「太祖 (高麗王)」の版間の差分
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{{otheruses|高麗王|その他の同名人物|王建|その他の太祖|太祖}}
{{出典の明記|date=2012年4月|ソートキー=人0943年没}}
{{観点|date=2018-03}}
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|代数 = 初
|呼称 = 国王
|画像 = [[File:
|説明 = 太祖神聖大王
|王朝 = [[高麗]]
|在位期間= [[918年]][[7月25日]] - [[943年]][[7月4日]]
|都城 = 鉄原→松嶽(開京)
|姓・諱 = 王建
|字 = 若天
|小字 =
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|父 = [[王隆]](世祖)
|母 = 韓氏([[威粛王后]])
|王后
|子女 = [[#太祖の子女一覧|下記参照]]
|陵墓 = 顕陵
|元号 = [[天授 (高麗)|天授]](918年 - 933年)
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=== 系譜 ===
====
王建の先祖は、[[中国]]の[[唐]]の[[皇帝]]
==== 祖父・王帝建 ====
王帝建は父を探すため唐に渡ろうとした。
王帝建の母である康辰義は、その父を[[康宝育]]といい(王帝建の母方の祖父)、康宝育の先祖は[[春秋戦国時代]]の[[衛|衛国]]
王帝建は唐に行く途上の[[黄海]]で、[[
==== 父・王隆 ====
[[王隆]](ワン・リュン)は松嶽(ソルガム・現在の[[開城]])を拠点に半島西南の海岸部で貿易で財をなす豪族となった。'''王建'''は[[乾符]]4年([[新羅]]の[[憲康王]]3年)1月31日に[[王隆]]と[[威粛王后]]との間に生まれた<ref name="高雲基">{{Harvnb|高雲基|2001|p=86-87}}</ref>。王建が生まれた時、母はすでに死去しており墓の下に埋葬された後だった。生まれたばかりの赤ん坊だった王建は、棺の蓋や墓石を押しのけて地上に出た。これは王権の始祖が玉・丸石・卵・岩石などから生まれるという[[イラン系民族|イラン系]]の王権起源譚に、南方系の死体化成神話や太陽復活神話が混合したものである。
=== 出自論争 ===
* '''中国人説'''
==== 出自考証 ====
チェ・ワンス({{lang-ko|최완수}}、[[澗松美術館]]研究室長)は、王建の祖先一族は、朝鮮半島の商業活動の中心である[[松嶽山]](現在の[[開城市]])一帯の商業勢力だった[[豪商]]であり、中国人商人と直接交易をおこない、莫大な富を築いた。従って、唐の皇族だという王帝建の父は、事実は豪商だった一族のもとに[[商行為|商取引]]のため出入りしていた中国人商人であり、その中国人商人と康辰義の間で王帝建が誕生したと解釈するのが自然であり、王帝建の父が中国人商人であることを『[[高麗史]]』や『[[高麗史節要]]』では、粛宗だと高めているが、おそらくは高麗側の推量であった可能性があり、いずれにせよ王帝建が康宝育の家に1ヶ月余り滞在した後に去った中国人商人の青年の息子であったことは間違いなく、それは豪商であった一族のもとには、数多くの中国人商人が商売の取引のため出入りしていたこと、また王帝建が16歳の時に、王帝建の父が証拠物として与えた弓と矢を持って、父を探しに商船に乗りこみ唐へ行こうとしたことから、そのように再解釈して大きな合理性の無理がないと述べている<ref>{{Cite news|url=http://www.donga.com/docs/magazine/new_donga/200112/nd2001120650.html|title=王建의 후삼국통일 배후, 禪僧세력|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081202040918/http://www.donga.com/docs/magazine/new_donga/200112/nd2001120650.html|archivedate=2008-12-02}}</ref>。
[[高雲基]]([[延世大学校|延世大学]])は、「作帝建に関連した話である。彼は唐の皇族だという人物が新羅に来て、この地の女、辰義と結婚して生んだ息子である。のちに作帝建は、父を探しに行く途中に西海の龍の娘と結婚し、息子の龍建を生んだのだが、この人物がまさに王建の父である。『龍』が中国系の何らかの象徴として見るなら、王建の家系はほとんど中国系のはずで、曾祖父から調べても王建は間違いなく中国系3世」と述べている<ref name="高雲基"/>。
== 王建の台頭 ==
[[唐]]の力を借りて[[高句麗]]
北方での新羅への反乱軍の指導者であり[[後高句麗]]を建国した[[泰封]]王である[[弓裔]](クンイェ)に従い、松嶽城主
== 後三国時代 ==
[[919年]]、王建は松嶽郡に遷都し、郡を開州に昇格させ、高句麗の後継者を自称して国号を[[高麗]]と定め、年号を天授と定めた。[[920年]]に[[後百済]]に圧迫されていた新羅の[[景明王]]に信書を送り同盟を結ぶことにした。
[[926年]]10月、後百済は新羅の首都である金城([[慶州市]])を占領し、[[景哀王]]は自殺した。後百済は手強く、一進一退の攻防を繰り広げていた。[[930年]]から高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。
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[[934年]]、後百済は休戦を申し入れ、王建もその気になったが、老将の[[庾黔弼]]一人が反対した。王建は庾黔弼の意見を採用し、後百済軍を打ち破り、[[熊津]]([[公州市]])以北の地を手中に収めた。
