木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第85回】夢のディナーショー

 ようやく秋めいてきました。秋分の日が過ぎた頃から朝晩が楽になりました。本当に長い猛暑の夏でした。暑いと言うより、熱いと言ったほうがいいくらいです。そんな中もうひとつ熱くなったことがありました。米不足問題です。

 今は新米が出て解消しましたが、一時は全く店内に無い時がありました。日本人の主食であるお米が売ってないのです。何人かの人にどうしているのかと聞きました。たまには売りに出ているという返事でした。ただし開店そうそうすぐに売り切れるとのこと。長い行列が出来て、今かいまかと扉が開くのを開店前から並んでいるのです。果たして自分の番まで米があるだろうか、そんな不安を抱えながら並んでいたのです。

 

 わが家は午前10時には、母親の介護ヘルパーさんが来ます。私もいろいろ準備や世話をしなければなりません。なので朝一番の店に行くことは出来ないのです。今あるお米で、どうやって新米が出るまで持たせるかを考えました。

 私は朝食をお餅にしました。朝はだいたい納豆がおかずなので、納豆餅になりました。昼は麺類にしたり、お弁当屋さんを利用しました。飲食店やお弁当屋さんは米があるそうです。流通経路が一般家庭とは違うと聞きました。夕食は包装米飯(電子レンジで加熱するタイプ)を併用しました。

 

 餅ではひとつ失敗をしてしまいました。切り餅が一袋20ケほど入っているのを購入したのですが、あっという間に黴が生えてしまったのです。暑さと湿気の為です。袋の注意書きを見たら、開封後はすぐに冷蔵庫に保管のこととありました。

 そんな失敗をしながらも、どうにか新米発売まで持ちこたえることが出来ました。それにしても値段は随分高くなりました。いつも5㎏袋を購入しているのですが、昨年より1,000円以上も値上がりしています。品不足に便乗しているとしか思えません。

 

 新米で思い出したのですが、新札もようやく出回ってきました。なんと言っても3Dホログラムで肖像が回転する技術が素晴らしいです。これはなかなか真似(偽造)できるものではありません。3種類ともいいデザインです。ただ私の偏見かも知れませんが、北里柴三郎氏の顔が何か偉ぶっているように見え、ちと残念に思うのです。氏自身は素晴らしい方なのですが、もう少し穏やかな表情が欲しいなと思うのは私だけでしょうか。なにしろ一番お目にかかるのが1,000円札なものですから。

 

 話は変わりますが、つい先日わが家の玄関ドアの鍵が壊れてしまいました。本来ならすぐに鍵を交換して済ませるところですが、改めてドアを見てみると、なんともみすぼらしい有様なのでした。築46年の建物です。昨年に外壁塗装をしたこともあり、一層ドアの古さ汚さが目立ちます。

 また雨などが降った湿気の多い日などは、扉が固くなり開閉に手こずります。その都度扉のあちこちをドライバーで押し上げて調整したり、物を挟んで凌いでいました。どうせ築46年なのだからと、傷が付いても気にしませんでした。

 

 しかし鍵の故障は放置出来ません。防犯上どうしても必要です。そこでドアそのものを取り替えることにしました。カバー工法と言って、枠だけは既存のものを残して、ドアを取り替えるのです。1日で工事が終わります。早速3社に見積もり依頼をしました。ところがある1社には工事が不可能と言われてしまいました。ドアの枠全体が少し曲がっていて、工事に責任が持てないと言うのです。

 築46年も経つと、そうした目には見えない不具合が出てくるのですね。しかし他の2社には工事可能と言われました。やはり見積もりは複数に依頼した方が良いです。価格と担当者の説明を聞いて、納得出来るものを選びました。果たしてどんなドアになるか、ちょっと楽しみです。

 

 楽しみと言えば、こんなこともありました。いや、もし実現したなら楽しいであろうと言う話で、実際には何もなかったのですが‥‥。

 実は私、歌手丘みどりのファンなのです。あの歌声、容姿、歌の世界になり切った演魅の表情。今まさに油の乗り切った演歌歌手だと思います。いつか機会があったら、ぜひ生のコンサートを観たいと思っていました。

 先日、新聞に丘みどりのディナーショーの案内が載っていたのです。食事の後に歌謡ショーを楽しむという企画です。1人当たりS席31,000円 A席29,000円です。会場は私の家からバスで10分ほどのNホテルです。

