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{{otheruses|高麗王|その他の同名人物|王建|その他の太祖|太祖}}
{{出典の明記|date=2012年4月|ソートキー=人0943年没}}
{{観点|date=2018-03}}
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|代数 = 初
|呼称 = 国王
|画像 = [[File:Goryo_Taejo_Wangkun_2왕건 좌상 2.jpgpng|220px]]
|説明 = 太祖神聖大王御真<br />1992年に発掘された王建の銅像として知られている。
|王朝 = [[高麗]]
|在位期間= [[918年]][[7月25日]] - [[943年]][[7月4日]]
|都城 = 鉄原→松嶽(開京)
|姓・諱 = 王建
|字 = 若天
|小字 =
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|父 = [[王隆]](世祖)
|母 = 韓氏([[威粛王后]])
|王后 ・王配 = 神恵王后(貞州柳氏)<br/>[[荘和王后]]([[羅州呉氏]])<br/>[[神明順成王后]](忠州劉氏)<br/>[[神静王后]](黄州皇甫氏)<br/>貞徳王后(貞州柳氏)
|子女 = [[#太祖の子女一覧|下記参照]]
|陵墓 = 顕陵
|元号 = [[天授 (高麗)|天授]](918年 - 933年)
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=== 系譜 ===
==== 祖父・唐の皇帝 ====
王建の先祖は、[[中国]]の[[唐]]の[[皇帝]][[粛宗 (唐)|粛宗]]または[[宣宗 (唐)|宣宗]]{{efn2|『[[高麗史節要]]』では唐の粛宗だが、『[[編年綱目]]』では唐の宣宗とする。}}である。彼が[[新羅]]に来た時に、新羅人女性である[[康辰義]]との間に[[王帝建]]をもうけた<ref>{{HarvnbCite news|author=|date=|title=韓国民族文化大百科事典 경강대왕|ppublisher=[[韓国民族文化大百科事典]]|url=http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0002284}}</ref><ref name="八幡和郎">{{HarvnbCite book|高雲基和書|2001author=八幡和郎|pauthorlink=86八幡和郎|date=2015-04-10|title=誤解だらけの韓国史の真実|series=|publisher=[[イースト・プレス]]|isbn=978-4781650494|page=64}}</ref><ref name="高雲基"/>。
 
==== 祖父・王帝建 ====
王帝建は父を探すため唐に渡ろうとした。
 
王帝建の母である辰義は、その父を[[康宝育]]といい(王帝建の母方の祖父)、宝育の先祖は[[春秋戦国時代]]の[[衛|衛国]]の初代[[康叔]]である。康叔の長男は衛国の第2代を継いだ。これが衛の[[康伯 (衛)|康伯]]である。康叔には次男(康伯の弟)がいて、その67代子孫<ref>{{HarvnbCite news|1=|author=|date=2013-04-02|title=김성회의 뿌리를 찾아서|publisher=[[世界日報 (韓国)|世界日報]]|url=http://www.segye.com/content/html/2013/04/02/20130402004548.html|parchiveurl=https://web.archive.org/web/20160304201541/http://www.segye.com/content/html/2013/04/02/20130402004548.html|archivedate=2016-03-04}}</ref><ref>{{HarvnbCite news|author=|date=|title=신천강씨 信川康氏|publisher=[[韓国民族文化大百科事典]]||purl=https://archive.ph/ANKd3}}</ref>の[[康虎景]]の息子が[[康忠]](68代子孫)である。康忠は、[[伊帝健・宝甸・建]]と[[康宝育の3人の子]]を儲けた。[[康宝育]]正史である『[[高麗史]]』によると[[高句麗]]の大族であった<ref>{{efn2|[[矢木毅]]によると、王建は、朝鮮を統一するためには[[女真]]から安定的に[[馬]]を入手する必要があり、女真の馬の貢納を促すために高句麗の継承を標榜したのであり、高句麗継承意識は高麗だけでなく[[渤海 (国)|渤海人]]や[[女真]]にも受け継がれ、「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『[[新羅]]』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである」と述べている<ref>{{Cite journal|和書|author=[http://hamada.u[中野耕太]]|date=2014-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu25.data/hokutou25_p125-133.pdf03|title=書評 矢木毅著『韓国・朝鮮史の系譜 : 民族意識・領域意識の変遷をたどる』] |journal=北東アジア研究|ISSN=1346-3810|publisher=島根県立大学北東アジア地域研究センター|issue=25|page=127|url=http://id.nii.ac.jp/1377/00001211/}}</ref>。}}{{efn2|[[八幡和郎]]は2014年3月「宝育は兄の娘の徳周を娶って娘の辰義をもうけましたがp127辰義は素性の知れない中国人の商人と結ばれて王帝建(懿祖)を産みました」「父方の系譜において中国人の血を引く人物であることはたしかです」として、このような出自故にあえて[[高句麗]]の継承者を強調したのかもしれない、と述べている</ref name="八幡和郎"/>。}}。[[康宝育]]は姪の[[徳周]]を娶り、[[貞和王后|康辰義]]を儲けたのである。
 
