「ルイ18世 (フランス王)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Akas1950bot (会話 | 投稿記録) →人物: Unicodeの制御文字(非表示)が混入しているので除去しました - プロジェクト:ウィキ文法のチェック |
Reverted 1 edit by メロヴィングカロリングカペーヴァロワブルボン (talk) (TwinkleGlobal) タグ: 取り消し モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
(19人の利用者による、間の42版が非表示) | |||
1行目:
{{Expand English|Louis XVIII|date=2022年4月}}
{{基礎情報 君主
|人名=ルイ18世
|各国語表記={{Lang|fr|Louis XVIII}}
|君主号=[[フランス
|画像=Lefèvre - Louis XVIII of France in Coronation Robes.jpg
|画像サイズ=
11 ⟶ 13行目:
|全名={{Lang|fr|Louis Stanislas Xavier}}<br />ルイ・スタニスラス・グザヴィエ
|出生日={{生年月日と年齢|1755|11|17|no}}
|生地={{FRA987}}、[[ヴェルサイユ]]、[[ヴェルサイユ宮殿]]
|死亡日={{死亡年月日と没年齢|1755|11|17|1824|9|16}}
|没地={{FRA1814}}、[[パリ]]、[[テュイルリー宮殿]]
|埋葬日=1824年[[
|埋葬地={{FRA1814}}、[[サン=ドニ]]、[[サン=ドニ大聖堂]]
|配偶者1=[[マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ]]
|子女=
30 ⟶ 32行目:
== 生涯 ==
=== 出生からフランス革命の勃発まで(1755年‐1791年) ===
[[ルイ]]・[[スタニスラス]]・[[グザヴィエ]]は[[ルイ15世]]の王太子[[ルイ・フェルディナン (フランス王太子)|ルイ・フェルディナン]]と[[マリー=ジョゼフ・ド・サクス]]との間に
[[ファイル:Duplessis - The Count of Provence (future Louis XVIII), Musée Condé.jpg|150px|サムネイル|右|若い頃のルイ18世(プロヴァンス伯)]]▼
1771年5月14日、彼は[[マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ]]と結婚したが、両者の間に子は生まれなかった。彼の宮廷における立場は窮屈であった。上昇志向に溢れ、かつ兄のルイ16世よりも能力があると自負していたが、彼の権限の範囲は制限されていた。よって彼はエネルギーの大部分を嫌っている兄嫁[[マリー・アントワネット]]に対する策謀に傾けた。ルイ16世が後嗣に恵まれなかった時期、プロヴァンス伯は王位継承者として人気を集め、政治にも積極的に関わった。しかし1781年に王太子が生まれたことで彼の野心は挫かれた。彼は[[パリ高等法院|高等法院]]の再興に反対し、多くの政治的パンフレットを著した。また[[名士会]]が収集された際には、他の王族たちと共に「賢人委員会」と名付けられた部局を統括し、さらに第三身分の二重代表権を弁護した。同時期に彼は文学に親しみ、[[リュクサンブール宮殿]]や居城のブリュノワ城にて詩人や作家と交遊し、彼の愛妾であるバルビ伯爵夫人のサロンでは詩作と警句が機知に富んでいるとの称賛を得ている。バルビ伯爵夫人は1793年まで彼に相当な影響力を及ぼしたと言われる<ref name="pp47">Phillips, Catherine Beatrice.(1911), pp.47</ref>。
[[バスティーユ牢獄]]の陥落後、プロヴァンス伯は亡命を選ばずパリに残った。一時期[[オノーレ・ミラボー|ミラボー]]は彼を新たな立憲政府の首相に据えようと考えたが、彼の腰が引けていたため失望する。1789年12月に起きたファヴラ事件は彼に反対する激しい世論を引き起こす。多くの人々は、プロヴァンス伯が[[トマ・ド・マイ・ド・ファヴラ]]侯爵と陰謀を企みつつも、彼を見捨てたと信じていた。1791年6月、国王一家が[[ヴァレンヌ逃亡|ヴァレンヌへ逃亡]]した時、彼もアヴァレ伯爵と共に別路を通って逃亡した。アヴァレ伯爵はバルビ夫人に替わって亡命時代のプロヴァンス伯に政治的な影響を与える人物となる。その後無事[[ブリュッセル]]に到着し弟の[[シャルル10世|アルトワ伯]]と合流すると、亡命貴族の拠点がある[[コブレンツ]]へ移った<ref name="pp47" />。▼
▲[[ファイル:Duplessis - The Count of Provence (future Louis XVIII), Musée Condé.jpg|150px|サムネイル|右|若い頃のルイ18世(プロヴァンス伯)]]
▲[[バスティーユ牢獄]]の陥落後、プロヴァンス伯は亡命を選ばずパリに残った。一時期[[オノーレ・ミラボー|ミラボー]]は彼を新たな[[フランス立憲王国|立憲政府]]の首相に据えようと考えたが、彼の腰が引けていたため失望する。1789年12月に起きたファヴラ事件は彼に反対する激しい世論を引き起こす。多くの人々は、プロヴァンス伯が[[トマ・ド・マイ・ド・ファヴラ]]侯爵と陰謀を企みつつも、彼を見捨てたと信じていた。1791年6月、国王一家が[[ヴァレンヌ逃亡|ヴァレンヌへ逃亡]]した時、彼もアヴァレ伯爵と共に別路を通って逃亡した。アヴァレ伯爵はバルビ夫人に替わって亡命時代のプロヴァンス伯に政治的な影響を与える人物となる。その後無事[[ブリュッセル]]に到着し弟の[[シャルル10世|アルトワ伯]]と合流すると、亡命貴族の拠点がある[[コブレンツ]]へ移った<ref name="pp47" />。
