世界推理短編傑作集6』の解説において、戸川安宣もこの短編について「論理的思考を謳う小説形態としての推理短編の、まさにお手本と言える作品である」と述べています*3。ですから現代日本において、「九マイルは遠すぎる」という短編は、純粋な推論によってミステリの持つ魅力を取り出した作品としてもっぱら受け入れられている、とするのが妥当な扱いなのだと思われます。

 とはいえ、です。

 それらの評は、はたしてほんとうに正確な作品の捉え方だったでしょうか。すくなくとも「九マイルは遠すぎる」および、そのスタイルを模倣した後続の作品群を読んでいるうち、わたしはそこに疑念を抱かざるをえませんでした。

 さて、前置きが長くなりましたが、本記事は、「九マイル」およびその後続作品群である「九マイルもの」の謎解きがどのようにつくられているかを細かく検討しようとするものです*4

 例によって奇抜な話はしておりません。長くなりますが、よろしくお願いします。

 

〈推論〉というワードの取扱いへの疑義

 仮に、小森収の言うとおり、ケメルマン「九マイルは遠すぎる」がクイーンの理想としたテーゼの継承であり、結晶化した作品であるとするならば、そこにはある程度の疑義が挟まれるべきだと思います。

 なぜなら「九マイル」でおこなれているのは、厳密には、クイーンが得意としたような推論≒推理すなわち「演繹的推理法」*5ではないからです

 どういうことでしょうか。

 ここでいったん、小森が「九マイル」の推理手順をどのように読んでいたのか、改めて上記のリンクから引いてみることにしてみましょう。

(…)そこで「わたし」が思いついたのが「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」という文章でした。ニッキイは、さっそく、そこから推論可能な事実を引き出していきます。その話し手はうんざりしている。彼は雨が降ることを予想していなかった。彼はスポーツマンや戸外活動家ではない。といった分かりやすい手近な推論から始まって、やがて、九マイルという距離に着目することで、推論はどんどん具体的で限定的になっていく。この部分のわくわくする感じは、パズルストーリイのもっとも人を高揚させるところでしょう。そして、状況は驚くほど狭まり、絞り込まれ、ついには、ある犯罪を推定させるに到るのです。(太字は引用者)

 ここで注意すべきなのは、探偵役のウェルト教授がおこなっているのは、当該の文章から「推論可能な事実」を演繹していたのではなく「周辺状況の追加」をしていたことではないでしょうか。というのも、作中の台詞を引用するのであれば、「九マイルもの道~」という言葉には「手がかりがあまりない」はずだったからです。

 ゆえに語り手と探偵役のふたりは、その一連の文章に対して、あくまで仮定を重ねることを許したうえで、ディスカッションを進めていきます。

「一つは、話し手の意図が気まぐれなものでないということ。(…)」

「まあいいだろう」

「もう一つ、ぼくは歩いた場所がここだと仮定したい」

 本作の出発点は、たしかに一連の短い文章でした。しかしそこから一本の糸を手繰っていくように、緻密な推理を、論証可能な事実そのものをリニアに展開しているわけではありません。

 もちろん小森の言うように推論が「どんどん具体的で限定的になっていく」のは物語上に描かれている事実です。しかしそれはクイーン的な演繹推理≒謎解きによって導かれたものではなく、探偵役が恣意的に問題文の外部にある状況としての「5W1H」を都度追加し、それを語り手がスムーズに承認してくれるよう、(見えざる手によって)作者自身が仕向けていたという経緯があります。

 ですからここにあるのは、一歩一歩、論理的な解明によって進んでいく緻密な謎解きゆえの知的スリルとは決して言いがたいはずで、むしろ連想や言葉遊びといった、気負う必要のないゲームが許されているがゆえに生まれる無邪気さのほうが大きいと思います。そしてその偶然性のたわむれであったものが、最後には裏返ってしまうアイロニーこそ本作独自の魅力であった、というのは小森自身も指摘していたとおりです。

「九マイルは遠すぎる」という物語が積極的に表現しているのは、このように実直でない方法によって導かれた言葉がなぜか事実を言い当ててしまうという、名探偵や推理小説が持っている、あたかも宿命的な「ねじれ」そのものではないでしょうか。

 もし仮に、本作を高度で純粋な推論手続きによる傑作ミステリと呼んでしまうならば、その評はいささか名探偵の存在を持ち上げすぎているか、都筑道夫が理想としたパズル・ストーリイ観に引き摺られているようにも思われます*6

 また、これはわたし自身もそうなのですが、だれかに向けて「九マイルは遠すぎる」をプレゼンめいたかたちで紹介しようとするとき、つい作者自身が短編集に寄せていた「序文」の、完成まで十四年もかかった、というおもしろ執筆エピソードに言及してしまいしがちです。しかしよくよく考えてみればわかるとおり、作品の出来と構想年数は決して相関するものではありません。

 けれどもわたしたちは、このあまりにも有名な「序文」に書かれた経緯を忘れることができません。それゆえあたかも、十四年ぶんにもおよぶ長い思考の過程が短編サイズに圧縮された推理こそ「九マイル」の持つ輝かしい魅力である/「九マイル」が傑作であるのは、作者が十四年も考えつづけたからである、といった物語を無意識のうちに仮構してしまっている気がします。

 多くの推理小説は、ふつう(ふつうでしょうか?)、作中に散らばっている複数の要素を細かく検討し、ちまちまと作者自身が手直しをしながら、ときにその場の思いつきを書き加え、最終的につじつまの合うよう完成させていくもので、まさか作中の名探偵のように一筆書きめいた、淡々とした思考のもとに書かれることはないはずです*7

 もちろん現代に比べ、ワープロなどデジタルツールがない環境の制約は大きかったでしょうが、ケメルマンの発明したこのワンシチュエーションがわたしたちを惹きつけてやまないのは、ただたんに推理そのものの完成度だけではなく、その長い推理を下支えするだけの道のりを、あたかも一本道であるかのように整備できてしまった「嘘」じたいの持つストレンジな魅力と不可分であるような気がします。

 

後続作家たちの自覚的なスタートライン

 さて、ケメルマンの話はここでいったん終わりにして、「九マイル」に感化された、後続の作家たちはどのように応答してきたか見ていきましょう。

 すくなくともフェアプレイに敏感な日本の本格ミステリ作家たちが当該作品を丹念に読み、そのスタイルを模倣しようとした過程で、上記の「周辺状況の追加」に気づいていなかった、とみなすことは難しい気がしています。

 なぜならその傍証として、彼らが「九マイル」のスタイルを模倣するさい、みな原案/元ネタ作品とは大きくシチュエーションを変更させていることが、一様に指摘できてしまうからです。

 ではその変更とはいったい、どういうことでしょうか。

 答えは一読すればわかります。つまり、有栖川有栖米澤穂信、青崎有吾、古野まほろ、阿津川辰海、彼らはみな「九マイルもの」として書いた自作において、語り手が一連の文章を思いついたとは設定せず、偶然、見知らぬ他人が発した言葉を聞いたものとしてストーリーを構築しているのです。

 前述の内容をくり返しますが、「九マイルは遠すぎる」においては、その推論という見かけ上のパズルの裏に、作者/探偵役による恣意的な「周辺状況の追加」がありました。問題文となる一連の文章から具体的な推理を導き出すには、いくつもの仮定という条件追加の手続きを経由しなければなりませんでした。

 対して、有栖川有栖「四分間では短すぎる」では、公衆電話での会話を。米澤穂信「心あたりのある者は」では、放課後の学校内での呼び出し放送を。古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』の「春の章」では、喫茶店に向かう街中で耳にしたフレーズを。青崎有吾「十円玉が少なすぎる」では、道行く人のスマホでの通話を。阿津川辰海「占いの館へおいで」では盗み聞いてしまったひとりごとを。それぞれ問題のテクストとして採用するという導入を与えています。

 これら上記の作品たちに共通している背景は、問題文の発話における「5W1H」といった周辺状況が探偵役による仮定の積み重ねではなく、最初から具体的な条件として(しかしその一部が隠されたかたちで)提示されている、ということです。

 そして、ここでの目的/メリットはおそらくシンプルなものです。

 なぜなら具体的な周辺状況を初期値として設定しておくことによって、論理展開に必要な「仮定」という探偵側の恣意性を(かたちだけでも)排除させておくことができるからです。また、加えて指摘するのであれば、このスタイルを採用することは、書き手にとって、最低限の創作倫理的なスタートラインだったのではないか、ということが言えそうです。

 なぜなら読者にとって「九マイルは遠すぎる」という短編が定立したフォーマットは「架空の話が現実を言い当ててしまう」物語でしたが、これを作者目線で捉え直すのであれば「現実を言い当ててしまうという結論ありきのもと、架空の話を誘導して展開させた話」にすぎないからです*8

 加えて後続作家たちにとっては、その元ネタをオマージュするという意図で作品を書いている意図が存在する以上、その皮肉なオチじたいはそもそも意外な結末でさえありません。探偵が事実を言い当ててしまうのは、どんなに「ねじれ」ていたとしても、この世界ではすでに当たり前の事象であり、想定内のこととして予感/期待されています。

 となると問題は、いかに仮定を重ねた推理と結末のマッチポンプ感を防ぎつつ、ミステリとしての面白さ/フェアネスを担保するかにかかってきます。

 ゆえに作者としては、語り手が「ふと耳にした奇妙なフレーズ」を対象とした、地に足のついたディスカッションというフォーマットに組み替えていたのではないでしょうか。後続の作家たちは、謎解きの主題を、メタ的な「ねじれ」のマッチポンプで終わらせるのではなく、あくまで「九マイル」の作品評に本来的に求められていたであろう、フェアな「推論」が駆動する物語として語り直す試みをしていたのではないでしょうか。