王帝建は唐に行く途上の[[黄海]]で、[[西四海竜王|四]][[龍王]]の娘の[[龍女]](後の[[元昌王后]])と出会い、彼女の[[駙馬]](「高貴な女性の夫」の意)となった。王帝建と龍女とのあいだ子の[[王隆]]が生まれた<ref name="#1">{{HarvnbCite news|author=|date=|title=韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕|ppublisher=[[韓国民族文化大百科事典]]|url=http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0043394}}</ref>。そのため高麗の人々は王室を龍の一族と信じていたが、『[[聖源録]]』によれば、西王というのは、[[中国]][[平州 (遼寧省)|平州]](遼西・遼東・楽浪あたり)の出身で新羅時代に[[新羅#官位制度|角干]]の位(日本でいえば正一位)をもっていた頭恩坫という人物のことである<ref>{{Harvnb|韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕|pname=}}<"#1"/ref>。
 
==== 父・王隆 ====
[[王隆]](ワン・リュン)は松嶽(ソルガム・現在の[[開城]])を拠点に半島西南の海岸部で貿易で財をなす豪族となった。'''王建'''は[[乾符]]4年([[新羅]][[憲康王]]3年)1月31日に[[王隆]]と[[威粛王后]]との間に生まれた<ref name="高雲基">{{Harvnb|高雲基|2001|p=86-87}}</ref>。王建が生まれた時、母はすでに死去しており墓の下に埋葬された後だった。生まれたばかりの赤ん坊だった王建は、棺の蓋や墓石を押しのけて地上に出た。これは王権の始祖が玉・丸石・卵・岩石などから生まれるという[[イラン系民族|イラン系]]の王権起源譚に、南方系の死体化成神話や太陽復活神話が混合したものである。
 
=== 出自論争 ===
<small>王建の第2后妃[[荘和王后]]呉氏は、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]に[[中国]]から[[帰化]]した[[貴族]]の後裔であり、したがってその子の第2代高麗王[[恵宗 (高麗王)|恵宗]]が[[中国人]]の血を引いている事は公式に認められている。</small>
 
