シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

信なくば立たず

前回のブログに続き、政治について。

政治家がよく口にする「信なくば立たず」という文句。

恥ずかしいからここだけの話にしたいが、私はこのことばの意味を「信用がなければ立候補しない」という程度の意味にとらえていた。

 

無信不立。

孔子論語に出てくるそうだ。

弟子から政治に大切なことは何かと聞かれた孔子は、軍事力、食糧、そして民との信頼関係という3つをあげた。

 

つまり、3つ目が「信なくば立たず」に該当し、人々との信頼関係がないと政治は成り立たないということ。

これは現代の民主的な政治についてもいえる。

(政治だけでなく、生活の基本のような気もするが。)

 

今、どこかの県知事が議会からの不信任を受けて、どう対応するか態度を決めかねている。

県職員へのパワハラや、知事職という地位を利用したおねだり体質、そしてこれらの状況を外部に通告した者を第三者機関の判断にゆだねることなく処分したことが批判されている知事だ。

 

県議会議員全員から不信任をつきつけられている。

法律家など有識者からも県知事を批判する声が多い。

まさに、知事は四面楚歌の状態。

 

知事と一緒に働く職員との信頼関係はなくなっている。

「信なくば立たず」。

県政はもはや成り立たないだろう。

 

知事はまだ若い。

あらたむるにはばかることなかれ。

ここは、一度、潔く身を引いたらどうか。

優秀そうだから、修行すれば、またいろいろな仕事に出会えると思う。

総理大臣の直接選挙

この数週間、テレビや新聞は自民党の総裁選挙の報道で賑わしい。

最大与党である自民党の総裁を選ぶのは、ほぼ総理大臣を選ぶのと同じこと。

総理大臣といえば、日本では最高の権力者。

 

ところが、総裁選挙の選挙権は自民党の党員にしかない。

総理大臣が国民の代表者でもあるからには、国民の有権者全体で選びたいところ。

 

民主的に代表者を選ぶときは、直接選挙が基本ではないか。

総理大臣選挙でもある今回の総裁選挙は、いろいろな意味で選挙の基本原則にそぐわない。

自民党員だけというのは誰もが選挙権を持つという普通選挙になっていない。

国会議員票に重み付けをしているという点では平等選挙になっていない。

重鎮たちが支配下にいる者たちに指令する派閥がらみや旧派閥がらみの投票は、自由選挙になっていない。

ひょっとしたら、秘密選挙も守られていないかも。

 

このような弊害をなくすためにはどうしたらいいか。

日本は議院内閣制なので、最終的には国会議員の投票により総理大臣が指名されている。

かといって、国民の直接選挙による大統領制にするのも、それはそれで権力を持たせすぎる恐れがある。

 

議院内閣制、大統領制のそれぞれにメリット、デメリットがある。

そこで、両制度の折衷案として、議院内閣制はそのままに総理大臣は直接選挙で決めるというのはどうか。

やり方を工夫して、政権与党から総理大臣を選ぶようにしたら内閣不信任案を連発されずに国会運営もしやすいのではないか。

 

今のままでは、総裁選挙のために立候補者が全国各地で開催している演説会は自民党政治の抱負を語るただの宣伝活動でしかない。

 

最後の晩餐

人生の最後には何を食べたいかという話題がある。

いわゆる最後の晩餐。

レオナルドダヴィンチの有名な壁画では、イエスキリストと弟子たちの前に描かれているテーブルに目を凝らすと、パン、ワイン、そして魚料理がある。

 


映画「男はつらいよ」の寅さんはこの壁画を最後の晩酌と呼んでいたが、確かに晩酌でもある。

私も香り豊かなワインと大吟醸酒で晩酌をしたい。

ワインと一緒に少量のステーキと野菜サラダを食べたい。

日本酒には握りずし、刺身や煮魚がいいか。

 

