「鋼の錬金術師」のホーエンハイム視点でのクセルクセスについて思ったこと

本記事は「鋼の錬金術師」「マヴァール年代記」のネタバレを含んだ独自の解釈があります

クセルクセスが滅亡したのはホーエンハイムが自由を求めたからだと思う
鋼の錬金術師」がホーエンハイムの欲望を他キャラが引き受けてる物語だとしたらホーエンハイムの奴隷から自由な立場になりたいという欲望は不老不死を望む形でクセルクセス王が体現して、父親としてエドとアルを救う立場になりたいという欲望はエンヴィーに激怒して大人の立場を降ろされることをマスタング大佐が体現することでホーエンハイム自己実現が果たされてるのではないかと私は勝手に思ってる。
クセルクセスが滅亡した経緯についてほとんどの登場人物が興味を持たない理由は物語の本来の構図では主人公であるホーエンハイムが主体となるエピソードで他キャラが干渉できないようになってるからだと私は思ってる。
クセルクセスの滅亡に関わってるホーエンハイムのエピソードは「マヴァール年代記」で例えるとカルマーンの罪は善政を敷くことでしか償えなくてカルマーンの罪が時代の毒を生み出してることと同じ原理で、エドとアルとイズミが禁忌である人体錬成に手を出したことはメタ的にはクセルクセス滅亡が原因ではないかと私は勝手に思ってる。
ホーエンハイムがイズミを治療したりエドとアルに賢者の石を提供しようとした理由は物語の深層ではクセルクセスの滅亡と他キャラの人体錬成は経緯が違うにも関わらずホーエンハイムが発端となって同じ因果で起こってることだからだと私は思う。

「天を夢見て」のライアンとガブリエの関係について思ったこと

※本記事「天を夢見て」のネタバレを含んだ独自の解釈があります

本来の構図ではガブリエはライアンのことが好きだったのではないかと思う
ラミが母→妹と本来の構図から立場が変わってる可能性があってもしライアンの本来の性別は女性でガブリエとは恋人同士だとしたら、ラミと違ってガブリエが赤の他人で「ライアンのことが嫌いだったにも関わらず生き方を変えてほしくて干渉してた」理由に辻褄が合うのでないかと私は勝手に思ってる。
ガブリエはライアンに対して「実は嫌いなのに構ってる」という構図が自分の中で引っかかってたからこの作品を何度も思い出したのかもしれないと自分で思う。

ガブリエはライアンが自分の人生を生きることが許せなかったのではないかと思う
ライアンが本来の構図では女性かもしれない根拠としてガブリエがライアンの話を遮って「図書館司書だよ」とライアンの能力ではどちらでもできそうなのに力仕事は勧めないことに違和感あって、ライアンの適性以前に現実世界では女性の割合が多い職業にガブリエが誘導してることもライアンが本来の構図では女性だったかもしれない根拠になると私は思ってる(ライアンの外見から判断すると「力仕事も選べる」可能性があるのに他の選択肢はないものと他者に断言されてる構図が女性が受ける抑圧のようにも見える)

アークナイツのウルサスの子供たちは「人間の規範を捨てた後」の物語だと思う

※本記事はアークナイツの「ウルサスの子供たち」のネタバレを含んだ独自の解釈があります

人間の規範を捨てないと生き残れなかった無力感が生きる自信を奪ってるのだと思う
メインキャラの細かい経緯を自分が把握しきれてなくて合ってるかわからないけど、どのキャラも手を汚さなければ生き残れなかったという状況を経験したことでアーミヤが言う通り「彼女達が前に進もうとすると押し止める」ような状態になってて、「今度はロドスのオペレーターとして主体的に物事を解決する経験をして無力感の記憶を上書きする」ことでしかズィマー達の心を回復する可能性はないという意味のシナリオなんだと私は勝手に思ってる。
「彼女達に隠し事があったとしても暴いてはいけない」とアーミヤが言ってる理由はズィマー達に過去の経験への罪悪感を持たせないためだと私は思う。
今までこのシナリオに対して可哀想以外のイメージを持てなかった理由はキャラの背景が複雑で把握するだけでも難しかったというのはあると自分で思ってる。