* '''中国人説'''  [[中華人民共和国|中国]]の[[吉林省]][[中国社会科学院]]歴史研究所の史長楽は、[[吉林省]][[中国社会科学院]]が隔月刊で発行する歴史[[雑誌]]『東北史地』2007年第3号において、[[933年]]に[[後唐]]の[[李嗣源|明宗]]が王建に送った冊封詔書などを根拠に、王建は中国[[淮河]]流域から来た[[漢民族|漢人]]の末裔との説を唱えている。冊封詔書の「卿(王建)は長淮の茂族」という一節があり、史長楽は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国」と述べている。また、冊封詔書のうち「[[東明聖王|朱蒙]]が開国した地のよい縁起を追ってその軍将になり、[[箕子]]が作った蕃国の形跡を踏んで幸福と和楽を得る」という一節を、史長楽は「この言葉は、高麗は中国出身統治者が建てた国という意味」と述べている。その理由に「王建の建国を朱蒙の開国と箕子の立国に直接比喩したのは、朝鮮半島の歴史で二人に続いてもう一人の中国出身統治者が生まれたという意味であるから」と述べている<ref>{{Cite news|author=|date=2007-06-06|title=東北工程:高麗も中国が建てた国=中国歴史雑誌|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|url=http://www.chosunonline.com/article/20070606000006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070607142008/http://www.chosunonline.com/article/20070606000006|archivedate=2007-06-07}}</ref><ref>{{Cite news|author=|date=2007年6月6日付『-06-06|title=중국 역사잡지 “고려도 중국이 세워”|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|url=https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2007/06/06/2007060600055.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211014011936/https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2007/06/06/2007060600055.html|archivedate=2021-10-14}}</ref>。[[後唐]]は[[933年]]に王瓊と楊昭業の使者を高麗に派遣し、王健を高麗国王に冊封したが、『[[高麗史]]には、王建と妻の柳氏の冊封調書、冊封及び物品を送った調書、三軍に国王冊封を知らせる調書など四通の調書が記載されているが、妻の柳氏の冊封調書には東北工程・又詔曰卿長淮茂族漲海雄蕃以文武之才控玆土宇以忠孝之節來化風」という節があり、[[長淮]]とは中国の[[淮河]]或いは淮河流域のことであり、「漲海雄蕃」とは海の彼方の[[藩|藩国]]の[[諸侯]]という意味である<ref name="中央日報0420"/>。また、[[宋 (王朝)|宋]]が[[成宗 (高麗王)|成宗]]を冊封した[[985年]]の冊封調書に「常安百濟之民、永茂長淮之族」と再度言及されており、これを根拠に王建の先祖は中国淮河流域の[[漢民族|漢人]]の後裔と断定し、中国の淮河出身の末裔である王建、中国の海の向こう側に諸侯である高麗を国しというものである。また、王建冊封調書には「踵朱蒙啓土之禎爲彼君長履箕子作蕃之跡」という節があり、王建は[[朝鮮の歴史]]のなかで、[[箕子]]と[[東明聖王|朱蒙]]の後に続き、中の支配者が高麗の建国したと解釈し、高麗は[[漢民族|漢人]]の末裔である王建が建国し、[[箕子朝鮮]]と[[高句麗]]に続き、中国歴史雑誌」が[[朝鮮半島]]に建国した三番目の政権とした<ref name="中央日報0420">{{Cite news|author=|url=https://www.joongang.co.kr/article/11289956|title=송나라 사신 서긍 “왕씨 선조는 고구려의 대족”|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2013-04-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211014150803/https://www.joongang.co.kr/article/11289956#home|archivedate=2021-10-14}}</ref>。また、中国の[[歴史家|歴史学者]]の楊保隆([[中国社会科学院]])は「高麗を建国した王建は中国の[[名字]]」などの根拠から中国人であると主張している<ref>{{Cite news|author=|date=2007-08-18|title=ああ、高句麗|newspaper=[http[東亜日報]]|publisher=|url=https://japanesewww.donga.com/srvjp/List/article/all/20070818/300244/1|archiveurl=https://serviceweb.php3?biidarchive.org/web/20211014012540/https://www.donga.com/jp/List/article/all/20070818/300244/1|archivedate=20070818364782021-10-14}}</ref><ref>{{Cite ああ、高句麗]news|author=|date=2007-08-18|title=인문사회 한말 파란눈 학자들…아! 고구려|newspaper=[[東亜日報 2007年8月18日]]|publisher=|url=https://www.donga.com/news/Culture/article/all/20070818/8479510/1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211014013331/https://www.donga.com/news/Culture/article/all/20070818/8479510/1|archivedate=2021-10-14}}</ref>。
 