そうこうしているうちに腹も満たされてくるだろう。

頭もアルコールでぼんやりしてウトウトしてくるだろう。

そして、そのまま眠りにつきたい。

それで二度と目が覚めなければ、こんなに楽な死に方はないのでは。

 

こんな最後の晩餐ができたらいいが、翌朝も目が覚めたらどうしよう。

もう、口にするのは水だけでいい。

 

しかし、こうはいかない可能性が高い。

「自宅で死にたい」という人が結構いると聞くが、現在、7~8割の人が病院で亡くなる。

戦後間もなくの頃には在宅死の割合がずっと多かったが、医療施設が整備されてきたり、国民皆保険で自己負担が軽減されてきたりで病院死が多くなり、1970年代には割合が逆転した。

 

多くの人たちが病院で胃ろう、点滴や酸素吸入のチューブにつながれて最期を迎えている。

その前にこれが最後の晩餐と意識して食べた人たちは少ないだろう。

 

 

 

 

ハラスメント

どこかの県知事がパワハラの疑いで議会から追及されている。

さんざん、職員たちからパワハラの実態が訴えられているのに、県知事は職責をまっとうしたいと強気の姿勢を崩していない。

その精神力は大したものだが、多くの職員が知事に対して拒否反応を示せば正常な仕事はできない。

いずれ、辞職しそう。

 

パワー(権力)ハラスメントということばは日本人が言い出したらしいが、それ以前の1970年代からアメリカにセクシュアル・ハラスメントという造語はあった。

セクハラは日本でも1980年代からよく知られるようになった。

大学でも、女子学生の指導について教員がセクハラしないよう注意が必要だ。

昔のことになるが、教授会でセクハラ防止の読本が配られ、出席者に「熟読するように!」というお達しがあった。

 

斜め読みしてみたが、要するにハラスメントというのは相手がどう感じているかというのがポイント。

自分がどういうつもりであったとしても、相手が苦痛に感じていれば立派なハラスメントになる。

相手の身になって、言動は慎重でなければならない。

 

大学では、セクハラに加えてアカハラ(アカデミック・ハラスメント)にも注意が必要だ。

アカハラは、教育や研究で上下関係があるときに上の者が下の者に行う理不尽な行為。

具体的には、単位取得や卒業を困難にしたり、勉強や研究を妨害したり、あるいはそれらを推測させたりすること。

暴言や𠮟責などパワハラと似たようなこともある。

 

昔と比べて、今の人たちはいろいろなハラスメントについての知識もあり敏感。

過去を振り返って、あれはハラスメントの被害者ではなかったか加害者ではなかったか、と問い直す。

 

不寛容になってきたというよりも、人権を尊重する社会が成熟していきつつあるととらえたい。

 

コリオリの力

8月は台風の季節。

今年も月末に千鳥足の台風10号がやってきた。

九州に上陸した台風の強風は思っていたほどでなかったが、台風の雲の渦巻きが歯車のようになって南方海上の湿気の多い空気を関東や東海地方に送り込み、遠隔地に大雨をもたらした。

 

テレビニュースに映る台風の雲の渦巻きを見ながら、ふと、反時計回りになっているのは偏西風の影響だったかなと思う。

でも、念のためにとスマホで確認してみた。

確認してみてよかった。

間違ってた。

 

地球が自転しているのでコリオリの力というのが働き、反時計回りになるとのこと。

はるか昔、高校の物理の時間にチラッと聞いたような気がする。

コリオリはこの力を発見した人の名前で、フランスの科学者。

 

高校で使った物理の教科書はリタイアしたときに処分してしまった。

コリオリの力の説明についてネットでいろいろ調べてみるが、私の理解は不十分。

よく出てくる説明は、回転している円盤上で中心から円周の点Aをめがけてボールを投げるというもの。

円盤の外から見れば、投げた人の手を離れてからのボールは直線的に飛んでいく。

しかし、円盤上で回転しながら投げた人から見れば、ボールはカーブを描いて円周の点Aからそれて飛んでいく。

このカーブを描かせるのが、コリオリの力によるものだという。

 