 

 行こうと思いました。主催ホテルに問い合わせたら、まもなく満席になるとのこと。ショー実施は3カ月先なのにです。これは急がないといけません。さて誰と行こうか。ディナーショーは一人では行かれません。

 できれば母に見せてやりたいと思いました。しかし98歳の母は、いつ具合が悪くなるか分からないのです。日中も酸素吸入器をしたりしなかったりの状態なのです。もしキャンセルとなっても、支払った前金は返金されないと言われました。残念ながら母との予約は諦めました。

 心当たりの2,3人に誘ってみました。しかし高額ということもあり、熱心なファンでないと中々行かれないのです。結局道連れは見つかりませんでした。そんな訳で今回は断念しました。

 行けたらさぞ楽しいだろうという、これがほんとの夢のディナーショーでした。お恥ずかしゅうございます。

【第84回】野口雨情の生家を訪ねて

 今月の中旬、5日間をゆいま~る那須に滞在しました。前回滞在したのが5月初旬でしたから、3カ月ちょっと振りということになります。5月に居室の窓から見えた雑木林の若葉も、今ではすっかり生い茂ってあたりの景色を覆い隠すほどでした。

 やはり那須は涼しいです。私の居室にはエアコンがありませんが、窓を開けて扇風機を回せば充分です。建物が木造ということもありますが、湿気が少なく蒸し暑さがないというのが一番です。緑に囲まれた環境のおかげです。

 

 今回もゆいま~る那須に行く途中、ちょっと寄り道をしました。茨城県磯原にある野口雨情生家です。童謡の「シャボン玉」 「青い目の人形」 「赤い靴」、そして「船頭小唄」などという歌謡曲でも有名な野口雨情さんの生家を訪ねました。

 訪ねた動機は、以前にこの生家のことを書いた新聞記事を読んだからです。取材を受けたのは雨情さんの孫である野口不二子さんです。不二子さんは130年も前に建てられたこの生家を守り、「野口雨情資料館」を開設していました。

 2011年3月11日に東日本大地震が起きました。生家は沿岸から300mのところにあり、津波が来るという知らせに、不二子さんは1階にあった雨情の資料を死に物狂いで2階に上げました。そして裏山の高台に逃げました。生家は屋根瓦が落ち土台が傾き曲がって、辛うじて原型をとどめる状態でした。家の中はヘドロとゴミの残骸だけが残されてまるで廃墟のようだったそうです。

 

 潰れた生家を再建するかしまいか悩んでいる中、枯れたように見えた百日紅や松の庭木が、1年後の春に新芽が吹き出してきました。その自然の生命力に向き合った時、人間は生かされているのだと涙があふれ、「絶対、雨情生家を復元、復興する」と心に決め、国と県から支援を受け、2年半をかけて再建したとのことです。

 また、雨情がなぜ童謡を書いたかについても述べています。雨情は明治時代以降の文部省唱歌のあり方に、知識習得の手段として子どもの感情を無視していると異議を唱えたのです。本来の子どものありのままの素直な心を、ひとつの芸術として生み出そうとした。それが童謡でした。なによりも童心を大切にしたということです。

 

 こうした記事を読み、ぜひ「雨情生家・資料館」を見たいと思ったのです。また地理的に、私の住む川崎からゆいま~る那須への寄り道としても好条件なのでした。生家はJR常磐線磯原駅から徒歩15分ほどのところにありました。

 資料館内で展示物を見ていたら、ひとりの老婦人が現れてきました。私はひと目見て、新聞記事の写真に載っていた、孫の不二子さんだと分りました。小柄でどこか雨情さんのおもかげが残る感じの方でした。私がそのことを言うと、「えぇ、目の辺りが似ていると言われます」と応えられました。実際に雨情さんと接したのは、不二子さんが2歳に満たない頃までなので、微かな記憶が残っているだけということでした。雨情さんの妻だったヒロ祖母とは19歳まで交流があったそうです。

 資料館には雨情さんに関する本が何種類か販売されていましたが、私は迷わずに野口不二子著の本を求めました。表紙をめくると、毛筆で書かれた「童心」という文字と不二子さんのサインがありました。

 