=== 亡命生活(1791年‐1814年) ===
コブレンツの王室所領に居を構えると、彼は反革命運動の旗手として、大使を任命し、欧州諸国の君主たち、その中でもとりわけロシアの[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカ
[[ファイル:Pils Jelgava.jpg|200px|サムネイル|右|ルイ18世が暮らしたイェルガヴァ宮殿]]
44 ⟶ 48行目:
移り気なパーヴェル1世によってイェルガヴァを突如追い出されたため、ルイ18世は極寒の中旅をし、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|プロイセン国王]]の許可を得て[[ワルシャワ]]に移ると3年間をその街で過ごした。彼は引き続きフランスに再び王政を呼び戻そうとしており、1799年の終わりにロワイエ=コラール、モンテスキュー、クレルモン=ガルランドらによって設立された「王室顧問委員会」をパリに置いていたが、その活動はライバルのアルトワ伯の機関によって頻繁に妨げられた。しかし1800年以降、カドゥーダル、ピシュグリュ、[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]ら王党派による陰謀の失敗と、それに続く[[ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ|アンギャン公]]の処刑ならびにナポレオン帝政の幕開けによって、王政復古は絶望的になる。1804年、ルイ18世はスウェーデンの[[カルマル]]にてアルトワ伯と再会すると、ナポレオンの帝政に反対する声明を発したが、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|プロイセン国王]]よりポーランドに戻ってはならぬとの警告を受けたことで、ロシアの[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の許可を得て、再びイェルガヴァに退いた。しかしながら、1807年の[[ティルジットの和約]]で仏露が同盟関係になると、彼はまたもイェルガヴァを追い出されたため、イギリスの[[ジョージ4世 (イギリス王)|王太子ジョージ]]の庇護を受け<ref>Nagel, Susan, Marie-Thérèse: Child of Terror Bloomsbury, USA, Reprint Edition 2008, ISBN 1-59691-057-7, pp. 243</ref>、当初は[[エセックス]]のゴスフィールドに、次いで[[バッキンガムシャー]]のハートウェルに身を落ち着かせた。1810年、妃のマリーが死去し、翌年にはアヴァレもこの世を去り、寵臣の地位はブラカ伯爵が引き継いだ<ref name="pp47" />。
1813年の[[解放戦争 (ドイツ)|ドイツ戦役]]でナポレオンが敗北すると、王党派は再び活気付いた。そしてルイ18世は新たに声明文を発し、その中で革命の成果を肯定すると約束した。ルイ18世はスウェーデン王太子の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]が協力してくれるだろうと期待して交渉を持ったが、王太子は実際のところ独自の意思に基づいて行動していた<ref name="pp48">Phillips, Catherine Beatrice
=== ブルボン復古王政(1814年‐1824年) ===
50 ⟶ 54行目:
[[File:Flag_of_the_Kingdom_of_France_(1814-1830).svg|thumb|復古王政期のフランス国旗([[白旗]])]]
[[ファイル:Louis XVIII relevant la France.jpg|サムネイル|右|復古王政の寓意画]]
1814年3月、連合国軍はパリ入城を果たす。そして[[タレーラン]]の働きによってブルボンの復権が決定されると、ルイ18世は立憲君主制を約束するサン=トゥアン宣言を発した後、
[[ファイル:La famille royale by Gautier.jpg
[[ワーテルローの戦い]]の後、2度目の復古王政の条件のひとつにブラカの追放が提示されている。7月8日、「連合国軍の荷車に乗って」ルイ18世はパリに2度目の帰還を果たすが、それでも戦争に倦み疲れ、立憲政治を希求する民衆から熱狂的な出迎えを受けた。当初国王は不信感を抱きつつもタレーランと[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]を閣僚入りさせていたが、1815年の選挙で超王党派(ユルトラ)が大勝し、彼が名付けるところの「[[またと見出しがたい議会|またと見出し難い議会]]」が成立すると、両者を合わせて政権から放り出した。同時期、国王はフーシェの下で警視総監を、