 あるいは、もっと単純に、このような言い方ができるかもしれません。かつて阿部屠龍*9『時間百合SFアンソロジーの「あとがき」でとあるジャンルフィクションを次のように分類していたことをわたしは思い出します。

 世の中には二種類のゾンビ映画があります。ジョージ・A・ロメロが存在する世界を描いたゾンビ映画と、とそうではないゾンビ映画です。前者において、動き出した死体を見た者の第一声は「死体が動いた!」ではなく「ゾンビだ!」です。

 二十一世紀の推理小説において、街中で奇妙なフレーズを聴いた登場人物およびわれわれが最初に抱く感想は「妙だな……?」ではなく「九マイルだ!」にほかなりません。ケメルマン「九マイルが遠すぎる」が確固として存在する世界において、当該作とまったくおなじ新鮮な驚きを得ることは、おそらくもうできません。

 ですから後続作家たちが「九マイル」以後であることを自覚したうえで、それぞれなにができるかを模索しているのは、当然のなりゆきなのだと思います。

booth.pm

 

有栖川有栖「四分間では短すぎる」について

 そうした論点に立ったとき、ようやく有栖川有栖「四分間では短すぎる」がなぜあのような物語になったのか、納得がいきます。

 本作は語り手のアリスがふと耳にした言葉から英都大学推理研の面々がディスカッションのゲームをはじめていく日常ベースのミステリですが、結論としては楽屋オチのような展開を迎えます。元ネタである「九マイル」のように推理が事実を言い当てていたのとは正反対に、「四分間では~」においては、彼らの推理がいかにも恣意的な演出と誘導によるこじつけであった、というわざとらしい「サゲ」がおこなわれます。

 べつに推理研の彼らの出した答えが事実と一致していた、という名探偵物語として本作を終わらせてもいいようなものですが、あくまで作者がそうしなかったのは、やはり「九マイルは遠すぎる」が持っていた謎解きの恣意性を最後まで退けることができなかったからではないでしょうか。

 もうすこし言葉を費やしてみましょう。前述の通り「九マイル」においては遊びの言葉が、虚構の積み重ねが現実に反転してしまうという「ねじれ」そのものを表出させたミステリでした。しかし後続作品としてそのシチュエーションを真似てみた場合、状況はさらに厄介なものに変わっていきます。

 とりわけ「九マイル」を本格ミステリ作家がフェアに作り変えようとすればするほど、そのスタイルの歪さはより明確になっていきます。仮に探偵役によるウェルト教授的な「周辺状況の追加」メソッドを回避したとしても、偶然を装った、作者自身による細かい「5W1H」の状況設定が恣意性のかたまりである事実は変わらないからです。

 となるとそもそもとして、なぜ語り手は特定の「5W1H」の情報を細かく得られうる状況において「奇妙なフレーズ」に出会わなければならなかったのか? という問題が生じます。

 ミステリなんだから謎に出会うのは当然だろう、という向きもあるかもしれませんが、ここでわたしが強調したいのはそうではなく、むしろ「解ける謎」に出会ってしまっている、という都合のよさそのものです*10

 この仕組まれた出会いそのものについて、作品内においてフェアに説明できる方法は、すくなくとも原理的には存在しません。

 結局のところ「九マイル」スタイルのミステリは、どれだけ登場人物レベルにおいてフェアな推論≒謎解きを展開させたとしても、作者レベルにおいては、あたかも結論ありきのデータの集まりを、パズルのピースとして、わざとらしく配置させたものでしかないことになります。

 たとえば作中でアリスが指摘してみせた、電話番号の入力時間のロジックはたしかにすぐれていますが、これが「九マイル」的問題文の外側にある情報でありながら、しかしそれによって仕組まれた結論に飛びつくきっかけにもなっていたことは改めて留意しておくべきでしょう。

 であれば、それらの手がかりは、ケメルマンが「九マイル」の成立過程において標榜していたような、純粋な知的スリルの材料として採用するには不適格だったということになってしまいます。仮に「九マイル」の後続作品たちがフェアネスを保ちつつ「ねじれ」のルートを掘り進むことを目指していたとするならば、その物語ルートじたいがどこまでも人工的なものであり、アンフェアであったとする有栖川の居直りめいた結論は、むしろその幻想に対するぎりぎりの踏みとどまりであった、と言えそうです。

 

古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』について

 だとするならば「九マイル」が標榜していた推論ミステリの方向性は、登場人物レベルでは避けられたとしても、作者レベルではマッチポンプ的構図を避けることは不可能な、見果てぬ幻想にすぎないのでしょうか。

 そのスタイルを検討していった一連の試みとして、同趣向のみで一冊の連作にまとめあげた古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』を例に考えてみるのがよさそうです。

 本作は、有栖川有栖の楽屋オチ的態度に対して、むしろそうした面を積極的に受け入れつつ、登場人物たちが「九マイル」的な結末に向かおうとする連作といってよいかと思います。なぜなら彼らは英都大学推理研の面々以上に、自覚的に推理小説的な態度を前景に置いて会話をするからです。

 メインの登場人物ふたりは「論理的対局」と称して、日常のなかから問題となるフレーズを提示しては分析を重ね、意外な真相ーー作中の言葉で言うならば「エレファントな解決」ーーを共同的に/共犯的に導こうとします。

 けれども古野の手つきは、一読すればわかるとおり、「九マイル」的な恣意性のつよい仮定の積み重ねによる世界の広がりよりも、どのような文脈で発話がおこなわれていたのかを細かく検討し、文意を一意に確定させていく(いささか煩瑣にも思われる)手続きそのものにより重みを置いています。

「春の章」で問題文の「かけ」るという発音がじっさいにはどのような漢字と一致するかについて、正確に限定してゆくくだりはたしかに思考の飛躍を期待する読者にとっては迂遠に思われるかもしれませんが、これはまさしく一個一個可能性を潰していく消去法的な推理の実践であり、元ネタである「九マイル」そのものにはなかった厳密性のあらわれです。ここで古野は手がかりや状況設定の恣意性を退けることはできずとも、推論という手続きそのものに信頼を置くことはできるかを検討しているように思えます。

 とはいえ、です。最終的には「エレファントな解決」が求められていたことを考えると、その手つきは小さなジャンプ台を用意していたことにも気づかされます。あるいは作者は、状況証拠的な伏線回収/情報統合をおこなっている、と指摘してみてもよいかもしれません。

 思い出してみましょう。「春の章」において問題となったフレーズは以下のとおりでした。

”今かけ直そうか届けようか

でも残りは小銭だけだから、もう郵便局に駆け込むしかないのか”

 前述しましたが、「春の章」の白眉はこの文意に関する細かい吟味だと個人的には感じています。とはいえ、終盤に(潜在的なミステリ読者によって)求められているのは結末におけるツイスト、意外性です。では本作はどのように上記の文意からの飛躍をおこなっていたのでしょうか。

 それは簡単に書けば、以下のようなものとして説明できると思います。

発話内容(テクスト)の分析×5W1H的な状況証拠=エレファントな解決

 そう、重要なのは「5W1H」です。

「When(いつ)」「Where(どこで)」「Who(だれが)」「What(なにを)」「Why(なぜ)」「How(どのように)」という項目について、原案の「九マイルは遠すぎる」では推論の仮定として都度追加されていったものを、検討のための材料として初期設定として採用しているのが現代作家たちによる「九マイルもの」です。

 正確には「Why(なぜ)」については最終的な答えに結びつく部分でもあるので、深いところでは材料にはならないものの、基本的に登場人物たちは適宜、この六つの情報と発話内容をすり合わせていくことで推論を導き出していきます。たとえば「春の章」においては、発話された場所(Where)が「吉祥寺駅」であったことが推理の材料になったように、です。

 しかし、これはフェアであろうとすればするほど、より難しい部分でもあります。というのも、この「5W1H」は、じつのところ問題となるフレーズの検討よりも、ずっと結末に対して雄弁な重みを持つ記述になりかねないからです。

 つまり、もし物語において重要な伏線が、問題となるテクスト以外の記述にあったことを肯定するならば、「九マイルもの」=短い文章からの純粋な推論、というテーマ設定がそもそも成立しえないのではないか? という疑念を生じさせることになります。なにしろ「春の章」の冒頭シーンにおいて、吉祥寺駅に到着した語り手が目撃した、「制服警察官五名」といった「緊張感のあるもの」は真相を推理する傍証としてはあまりにも雄弁でした。推理小説のロジックや伏線処理にある程度慣れている読者であれば、このシーンだけで出来事の背景にある可能性をある程度までメタ的に想像できるかもしれません。

 これらの語り手が一瞬だけ注目した描写はメインとなる推論の材料としては(ほぼほぼ)登場しませんが、結論を現実に着地させようとするがためにフェアな伏線として張っていたことは否定しようがありません。要するにこれは、作者が最終的な「ねじれ」を物語として引き寄せるためには、問題文となるテクストだけでは不十分である、と理解しているがゆえの記述なのです。

 むろん古野自身、このことにはじゅうぶん自覚的であり、改善点を模索していったのではないかとも指摘できるはずです。なぜなら続く「夏の章」では、そもそも奇妙なフレーズを話していた人物の行動じたいが不審である、という点から総合した状態で推理を出発させるよう、登場人物たちをマインドセットさせていたからです。