 磯原駅近くのビジネスホテルで1泊し、翌日ゆいま~る那須に着きました。着くとすぐに私は掲示板を見ることにしています。最近の活動や催し案内、お知らせ等が載っているからです。

 そこに親睦旅行のチラシがあったのですが、なんとそのコースの中に野口雨情の生家に寄る日程が入っていたのです。自分がたった昨日寄ったばかりの所です。「偶然」とはよく言ったもので、こういうことって確かにあるものなのですね。そう言えば、5月に寄り道した所が「野口英世生家」でした。そして今回は「野口雨情生家」です。どちらも野口家なのでした。これも偶然と言えば偶然です。

 

 ゆいま~る那須では、買い物や通院そして駅への送迎などのために、毎日定期的にバスが運行しています。明日帰宅するという日になって、運悪く台風7号がやってきました。私はラジオで台風情報を聞いていたのですが、交通機関はなんとか大丈夫だろうと思っていました。

 すると運転スタッフのFさんが、明日は何時発の新幹線に乗るのかと聞いてくれました。答えると、その列車は運転休止だと教えてくれたのです。そのおかげで別の便の指定席に変更することが出来ました。

 私は自分の暢気さ加減に呆れると同時に、こうして親切に調べてくれたゆいま~る那須のFさんの親切が身に染みました。おかげで無事に川崎に帰ることが出来たのです。有難うございました!

【第83回】もうすぐ98歳の母

 来月の18日には98歳の誕生日を迎えることになる私の母。日中の殆どはベッドで横になっています。それでも食事時はテーブル椅子に座り、テレビを見ながら自分で食べることができます。トイレにも手すりや物に掴まりながら自力で行きます。ただいつ転ぶか分らないので、移動の時は背後に家人が付き添ってはいます。そんな母ですが、今月の初めに救急車で病院に運ばれる事態がありました。

 春頃から時々胸が苦しいと訴えるようなことがあったのです。母はHクリニックの訪問診療を受けていて、月に2度の割合で医師に診てもらっています。その医師の説明では、心臓が年相応に弱っていて、特に横に寝ている時に胸苦しさが出てくるというのです。そんな時には少し身体を起こして上向きになると良いと言われていました。確かにそうすることで苦しさが和らぐのでした。

 

 その日も胸苦しさがあったので、いつものように身体を起こして上向きになっていました。しかし治まらず、自分から救急車を呼んでほしいと訴えたのです。母は過去にも救急車で運ばれたことが何度かありました。その当時はA病院に定期的に通院していましたので、救急時もそこで診てもらいました。ここ10年ほどは遠ざかっていましたが、やはりA病院に診てもらうことを救急隊員の方にお願いしました。

 ところがA病院は満杯で対処不可とのことでした。急遽S病院に運ばれました。そこは診てもらうのが初めての病院でした。

 何度経験しても、あの救急車に付き添う時の気分というのはつらいものです。この先どうなるのだろう、母は本当に大丈夫だろうか、悪いほう悪い方へと気分が落ち込んでいきます。これではいけない、もっと気持ちを強く持たないと駄目だ。そんな時に思い起こすのは、過去に予期せぬ事態で亡くなった人たちのことです。

 突然の心筋梗塞で亡くなり、2日後に発見された友人のH君。酒は一滴も飲まず規則正しい食事を摂っていたのに、突然肝臓がんと言われ、2カ月後に亡くなったSさん。定年退職し、子供たちは各々独立、家を建て替えて、これから夫婦で老後を楽しもうとしていた矢先、肺がんに侵され亡くなったY君。

 人間は死ぬ。いつかは必ず死んでしまうのだ。まして97歳ともなれば、そうした覚悟は常に持っていなければならぬではないか。そう自分に言いきかすことで、不安な気持ちをなだめすかすのでした。

 

 救急車でS病院に運ばれたのが午後2時半頃。家族は待合室で待つように言われました。母の状態がどうなのか心配です。医師の説明が中々ありません。3時間ほど待って、あまり遅いので聞きにいきました。するとA病院に問い合わせ中で、返事がないので待っていると言うのでした。何故A病院? 

