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{{出典の明記|date=2015年7月26日 (日) 17:48 (UTC)}}
[[画像:DatongJiulongBi.jpg|thumb|300px|九龍壁の黄竜([[紫禁城]])]]
[[画像:QingQilin.jpg|thumb|300px|[[頤和園]]にある麒麟像]]
[[画像:Longshan Temple - Fenghuang.jpg|thumb|300px|台湾、[[艋舺龍山寺]]の鳳凰]]
[[画像:Asuka Byako.JPEG|thumb|300px|白虎([[高松塚古墳]]の壁画)]]
[[画像:Yangshan Quarry connector road - marker - Black Tortoise - P1060798.JPG|thumb|300px|亀に蛇が巻き付いた形で描かれる玄武([[南京明文化村・陽山碑材|南京明文化村]])]]
[[画像:Heiankyo overall model.jpg|thumb|350px|平安京復元模型([[京都市平安京創生館]]で撮影)]]
[[画像:Heian Shrine 01.jpg|thumb|300px|平安京を再現した神社『[[平安神宮]]』、四神相応の理論のもとに建つ(京都市左京区)]]
<!--
[[画像:Kamado shrine 01.JPG|thumb|300px|竈門神社(福岡県太宰府市)]]
-->
{{読み仮名|'''四神相応'''|しじんそうおう}}は、[[東アジア]]・[[中華文明]]圏において、大地の四方の[[方位|方角]]を司る「[[四神]]」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた[[地勢]]や[[地相]]のことをいう。{{読み仮名|'''四地相応'''|しちそうおう}}ともいう。なお[[四神]]の中央に[[黄竜]]や[[麒麟]]を加えたものが「[[五神]]」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、[[中国]]や[[朝鮮]]と日本では大きく異なっている。
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==日本==
[[画像:Heiankyo overall model.jpg|thumb|350px300px|平安京復元模型([[京都市平安京創生館]]で撮影)]]
日本でも古く[[平城京]]・平安京は四神相応の都とされ、青龍、白虎、朱雀、玄武が四神として考えられてきた<ref>このことは平城京の遷都の詔に「四禽」(四つの動物)と書かれていることから推測される。</ref>。
[[画像:Heian Shrine 01.jpg|thumb|300px|平安京を再現した神社『[[平安神宮]]』、四神相応の理論のもとに建つ(京都市左京区)]]
現代の[[日本]]では次表のように、四神を「山川道澤」に対応させる解釈<ref>しかし、この対応付けは古来定まっていたというわけではない。例えば平城京は「平城之地、四禽叶図」とされているものの、この表による山川道澤の四神相応とはなっていない。</ref>が一般に流布している。
現代の日本では、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武が四神(四禽)として考えられ、次表のように四神を「山川道澤」にそれぞれ、青龍を川、白虎を道、朱雀を池(沢)、玄武を山と対応させる解釈が一般に流布している。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!方位!!四神!!地勢!!色!![[季節|数字]]
|- style="background-color:#CFD"
|-
|東||[[青竜|青龍]]||川/流水||青||
|- style="background-color:#FFF"
|-
|西||[[白虎]]||道/大道||白||
|- style="background-color:#FDC"
|-
|南||[[朱雀]]||沢/湖沼||朱||
|- style="background-color:#CCC"
|-
|北||[[玄武]]||山/丘陵||玄||
|}
 