辛うじて再び復活した王政の存在を永久的に安定させるために、ルイ18世は革命派と反革命派の間隙を調和させることに力点を置いた。これにより憲章を固守し、[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で挙行された王室の伝統的な[[戴冠式]]さえも放棄しており、宮廷はヴェルサイユに帰還せず、ナポレオンが公邸として使った[[テュイルリー宮殿]]に入居し王宮とした。またフランス最初の近代的な内閣制の運営が始まった。毎週2回にわたり閣僚評議会がテュイルリー宮殿で開かれ、国王は首相や大臣を接見したり、彼らと一緒に執務しながら政府に対する影響力を維持しようとした。しかし既に高齢で健康もよくなかったルイ18世は、各官庁の通常の業務全般を統制する能力も、意志もなかった。国王はただし最も重要な決定と派閥間の調整に関してのみ実権を行使することができた。一方、百日天下期にナポレオンに取り入って付和雷同した人士らを反逆罪で処罰する趣旨の布告文が公布され、ネイ元帥などの高級将校が銃殺された。このような措置でも「[[白色テロ]]」を重ねるユルトラを満足させるには力不足だった。白色テロの用語はフランス王国の白旗から由来したもので、三色旗は復古王政下で
[[ファイル:Le roi Louis XVIII dans son cabinet de travail des Tuileries (bgw17 0044).jpg|サムネイル|右|テュイルリー宮殿の書斎で執務中のルイ18世([[フランソワ・ジェラール]]画)]]
ルイ18世の政策は白色テロこそあったものの、総じて慎重さと常識に基づいていたと評される。その統治の間、フランスにて革命後初めてとなる議会制政治の成立を見た。国王に執行権と法案提出権が付与される一方、議会は法案の議決と予算を承認する機能を有した<ref name="britannica" />。1814年憲章は[[ポルトガル
外政においては、リシュリューの主導のもと所期の成果があった。百日天下の後、フランスの外交的地位は困難な状況に直面していた。ナポレオンがエルバ島を脱出する前に締結された[[パリ条約 (1814年)|第一次パリ条約]]は、フランスの国境線を1792年以前に戻し、賠償金を免除するという非常に寛大な内容だったが、百日天下を切っ掛けに連合国は、フランスに対し以前より過酷な処分を狙っていた。反面にフランスと直接国境を接していないロシアは相対的に余裕のある態度を持ち、この点に着眼したルイ18世はタレーランを更迭し、ロシア皇室にコネクションのあるリシュリューを首相兼外相に起用して連合国との交渉に臨むようにした。1815年11月20日に締結された[[パリ条約 (1815年)|第二次パリ条約]]により、フランスは国境線を1790年以前に戻し、7億フランの賠償金を支払うことに同意した。またナポレオン時代にヨーロッパ全域から略奪してきた美術品を返還し、最長5年にわたり連合軍の占領及び駐屯を容認するという条件も受け入れた。1818年9月、4大連合国はドイツの[[アーヘン]]で国際会議を招集し、ルイ18世の参加を招待した。
[[ファイル:Painting, Louis XVIII and the French Royal Family, Louis Ducis.jpg|サムネイル|右|1823年12月2日、テュイルリー宮殿のバルコニーでスペイン遠征から凱旋したアングレーム公を労うルイ18世([[:fr:Jean-Louis Ducis|ルイ・デュシー]]画)]]
[[File:Cruikshank - Old Bumblehead.png|サムネイル|右|ルイ18世のスペイン遠征を揶揄する風刺画]]
同じ時期、隣国[[フェルナンド7世治世下のスペイン|スペイン]]では1820年より権力を掌握した自由主義
テュイルリー宮に定着した復古王政下のブルボン朝の宮廷は革命前の儀礼が復活したが、ヴェルサイユ時代と比べると、落ち着いてながらも素朴だった。その背景には、革命の波風により多くの王族と宮廷貴族が亡くなったり、散らばってから久しく、ルイ18世
== 人物 ==
* ルイ18世以降のシャルル10世、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ=フィリップ1世]]、[[ナポレオン3世]]がいずれも革命や敗戦により失脚したため、ルイ18世は王座を守ったまま、在位中に死亡した最後のフランス君主となった。
* 晩年のルイ18世は毎週水曜日ごとに[[:en:Zoé Talon du Cayla|デュ・ケ
▲* 晩年のルイ18世は毎週水曜日ごとに[[:en:Zoé Talon du Cayla|ケイラ伯爵夫人]](本名はゾエ・タロン)の訪問を受け、彼女と一緒にいる間は誰の妨害も許さなかった。事実上の[[公妾]]となったゾエは老王の心配を取り除き、宮廷の厳格な礼法が支配する日常では感じられなかった安らかな雰囲気を作り、寵愛を受けたという。ルイ18世がゾエの胸に顔を当てて鼻をすすったという噂が出回り、彼女には「嗅ぎタバコ入れ」という別称が付けられた。
* ナポレオンはルイ18世を「ルイ16世から実直さを引き、機知を足したもの」と評したと伝えられる<ref name="pp48" />。
== 脚注 ==
79 ⟶ 82行目:
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* Phillips, Catherine Beatrice (1911) “Louis XVIII. of France”, in Encyclopædia Britannica, (11th ed.), Cambridge University Press, Cambridge. pp.47-48
* [https://www.britannica.com/biography/Louis-XVIII Encyclopedia Britannica/ Louis XVIII.] (最終閲覧日2017-8-24)
* Mansel, Philip (2015) The Eagle in Splendour: Inside the Court of Napoleon, I.B.Tauris & Co ltd, London