 おそらく作者は、問題文の検討だけではなく、その前後の時間や状況も含めた「ホワットダニット」として「九マイルもの」の枠組みを捉え直し、『ロジカ・ドラマチカ』という連作を構成していったのだと思います。

 この「ホワットダニット」的フォーマットにおいては、問題文となるフレーズだけでなく、それを取り巻く周辺状況や視覚情報を手がかりとして柔軟に採用することができ、推理のヴァリエーションも増やすことができます。加えてここまで状況を複雑にできれば、あたかも問題となるテクスト外からの恣意的な伏線回収をおこなう(マッチポンプ的な)作者の像を、読者の意識からは後退させうるメリットも生まれうると思います。

 残りの「秋の章」「冬の章」も、文章の検討という大きな部分では変わらないものの、それが発せられた状況そのものに個別具体的なひねりを加えることで、テクストの意味を単線的に広げるスタイルではなく、テクストの背景にある全体像までをも推理させてゆく形式へと作者は手筋をマイナーチェンジさせています。

 ですから古野による連作の取り組みは次第に「九マイル」的な推理の持つマッチポンプ的「ねじれ」を突き放していくことに(見かけ上は)成功させたいっぽうで、当初想定されていた、シンプルなテクストから推論を展開するフォーマットからは離れていってしまったのではないか、ととりあえずは指摘できそうです。

 

米澤穂信「心あたりのある者は」について

 おそらくですが、現代日本の推理作家において、米澤穂信ほど「九マイルは遠すぎる」への偏愛を隠していない作家はいないと思います。

 エッセイや対談などをまとめた『米澤屋書店』でも「九マイル」に言及していましたが、よくよく考えてみると、デビュー作にあたる氷菓において、千反田邸で折木奉太郎が『神山高校五十年の歩み』をもとにおこなってみせた分析手法もまた「九マイル」的な文章精査によって答えを導く推理でした。

「そうだな。五W一Hで説明してみるか。いつ、どこで、だれが、なぜ、どのように、なにをした……で、あってたか?」

 そして二十年以上の作家キャリアのなかで、米澤は幾度となく「九マイル」のスタイルに戻っていくような推理を探偵役にさせています。

 さて、その米澤作品のなかでも、「九マイル」オマージュをもっとも明確に打ち出していた短編が「心あたりのある者は」です。

遠まわりする雛巻末のあとがきで明確に作品タイトルが挙げられていたこともそうですが、折木と千反田が謎に出会う直前に交わしていた会話に出てくる「理屈」や「推論」といった単語はもちろん元ネタである「九マイルは遠すぎる」から引っ張ってきた語彙でしょう。

 むろんそれだけではなく、米澤は「九マイル」をオマージュするにあたり、言葉がどのように受け止められるか、という話題から物語の導入をおこなっています。

 ある日俺がマイクを持ち、本日は晴天なりと言ったとする。それを聞いた相手はこう思うだろう、なるほど折木奉太郎くんはマイクのテストをしたいのだな、と。しかし別の者はこう思うかもしれない。折木奉太郎くんは今日は晴れていると主張したいのであるな、と。

 ここには素朴なメッセージ伝達のモデルが見て取れます。

 すなわち前者では、「本日は晴天なり」という発言が、発信者と受信者のあいだで「マイクのテスト」という共通のコードによって読み解かれ、メッセージ(意図)の伝達が成立するというもの。しかし後者のパターンにおいては、上記のコードが共有されておらず、ただ語義どおりの発言として受け取られるということ*11

 では折木くんが具体的にどちらの意味で発言したかったのか判断するには、それ以上の補足データがなければ判断できません。加えてデータがたくさんあったとしても、それは推論の蓋然性を高めるだけにすぎない、といった旨が語られています。

 ただこれについては、探偵役のおこなう推理の正しさを証明するのって難しいよね、といったような、折木自身によるポーズというだけでなく、もっと創作の実情に即した言葉であるようにも思えます*12

 どういうことでしょうか。

 もうすこし踏み込んだ話をすると、前述の『米澤屋書店』において、米澤自身は「九マイルは遠すぎる」を推理連鎖の「パイオニアにして決定版だったかというと、私は、必ずしもそうとは思っていない」と述べています。

(…)というのはですね、表題作は、実は最初の一文からすべてが始まってはいないんです。たとえば昨夜はこんなことがあったとか、この町はこういう状況でという情報が、あとからいろいろと付け加えられていくんですよね(太字は引用者)

 この指摘については、わたしも前述したとおりです。

「周辺状況」の追加を都度おこなうことで、推理の照準を合わせ、現実での出来事へと落とし込んでいくのが「九マイルは遠すぎる」という作品の取っている戦略であって、米澤自身の言葉を引いていうのであれば、それは厳密な意味での「推理連鎖」ではないということになります。

 であるならば、この点に対して極めて自覚的であった米澤穂信自身は、「心あたりのある者は」において、「九マイル」的推理にどのように挑戦していたのでしょうか。まずは作中で取り扱われている問題文となったフレーズを引いてみましょう。

『十月三十一日、駅前の巧文堂で買い物をした心あたりのある者は、至急、職員室柴崎のところまで来なさい』

 先に結論からいいますと、ここで米澤がおこなっているのは、極限まで情報を引き出せるように、発話内容と同時に参照できる周辺状況を詰め込んだ、ということです。

 具体的に、この問題文(テクスト)と同時に「5W1H」の枠組みがどのように提示されているか整理してみると、以下のように説明できるかと思います。

 いつ:十一月一日の放課後に→わざわざ効率が悪いタイミングに

 どこで:神山高校で→神山高校の生徒がいる場所で

 だれが:柴崎(教頭先生)が→生徒指導部の教員でない人物(管理職)が

 なにを:校内放送で生徒の呼び出しをおこなった(テクスト)

 なぜ:?(結論/真相)

 どのように:くり返さずに→イレギュラーで/急いで

 上記はとりあえず「5W1H」として即座に抜き出せる程度の部分的な要素にすぎませんが、にもかかわらず「ホワイ」を除いたすべての項目に問題となる「ホワット」すなわちテクストと相互参照すべき点が含まれていることがわかります。

 呼び出しの放送の読み上げでは「前日」や「昨日」とは言わなかったこと、「放課後」という非効率的なタイミングの放送であったこと、「神山高校」に用件が持ち込まれた必然性、発話者である「柴崎」はいち教員ではなく管理職であること、なぜか「くり返し」のおこなわれない放送であったこと……これらひとつひとつは小さな気づきですが、それらの推論を組み合わせ、つなげていくことが可能である状況というのは、作者自身が周到に作り込まなければ起こりえないものです。

 また「心あたりのある者は」では、基本的に推論がほとんど飛躍を伴わない、自明と思われる事柄のみを扱っている部分にも注目すべきだと思います。離れた複数の事象を関連性の高いものとして結びつけるのではなく、あくまで状況から導き出せる蓋然性の高い結論を都度採用することで、着実な推理を展開させています。

 作中で唯一、大きな飛躍といえるのは「偽一万円札」を使ったと推理してみせるくだりです。実質的にはこれが提示された段階で推理のインパクトとしては頂点に達するのですが、このあとも折木は、この偽一万円札の悪用に対して、追加で背景情報を想像し、些細な犯行動機までカヴァーしています。改めて、異様なまでの情報の詰め込みようだと思います。

アニメ『氷菓』19話「心あたりのある者は」では冒頭に(学校/壁?)新聞らしきカットが折木のモノローグではなく視覚的な伏線として挿入されています。

 また「心あたりのある者は」は2007年の推理作家協会賞短編賞の候補作にもなっていました。選考委員による選評では、有栖川有栖が「オリジナルの趣向が付加されていたら、と惜しまれる」、黒川博行が「納得できなかった。(…)また、生徒が謝罪文を書いたことも不自然」、法月綸太郎が「ただ、今このパターンに挑戦するなら、逆にどこかで「定型」を踏み越える蛮勇を求めたくなる」と、概ねオマージュの枠を超えていない、といった扱いのようです。

www.mystery.or.jp

 ただ、わたし個人としては、本作は「九マイル」とおなじスタート地点に立っているように見えながら、まったく正反対の方法論によって推論ミステリを成立させたことに意義があると思っています。

 つまり「心あたりのある者は」は、問題文→推論→結論という一般的に考えられている「九マイル」的な推理の道のりをじっさいに踏破した作品ではなく、結論に至るためのフェアな問題文が発話される状況はいかに逆算してかたちづくることが可能か? といった問題意識のもとに設計された短編だったのではないか、ということです。

 であるならば、探偵役が「解ける謎」に出会ってしまうことの不自然さ、都合のよさ、マッチポンプ感を作品の瑕疵としてしまうのは、極めて人工的なつくりをしているこの短編に対して、人工的である、と当然のことを指摘しているだけにすぎません。

 米澤穂信もまた、有栖川有栖と同様に、高度な開き直りをキャラクターに代弁させている作家のひとりとしてみなしたうえで、当該作品がどのように構築されていたのかを捉え直してみるべきではないでしょうか。なにしろ本作において、最初と最後に折木が語ってみせるのは、あくまで「運」の話なのですから。

「だから、俺のことを運のいいやつだと言うのは構わないが、大したやつだというのはやめてもらいたい」

スイリ先生もこのように韜晦しています。推理ってはしたない行為ですからね。

 

阿津川辰海「占いの館へおいで」について

 今回の記事で取り扱っている「九マイル」の後続作品たちを読み比べてみると、阿津川辰海「占いの館へおいで」は明らかにほかの作家とは違うスタイルを採用してミステリを構築しているということが言えそうです。