 確かに救急隊の人にはA病院へと要望は言いました。と同時に、A病院は以前入院したことはあるが、現在はHクリニックの訪問診療を受けていることを伝えたのでした。母の近況状態を確認するなら、当然Hクリニックと連絡し合うものです。ところがそれがS病院には伝わっていなかったのです。ものごとはこのようにすれ違ってくるのでした。

 改めてHクリニックに連絡してもらいました。結果、医師からの説明があったのは午後7時半過ぎでした。病院に着いてから5時間が経っていました。医師の説明はこうでした。確かに心臓が弱ってはいるが、急激に悪くなったということではない。胸水もそれほど溜まってはいない。特に薬を投与しなくとも今は大分落着いてきた。従って入院するほどではない状態であると。

 

 とは言え、このまま帰宅して、また苦しいと訴えられたらどうすればいいのか。せめて苦しさを和らげる薬を処方してほしいと頼みました。しかしそうした薬はないとのことでした。97歳という年相応の衰えを受け入れることであると。そして「酸素濃縮装置」というのを導入することを勧められました。鼻にチューブ(カニューラ)を差込み、1分間に1~2ℓほどの酸素空気を肺に送り込む機器です。呼吸を少しでも楽にすることで体調を整えようという訳です。

 実は以前にもこの「酸素濃縮装置」を使ったことがあるのですが、母はとても嫌がるのでした。鼻に異物が入って気持ち悪いと言うのです。ふた月ばかり家に設置していましたが、余り利用することもないので引き取ってもらったことがあるのです。しかし今後はそんなことは言っていられません。たとえ気持ち悪かろうが、「苦しい」のが少しでも緩和される方がマシです。すぐに「酸素濃縮装置」を届けてもらいました。

 

 あれからひと月近くが経ちました。母は相変わらず胸苦しさを抱えながらも、以前と変わらぬ毎日を過ごしています。「酸素濃縮装置」は付けたり付けなかったりしています。鼻にチューブを差込む時はしかめ面をします。それでも呼吸は楽になるのでしょうか、イヤだとは言わなくなりました。あきらめ顔をしながらベッドで横になっています。

 年を取ってからの生き方というのは難しいものです。身体は思うようにならない。話し相手と言っても、親しかった人の殆どはあの世に行ってしまった。これといった楽しみも特にはない。世の中の動きにもそんなに興味を持てなくなってしまった。日中の殆どをベッドで過ごしている。

 そんな母を見ていると、長生きをするということも、これはこれで大変なことであると、つくづく思うこの頃です。

【第82回】子規庵と弥生美術館を訪ねて

 ようやく梅雨時らしくなりました。今年は梅雨入りが例年より半月ほど遅れたみたいです。別に雨が好きなわけではないのですが、季節ごとに来るものが来ないと、何か落ち着かない思いがします。梅雨が明けると一気に暑くなり、日中は外出するのも億劫になり勝ちです。そんなわけで、陽射しがまだ強くない今月は、2箇所ばかり見物したところがありました。

 

 1箇所は根岸にある子規庵です。俳句・短歌の革新者と言われている正岡子規が住んでいた家です。ここ子規庵には多くの友人が集まり、句会や歌会、文学美術談義が行われました。夏目漱石森鴎外与謝野鉄幹などもこの家を訪ねたそうです。母と妹との3人で暮らしていました。ただ実際に子規一家が住んでいた庵は、昭和20年4月の戦災で焼失し、昭和25年にほぼ当時のままの姿に再建されて、現在に至っているとのことです。

 

 子規は学生時代から結核を患っていました。肺を蝕んでいた結核菌はやがて背骨をも侵し、脊椎カリエスを発症します。膿の溜まったガーゼを取り替える時の痛さは、筆舌に尽くせないものでした。やがてほとんど寝たきりの状態になり、病床から見る庭が子規の世界となりました。

 体の痛みに苦しみ、身動きできぬ煩悶に苛まれる。時には絶叫し、号泣する。それでも猛烈な食欲と表現意欲で自己を支えた。自殺の衝動と闘いながら、枕元の小刀と千枚通しのスケッチをしたこともあったそうです。

 

 そうした病床の中から綴った随筆「病牀六尺」にこんな言葉があります。

『余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった』。

 正岡子規ならではの斬新な死生観だと思います。膿の溜まったガーゼを取り替える時、あまりの痛さに絶叫し、その声が近くの駅まで響いたそうです。駅員は「あぁまた子規さんか‥‥」とつぶやいたといいます。

 