[[935年]]、後百済で王位継承による内紛が発生し翌[[936年]]に初代王である[[甄萱]](キョン・フォン)が高麗に投降した。また935年、新羅最後の王[[敬順王]](金傅)が高麗に帰順した。後百済の内紛に巧みに介入した王建は、[[936年]]、遂に[[朝鮮半島]]の統一を成し遂げたのである。
== 統一 ==
統一後は、国内の基盤固めに尽力する。王建は、前王朝
対外的には、[[遼]]に滅ぼされた[[渤海 (国)|渤海]]の遺民受け入れや植民に尽力し、国内の復興と発展に努めた。また、中国の王朝に対してはこの頃、[[五代十国時代|五代]]の王朝に相次いで朝貢を行なって冊封されることで友好関係を保った。[[933年]]には[[後唐]]の正朔を受け、中国の年号を使用し始めた。[[日本]]の[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しても2度にわたって使者を送り、友好と通商を求めたが、これは日本側に拒絶されている。
== 死去 ==
[[943年]]、67歳で死去。死の1ヶ月の前に4月、高麗の後代王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を作り、側臣だった大匡の官職の朴述熙に伝えた。その内容をまとめると、
# 仏教を崇尚し、国家が保護する。
# 寺院は道先大師の[[風水]]地理説によって
# 王位継承は特別な場合ではなければ長子を先にする。
# 中国の風習にむやみに従おうとせず、[[契丹]]は蛮族なので遠ざける。
# 西京(現在の[[平壌]])は我が国の
# 仏に仕える[[燃燈会]]と、山河の神に仕える[[八関会]]をよく行う。
# 臣下と民に対する賞罰を公平にする。
# [[車嶺山脈]]以南(湖南地域、[[百済]]の故地に相当)の人々は、あまり登用しない。
# 臣下と軍人の給料はむやみに増減せず、平安な時であればあるほど脆弱さを忘れない。
# 王は
この十戒は皆「心の中に深くおさめること(中心蔵之)」という君の字で結ばれており、後代の王たちは後継者から後継者へと伝えて宝物にした。
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旧百済の地域の者の登用を忌避したのは、[[後百済]]の内紛で父子が対立したためであり、儒教道徳的には許されないものであったからである。この偏見は後まで継承され、[[全羅道]]差別という地域差別問題となって残った。
『高麗史』は王建の死の様子を次のように描いている。
== 後代の評価 ==
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== 略年表 ==
<!--
*[[877年]] 1月
*[[892年]] 北原の梁吉の配下にいた弓裔
-->
118 ⟶ 124行目:
*[[925年]] 後百済と高麗の間で和議が成立し、人質を交換する。
*[[930年]] 甄萱と王建、古昌郡瓶山麓で戦い、王建が勝利する。
*[[933年]] 後唐、高麗に使を遣わす。これより高麗、後唐の正朔を奉じる。(高麗史)
*[[935年]] 新羅の滅亡。新羅の敬順王の娘、王建の妻となる。
*[[936年]] 王建、一善郡一利川の戦いで後百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一する。
142 ⟶ 148行目:
#文元大王貞(神明順成王后 劉氏)
#證通国師(神明順成王后 劉氏)
#[[王旭 (高麗)|戴宗
#[[王郁|安宗
#王位君(貞徳王后 柳氏)
#仁愛君(貞徳王后 柳氏)
149 ⟶ 155行目:
#助伊君(貞徳王后 柳氏)
#寿命太子(献穆夫人 平氏)
#孝穆太子義(東陽院夫人
#孝隠太子垣(東陽院夫人
#元寧太子(粛穆夫人)
#孝成太子琳珠(天安府院夫人 林氏)
#孝
#太子稷(興福院夫人 洪氏)
#広州院君(小広州院夫人 王氏)
163 ⟶ 169行目:
=== 王女 ===
#安貞淑儀公主(神明順成王后 劉氏) - [[新羅]]の[[敬順王]]の妻。
#興芳
#[[大穆王后]](神静王后 皇甫氏) - 姓は皇甫(母の姓)。光宗の王后。
#文恵王后(貞徳王后 柳氏) - 姓は柳(母の姓)。文元大王貞の妻。
#宣義王后(貞徳王后 柳氏) - 姓は柳(母の姓)。戴宗の妻。
#公主(貞徳王后 柳氏)
#順安王大妃(貞穆夫人 王氏)
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== 太祖が登場する作品 ==
* 『[[太祖王建]]』([[2000年]]、演:[[チェ・スジョン]])
* 『[[輝くか、狂うか]]』([[2015年]]、演:[[ナム・ギョンウプ]])
* 『[[麗〜花萌ゆる8人の皇子たち〜]]』 ([[2016年]]、演:[[チョ・ミンギ]])(日本語吹き替え版声優:[[中村和正]])
== 王建の名にちなむ艦船 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=
== 関連項目 ==
200 ⟶ 204行目:
*[[高麗王]]
*[[高麗王后]]
{{高麗王|初代:918年 - 943年}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たいそ}}
[[Category:王建|*]]
[[Category:高麗王]]
[[Category:
[[Category:10世紀アジアの君主]]
[[Category:高麗の著作家]]
[[Category:9世紀朝鮮の著作家]]
[[Category:10世紀朝鮮の著作家]]
[[Category:朝鮮の軍人]]
[[Category:前近代の中国系朝鮮人]]
[[Category:開城市出身の人物]]
[[Category:開城王氏]]
[[Category:9世紀アジアの軍人]]
[[Category:10世紀アジアの軍人]]
[[Category:877年生]]
[[Category:943年没]]
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