 
==== 出自考証 ====
チェ・ワンス({{lang-ko|최완수}}、[[澗松美術館]]研究室長)は、王建の祖先一族は、朝鮮半島の商業活動の中心である[[松嶽山]](現在の[[開城市]])一帯の商業勢力だった[[豪商]]であり、中国人商人と直接交易をおこない、莫大な富を築いた。従って、唐の皇族だという王帝建の父は、事実は豪商だった一族のもとに[[商行為|商取引]]のため出入りしていた中国人商人であり、その中国人商人と康辰義の間で王帝建が誕生したと解釈するのが自然であり、王帝建の父が中国人商人であることを『[[高麗史]]』や『[[高麗史節要]]』では、粛宗だと高めているが、おそらくは高麗側の推量であった可能性があり、いずれにせよ王帝建が康宝育の家に1ヶ月余り滞在した後に去った中国人商人の青年の息子であったことは間違いなく、それは豪商であった一族のもとには、数多くの中国人商人が商売の取引のため出入りしていたこと、また王帝建が16歳の時に、王帝建の父が証拠物として与えた弓と矢を持って、父を探しに商船に乗りこみ唐へ行こうとしたことから、そのように再解釈して大きな合理性の無理がないと述べている<ref>{{Cite news|url=http://www.donga.com/docs/magazine/new_donga/200112/nd2001120650.html|title=王建의 후삼국통일 배후, 禪僧세력|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081202040918/http://www.donga.com/docs/magazine/new_donga/200112/nd2001120650.html|archivedate=2008-12-02}}</ref>。
 
[[高雲基]]([[延世大学校|延世大学]])は、「作帝建に関連した話である。彼は唐の皇族だという人物が新羅に来て、この地の女、辰義と結婚して生んだ息子である。のちに作帝建は、父を探しに行く途中に西海の龍の娘と結婚し、息子の龍建を生んだのだが、この人物がまさに王建の父である。『龍』が中国系の何らかの象徴として見るなら、王建の家系はほとんど中国系のはずで、曾祖父から調べても王建は間違いなく中国系3世」と述べている<ref name="高雲基"/>。
 
== 王建の台頭 ==
[[唐]]の力を借りて[[高句麗]][[百済]]を滅ぼした[[新羅]]も[[9世紀]]末になると国力が衰退し、各地で反乱が起こっていた。
北方での新羅への反乱軍の指導者であり[[後高句麗]]を建国した[[泰封]]王である[[弓裔]](クンイェ)に従い、松嶽城主鉄原太守を歴任し、西南海域の水軍を統率して活躍していた。後高句麗は、新羅や[[後百済]]に対して優勢を占めており、王の弓裔は自らを[[弥勒菩薩]]と自称し[[仏教]]の[[神秘]]性を利用して[[権威]]を高めようとした。しかし弓裔が部下に対して傲慢で乱暴になるなど暴君になったため、[[918年]]に弓裔の部下である[[洪儒]](ホン・ユ)、[[裵玄慶]](ペ・ヒョンギョン)、[[申崇謙]](シン・スンギョム)、[[卜智謙]](ポク・チギョム)らは、弓裔を追放し[[易姓革命]]を起こして王位を奪い王建を新たな指導者として擁立した。
後高句麗は、新羅や[[後百済]]に対して優勢を占めており、王の弓裔は自らを[[弥勒菩薩]]と自称し[[仏教]]の[[神秘]]性を利用して[[権威]]を高めようとした。
しかし弓裔が部下に対して傲慢で乱暴になるなど暴君になったため、[[918年]]に弓裔の部下である[[洪儒]]、[[裴玄慶]]、[[申崇謙]]、[[卜智謙]]らは、弓裔を追放し[[易姓革命]]を起こして王位を奪い王建を新たな指導者として擁立した。
 
== 後三国時代 ==
[[919年]]、王建は松嶽郡に遷都し、郡を開州に昇格させ、高麗の後継者を自称して国号を[[高麗]]と定め、年号を天授と定めた。[[920年]]に[[後百済]]に圧迫されていた新羅の[[景明王]]に信書を送り同盟を結ぶことにした。
 
[[926年]]10月、後百済は新羅の首都である金城([[慶州市]])を占領し、[[景哀王]]は自殺した。後百済は手強く、一進一退の攻防を繰り広げていた。[[930年]]から高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。
73 ⟶ 79行目:
[[934年]]、後百済は休戦を申し入れ、王建もその気になったが、老将の[[庾黔弼]]一人が反対した。王建は庾黔弼の意見を採用し、後百済軍を打ち破り、[[熊津]]([[公州市]])以北の地を手中に収めた。
 
[[935年]]、後百済で王位継承による内紛が発生し翌[[936年]]に初代王である[[甄萱]](キョン・フォン)が高麗に投降した。また935年、新羅最後の王[[敬順王]](金傅)が高麗に帰順した。後百済の内紛に巧みに介入した王建は、[[936年]]、遂に[[朝鮮半島]]の統一を成し遂げたのである。
 