この解釈が一般的となったのは、古く[[平城京]]・平安京をモデルは四神相応の都してされ、また、平安時代から江戸時代にかけての書物に、平安京をモデルとして四神のことや山川道澤のことが見え<ref>平安京四神相応説は鎌倉時代成立の『[[平家物語]]』が初出。そこには「此の地の体を見候うに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」とのみあり、ここに四神を具体的形象に充てる説明はない。また{{harvp|加藤|2016|p=213}}</ref>や山川道澤のこと<ref>平安京の四神を山川道澤に結びつける説の初出は[[正和]]3年(1314年)の奥書を持つ『聖徳太子平氏伝雑勘文』。この書は延喜17年(917年)成立の『聖徳太子伝歴(聖徳太子平氏伝)』の解説書でそこに山城国葛野の地形を「南開北塞、陽南陰北、河徑其前、東流成順」とあるのを解説して「左青竜は東より水南に流るなり。前朱雀は南に池溝あるなり。右白虎は西に大道あるなり。後ろ玄武は山岳あるなり。之をいう、四神具足の地と」と記す。{{harvp|加藤|2016|p=217}}</ref>が見え、さらには具体的地名に充てる説が示される<ref>四神を鴨川等具体的地名に宛てる説は、[[江戸時代]]の地誌『山城名所寺社物語』([[享保]]元年)で「左青竜は加茂川なり。今の千本通り是右白虎なり」と二神のみ明示するのが最も古い。四神すべてを地名に比定するのは現在のところ昭和24年(1949([[1949]])発行の日本古典全書『平家物語』(朝日新聞)の頭注(冨倉徳次郎)に「宇多村の地勢の、東賀茂川、西大通、南鳥羽の田地、北比叡山のあるところから、四神相応の地と言った」とあるのが最も古く<!--古いものを見つけたら書き換えて行って下さい。-->、現在の通説「山=船岡山・川=鴨川・道=山陰道・澤=巨椋池」は、[[1974年]]の矢野貫一『京都歴史案内』(講談社)に初めて現れる。{{harvp|加藤|2016|p=219-220}}</ref>が示されることによる。
これにより、近年、山川道澤説に従って具体的に地理的に比定する試みが近年盛んになっている。
 
四神(四禽)については、中国の天文学により、天空の四方に見える主な28の星を 二十八宿と名づけ、その星をつないだ形について、東が龍、南が鳥、西が虎、北が亀に見えるというところから起こった<ref>江戸時代の「[[都名所図会]]」『四神相応の地』の項に「四神といふは、東を蒼龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武となづけて、四方にかくの如きの鬼神の象ありと思ふは非なり。本(もと)天の二十八宿を四ツ割りにして、七星づつを四方に配して、其星の象より起る名なり。‥‥。〔割註〕東涯制度通取意。」とあり、山川道澤説には全く触れない。</ref>。
平安京については、東・青龍を[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]に、西・白虎を[[山陰道]]、南・朱雀を[[巨椋池]]、北・玄武を[[船岡山]]に、それぞれ宛てる説が昭和50年ごろから[[村井康彦]]らにより広められ現在ではこれが定説になった感がある<ref>現在では、「西 大道」を奈良期にはここを通っていなかった山陰道に宛てるのには異論があり、また「北 高山」を船岡山に宛てるのも低山に過ぎ、冬季に冠雪を見せる北山に当てる説がある。また「南 沢畔」を下鳥羽の遊水池([[鳥羽離宮]]の地)とする案がある。巨椋池は京域南方から東に寄りすぎており、朱雀の地とするのには無理があることを論拠としている。なお、足利健亮の指摘によれば下鳥羽のやや南方の横大路には「朱雀」という小字名が遺る(平安京朱雀大路の南延長線上に当たる)。</ref>。
四神思想は中国からもたらされたものであるが、四神に地形を相応させる思想は日本特有のもので、中国には見られないという説もある<ref>{{cite|和書|last=目崎|first=茂和|authorlink=目崎茂和|title=図説風水学|place=東京|publisher=東京書籍|year=1998|page=170-175}}</ref>。
 
=== 平安京 ===
これに対して[[足利健亮]]は、西白虎・大道を平安京西辺に沿って設けられたとする「木島大路」(この道は、史料的にも考古学的にも認められていない)、南朱雀・沢畔は下鳥羽付近の遊水池、あるいは横大路付近にある土地(字朱雀)との新説を主張した。別に、[[目崎茂和]]は、青龍=鴨川、白虎=[[双ケ丘]]もしくは[[西山]]、山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山・[[北山]]という説を述べた上で、「都を守る風水の目はいくつもあっていいし、多様に考えてみて」[http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/omoshiro/shikake17_01.php 京都新聞の記事「京の風水」より] と話しており、複数の四神と思しきポイントが学者や風水研究家から提出されている。
平安京については、東・青龍を[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]に、西・白虎を[[山陰道]]、南・朱雀を[[巨椋池]]、北・玄武を[[船岡山]]に、それぞれてる説が昭和50年ごろから[[村井康彦]]らにより広められ{{Sfnp|加藤|2016}}、現在ではこれが定説になった感がある<ref>現在では、「西 大道」を奈良期にはここを通っていなかった山陰道に宛てるのには異論があり、また「北 高山」を船岡山にてるのも低山に過ぎ、冬季に冠雪を見せる北山に当てる説がある。また「南 沢畔」を下鳥羽の遊水池([[鳥羽離宮]]の地)とする案がある。巨椋池は京域南方から東に寄りすぎており、朱雀の地とすのにはため無理があることを論拠としている。なお、足利健亮の指摘によれば下鳥羽のやや南方の横大路には「朱雀」という小字名が遺る(平安京朱雀大路の南延長線上に当たる)。{{harvp|加藤|2016|p=218}}</ref>。
 