 まずなにより、本作では、三名によるブレインストーミングによって複数の可能性を同時に提出させ、それらを総合判断することによって推論を進めていることが特徴として挙げられます。むろんこれは、たんに元ネタとの人数の違いがあることだけを意味しません。なぜなら阿津川はこの短編において、ディスカッションによる推論の緻密さや正確さをあまり重要視していないように見受けられるからです。

 すくなくとも、わたしの読後の印象としては、作中で展開される推理について、ほんらいの作者であればじゅうぶん検討できるレベルの前提を意図的に省いているように感じられました。ここではむしろ積極的に、連想ゲームやありなしクイズ、水平思考ゲーム*13的な態度を採用しているように思えます。つまり、ところどころで論理が急に、前提や根拠なしに飛躍するのです。

 しかしこれはロジカルな謎解きをおこなわなかった作者の手抜かりというよりも、「九マイルは遠すぎる」の成立経緯に対する目配せではないかと推察できます。そのいきさつの書かれた『九マイル』「序文」は以下のようにはじまっています。

 ニッキイ・ウェルトは教室で生まれた。そのとき私は上級英作文のクラスで教えており、言葉というものは真空中(イン・ヴァキュオ)に存在するものではなく、通常の意味を越える含蓄を持つものであって、使いようによっては、ごく短い組み合わせでも、幾通りもの解釈が得られるということを学生たちに示そうとしていた。(…)(太字は引用者)

 論理的な厳密性を重視するのであれば、基本的に推論による情報の引き出しは、単線的な経路をたどっていくことが期待されます。しかし「占いの館~」では事実を一意に定めようとせずに議論を進めています。これはなぜかといえば、推論によって相手を「ビックリさせる」ことが彼女たちの目的であり、それが成功できれば「勝ち」であると合意したうえで推理を余興にしているからです。

 よって、ここには元ネタにあったような「筋道立った推論」といったものは最初から放棄されています。しかし仮にそうだとするならば、なぜ阿津川辰海はわざわざ「九マイル」本編のスタイルから意図的に離れたかたちの作品を、それも論理の厳密性をあえて落とした状態で仕上げようとしたのでしょうか。

 おそらく、といってよいかと思いますが、作中の記述で示唆されている存在から、作者の意図はうっすらと想像ができそうな気がします。つまり本作の隠れたもくろみとは、「九マイル」という枠のなかに複数のミステリ作品や批評を合流させ、マッシュアップさせようとしたところにあるのではないでしょうか。

 では、その具体的な固有名詞はなんでしょうか。その前に、本作で扱われていた問題となるフレーズを引用しましょう。すなわち連想ゲームです。

「星占いでも仕方がない。木曜日ならなおさらだ」

 記憶力のよいミステリ読者なら、ここですぐに思い出せることでしょう。

 そうです。あの有名な台詞*14を『獄門島』に登場させた、横溝正史です。しかしイメージはここに留まりません。この横溝正史作品を「言葉の問題」としてミステリの歴史上に捉えるとき、それを評していたさらにべつの書き手へと文脈はつながってゆきます。

 ではいったい、その書き手とはだれでしょうか。

 こういう登場人物の(つまりは読者の)錯覚を、作者がたくみに利用して、あとでアッといわせるところ、を私は『論理のアクロバット』と呼んでいますが、非論理、超論理の支配する現代では、こうした論理のアクロバットを重視して、必然性第一にプロットを組み上げる以外、本格推理小説の生きのこる道はない、と私は思うのです。

 むろんその人物とは、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を書いた都筑道夫にほかなりません。

 また都筑は、この評論によって広く提唱されることになった「論理のアクロバットという概念を用いることで『獄門島』を横溝正史の「最高傑作」に位置づけています。しかしそれだけでなく、このタームを使うことでエラリー・クイーン『Yの悲劇』さえも現代パズラーの射程に入れて語ってゆくのです。

 論理的な解決というところで、おさらいをしなければならないことがある。それは、合理的な解決が提示されたとき、読者にもっとも強力に働きかける要素が、必要であることです。それを私は、論理のアクロバット、と呼んでいますが、動かない呼び方ではありません。論理的なおどろき、といってもいいし、論理の飛躍といってもいい。これだ、という呼びかたが見つからないし、説明もむずかしい。

(…)

 実例をあげましょう。(…)「Yの悲劇」に、論理のアクロバットを説明するのに持ってこいの例がある。お読みのかたは、こういっただけでおわかりでしょう。

 とはいえ『黄色い部屋はいかに改装されたか?』において、都筑的なホワイダニット重視のキラーフレーズとなった「論理のアクロバット」ですが、作者自身がファジーな使い方をしていたせいもあり、多くの読者のあいだで定義がブレてしまった、という問題があります。

 結果として、現代のミステリシーンにおいては残念ながら「なんかロジックがすごい/すごそう」くらいの印象で用いられるマジックワードと化しており、都筑が当時抱いていた危機意識はほぼ途絶えたと考えてよい気もします。

 しかしここであえて指摘するのであれば、阿津川辰海は、意識的にこの「論理のアクロバット」の原義を復活させようとしていたのではないか、と思うのです。都筑道夫『退職刑事1』(創元推理文庫)解説において、法月綸太郎はこの「論理のアクロバット」を次のように説明しています。

 都筑氏の用例を見ると、「論理のアクロバット」というのは、G・K・チェスタトン泡坂妻夫氏の作例に見られるような、転倒したロジックとは、だいぶ趣が異なるようで、むしろ言葉の使い方に関するテクニック(ダブル・ミーニングを駆使したミスディレクションといったほうがわかりやすいかもしれません。(…)(太字は院引用者)

 だいぶ話が迂回していますが、いったんつづけさせてください。

 現代のミステリシーンにおいて、執拗なまでに「ダブル・ミーニング」を多用する作家といえば、阿津川辰海が第一候補にのぼることは論を俟たないでしょう。「あのとき犯人が言った「○○」は、じつはAではなくBという意味だったのか!」というような「おどろき」の展開は、阿津川の長編を手に取れば、ほとんど高確率で遭遇できる演出となっているからです。

 そしてふたたび「占いの館へおいで」の話に戻りましょう。この短編が本家「九マイル」と異なっている点は前述した「論理の飛躍」だけではありません。これは強調してもしたりない部分だと思います。

 というのも、語り手が冒頭で出会うフレーズは、会話文でも通話文でも放送文でもなく、だれにも向けることのない、純粋な「独り言」として登場しているからです。

 わたしはこの文章のいくらか前に、米澤穂信「心あたりのある者は」の冒頭部を引いてメッセージ伝達モデルの話をしましたが、改めて作品を比較してみればわかるように、「占いの館へおいで」における問題文の持っている大きな特徴は、その文章じたいには他者への伝達意志や目的が込められていないということなのです。であれば、だれかによって読み解かれる含蓄あるコードも、メッセージも、通常、合理的に期待することは難しいはずなのです*15

 しかし、その奥にある真相は、なぜか一足飛びに読み解かれてしまいます。通常、決定不可能であるはずのものが、推理という仕組みのなかに取り込まれたとき、無理やり確定させられてしまうこと。阿津川作品において推理小説的な「ねじれ」があるとすれば、この宿命性ではないでしょうか。

 たとえば『紅蓮館の殺人』からはじまる〈館四重奏〉*16について、よく「名探偵の苦悩」がテーマとして論じられている印象がありますが、二作目『蒼海館の殺人』以降、探偵役・葛城輝義がおこなっているのは、驚くほどに迷いのない、最短経路で導かれる明晰な推理でした。この名探偵のふるまいは人間というより、適切にデータを拾うことが保証され、即座に解決をたたき出す「物語装置」*17であるかのようです。

 もちろん「占いの館へおいで」で生まれた「独り言」については、発話者が誰にも聞かれると思っていなかったから「真」であると仮定され、そのまま推理の俎上に上げられるようになっています。これは『獄門島』のあの台詞が発せられたのと同一線上のシチュエーション・趣向として謎を扱いたかったための状況設定といえるでしょう。あるいは、無意識に出た言葉こそ真相を言い表している、という価値観のあらわれともいえます。

 長くなりましたが、これらを単純な図式としてまとめるならば、阿津川は「占いの館へおいで」という自作品のなかで、ケメルマン「九マイルは遠すぎる」ークイーン『Yの悲劇』ー横溝正史『獄門島』ー都筑道夫『退職刑事』および『黄色い部屋はいかに改装されたか?』というミステリ群をひとつの星座として見せようとしていたのではないでしょうか。このようなラインをメタ的につなげていく短編として、この作品の問題文は設定されていたのではないしょうか。

 しかし、とはいえ、です。

 やはり本作において、論理の飛躍や前提の欠落が目立つことは引っかかるポイントだと思います。なぜならここでは、前述した米澤的な謎の「人工性」よりも、アンフェアさのほうが色濃くあらわれてしまっているように見えるためです。

 たとえば、発話者「X」の属性が受験を控えた「三年生」であると問題文や周辺状況のみから論理的に演繹するのはかなりの豪腕といえるでしょうし、発話者が「タロット占い」についてどのくらい知っているかなどについては、登場人物の常識をどのくらい見積もるべきかという意味で、推理とは別軸の、論証不可能な問題になっています*18

 もちろん発話者「X」がもくろんでいたのが「犯罪」であることは「九マイル」的なお約束としてよいとしても、「交換殺人」からイメージをずらして「替え玉受験」と一足飛びに連想し、それが結論として採用される過程には違和感をおぼえます。なぜならそのように裁定されるのは、あくまで本文テクストのなかで「週単位」でおこなわれるイベントが「専門学校のAO入試」しか積極的に記述されていない、というメタ的な物語の要請があったためだからでしょう*19