== 統一 ==
統一後は、国内の基盤固めに尽力する。王建は、前王朝新羅の貴族や豪族の多くを家臣として加えることで国内の混乱を最小限に抑え、それらを府・州・郡・県に分けて地方をそれぞれ治めさせた。中央は三省六官、九寺にして中央集権化を確立した。
 
対外的には、[[遼]]に滅ぼされた[[渤海 (国)|渤海]]の遺民受け入れや植民に尽力し、国内の復興と発展に努めた。また、中国の王朝に対してはこの頃、[[五代十国時代|五代]]の王朝に相次いで朝貢を行なって冊封されることで友好関係を保った。[[933年]]には[[後唐]]の正朔を受け、中国の年号を使用し始めた。[[日本]]の[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しても2度にわたって使者を送り、友好と通商を求めたが、これは日本側に拒絶されている。
 
== 死去 ==
[[943年]]、67歳で死去。死の1ヶ月の前に4月、高麗の後代王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を作り、側臣だった大匡の官職の朴述熙に伝えた。その内容をまとめると、
# 仏教を崇尚し、国家が保護する。
# 寺院は道先大師の[[風水]]地理説によってだけのみ創建し寺を作るようにする乱立しない
# 王位継承は特別な場合ではなければ長子を先にする。
# 中国の風習にむやみに従おうとせず、[[契丹]]は蛮族なので遠ざける。
# 西京(現在の[[平壌]])は我が国の脈の根本であるから、王は年に100日以上ここにとどまる。
# 仏に仕える[[燃燈会]]と、山河の神に仕える[[八関会]]をよく行う。
# 臣下と民に対する賞罰を公平にする。
# [[車嶺山脈]]以南(湖南地域、[[百済]]の故地に相当)の人々は、あまり登用しない。
# 臣下と軍人の給料はむやみに増減せず、平安な時であればあるほど脆弱さを忘れない。
# 王はいつも自ら儒教の経典や歴史書磨き上げること読み、常に自己研鑽に力を尽くす。
 
この十戒は皆「心の中に深くおさめること(中心蔵之)」という君の字で結ばれており、後代の王たちは後継者から後継者へと伝えて宝物にした。
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旧百済の地域の者の登用を忌避したのは、[[後百済]]の内紛で父子が対立したためであり、儒教道徳的には許されないものであったからである。この偏見は後まで継承され、[[全羅道]]差別という地域差別問題となって残った。
 
『高麗史』は王建の死の様子を次のように描いている。太祖王建[[受26福 (後晋)|天福]]8年([[943年]])5月29日、病が重くなると神徳殿に挙動して遺言を作るようにしたが、その文が作成された時に左右の臣下たちがむせぶ音を聞いて、王が「これは何の音か」と尋ねた。臣下たちが「聖上は民の親なのに、今日、臣下たちを捨てようとなさるので、私どもは悲しみに耐えられません」と言うと、王建は笑いながら「浮生と言うのは、昔からすべてそうだ」と笑って答え、しばらくの後に死んだ。御陵は顕陵である。
 
== 後代の評価 ==
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== 略年表 ==
<!--
*[[877年]] 1月 14日 誕生
*[[892年]] 北原の梁吉の配下にいた弓裔
-->
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*[[925年]] 後百済と高麗の間で和議が成立し、人質を交換する。
*[[930年]] 甄萱と王建、古昌郡瓶山麓で戦い、王建が勝利する。
*[[933年]] 唐、高麗に使を遣わす。これより高麗、唐の正朔を奉じる。(高麗史)
*[[935年]] 新羅の滅亡。新羅の敬順王の娘、王建の妻となる。
*[[936年]] 王建、一善郡一利川の戦いで後百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一する。
142 ⟶ 148行目:
#文元大王貞(神明順成王后 劉氏)
#證通国師(神明順成王后 劉氏)
#[[王旭 (高麗)|戴宗]](神静王后 皇甫氏)
#[[王郁|安宗]](神成王后 金氏)
#王位君(貞徳王后 柳氏)
#仁愛君(貞徳王后 柳氏)
149 ⟶ 155行目:
#助伊君(貞徳王后 柳氏)
#寿命太子(献穆夫人 平氏)
#孝穆太子義(東陽院夫人 氏)
#孝隠太子垣(東陽院夫人 氏)
#元寧太子(粛穆夫人)
#孝成太子琳珠(天安府院夫人 林氏)
#孝太子(天安府院夫人 林氏)
#太子稷(興福院夫人 洪氏)
#広州院君(小広州院夫人 王氏)
163 ⟶ 169行目:
 