 当時(明治32年)はまだガラスが珍しい時代でした。病室の障子をガラス戸に換えたことで、病床から庭が眺めることが出来、子規は大変喜んだとあります。そしてこんな歌を作りました。

「冬ごもる 病の床のガラス戸の 曇りぬぐへば 足袋干せる見ゆ」

 最期にへちま3句を書き残し、明治35年9月19日に亡くなりました。享年34歳11カ月でした。

 をとゝひの へちまの水も 取らざりき

 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな

 痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず

 

 そんな子規さんが暮らしていたという庵です。ぜひ1度は訪ねたいと思っていました。最寄駅は鶯谷です。徒歩で約5分。何かのセリフで「根岸の里のわび住まい」というのを聞いたことがあります。どんな閑静なところだろうと想像していました。

 ところが駅を出て驚きました。辺りはラブホテルが立ち並んでいるのです。昼ひなか、カップルがまるで食堂へ向かうような感じで出入りしているではありませんか。子規さんが見たら、どんなに驚かれたことでしょう。いや、子規さんならば面白がり、きっと斬新な句を作ったのではないでしょうか。

 現在の子規庵はボランティアの方が保存活動されています。築75年も経つというのによく残されていると思います。今でも子規を敬愛する方が沢山いる証です。病床となった部屋からガラス戸を通して見る庭が、往時を偲ばせます。

 

 2箇所目は弥生美術館と竹久夢二美術館です。この2つは隣りあって建っていますが、渡り廊下で行き来が出来るようになっていました。場所は文京区弥生にあります。最寄駅は根津です。鶯谷と違い整備された落着いた感じの街でした。それもその筈、すぐ近くに東京大学があるのでした。門構えからして偉容で、私などは傍に寄るのも拒まれるようでした。

 竹久夢二大正ロマンを代表する美人画作者として有名です。また宵待草の作詞者としても知られています。何かなよなよしたひ弱い人という印象があります。しかし関東大震災の跡地を目の当たりにして、スケッチと共に当時の様子を伝えた骨太の文章「東京災難画信」なども残しています。

 

 弥生美術館ではマツオヒロミという画家の特集も催していました。私には分らないですが、若い人には大変な人気があるようでした。

 私がここに来たかった理由は、高畠華宵の絵を展示してあるからです。昔初めて華宵の絵を見た時は衝撃でした。その美しさ、気品、精密なタッチ。夢幻や憧憬の世界と言えばいいのでしょうか。

 この弥生美術館を建てた方は鹿野琢見という人です。9歳の時に高畠華宵の挿絵を見て、深い感銘を受けたそうです。長じて弁護士として働いていました。鹿野が45歳の時、華宵が老人施設で過ごしていることを知りました。幼い日の感動を手紙に綴って華宵との交流が始まりました。鹿野は、生前の華宵を自宅に招き世話をし、最期を看取ったとあります。

 

 遺族から華宵の著作権を譲り受けた鹿野は、華宵の死から18年後の1984年(昭和59年)、華宵のコレクションを公開すべく、私財を投じて弥生美術館を創設したのです。それにしても、9歳の時に華宵の絵を見て感銘を受けたなんて、感性の強いませた少年だったのですね。そうした幼い日の感動が実を結び美術館が誕生したのです。

 

 私も存分に華宵の絵を見たいと思い、訪ねたのです。ところが今回は華宵の絵を展示している部屋は準備中とかで、閉まっていました。

 このように事前によく調べて行動しないところが、私の欠点なのであります。慌て者の性格は中々直りません。今年は弥生美術館の開館40周年にあたるそうです。これにめげず次回に期待してまた訪ねようと思っています。

【第81回】ちょっと寄り道

 この5月の連休も恒例どおりゆいま~る那須に滞在しました。今回は連休が長く取れたので、ゆいま~る那須へ行く前にちょっと寄り道した所がありました。そのことを少し述べます。

 1カ所は福島県猪苗代町にある野口英世記念館です。英世が育った生家が200年経った今でも保存されています。1歳半の時に左手に大やけどをした囲炉裏、19歳で医学をめざして上京する時に「志を得ざれば再び此地を踏まず」と、決意文を刻んだ柱も残っていました。英世の描いた絵や書も見ましたがとても上手で、多方面に才能のある方でした。51歳で亡くなったのですが、その短い生涯にあれだけの業績を残したことに驚かされます。