 記述が存在するということと、その記述に重みがあると判断できてしまうことは、似ているようで、まったく領域の異なる出来事です。ですから本作の謎解きは推論や連想というよりはむしろ「伏線回収」の手続きと呼んだほうが穏当ではないかと思います。

 しかしそれでも説明できないものが残っています。この短編がラストに迎える大オチは、語り手を含むメインの三人ではなく、べつの人物もまた謎を解いていた、加えてたった「六分間」で結論まで検索しきっていた、というものでした。当然、ここで強調されているのは、超人的な名探偵像だと思います。

 けれども個人的には、前提となるべき情報や常識を完全に共有できていないはずの複数人が、なぜかまったく同一の論理操作をおこなったうえ、同一の結論にたどり着いてしまっている、というシンクロニシティのほうにより強烈な「ねじれ」をおぼえます。このような事態においては、もはや探偵役によって送られてきたURLの内容が推理の正しさを裏づけているかどうかは些細な問題でしょう。しかし作者の筆致からは、この状況をさほど疑問視していないようにも感じられるのです。

 じっさいは無秩序であるはずの個々の連関が、作者と名探偵の(見えない)共謀によって権威づけられてゆくこと。そのような意味では「九マイルは遠すぎる」も「占いの館へおいで」も変わりません。というよりミステリというジャンルは、多かれ少なかれそのような権力的構造を不可分に抱えているものだと思います。

 にもかかわらず、です。わたし個人が後者にのみ感じる、この、不自然に澄みきった水のような、得体の知れなさはなんなのでしょうか。

 新本格の世代、あるいは少し先行する笠井潔竹本健治といった人たちの書くものが奥泉光作品と共有しているのは、謎解き小説のもつあやうさの感覚でしょう。新本格とは決して英米黄金時代の単なる焼き直しではなく、担い手たちには「論理的に謎を解く」という行為を見直し、その不確かさや限界を自覚するところから、自分なりの想像力を開花させるといった面がありました。(太字は引用者)

 ふだんわたしが推理小説における作り手のメタ意識を感じるとき、頭をよぎるのは上記のような巽昌章奥泉光ノヴァーリスの引用/滝』の解説で述べていたような「ほの暗く濃密な空間」の手触りですが、しかし阿津川作品のなかに描かれているのは、どうもべつのなにかである気がしています。

 なぜ阿津川辰海は、あえて意図的にフェアネスを崩してしまう程度には、名探偵に超人的でさえある物語上の権能を与えようともくろむのでしょうか。その理由が世代差によるものとして回収されうる話題なのか、それともまったく異なる要因によって起きているものなのか、いまだわたしはうまく言語化できずにいます*20

 

青崎有吾「十円玉が少なすぎる」について

 こうして複数の作品を検討してきて改めていえるところですが、「九マイル」系統の謎解きにおいて、作者/探偵の推理(状況設定)から恣意性をなくすことはほとんど不可能な作業なのだと思います。

 あくまで発話されたテクストを解釈の対象とするとしても、そこから現実への着地を目的としたとき、どうしてもそのルートには取捨選択が生まれてしまううえ、推理の前提には、テクストの「外部」という文脈を導入せざるをえないからです。つまり、仮にテクストを殺人事件現場の血痕であるとするなら、文脈とはその飛び散った方向や推定される傷口の高さ、血液型、乾き具合のようなものだといえるでしょう。

 ほんらい謎解きミステリにおいてワンセットとして期待されるはずのものが、「九マイル」においては意図して分断され、独立した問題として扱われているわけです。であれば、こうした手がかりのなさから出発する枠組みにおいて、どのようにしてフェアな謎解きを担保してゆくことが可能でしょうか。そのヒントになりうる実作として、青崎有吾「十円玉が少なすぎる」を扱いたいと思います。

 青崎有吾『ノッキンオン・ロックドドア』は、「不可能」と「不可解」というそれぞれ異なる専門分野の探偵たちによって、事件の様相が二転三転する謎解きを楽しめるシリーズ*21ですが、その一冊目のなかでのいわば箸休め回が「十円玉が少なすぎる」という短編です。探偵事務所でアルバイトをしている薬師寺薬子が例外的に語り手を務め、「日常の謎」を求められた彼女が発したのが問題となる一連のフレーズでした。

「『十円玉が少なすぎる。あと五枚は必要だ』」

 この謎解きでは、ふたりの探偵がシリーズとしてはめずらしく対立することなく、一本の文脈を探っていくわけですが、本作において明確に徹底されているのは、テクストに付随する「5W1H」をまったく推理の材料に用いていないことでしょう。もちろん語り手は以下のように、その言葉を聞いたときの状況を最初に説明しているにもかかわらず、です。

「今朝学校に行くとき、そういう言葉を耳にしたんです。スマホで通話してる男の人とすれ違って、その人が通話相手に話しかけてるのが一部分だけ聞こえて」

「どうって言われても……三十代くらいの、普通の会社員って感じの人でしたね。スーツ着てて。あ、でもネクタイがアンティークっぽい時計の柄で、ちょっとお洒落でした」

 たとえば、学校に行く途中のどのあたりですれ違ったかについては話題にもされませんし、発話者の属性については、以後「男」として扱うのみで、それ以上の深掘りはなされません。なんらかの具体的な推理に容易に結びつくであろう「外部」を、作者/探偵たちは意図的に推理の材料から外しているのです。にもかかわらず、ふたりの推理は止まらず、ひとつの結論にまでたどり着いてしまいます。

 なぜでしょうか。

 理由は簡単です。「十円玉が少なすぎる」の問題文となるフレーズは、具体的な場所や人間といった「外部」の状況を参照せずとも、テクストの「内部」に最低限のヒントを置くことができるように設定されているからです。では、言葉の内部に置くことができ、かつ参照するにあたり十分な情報としてリンク可能なものとはなんでしょうか。

 端的にいえば、それは「制度」です。

 より具体的にいえば、本作では、日本国内の「貨幣制度」とその運用形態が言葉の内部に前提として埋め込まれているのです*22そしてそれは謎解きにおける「フェア」を担保しうる方法のひとつとして、じゅうぶん役割を果たすことが可能なのものだと思います。

 たとえば、〈国名シリーズ〉における探偵エラリー・クイーンは、しばしば現場に残された物証/手がかりをもとに推理しますが、そこに結びつけられていくのは、人間の持っている身体的な特徴もしくは物理的な制限といった条件になります*23。これはもちろん犯人をひとりに絞っていく、という最終目的があるためゆえの手がかりですが、しかしこれが「フェア」なものとされるのは、犯人による行動の結果として疑いえず、読者にも推理可能であると作者がみなしているからです。

 どういうことでしょうか。

 つまり、エラリー・クイーンがしばしば手がかりや推理に採用しているフェアネスの前提とは、読者にも共有可能な、一般化できる事象であるということです。

 実作を例に引くのもあれなので、以下に、即興でわたしが思いついた簡単な(たぶん?)クイーンっぽい演繹推理を書いてみましょう。たとえば捜査の結果、現場から五つコップが盗まれたことが発覚します。のちに現場の外で、それは洗浄された状態で発見されました。手がかりです。また犯人は、足跡から現場には一度しか訪れておらず、かつ一名のみであることが推定されます。

 そこで探偵が推理します。このコップはどう人間の手を大きく見積もっても(容疑者たちの手のサイズから考えても)、左右にふたつずつしか持てない大きさである。口にくわえることも、重ねることもできない。よって、犯人はコップを現場から持ち出すのに、箱やお盆、リュックなど、運搬に必要な道具をその場で用いる必要があったはずである*24。であれば事件当時、それを不自然に思われず使用していた人間が疑わしい。といったふうに。

 なにが言いたいかと申しますと、上記のように、人間の身体的特徴(腕は最大でも二本しかない)というものは、とくべつテクスト内に記述されていなくとも、基本的に読者と共有されている一般的なデータである、という話です。

 まさかここで例外的に腕が三本生えている人間が登場して犯人となるわけにはいきません。記述がなければアンフェアのそしりを免れませんし、むろん機械等による第三の腕なども同様です。つまりここでは、人間の腕は二本である→二本だけでは五つのコップは持てない→運搬用の道具が必要であった、といった自明な情報からあたらしく情報を演繹する手続きをおこなっている、というわけです。

 では改めて「十円玉が少なすぎる」の話に戻りましょう。本作は明確に、テクストの外部にある具体的な状況を推理の材料にしていません。あくまでテクスト内で推理は完結しているように思われます。しかしここには、日本の貨幣制度や公衆電話といったインフラなどがさらに(見えない)前提として想定されているのでした。そしてこれらの前提情報はとくべつテクスト内に記述せずとも、現実に存在しているため、読者とじゅうぶん共有可能な、フェアなデータ群として扱うことができるのです。

 もちろん、あえて意地悪にひとつだけ作者が意図的に推理のデータとして省いているアンフェアさがあると指摘するならば、発話者が「三十代くらい」であったという点でしょうか。この短編の発表時における三十代は、じゅうぶん公衆電話の利用法について理解しているとされるギリギリの世代の人物像だからです*25

 青崎有吾が「十円玉が少なすぎる」でおこなってみせたのは、複数の情報を都度加えていくダイナミックなかたちの推理ではなく、あくまでミニマルなスタイルを採用することによって実践できる、フェアな「九マイル」型の推理でした。