これに対して[[足利健亮]]は、西白虎・大道を平安京西辺に沿って設けられたとする「木島大路木嶋大路)」<ref>この道(木島大路あるいは木嶋大路)は、史料的にも考古学的にもめられていない。</ref>、南朱雀・沢畔は下鳥羽付近の遊水池、あるいは横大路付近にある土地(字朱雀)<ref>足利健亮の指摘によれば下鳥羽のやや南方の横大路には「朱雀」という小字名が遺る(平安京朱雀大路の南延長線上に当たる)。</ref>との説を主張提唱した<ref>{{cite|和書|last=足利|first=健亮|year=1997|chapter=平安京計画と四神の配置|title=景観から歴史を読む:地図を解く楽しみ|series=NHK人間大学|publisher=日本放送出版協会|page=31-41}}</ref>。別に、[[目崎茂和]]は、青龍=鴨川、白虎=[[双丘]]もしくは[[西山]]、山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山・[[北山 (京都市)|北山]]という説を述べた上で、「都を守る風水の目はいくつもあっていいし、多様に考えてみて」[httpと話しており<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20070513052407/https://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/omoshiro/shikake17_01.php |type=html|title=京都新聞 2006年1月29日掲載の記事「京の風水」より] と話しており|accessdate=2023-1-1}}</ref>、複数の四神と思しきポイントが学者や風水研究家から提出されている。
一方、こうした四神をそれぞれ山川道澤に当てはめる説に対して、最近に至り異論も唱えられている。[[黄永融]]は、風水説である「天心十道」が当てはまると考えており、平安京は、船岡山・大文字山・西山・甘南備山(在 京田辺市)を四神として、その交差点に大極殿を建てたという説を立てた [http://mkcr.jp/archive/041019.html (この説の図)] が、中国哲学研究者で風水・易学についても著作のある[[三浦国雄]]はこの説に否定的な見解を述べている<ref>三浦『風水・中国人のトポス』平凡社ライブラリー ISBN 4582761054</ref>。歴史考古学研究者である加藤繁生は、平安京四神相応説に疑問を呈しつつ、仮にそうであってもそれが山川道澤であったはずはなく中国起源の都市風水に則り「三閉南開」の地形であったとし、「三閉」を京都盆地の東、北、西の三方を囲む山(東山・北山・西山)ではないかとしている{{Sfnp|加藤|2016}}。
 
一方、こうした四神をそれぞれ山川道澤に当てはめる説に対して最近に至り異論も唱えられている。[[黄永融]]は、風水説である「天心十道」が当てはまると考えており、平安京は、船岡山・大文字山・西山・甘南備山(在 京田辺市)を四神として、その交差点に大極殿を建てたという説を立てた<ref>{{cite|和書|author=黄永融|title=風水都市:歴史都市の空間構成|publisher=学芸出版社|year=1999|page=103-104|}}</ref><ref> [https://web.archive.org/web/20060614021542/http://mkcr.jp/archive/041019.html (この説の図)] </ref>が、中国哲学研究者で風水・易学についても著作のある[[三浦国雄]]はこの説に否定的な見解を述べている<ref>{{cite|和書|last=三浦|first=国雄|suthorlink=三浦国雄|title=風水・中国人のトポス|year=1995|publisher=平凡社ライブラリー ISBN |isbn=4582761054}}</ref>。平安京の「四神=山川道澤」説に対する批判として、歴史考古学研究者である加藤繁生は、平安京四神相応説に疑問を呈しつつ、仮にそうであってもそれが山川道澤であったはずはなく中国起源の都市風水に則り「三閉南開」といえる地形であったとし、「三閉」を京都盆地の東、北、西の三方を囲む山(東山・北山・西山)ではないかとしている{{Sfnp|加藤|2016}}。
また、平城京では、その建都にあたっての詔勅に「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮並に従ふ。)」とある。この「四禽図に叶ひ」とは四神相応のことであり、奈良時代には平城京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できるが、平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない。しかしそれを四神相応とする以上、奈良時代には別の解釈がとられていたことになる<ref>「四禽図に叶ひ」あるいは「四神相応の地」というのに具体性はなく単なる美辞麗句かもしれず、また「三山鎮を作し」とあるところを見ると平城京の東西と北にある丘陵地を指すと考えられ、四神の内少なくとも三神は丘陵地のことであったとも解せられる。また、[[鎌倉時代]]後期の『詞林采葉抄』では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、…」とあり、朱雀に「貴人金鳥」が対応付けられていることがわかる。</ref>。
 