 

         野口英世の生家

 

        柱に刻んだ決意文

 

 2カ所目は会津若松です。その中でも美里町本郷を訪ねました。そこは約400年の歴史を持つ会津本郷焼が有名です。10数軒の窯元があり、各々独特の陶磁器を創っています。

 実は私がそこへ寄ったのは焼き物が目的ではないのです。敬愛するエッセイスト大石邦子さんが生まれ・育ち・住んでいる町だからなのです。大石さんは20代前半に事故に遭われ、12年間の闘病生活の後車椅子の生活を続け、82歳の現在も執筆活動をされています。

 私は直腸がんの手術を受けた後、沢山の闘病記を読みました。その中で大石邦子さんの著書に出会いました。事故に遭った大石さんは尿閉になり、管で尿を出す処置をしなければなりませんでした。未婚のうら若き女性にとって、他人にそうした処置をしてもらうことは、精神的にとてもつらかったと言います。私も直腸がん手術の後に尿閉となり、7年間は自己導尿という処置をしましたので、そのつらさがよく分かりました。

 大石さんのエッセイを読んで、その考え方感じ方にとても惹かれました。その大石さんが生まれ・住んでいる町はどんな所なのか、ぜひこの目で見たかったのです。

 

 駅から10分程歩いたところに大石さんのご自宅がありました。ずいぶん迷いましたが、意を決して玄関のブザーを鳴らしました。単なる一読者に過ぎない自分が、こんなことをするなんて、自分でも信じられませんでした。でもひと目でいい、一言でいい、出来ることなら大石さんに会ってみたかったのです。

 しかしお留守だったのでしょうか、お会いすることは叶いませんでした。しかしそれでも良かったと思っています。もしブザーを押さなかったなら、今頃はきっと後悔していたと思うからです。お会い出来なかったけれど、そうした時間を持てたことを有り難く思っています。

 

  さて、話をゆいま~る那須に戻します。今回特に印象に残ったことは2つありました。1つは広大な菜の花畑を見ることが出来たことです。話好きで親切なTさんが車で連れて行ってくれました。その菜の花畑は、那須高原の地で減農薬にこだわる野菜を栽培している「那須ハートフルファーム」が、那須をより楽しんでもらうためにと、春に菜の花畑、夏にはひまわり畑を企画運営しているそうです。

 こんなにも咲き揃っている菜の花群を見たのは、生まれて初めてです。菜の花畑の中を歩くと、何とも言えない甘い香りに包まれました。上空を見ると那須連山を背に鯉のぼりが元気に泳いでいました。「絵に描いたような光景」とは、正にこうした景色を言うのでしょう。昨今の殺伐とした世相とは別世界です。のどかで平和そのものでありました。

 

            那須連山と菜の花畑

 

 昼食時になるとTさんは、地元の人しか知らないような、市場食堂へ案内してくれました。小さな店ですが、新鮮な魚料理で、席が空くのを待つ繁盛振りでした。実はこのTさん、私の住んでいる川崎に、少年時代に居たことがあるのです。しかも同じ中学校に通ったのです。ただ年が5つ違うので一緒に登校することはありませんでした。4年前に初めてTさんとお話した時、その偶然を知って驚いたものです。「世間は広いようで狭い」とは正にこのことですね。

 

 もうひとつ印象に残ったのは、ゆいま~る那須の食堂で開かれた「居酒屋」でした。毎月第一土曜日に開催されるとのことですが、今回は運良くその土曜日に出合いました。通常の夕食と違って、惣菜とつまみを前に、普段は中々接しない方々とお酒を酌み交わしました。雑談の中に意外な情報を得たり、「エッこの人が!」と思うような一面も見せてくれたりして、気がついたら5時間も経っていたという、実に楽しいひと時でした。

 コロナ騒ぎも一段落して、人との交流をメインにする、ゆいま~る那須本来の姿に戻ってきたような感じがしました。

【第80回】尻目づかいで

 春です。暖かいです。ついこの間までの寒さが嘘のような陽気です。この暖かさが実感できるのは、台所仕事をしている時です。特に野菜や果物を洗ったりしている時に。味噌汁の実である野菜を準備している時は、どうせ煮込むので、湯沸かし器のお湯で洗います。なので問題ありません。つらいのは果物や糠漬けの野菜を洗う時です。この時には湯沸かし器のお湯では洗えません。水で洗います。