 このような推理法はおそらく、クイーン仕込みなのである、とわざわざ言いのけてしまうのはさすがに「平成のエラリー・クイーン」といった外部情報にいささか影響を受けすぎているかもしれません。まったくもってアンフェアですね。

 

まとめ:「九マイル」から遠く離れて

 さて、いろいろと考えていることを順番に書き出してみたところ、びっくりするくらい長い文章になってしまいました。ぜんぜん短編より長いやんけ。とにかくお疲れさまでした。本ブログ記事はおおむねこれで終わりです。思えば遠くにきたものです。

 わたしたちミステリファンはついその趣向を見るだけで「九マイルだ!」とはしゃいでしまいますが、こうして作品を並べて語ってみると、作者ごとにまったく違うアプローチをしていることがわかりましたし、このスタイルは常にフェアとアンフェアの境界に立たされているということも指摘できそうです。

「九マイル」の魅力とは、具体的な手がかりがない、というところから出発し、しかしなにか真実を言い当ててしまうという、あたかも無から有を生み出すような、手品めいたおもしろさが先鋭化されているところにあると思います。

 とはいえ、多くの後続作家たちは、その手品があくまで手品にすぎないことを理解しながら書いてもいます。

 探偵の推理も決してこの蓋然性を乗り越えることはできない。作者が探偵に与えるいくつかの重要な痕跡や告白の類いによって、たんに蓋然性にすぎなかった道筋が唯一の可能性であったと推測されるだけである。探偵小説はこの推測によって現実の不確定性を乗り越え、決定的な唯一の道筋によって過去が現在に到達したと思い込ませる。だが、このように現在と過去をつなぐ必然性を確認したいという願望は、結局のところ歴史的な時間の流れを乗り越え、現在と過去のあいだに密接で一体的な関係を復元することにならないだろうか。つまり近代の探偵小説は、世界にはらまれた深さの前にたじろぎ、深さを追求し、深さのなかにはらまれる不確定性・恣意性を祓い除け、それを理解可能な必然性に変える一種の呪術となっているのである。

 上記のことばは内田隆三『探偵小説の社会学における一節の引用ですが、この一節の最後が「呪術」としめくくられているのは象徴的です。

 ほんらい還元不可能である事象を、理解可能なものに見せてしまうおこないは、ふつう、欺瞞や詐欺の類といわれてよいものです。しかし探偵小説≒推理小説のなかではなぜか、その行為じたいは気づかぬうちに容認できるものとして見事なまで転化されています。ゆえに「呪術」たり得るというわけです。

 それはふだん、わたしたちが推理小説に抱いている「理性主義」や「科学主義」といったイメージからは遠く離れたものでしょう。にもかかわらず、ここではまったく反対のものが(見えないルートで)つながっています。おそらくはそのような近代的欲求の産物がミステリであると理解したうえで、多くの作家はしかし謎解きを、「九マイル」を異様なまでの情熱によって書き継いでいるのです。

「(…)こういうのを瓢箪から駒っていうのかね」

「ハインリッヒ・ケメルマン*26の小説にそういう趣向がありますけどね。『九マイルは遠すぎる』だったかな。(…)」

(…)

「幻想に淫するとでも言うか。ちょっと危険なタイプなんですよ」佐川は説明した。

「しかし何のためにそんなことをしたのかね」

「そこがマニアのマニアたるところなわけです。目的なんてないんですよ。あれこれと怪奇な幻想に遊ぶこと自体が楽しいわけです(…)」

「まったく度しがたい輩だな。探偵小説マニアというものは」

 いや、もしかしたら、大層な理由なんてないのかもしれません。

 しかし、それでもひとついえるとすれば、「虚構」という存在ほどにわたしたちを惹きつけてやまないものはないということでしょう。なにしろ奥泉光『葦と百合』が上記のような会話をしょうもないギャグとしてわざわざ開陳しているのは、 なにより作者自身がその虚妄を振り払えていない証左なのですから。

 たとえば奥泉は法月綸太郎との対談で以下のように述べていました。

 それはともかくとして、合理性は重要であり、合理性を徹底することが合理性の反対物に転化する可能性はあると思うんですよ。中途半端な合理性はすごくつまらない。でも、合理性の徹底が反対物に転化する経緯というのをミステリというジャンルは常に孕んでいると思うんです。

(…)それが僕は見たいんだなあ(笑)。

 というわけで、これからもどんどん虚構に淫して書いていきましょうね、ミステリおじさん。……ああ、おじさん、泣いてるのね。

 

おまけ:「九単位は多すぎる」について

 上記のことをいちいちしっかり考えていたわけではありませんが、せっかくの機会でしたのでわたしも「九マイル」に挑戦してみました。『留年百合アンソロジーダブリナーズ DLCに収録されています。タイトルはずばり「九単位は多すぎる」です。

strange-fictions.booth.pm

 大学生の女の子ふたりが喫茶店でふと耳にした「九単位は多すぎる」というフレーズをもとにあれこれ推理するという百合ミステリ短編です。

 もし仮に、本ブログ記事が「理論編」とするならば、本作は「実践編」といえるかもしれません。なんだか小鷹信光『新・パパイラスの舟』みたいでワクワクしますね。とはいえ基本的にやっていることは先行作の模倣の範囲ですので、ご期待なさらず。また同人誌の売り上げはすべて能登半島地震の災害義援金等に寄付される予定です。500円で読めますので、よければご笑覧ください。

 また、一緒に好評配信中の『留年百合アンソロジー ダブリナーズ』本篇には、「春にはぐれる」という中編を寄稿しています。こちらも読んでくださったら幸いです。ただしミステリではありません。どうぞよしなに。

strange-fictions.booth.pm

 というわけで、みなさんもオリジナルの「九マイルもの」執筆に挑戦してみてはいかがでしょうか。もし新手筋を見つけられた場合には、こっそりわたしに教えてください。できれば街中で、すれ違いざまに、はっきりした発声で聞き取りやすく、30文字以内の心に残るフレーズですと、その、たいへん妄想が捗るかと思います。そのあいだ、わたしは佐野洋を読んでいようと思います。

 なお最後に、今回の記事で考えた「九マイルは遠すぎる」の捉え方について、自分と同様の考えを持っている人がいないか検索してみたところ、十年以上前から安眠練炭さんがツイッターで言及なさっていた旨を補足しておきます。

 

おまけ2:なんとなく意識下にあったものたち

www.kosho.or.jp

 

エンディング:fhána「lylical sentence」


www.youtube.com

*1:ただし本記事において「九マイルは遠すぎる」の文章を引用する場合は、永井淳訳を扱います

*2:本格ミステリ作家クラブ

*3:ただし、作品のあらすじについては正確な言及ではありません。

*4:個人的には、創作のためのリバースエンジニアリングが目的でした。

*5:ここでは国名シリーズのような物証から確定できる事実を導き出す推理の意、で使っています。

*6:じっさい、都筑道夫はヤッフェ〈ブロンクスのママ〉形式からスタートした『退職刑事』シリーズのなかで「九マイル」の趣向に挑戦した「乾いた死体」という短編を書いてもいます。退職刑事3 (創元推理文庫)に収録。

*7:たとえば殊能将之のとある作品で語られる荒唐無稽な真相などは、そうした修正作業をメタ的に演出したものではなかったでしょうか。

*8:ここでは「九マイル」の成立経緯を問題にしているのではなく、作者がじっさいに作品を書き、作者の想定する結末のとおりに探偵にしゃべらせている状況そのものを問題にしています。

*9:SF作家。現在は「阿部登龍」名義で活躍中。

*10:極端なことをいえば、語り手は「バナナのナス、バナナス」といった合理性の欠片もない、意味不明かつ謎解きの対象になりえない言葉とは出会うことが許されていません。

*11:シャノンやヤコブソンあたりをぼんやりイメージして書いていますが、専門領域ではないのであくまで素人のイメージとさせてください。

*12:いまわたしはデコードの濫用をしています!

*13:いわゆる「ウミガメのスープ」のこと。

*14:気になった方は実物を読んでみてください。

*15:たとえば「キュウリのリンゴ、キュウリンゴ」のように。

*16:2024年現在は三作目まで刊行されています。

*17:作中の言葉では「ヒーロー」と素朴に説明されていますが、いささかわたしはその表現に懐疑的にならざるをえません。

*18:仮に発話者が、「タロット占い」がカードを使うものであると仮定したとしても、「本人」がその場にいる必要があるかどうかといったルールまで熟知しているかは個人差によるとしか言えません。

*19:週単位で木曜におこなわれるイベントという条件であれば、テレビアニメやドラマの放送でも、ロト6の抽選でも、無数のものが登場人物の思考の選択肢には上がるはずだと思います。

*20:もし一点だけ言えるとすれば、阿津川作品においてなぜ「ダブル・ミーニング」という読者にはおよそ確定不可能な伏線が多用されるのか、という部分とも接続されうる話題かもしれません。

*21:しかしこのテイストはシリーズが進むにつれ、次第に崩れてゆきます。

*22:そしてここにはおそらく競作五十円玉二十枚の謎 (創元推理文庫) (創元推理文庫 M ん 3-1)の残響もあるのでしょう。

*23:具体的には実作品を読んでください。たとえばフランス白粉の秘密 (角川文庫)など。

*24:スーパーガバガバ演繹なので、別解はぜんぜんあると思います

*25:なぜならこの短編において、発話者が十代として設定されていた場合、推理の前提としての情報が作者と読者のあいだだけでなく、犯人にとっても共有されているかが疑わしくなってしまうからです。