「真実は私だけが知っている」は集団のコミュニケーションの責任を一人の人間が引き受けた結果の物語だと思う

※本記事は「真実は私だけが知っている」のネタバレを含んだ独自の解釈があります

「自分達と違う」人とのコミュニケーションのすれ違いを全面的に相手のせいにするから起こったことだと思う
南が本人の感覚でこうした方がいいと思うことを優先して周りの調理の状況に合ってなかったとしても切り方が違うにんじんが混ざってることは完全にスルーして自分達の都合を通した結果としてやきそばが床に落ちたことは「南だけの責任」になること、恋人・親友にしてもどの人物との会話でも南は自分の感覚を必ず否定されることが積み重なった結果として運命が決まってしまったのではないかと私は勝手に思ってる。
たまたまこの作品を思い出したけど、自分達と違う行動パターンの人間を生贄にしてコミュニケーションの責任を引き受けたがらない集団が南と進藤(部分的に神谷)にそれぞれ責任を負わせて追い詰めた構図に見えたことが当時の感想では意識しなかった点だと自分で思う。

葬送のフリーレンの「この人のこと何も知らないし」について思ったこと・ヒンメルの方もハイターから影響を受けるかどうかについて

※本記事は葬送のフリーレン13巻までのネタバレを含んだ独自の解釈があります

知ろうとしなかったというより「自分だけ知らない体験をみんながしてた」だと思う
フリーレンがヒンメル達の魔王討伐の時代にタイムスリップした話とヒンメルの葬式の話との比較で自分が思ったことだけど、1巻の時点ではフリーレンにとってヒンメルの死は「仲間のことを知ろうとしなかったことを後悔」という意味合いの方が大きかったはずなのにフリーレンが過去の時代に残るつもりが全くなかった理由について、タイムパラドックスの問題以外だと「ヒンメル達のことを自分は既に知ってた」ことをフリーレンが思い出したからではないかと私は勝手に思ってる。

ヒンメルが勇者になったきっかけはハイターに煽られたことならヒンメルがフリーレンを魔王討伐の旅に誘ったのはハイターの影響ではないかと思う
ヒンメルの本来の性質である人助けとは別の方向でフリーレンに対しては「旅立つきっかけはこの僕だ」と言って仲間に誘って、ハイターが結果的にヒンメルに勇者を目指させたことと言い方は違うけど同じことをして「煽ってる」理由はヒンメルの方もハイターの影響を受けてるからではないかと私は思ってる(物語ではハイターがヒンメルの影響を受けてることだけ言ってるけど逆もあると私は思う)

ネットで居場所を作る方法は「相手の土俵に上がらない」ではないかと思う

※本記事は自分が思ったことを書いてるので読む方は注意してください

自分の意見を持つことに「雑談に入れるかどうかは関係ない」と思う
雑談の方が主体で自分がそこに入るために意見があるわけではなく「自分の意見そのもの」は雑談の存在に左右されないと私は思ってる。
自分の意見を持つこと自体に「知」は関係ないと私は思ってて、高齢者についても根本的に知能の高低差ではなく元気かどうかの違い(医学的根拠はないから合ってるかわからないけど)が意見や認識の違いに繋がってると私は勝手に思ってる。
この手の例え話は対象が記号扱いされてて「現実の世界でその属性に当てはまる他者を実質的には想定してない」状態になってることが読み手視点で謎のヒエラルキーが入った話に聞こえる原因になってると私は思う。

「ダイの大冒険」は物語がエゴを肯定できないからエイミは相対的に異様な行動パターンの人物になってると思う・ヒュンケルとマァムの性質について

※本記事はダイの大冒険のネタバレを含む独自の解釈があります

物語が慈愛を全面的に肯定する文脈だからエイミのエゴが異質に見える作りになってると思う
ダイの大冒険はヒュンケルとポップがマァムの気持ちを確認する場面があるからマァムの慈愛(という性質)自体は肯定しても「相手からの慈愛を全面的に受け入れる状況のままでいたくない」みたいな構図で、エイミが自分の気持ちを優先して逆効果になる可能性を考えずにヒュンケルの槍を隠したときはそれまでのマァムの慈愛描写の積み重ねから相対的にエイミが実際の行動より読み手視点では自分勝手に見える(勝手ではあるけど)流れになってて、相手の内面にまで干渉する慈愛の負の側面をどのキャラもはっきり言わない(言えない)物語の文脈がエイミのエゴを魔王のような絶対悪に見えるように誘導してる要素はあると私は勝手に思ってる。

ヒュンケルの「闘志」とマァムの「慈愛」は設定と実態が逆ではないかと思う
ヒュンケルのグランドグルスという技は「祈り」の要素があるように見えることと本人が愛について語ってることが多いから「慈愛」も性質として当てはまると私は思ってて、マァムは僧侶戦士→武闘家に変わって回復呪文を攻撃に使えるようになって閃華裂光拳という技を習得した経緯から「闘志」も当てはまると私は思ってる。
「勇気」がダイではなかったみたいに他のアバンの使徒もどちらの性質か微妙なラインにいるというのはありえるのではないかと私は勝手に思ってる。