* Price, Munro (2008) The Perilous Crown: France Between Revolutions, 1814-1848, London
* Lever, Évelyne (1988) Louis XVIII, Fayard, Paris
* Bertier de Sauvigny, Guillaume (2016) The Bourbon Restoration, University of Pennsylvania Press
== 関連項目 ==
95 ⟶ 99行目:
* [[フランス復古王政]]
{{s-start}}
{{s-hou|[[ブルボン家]]|1755年|11月17日|1824年|9月16日|[[カペー家|カペー]]|name=ルイ18世}}
{{s-off|}}
{{s-bef|before=[[ルイ17世]]<br />''{{small|フランス国王}}''}}
{{s-ttl|title=フランスの元首|years=1814年 - 1815年}}
{{s-aft|after=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]<br />''{{small|フランス皇帝}}''}}
{{s-bef|before=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]<br />''{{small|フランス皇帝}}''}}
{{s-ttl|title=フランスの元首|years=1815年 - 1824年}}
{{s-aft|after=[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]<br />''{{small|フランス国王}}''}}
{{s-reg|}}
▲{{s-vac|rows=2|last=[[ルイ17世]]}}
{{s-ttl|title=[[フランス君主一覧|フランス国王]]|years=1814年 - 1815年}}
{{s-non|reason=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の[[百日天下]]}}
{{S-break}}
{{s-ttl|title=[[アンドラ君主一覧|アンドラ大公]]|years=1814年 - 1815年|alongside=<br />[[:en:Francesc Antoni de la Dueña y Cisneros|フランセスク・アントニ・デ・ラ・ドゥエニャ・イ・シスネロス]]}}
{{s-aft|after=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]}}
▲{{s-non|reason=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の[[百日天下]]}}
{{s-ttl|title=[[フランス君主一覧|フランス国王]]|years=1815年 - 1824年}}
{{s-aft|rows=2|after=[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]}}
{{s-bef|before=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]}}
{{s-ttl|title=[[アンドラ君主一覧|アンドラ大公]]|years=1815年 - 1824年|alongside=<br />[[:en:Francesc Antoni de la Dueña y Cisneros|フランセスク・アントニ・デ・ラ・ドゥエニャ・イ・シスネロス]]<br />ベルナット・フランセス・イ・カバジェロ}}
{{s-roy|fr}}
{{s-bef|before=[[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ・ドルレアン]]}}
{{s-ttl|title=[[ムッシュ]]|years=1774年 - 1793年}}
{{s-aft|after=[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル=フィリップ・ド・フランス]]}}
{{s-reg|fr}}
▲{{s-vac|last=[[:en:Philippe, Duke of Anjou|フィリップ・ド・フランス]]}}
{{s-ttl|title=[[アンジューの領主一覧|アンジュー公爵]]|years=1771年 - 1790年}}
{{s-vac|next=[[ハイメ・デ・ボルボン (マドリード公)|ジャック・ド・ブルボン]]}}
{{end}}
{{フランス君主}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:るい18}}
[[Category:19世紀の君主]]▼
[[Category:18世紀フランスの人物]]▼
[[Category:19世紀フランスの人物]]▼
[[Category:フランス国王]]
[[Category:アンジュー公]]
[[Category:ヴァンドーム公]]
[[Category:プロヴァンス伯]]
[[Category:メーヌ伯]]
[[Category:フランスの摂政]]
[[Category:フランス・ブルボン家]]
[[Category:
[[Category:
[[Category:ガーター勲章]]
[[Category:金羊毛騎士団員]]
[[Category:王党派 (フランス
[[Category:ヴェルサイユ出身の人物]]
[[Category:1755年生]]
|