*26:ここではなぜか作者名が誤って呼ばれています。

ライトノベル読書会をはじめて一年が経っていた話。

 タイトルの通りです。一年ほど前にインターネットを介して知り合った友人(ツイッターのフォロワー)とラノベ読書会するべきでは?」と冗談を言い合っていたらほんとうにつくることになり、いつの間にかそのまま一年が経っていました。光陰矢のごとしワロタ。ワロタ……。

 以下はその中間報告といいますか、個人的なまとめです。ログとしてあとから見やすいようにしておきたくて……。特筆すべき運営ノウハウらしいものはありません。

不思議な力があるんですね~~~。

 

運営管理について

・DISCORD(アプリ)上のサーバーで運営(2024年7月現在、19名)

・参加希望者がいれば拒まないが、慣例的に招待制っぽくなった

(最初だけツイッター上で参加者を呼びかけた)

(フォロワーおよびフォロワーのフォロワーが集まった)

(その後たまに参加者は増減するなどした)

・非常識な行動をする方はいなかったので助かっています

・いちおう問題行動があれば対応する旨を「ルール」として明記しています(後述)

・なんだかんだ一年も続いたのは、割とコンスタントにラノベをウォッチしたいという参加者が一定数おり、じっさいに読んでいてくれていたからだと思います

・みんな、マジ感謝。

 

サーバー上のテキストチャット分類

 DISCORDはテキストチャットとボイスチャットができるトークアプリです。コミュニティとして情報交換や雑談が気軽にできる場になっているといいな、と思ったので、基本的にだれでも文章投稿ができるようにしています。

 主なチャットのチャンネルは以下のとおりです。

 ・「自己紹介」

 ・「雑談」

 ・「気になる本」

 ・「感想投稿所」

 ・「読書会提案ゾーン」

 ・「読書会用」

 ほかにもいろいろチャンネルは必要に応じてつくっており、適宜統合すべきな気がしたものの、ログが消えるのもな、と思ったので諦めて放置しています。「感想投稿所」は課題本以外に最近読んだ本を投げてもらう場になっています。思い出したようにだれかが長文感想か一行の感想を投げていきます。

 また上記以外に、「ルール」として管理者(わたし)から参加者に向けた注意事項などを記載しています。

 

ルール(実際に書いたものを以下にコピペ)

■このサーバーについて
・主にライトノベルの話をします。
・感想でも、気になってる本でもOK。
・周辺話題(アニメ・ゲーム・ライト文芸等)もOKです。
・突発的に読書会を開催します。
・課題本等はサーバー管理者が決めなくてよいものとします。
・みんな気軽に提案してください。
・読書会をする際は、日程調整をおこないます(スタンプ等で)。
・書き込みに対する反応はべつにしてもしなくてもいいです。
・各位、仲良く。


■読書会について
・基本的にボイスチャンネルと⁠読書会用でおこないます。
・聞き専もOKです。
・ネタバレの有無については開催のたびにアナウンスします。
・気軽にご参加ください。


■注意点
・書き込みのさいはネタバレに配慮しましょう。
・相手を不快にする行為や暴言はやめましょう。
・なにか困ったときは、@ななめの までDMでご連絡ください。
・看過できないと思われる場合は、任意の対応をいたします。
・各位、仲良く。


■このサーバーに入ったら
・まずは⁠自己紹介で挨拶をしてくださるとうれしいです。


■招待/退出について
・ご随意に招待してください。
・ただし、そこまで広げるつもりはないので、どこかのタイミングで閉じるかも。
・退出についてもご自由にしていただいてOKです。連絡不要。


■大切にすること
・「ありがとう」
・「頑張ったね」
・「大好き」 

牧之原翔子さんも「それがわたしの三大好きな言葉です」ってゆっとる。

 

読書会のスタイルについて

・およそ二週間に一回ペースの開催、年末年始や長期休暇時は要検討

平日21時~スタート(一時間ほど真面目に意見交換、あとは雑談タイム)

・基本的にレジュメ等は用意しない

・ネットに書評/インタビュー等があれば都度リンクを共有、確認する

・参加については自由(読めてなくてもOK、だいたいみんな前日から当日に読む)

・現在は3~6人がレギュラー参加、多いときは8人ほど

・課題本によって参加者は増減する印象

 

手探りでやっていくうちなんとなく固まった段取り

①参加者ひとりひとりに短い感想を口頭で言ってもらう(順番はその場のノリ)

②気になる点や①の感想へのレスポンスなど、自由に意見交換

③開始1時間ほど過ぎた段階で、ゆるやかに課題本以外の周辺作品の話/雑談

④次回課題本の決定

⑤アフター雑談および自由解散

 

その他

・録音等はしない(わたしへの負担がでかいのと管理もめんどうなので)

・読書会の活発度合いについては、課題本の性質に大きく左右される

・盛り上がらないときはほんとうに盛り上がらない

・ま~~~盛り上がらないんですよ

 

課題本の選定方法について

・基本的に読書会終了時に次回の課題本を決定する

・候補は「気になる本」および「読書会提案ゾーン」に投稿された作品から確認

・もしくは各種ライトノベルレーベルの公式サイトで新刊をチェック

・その場で参加者から口頭で「これを読みたいです」と言ってもらって候補を選出

・最初はリアクションスタンプによる投票・多数決にしていた

・が、いちいち投票期限を設ける必要があり、めんどうになった

・あとどうしても偏りが生まれそうな感じがあった

・結果、スマホで使える無料のルーレットアプリをダウンロードし、六作ほど候補を選出、あとはランダムによって選出された作品をみなさんとともに受け入れることに

・しょっぱい感じの読書会がつづくと雰囲気も荒れるため、適宜テコ入れとしてあきらかに面白いであろう一般文芸作品などを候補にする場合もある

・あるいは当選確率をちょっとだけ上げて限定ピックアップガチャを開催することも(具体的には2/6マスにするなど)

・ルーレットを使うようになったのはライムスター宇多丸が自身のラジオ番組で批評する映画をガチャを回して決めていたので、その影響である

・その他、これはと思う作品があった場合やメンバーからの要望があったときは突発で読書会がおこなわれたり、ぜったいにやるぞという作品はルーレットを無視した確定演出により開催された(例:アニメ化直前&原作完結の〈小市民シリーズ〉春~冬読書会、UFOの日に合わせて『イリヤの空、UFOの夏』読書会など)

・ラブコメに完璧本気な人が多数集まっていたため、『アオのハコ』漫画読書会やアニメ『Just Because!』上映会が開かれることもあった

ルーレットアプリはこんな感じ。なにを使ってもよいと思う。

 

課題本一覧(2023年7月~2024年7月上旬、おおむね開催順)

・四季大雅『わたしはあなたの涙になりたい』(ガガガ文庫

高野史緒グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』(ハヤカワ文庫JA

・橘悠馬『中天の船影――アスペリタス号の飛行船乗りたち』(KAエスマ文庫

・中西鼎『さようなら、私たちに優しくなかった、すべての人々』(ガガガ文庫

・逆井卓馬『豚のレバーは加熱しろ』(電撃文庫)1~6巻、突発

・両生類かえる『海鳥東月の『でたらめ』な事情』(MF文庫J)1巻のみ

竹宮ゆゆこ『心臓の王国』(PHP研究所

・有象利路『組織の宿敵と結婚したらめちゃ甘い』(電撃文庫

・四季大雅 『バスタブで暮らす』(ガガガ文庫

・三浦糀『アオのハコ』(ジャンプコミックス)1~12巻、突発

・アニメ『Just Because!突発上映会

・駄犬『誰が勇者を殺したか』(角川スニーカー文庫

サイトウケンジ『魔女の怪談は手をつないで』(MF文庫J

・眞田天佑『多元宇宙的青春の破れ、唯一の君がいる扉』(MF文庫J

・相野仁『日陰魔女は気づかない~魔法学園に入学した天才妹が、姉はもっとすごいと言いふらしていたなんて~』(角川スニーカー文庫

・色付きカルテ『非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?』 (ファミ通文庫

米澤穂信春期限定いちごタルト事件』(創元推理文庫突発

・火海坂猫『マーダーでミステリーな勇者たち』(GA文庫

・中西鼎『たかが従姉妹との恋。』(ガガガ文庫)1~3巻、突発

・三船いずれ『青を欺く』(MF文庫J

多崎礼『レーエンデ国物語』(講談社)1巻のみ

恩田陸『spring』(筑摩書房

米澤穂信夏期限定トロピカルパフェ事件』(創元推理文庫突発

米澤穂信秋期限定栗きんとん事件』(創元推理文庫突発

米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』(創元推理文庫突発

・吉田玲子『草原の輝き』(KAエスマ文庫

・遊野優矢『VTuberの幼なじみと声優の幼なじみが険悪すぎる』(ファミ通文庫

望公太『小鳥遊ちゃんは打ち切り漫画を愛しすぎている』(MF文庫J

・宮田眞砂『セント・アグネスの純心 花姉妹の事件簿』(星海社FICTIONS)突発

・fudaraku『竜胆の乙女』(メディアワークス文庫

野村美月“文学少女”と死にたがりの道化』(ファミ通文庫突発

秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫)全巻

織島かのこ『嘘つきリップは恋で崩れる』(GA文庫)1~2巻

 

雑な振り返り

 レギュラー参加者のあいだで、新刊ライトノベルウォッチャーでありたいという意識が共有されていたためか、課題本はデビューしたばかりの新人や単巻完結の作品を候補として選出することが多かったです。逆にいえば、どうしてもシリーズとして書かれうる必要のあるバトルものなどは避けられがちだったかもしれません。