=== 王女 ===
#安貞淑儀公主(神明順成王后 劉氏) - [[新羅]]の[[敬順王]]の妻。
#興芳主(神明順成王后 劉氏) - 姓は劉(母の姓)。元荘太子の妻。
#[[大穆王后]](神静王后 皇甫氏) - 姓は皇甫(母の姓)。光宗の王后。
#文恵王后(貞徳王后 柳氏) - 姓は柳(母の姓)。文元大王貞の妻。
#宣義王后(貞徳王后 柳氏) - 姓は柳(母の姓)。戴宗の妻。
#公主(貞徳王后 柳氏)
#順安王大妃(貞穆夫人 王氏)
174 ⟶ 180行目:
 
== 太祖が登場する作品 ==
;===テレビドラマ===
* 『[[太祖王建]]』([[2000年]]、演:[[チェ・スジョン]])
* 『[[輝くか、狂うか]]』([[2015年]]、演:[[ナム・ギョンウプ]])
* 『[[麗〜花萌ゆる8人の皇子たち〜]]』 ([[2016年]]、演:[[チョ・ミンギ]])(日本語吹き替え版声優:[[中村和正]])
 
== 王建の名にちなむ艦船 ==
188 ⟶ 196行目:
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[高雲基]]|authorlink=高雲基|date=2001-12|title=韓国の中世における女性 : 13世紀の文献資料を中心に|series=[[慶應義塾大学]]日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション No.27||publisher=[[慶應義塾大学]]日吉紀要刊行委員会|url=httphttps://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/downloaddetail.php/?koara_id=AN10032394-20011207-0085.pdf?file_id=10717|ref={{Harvid|高雲基|2001}}}}
*{{Cite book||author=|date=|title=ネイバー知識検索 신천강씨 信川康氏|publisher=[[韓国民族文化大百科事典]]|url=http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=290691&cid=42835&categoryId=42835&mobile|ref={{Harvid|韓国民族文化大百科事典|}}}}
*{{Cite book|1=|author=|date=2013-04-02|title=김성회의 뿌리를 찾아서|publisher=[[世界日報 (韓国)|世界日報]]|url=http://www.segye.com/content/html/2013/04/02/20130402004548.html|accessdate=2016-10-26|ref={{Harvid|世界日報|2013}}|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304201541/http://www.segye.com/content/html/2013/04/02/20130402004548.html|archivedate=2016年3月4日}}
*{{Cite book||author=|date=|title=韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕|publisher=[[韓国民族文化大百科事典]]|url=http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0043394|ref={{Harvid|韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕|}}}}
*{{Cite book||author=|date=|title=韓国民族文化大百科事典 경강대왕|publisher=[[韓国民族文化大百科事典]]|url=http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0002284|ref={{Harvid|韓国民族文化大百科事典 경강대왕|}}}}
 
== 関連項目 ==
200 ⟶ 204行目:
*[[高麗王]]
*[[高麗王后]]
*[[渤海 (国)]]
 
{{高麗王|初代:918年 - 943年}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:たいそ}}
[[Category:王建|*]]
[[Category:高麗王]]
[[Category:中国系朝鮮10世紀高麗の]]
[[Category:10世紀アジアの君主]]
[[Category:高麗の著作家]]
[[Category:9世紀朝鮮の著作家]]
[[Category:10世紀朝鮮の著作家]]
[[Category:朝鮮の軍人]]
[[Category:前近代の中国系朝鮮人]]
[[Category:開城市出身の人物]]
[[Category:開城王氏]]
[[Category:9世紀アジアの軍人]]
[[Category:10世紀アジアの軍人]]
[[Category:877年生]]
[[Category:943年没]]