また、四神相応によって京都が建都されたという思想は、福原遷都の際に遷都批判の理由付けとして成立したものとの指摘<ref>{{cite|和書|last=田中|first=貴子|title=安倍晴明の一千年|place=東京|publisher=講談社|year=2003|page=82-107}}</ref>や、平安京における四神と山川道澤」説との対応の典拠となは建都から時代を下ているた平安後期成立は、現在確認されている所では『[[作庭記]]』である。り、また、『作庭記』は[[寝殿造]]を念頭においた理想の庭園作り方を述べた書物であり、理想作法<ref>『作園の姿として記』における「四神=山川道澤」説をの対応は『周書秘奥営造宅経』にも同様の記述があり、『作庭記』のこの部分は中国から請来された書物から引用されたと推測され<ref>そして。また、『簠簋内伝』では、四神としての山川道澤がない場合に、特定の種類の樹木を特定の本数植えることで「四神=山川道澤」の代用となることを説いている特定の樹木。</ref>代用に解説するものという点は先性格上、平安京述べた『周書秘奥営造宅経』にも同様ついて言及はなく、ましてや平安京のどこが山川道澤のどれと対応しているかといった具体的地名などがされているわけではないことあり指摘される{{Sfnp|加藤|2016}}。<!--今後は、『作庭記』のこの部分はが参考にしたに違いない中国から請来の文献を探し出し、それが我が国に齎された書物か時期を明かにすることが必要であろう。その上で、造宅や造園の四神が都の選地の四神になぜ援用されたのかそのプロセス推測され時期を明らかにする必要もある。</ref-->
平安京については、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあり、「四神相応の地<ref>江戸時代の「都名所図会」四神相応の地作庭記』の項に「四神といふは、東を蒼龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武となづけて、四方にかくの如きの鬼神の象ありと思ふは非なり。本(もと)天の二十八宿を四ツ割りにして、七星づつを四方に配して、其星の象より起る名なり。‥‥。〔割註〕東涯制度通取意。」とあり、山川道澤説には全く触れない。</ref>というのも史書は現れないものの平城遷都の詔に「四禽図に叶い」とあところから、失われた平安遷都の詔にもそう書いてあった可能性はある。だが、「宅地風水」とは別物である「都市風水」は別物により平安京選地がなされたろうという理解基づけ立てば、当時そ平安京の四神が「山川道澤」でありを表象し、それぞれに具体的地形を当て嵌めていたという考え方言い難、当然相容れなことになる。<!--都には諸国から大道が通ずるべきなのに「西大道」一本でいいとする山川道澤説が都市の風水として不適当なのは明らかであろう{{Sfnp|加藤|2016}}。京都が四神相応の地であったというのはさておき、船岡山・鴨川・巨椋池・山陰道などを挙げて平安遷都を論じることには全く根拠がないとすべきである。以上のように、仮に平安遷都の際に四神相応が唱えられたとしても、その内に山川道澤がイメージされていたか不明である限り、学者たちがその比定に躍起になること自体、不毛の論議と言える。-->
「四神=山川道澤」説は『作庭記』が記された平安時代末期までしか遡り得ないのが現状である。
さらに『作庭記』は庭園作りの作法の解説という性格上、平安京についての言及はなく、ましてや平安京のどこが山川道澤のどれと対応しているかといった具体的地名などが記されているわけではない{{Sfnp|加藤|2016}}。<!--今後は、『作庭記』が参考にしたに違いない中国の文献を探し出し、それが我が国に齎された時期を明らかにすることが必要であろう。その上で、造宅や造園の四神が都の選地の四神になぜ援用されたのかそのプロセスと時期を明らかにする必要もある。-->
 