 タワシで皮の表面をゴシゴシ洗い、そして手でなぞり水切りをします。包丁で皮を剥いたり刻んだりします。この一連の作業に真冬の水の冷たさが堪えるのです。ぬるま湯で処理するやり方もあるでしょう。しかし、私はやはり水でゴシゴシ洗いたいのです。ぬるま湯だと何か果物や野菜の新鮮さがなくなってしまう気がするのです。冷たい水を浴びせることで、果物や野菜がシャッキとするのではないかと期待しながら。その水の冷たさが緩くなり台所仕事が楽になると、あぁようやく春が来たなと実感出来るのです。

 

 既にこのブログで述べましたが、昨年の10月にわが家の外壁塗装をしました。築45年の古家ですが、それなりに何とか見られるようになりました。さしずめ人間でいえば、厚化粧で外見を整えたというところでしょうか。そして外壁塗装をしてみて、意外なことに気づきました。外壁塗装だから、外壁がきれいになったのは勿論のことです。意外だったのは、外壁とは別に木部である桟や窓の格子、鉄部であるトタンやベランダ回りの塗装も大事な修繕であるということでした。

 外壁は面積も広いこともあって、汚れやヒビなどはよく目に付きました。反面、桟や窓の格子、鉄部であるトタン部などは色も黒っぽいこともあって、あまり気にしませんでした。塗装するに当たって、改めて見てみると予想外に傷み古びていることが分りました。桟や窓の格子などはひび割れしており、庇のトタン板は塗料が剥げていました。それらを塗装処理することで、塗料の樹脂がひび割れを埋め、水をはじく弾力と艶がよみがえりました。

 

 そして何よりも効果があったのは、2階のベランダの塗装でした。ここのベランダは塗装が剥げて錆付いていたのです。うっかり触ろうものなら手が汚れる始末でした。なので出来るだけ傍に寄り付かないようにしていました。ところが塗装処理をしたことで、見違えるようになりました。今では毛布や敷布などをベランダで干せるようになりました。陽の光を浴びた毛布は気持ちがいいです。また、ベランダに身体を寄せて、日光浴もするようになりました。ベランダ周りがきれいだと日々の過ごし方も変わるのでした。

 当初外壁工事の見積もりを取った時に、外壁部分と木部や鉄部塗装部分の金額がほぼ同額なのに疑問を持ちました。素人考えでは、どうしたって外壁部分の方が面積が多いからです。しかし作業の面倒さ、細かさを知ることで納得しました。あの桟や窓の格子、雨戸のトタン板やベランダ回りの塗装作業は、大変手間がかかり気を遣うものなのでした。

 

 ついひと月前のことですが、母親(97歳)がテーブルから手を滑らせて、床に倒れてしまいました。その時身体を庇ったためでしようか、右手の甲に怪我をしました。かなり広い部分を擦りむいて皮がめくれたのです。そんなことで下半身の処理(母親は紙パンツとパッドを着用しています)がうまく出来なくなり、1日に1回介護ヘルパーさんが来てくれることになりました。お尻回りをきれいにしてくれるのです。

 そこで母親の尻部分に床ずれがあるのが見つかりました。1円玉くらいの大きさです。さて、薬を付けることになったのですが、介護ヘルパーさんは薬を付けることが出来ません。医療行為は駄目という訳です。医療行為といっても、大き目の絆創膏に床ずれの薬を塗って尻に貼るだけなのですが、法の規定でヘルパーさんはやってはいけないのだそうです。

 そんな訳で、1日に1回介護ヘルパーさんがお尻をきれいにしてくれたところで、私が母親の尻に絆創膏を貼り付ける役目をしています。悪いことに、床ずれの場所が肛門のすぐ近くなのです。あまり見たくありません。出来るだけ見ないようにして処理しています。そう、場所が場所だけに、文字通り尻目づかいでやっています。

 それでも少しずつ床ずれの肉が盛り上がってきたようです。1日も早く治癒して、母親の尻を見ない日が来るのを待ち望んでいる昨今であります。

【第79回】株の動きに動かされ

 3月4日月曜日のことでした。食事をしながらいつものようにテレビでニュースを見ていました。なにやら大声で騒いでいる様子です。一体なんだろうと、改めて見てみると、日経平均株価が40,000円を突破したという知らせでした。株を扱っている関係者たちが歓声を上げていました。