見かけの力といわれるから、いっそう、どうとらえていいかわかりにくい。

とにかく、回転している場所を移動する物体に移動方向と直角に働く力がコリオリの力

自転している地球上の台風の目に周囲から流れ込む空気にもコリオリの力が働き、北半球では空気の流れに右方向の力が加わる。

低気圧である台風の目へ四方八方から右寄りに空気が入り込むので、台風の目へ左回り(反時計回り)に入り込む雲の渦巻きが生じる。

 

先ほどの円盤上でボールを投げるときの説明にしたがうと、円盤の外から見たボールは直進する。

宇宙から自転する地球上の台風を見たら、雲は直線的に台風の目に流れ込んでいるのではないかという疑問。

・・・・・。

勉強し直した方がよさそうだ。

寛容でありたい

夏の全国高校野球大会の決勝戦は韓国系の高校が優勝した。

といっても大部分が日本人選手。

監督も日本人。

 

甲子園では勝者のチームの校歌を流すが、韓国語だった。

歌詞に出てくる日本海の呼称も異なった。

このようなことが、かなりの数の日本国民の気に障ったらしい。

 

スマホのヤフーニュースでも関連記事を読むことができるが、記事の末尾にある読者からのコメント(ヤフコメ)をみると、ほとんどが優勝校への批判だった。
そんなものなのか。

 

高校野球で全国一になったのだから、率直にその結果を認めてお祝いできないのだろうか。

校歌の内容がふさわしくないとか、・・・・・。

何か、心が狭くないか。

韓国系の高校に負けてはいけないというような、余裕のなさはないか。

この優勝校への誹謗中傷は、逆に日本人の評価を下げはしないか。

 

これからの世の中、難民や外国人労働者を受け入れたりして多様な民族と付き合っていく必要がありそうなのに。

日本で生活する外国人の立場になって考えると、自分たちを受容してくれたときに日本人の懐の深さや器の大きさのようなものを感じるのではないか。

 

今回の高校野球の優勝校への批判に限らず、近年、ちょっとしたことに対して不寛容な風潮がある。

ネット社会になり、SNSの匿名性はものを言いやすくし、批判をしやすくする。

 

甘すぎるのもよくないが、不寛容が蔓延すると、ぎすぎすして息苦しい社会になるだろう。

幼いころの記憶

晩年を迎えると、自分史でも書いてみようかという人もいるだろう。

アルバム写真や親から聞かされたことに頼らないで、自分史の始まりとなる幼いころの記憶をたどると、何歳くらいまでさかのぼれるか。

 

幼稚園に通ってたとき(5歳頃)の記憶なら、容易にいくつか思い出せる。

しかし、それよりも前の記憶となると、記憶は乏しくなる。

おぼろげながらの記憶があっても、それが何歳頃かとなると、いっそうあやふやになる。

私の覚えている記憶の始まりは、姉(19歳上で今は亡き長姉)にだっこされて家の前で通行人を眺めていたという記憶だ。

何歳かは、わからない。

だっこされていたから、2~3歳の頃か。

 

いつ頃から記憶があるのかは、いろいろな調査で調べられている。

おおまかにいうと、3歳頃からの記憶があるという。

本人は、その記憶がもう少し遅い年齢での出来事のように思う傾向があるらしい。

 

記憶は大脳辺縁系(脳の奥)にある海馬が主役。

その細胞群がタツノオトシゴのような形なので海馬と名付けられている。
新しい記憶はまず海馬に蓄えられ、その後、整理された記憶は大脳皮質(脳の表面)に蓄えられる。

3歳くらいまでは、この海馬がまだ十分に発達していないので、それまでに経験した記憶は長く保持できない。

 

帰郷したりして幼いころの環境に出会うと、いろいろな記憶が湧き出てくる。

記憶の中のお世話になった大人たちは、もういない。

思わず感傷的になる。