 また世代やクラスタ的な問題かもしれませんが、新文芸からは、なにを読めばいいのかけっこうわからないところがあり、候補に入りにくくなっていた印象があります。じっさい入ったとしても、ルーレットでは1/6であることのほうが多かったので、結果的に文庫サイズのライトノベルが課題本となった。このあたりは今後の課題とします。

 途中から採用したルーレット制による課題本選出については、責任を分散できるという点でたいへん有用でした。定期開催される読書会のモチベをフラットに保ちつつ、ふだんなら読まないような作品に手を伸ばすきっかけにもなっていたと思います。じっさい「これは読書会にしなくても勝手に読むだろう」と参加者みずから作品を候補から外すこともあったので。

 個人的な範囲でいえば、定期的に読書会のたびに新刊をチェックしたり、気になる本の情報を交換したりできるので、自然とライトノベルへの読書モチベを維持することにも役だった気がします。わたしはこれまで年20冊くらいラノベを読んでいる生活をしていましたが、この一年は上記の課題本プラス20冊近くは読んでいたので、だいぶ量が増えたのではないでしょうか。このままぬるっとゆるく続けていきたいですね。ぬるぬるゆるゆる本を読みたいので……。

 あとは、そうですね、二桁巻以上のシリーズ作品マラソンをどうみんなでやっていくか、ぼちぼち考えないといけないかもしれません。というわけでね、みなさんもよき読書ライフの呼応と調和をはぐくんでゆきましょうね。

鷺宮せんせいも池澤夏樹を引用してそうゆっとる。

 

その他告知:「春と灰」朗読および「下鴨納涼アンソロジーバトルコンテスト」公開のお知らせvirtualgorillaplus.com

 来週、7月13日に開催されるVG+(バゴプラ)さんのイベント「マイクからSF ライブで楽しむ小説」にて、拙作「春と灰」がアイドルグループ きのホ。の御守ミコさまに朗読していただけることになりました。恐縮です。現地のチケットは完売ですが、配信チケットは購入できますので、ご興味のある方はぜひ。

「春と灰」は『京都SFアンソロジー:ここに浮かぶ景色』に収録されています。

 

 

note.com

 第2回「カモガワ奇想短編グランプリ」開催を記念して、前回大会の受賞作を順次note上で公開するそうです。すでに2作品が読めます。織戸久貴による前回優秀賞「下鴨納涼アンソロジーバトルコンテスト」は13日の公開です。バゴプラさんのイベントと同日ですね。期せずして、どちらも京都が舞台の小説となっています。みなさんも京都になってみてはいかがでしょうか。ジンジャーエールの味を思い出しながら。

これは国立国会図書館関西館聖地巡礼(自作)したときの写真。

 

エンディング:あの街の水色「kamogawa fighters」


www.youtube.com

 

上半期よかったもの2024書籍編

 時間たつの早すぎ、光陰矢のごとしワロタ。タイトルの通りです。やっていきましょう。コメントはあったりなかったりします。書籍編以外があるのかはわかりません。

 

 現代の女子高生がタイムスリップして特攻兵と恋愛する映画の予告編で出演キャストが「こういう人たちがいてくれたおかげで今の日本があるんだな」みたいな発言をしていて映画館でぎょっとしたのだが、じつはこうした考え方はここ二、三十年でどんどんソフィスティケートされてきたものである、という話が語られている。

 

 

 

「ブレスシャドー」、「古の協約」がよかった。

 

「十五までは神のうち」今年ベストSFミステリではないでしょうか。ウェブでも読めます。

www.webmysteries.jp

 

www.webmysteries.jp

 こちらもウェブで公開されているけれども、「4W/Working With Wounded Women」は作者が近年くり返し扱ってきたモチーフの発展系としてとてもよかった。

 

 わたし個人の経験にもとづくのであれば、興味ある人とない人とでいつも隔たりを感じる分野がフェミニズムであるが、以下の長濱よし野氏による竹村和子論はその入口として有用だとおもう。『フェミニズム』はその目的に対して言葉そのものが持っている矛盾を抱えつづけているが(そしてそれは外部の人間からも容易に指摘されうるし、忌避されてもいるが)、それでもなお言葉を手放さずにいることを拾い上げている。

note.com

 

 

 

 サイバーパンクってもはや過去にしかないのかもしれん。

 

 

 坂崎かおる「あたたかくもやわらかくもないそれ」めちゃくちゃよいゾンビ百合。

 

 なつかしジュブナイルの感じがする。ふつうの特殊設定やSFミステリではしないくらいの細かい検討がよかった。本格ミステリ作家にもこのくらいやってほしい。

 

 ループ系SFミステリにおいてトリックよりもギミック的解決をおこなうのはひとつの道な気がする。インディゲーム的想像力。

 

 めっぽう面白いいっぽうで、高学歴中年男性が持っているおれより頭のいい女しか興味ないぜって欲望が全面的にお出しされているのにはだいぶ面食らった。

 

 ベタベタだけどマフィアのボスが死ぬ前に宗教的救いを求めちゃうの好き。シリーズ的には唯一色が違う感じだけれども。

 

 MF文庫Jがこういうストレートな青春もの出してくれるとは思ってなかった。

 

 かいぶつが、あらわれた。

 

 まだ三巻までしか読めてないが、メタラブコメ的な人間玉突き世界における高度なミステリをやっている。友崎くん、千歳くんの系譜でありつつも別のルートを開拓している。

 

 ポスト震災ラノベ。さりげない記述のなかに刻印されることについて。

 

 榊林銘は、多くの国内ミステリ作家が「特殊設定でどのような謎解きができるか」を検討しているのに対して、唯一「特殊設定はどのような物語演出を含みうるか」までを考えている作家かもしれない。

 

 おれはまだこの境地には至れない……。

 

 これについてはいっぱい書いた。

saitonaname.hatenablog.com

 

 たとえば多くの〈日常の謎〉について、主人公・語り手の発見した謎は探偵役の推理によって回収・収束され、世界はひとつの像を結ぶことでこれまで見えてきたものの更新をはかろうとする。けれども『セント・アグネスの純心』において、探偵役の背景にある(キリスト教的な?)祝福に包まれた、調和した世界観と語り手の世界は最後まで一致せず(なぜなら語り手の背景にはピストルズが流れつづけている)、しかしコンフリクトを起こすわけでもない。世界はゆるやかにつながっている。わたしがミステリとして本作にかけたいものがあるとすれば、そのような態度だと思う。ということをもうちょっと長い文章で今後書くと思います(早口

 

 

 

 2024年上半期ベストです。文学と戦争の記憶を文学としてリミックスしながら語ろうとしてもなお、足りない。あまりにも足りなすぎる。

 

 はるしにゃん氏まわりの話についてはほぼ同時代の京都にいた人間としていろいろと考えてしまう。「ちっちゃな頃から逆張って、15で批評と言われたよ」。

 

 激重幼馴染百合の傑作。

 

 どんどん虚無を書くのが上手くなっている。天井が見えない。

 

www.shinshindo.jp 時間スケールがかなりよかった。

 

  さすがに現代日本のつよつよ楽器店創業者が多すぎる。

 

 なにもかもが上手すぎる。

 

 なにもかもがずるすぎる。

 

 わたしは一時期神戸に住んでいた。とはいっても、高校までは関東にいたせいか関西という土地で暮らし育ってきた人と感覚を共有することはとてもむずかしかった(震災を境に多くの建物は入れ替わってきたから過去にはアクセスできないし、自分がその名残を見つけるのはたとえば小さな公園のすみにある慰霊碑くらいだった)し、神戸にいたころは仕事で忙しくてその土地や人のことを知る機会もほとんどなかった、と改めて思う。巻末の「ライフヒストリーを読み広げるためのブックリスト」や口述記録の方法に関する資料もありがたい。

 

www.chosyu-journal.jp

 今年の2月に京都大学でおこなわれた公開セミナー「人文学の死――ガザのジェノサイドと近代500年のヨーロッパの植民地主義」はわたしもYOUTUBEでリアルタイム視聴していたのだけれど、橋本伸也先生の以下のことばはかなり自分にもヒットするものであったと思うので、引用する。

 橋本 日本は「ホロコースト問題」が大好きな国だ。ホロコースト関連の本を出すとすごく売れるので出版社は出したがる。

 

 じっさいは去年の雑誌掲載時に読んでいたのだけれど、いちおう貼る。2024年のわたしたちはほぼみんな戦争を知らない世代だろうけれど、暴力のことならそこらへんの高校生でも知っている。

 

 まだエデン条約編で止まってるし、アニメも全話見れてないけども。

物語のオタク、ツムギ(ワイルドハント芸術学院)。

 以上、50冊(たぶん)。読みたいのに読めない本ばかりがたまっていくね。みなさんも上半期ベストブログの更新を忘れずによろしくお願いします。それでは、よき下半期読書ライフを……。以下はおまけの上半期のプレイリストです。ほな……。

 

open.spotify.com

 

松田舞『放課後帰宅びより』がよいという話。その他ラブコメ

 よいと思ったのでブログを更新します。とてもよいです。よろしくお願いします。

comic-action.com

 

 

 

 

あと最近よんだラブコメシリーズ

 五等分メソッドを使っているがとてもコマ割が読みやすくスタイリッシュになっている。このあたりは作家のキャリアのなせるわざかもしれない。

 

 

 二巻で終わらせるには惜しいシチュエーションラブコメだった。

 

 

 はじまっているかもしれない。恋愛の革命期が。

 

 

 たすけてほしい。