一方、『作庭記』よりも古い、[[1058年]]頃の成立といわれる『雲州消息』に、四神を山川道澤に対応させる考えが記されており四神相応思想は平安中期には成立していたとの指摘や<ref>{{cite|和書|last=繁田|first=信一|authorlink=繁田信一|title=陰陽師と四神相応の地相|journal=本郷|volume=第65号|publisher=東京:吉川弘文館|date=2006-9|page=18-21}}</ref>、また、[[天長]]5年([[828年]])の日付がある[[空海]]の「綜芸種智院式」に、綜芸種智院の立地について「兌白虎大道。離朱雀小澤。」との記載があることなどから、四神を山川道澤を対応させる考え方そのものは平安建都前後には成立していたとする見方もある{{Sfnp|多ヶ谷|2007}}。
平安京については、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあり、「四神相応の地<ref>江戸時代の「都名所図会」『四神相応の地』の項に「四神といふは、東を蒼龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武となづけて、四方にかくの如きの鬼神の象ありと思ふは非なり。本(もと)天の二十八宿を四ツ割りにして、七星づつを四方に配して、其星の象より起る名なり。‥‥。〔割註〕東涯制度通取意。」とあり、山川道澤説には全く触れない。</ref>」というのも史書には現れないものの平城遷都の詔に「四禽図に叶い」とあるところから、失われた平安遷都の詔にもそう書いてあった可能性はある。だが、「宅地風水」と「都市風水」は別物だという理解に基づけば、当時その四神が「山川道澤」であり、それぞれに具体的地形を当て嵌めていたとは言い難い。<!--都には諸国から大道が通ずるべきなのに「西大道」一本でいいとする山川道澤説が都市の風水として不適当なのは明らかであろう。京都が四神相応の地であったというのはさておき、船岡山・鴨川・巨椋池・山陰道などを挙げて平安遷都を論じることには全く根拠がないとすべきである。以上のように、仮に平安遷都の際に四神相応が唱えられたとしても、その内に山川道澤がイメージされていたか不明である限り、学者たちがその比定に躍起になること自体、不毛の論議と言える。-->
 
そもそも平安京について、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあるものの、四神相応の地として選地されたことは、『[[日本紀略]]』に示される平安遷都の詔<ref>「十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。」(『[[日本紀略]]』延暦十三年の条)[http://gauss0.livedoor.blog/archives/4046917.html]</ref>において「云々」と略された部分に記されたかもしれないが、史書には現れない。
[[鎌倉時代]]の『[[吾妻鏡]]』嘉禄元年十月廿日丁未条によれば、朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と、奈良興福寺の僧で法印であった[[珍誉]]との間で御所の移転先をめぐって論争があったが、珍誉は『作庭記』にある山川道澤の四神相応を採用して『若宮大路』を四神相応の地として推している。北条泰時の鎌倉幕府は珍誉の説を採用して嘉禄元年(1225年)に御所を若宮大路に移転させた。珍誉の言は以下のように記録されている。
だが、[[古墳時代]]後期の[[高松塚古墳]]、[[キトラ古墳]]には四神図、星宿図があり、平安京に先立つ平城京では、その建都にあたっての詔勅<ref>「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮並に従ふ。)」(『[[日本書紀]]』[[和銅]]元年([[708年]])2月戊寅の詔)「四禽」は四つの動物、すなわち四神のこと。</ref>に「四禽図に叶い」と四神相応の地であると考えられていた。
 
平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない<ref><!--「四禽図に叶ひ」あるいは「四神相応の地」というのに具体性はなく単なる美辞麗句かもしれず、また-->「三山鎮を作し」とあるところを見ると平城京の東西と北にある丘陵地を指すと考えられ、四神の内少なくとも三神は丘陵地のことであったとも解せられる一方で、それを四神相応とする以上、別の解釈がとられていたことになる。</ref>が、このような現在考えられる平安京での四神と山川道澤との対応とは場所によって異なる対応の「四神相応」が、平泉の[[毛越寺]]の古鐘銘の例<ref>右白虎には道ではなく「有大沢」となっており、前朱雀は沢畔ではなく「有森」であるなど。{{cite|和書|author=前川佳代|title=平泉の苑池 ―都市平泉の多元性―|journal=平泉文化研究年報|volume=第1号|place=盛岡|publisher=岩手県教育委員会|year=2001|page=59-70}}</ref>など<ref>平城京は、[[鎌倉時代]]後期の『詞林采葉抄』では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、…」とあり、朱雀に「貴人金鳥」が対応付けられていることがわかる。</ref>にみられるように、平安京建都や『作庭記』の成立以降の鎌倉時代においても存在したことを示している{{Sfnp|多ヶ谷|2007}}。<!--すなわち、平安京の場合と異なる四神と地整との対応であることをもって「四神相応」の思想による選地・作城を否定する根拠とはならないといえる。-->
 