 「フ~ン株価か。少しは景気がよくなっているのだろうか。良くなれば勿論いいけれど、年金暮らしの自分には余り関係がないな」、といった具合で、遠いよそごとの風景として聞き流していました。

 その夜のことです。寝床に入ってふと思い出したのです。「そう言えば、自分は個人年金に入っているけれど、その運用には株価が影響している筈だ」と。今から18年前、私は長年勤めた会社の退職金の一部を個人年金保険に預けたのでした。ある程度まとまった金額でした。保険会社はそれを資金として株相場でやりくりします。

 

 預けた保険金は15年間の待機期間の後、10年間を個人年金として受取るか、一時金としてまとめて受取るかを選べるシステムになっていました。10年間を個人年金として受取る利点は、当初預けた額の110%が保証されることでした。一時金としてまとめて受取る利点は、株価の動きに合わせて、条件のよい有利な額と判断したら、いつでも引き出せる点でした。

 

 そして15年間の待機期間を終えた時、個人年金を選びました。私は株のことは何も分りません。株価とにらめっこするより、堅実な110%が保証される方がいいと思ったのです。既に4年間分の個人年金を受領しました。あと6年間分が残っています。このままあと6年間を個人年金として受取ることも出来ますし、あるいは解約して残高を一時金として受取ることも出来るのです。

 

 問題はこの残高でした。前述のように保険会社は預かった金を株相場でやりとりしています。日経平均株価が40,000円を突破したという事は、預けてある残高も通常より高額になっている筈です。

 早い話が、今後6年間、個人年金として受取る総額と、解約して一時金で今受取る額のどちらが高額かということです。いくら株に疎い私でもその位は分ります。さっそく保険会社に今の残高を問い合わせました。確かに現時点ならば、一時金として受取った方がはるかに高額で有利でした。私の気持ちは、解約して一時金で受取る方に大きく傾きました。つい昨日まで、そんなことは微塵も考えていなかったのにです。

 

 次に頭を横切ったのは税金や諸経費のことです。一時金として受取れば、所得税が掛かります。通年より所得が多ければ、後期高齢者医療保険介護保険の保険料も高くなります。住民税もしかりです。果たしてどの位の負担増になるものか。今までは気にしていなかったそれらが、どういう計算の元からはじき出されるのか、その仕組みを初めて確かめてみる有様でした。

 

 一番心配したのは、医療機関にかかった時の後期高齢者医療保険の自己負担割合がどうなるかでした。年金生活者の多くは1割負担です。所得が多くなれば2割、3割となります。この自己負担割合というのは私個人だけの問題ではないのです。一世帯単位で割り当てられるため、私の母親にも影響するのです。

 母の年金収入は微々たるものです。母だけなら当然1割負担です。しかし私が一時金を受け、その年の所得が多くなり、自己負担割合が2割もしくは3割となれば、同じ世帯員として母親も同じく2割、3割となってしまうのです。今年98歳になる母は、何かと医療機関にかかる機会が多いです。年金収入は変わらないのに、自己負担割合だけが私と連動して高額になってしまうのです。それが一番気がかりでした。

 計算してみた結果、3割負担は免れましたが、どうやら2割負担の範ちゅうに入るようです。こんな事も今回のことがなければ、全く気にもしないものでしたのに‥‥。

 

 結局は、個人年金を解約して一時金を受取りました。その決断をする2,3日間というものは、そんな計算ばかりをしていました。また、株価は日毎に変わるものですから、自分が解約した決算当日の日経平均株価がとても気になりました。本当にお金というものは人を動かします。まさかこの自分が、株のことで振り回されるとは思いもしませんでした。

 一時下がった株価も一昨昨日の終値は39,740円となり、一昨日はまた日銀がマイナス金利政策の解除を決めたということで、2週間ぶりに40,000円台を回復したということです。今日もまた、めぐる株の動きに一喜一憂している人が大勢いることでしょう。そんな暮らし方は気の弱い私にはとても耐えられるものではありません。それこそ寿命が縮まってしまいます。もう株なんてこりごりです。

 という訳で、柄にもなく株と関わってしまった、一顛末をご報告いたしました。