このように日本における四神相応の解釈は古代から近世にかけて独自に変化し日本独自、現在のものとなったと考えられる。
 
=== 平安京以外の都市 ===
{{出典の明記|section=1|date=2023年1月}}
{{参照方法|section=1|date=2023年1月}}
{{独自研究|section=1|date=2023年1月}}
 
[[鎌倉時代]]の『[[吾妻鏡]]』嘉禄元年十月廿日丁未条によれば、朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と、奈良興福寺の僧で法印であった[[珍誉]]との間で鎌倉幕府の御所の移転先をめぐって論争があったが、珍誉は『作庭記』にある山川道澤の四神相応を採用して『若宮大路』を四神相応の地として推している。北条泰時の鎌倉幕府は珍誉の説を採用して嘉禄元年(1225年)に御所を若宮大路に移転させた。珍誉の言は以下のように記録されている。
<blockquote>
若宮大路者、可謂四神相応勝地也。西者大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、可准池沼云々。
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(大意)若宮大路は四神相応の勝地というべきである。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛えており、池沼に准ずべきである云々。
</blockquote>
このように朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と珍誉との間で論争があったということは、朝廷の[[陰陽寮]]では山川道澤の四神相応は採用されていなかったことを示唆している<ref>山川道澤の四神相応が[[8世紀]]後葉に建設された平安京選地の思想的背景であるとの前提に立った主張については今のところ裏付けがないことに留意が必要である。</ref>
 
近世の城について、[[江戸城]]は菊池弥門の『[[柳営秘鑑]]』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記される一方、地形をもって「四神=山川道澤」説に合致しているとは言い難く<ref>「四神=山川道澤」説を採用するとすれば、どう贔屓目にみても朱雀となりそうな[[東京湾]]は東から南東を経て南への広りがあるわけだし、白虎となりそうな[[甲州街道]]も単に西に延びているだけである。(珍誉のいう山川道澤の四神相応では、西の大道は南行している必要がある。)</ref>、[[姫路城]]や[[福山城 (備後国)|福山城]]<ref>[[西国街道]]は東から西に伸びているわけで、これを白虎として[[瀬戸内海]]を朱雀とするなら西国街道沿いには四神相応でない場所の方が少ないであろう。</ref>、[[熊本城]]などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。
 
[[名古屋城]]については、『[[金城温古録]]』では「四神相応の要地の城」とされ、四神相応の考え方が城地選定の一つの要因として考慮されていたと考えられるが、四神相応は山川道澤とは明らかに異なっている<ref>「名府御城の如きは、道を四道に開かれて、四方より人民輻湊する事、恰も天下の城の如く十里に嶮地を置き、東は山、南は海、西北は木曾川あり、その中間、三五里を隔て要害設し給ふ(中略)、先は東は八事山の砦柵、西は佐屋、清州の陣屋(中略)、城、場、郭の三を備へ、四神相応の要地の城とは、これを申奉るなるべし」と記述されている。</ref>。このことは、少なくともこの時期には、四神相応が単に好い土地であることの言い換えに過ぎなかった可能性を示す。
74 ⟶ 87行目:
また古代中国の風水では特定の方位について固定した吉凶をとる考えはなく、[[鬼門]]・裏鬼門を忌むのは日本独自の考え方である。その点で、[[大宰府]]の鬼門を護るために[[大宰府]]建設時に[[竈門神社]]が創建されたという『竈門山旧記』の記述から「鬼門」という概念の出現する前提としての「風水」が大宰府の都市計画(北の大野山(大城山)を玄武、東の[[御笠川]]を青龍、西の[[西海道]]を白虎、南の田園及び[[二日市温泉 (筑紫野市)|二日市温泉]]を朱雀とする)が立てられた時に存在したという主張は確かなものではない。
 
このように四神相応の解釈は古代から近世にかけて変化し日本独自のものとなったと考えられる。
<!--
'''==== 現代の日本で一般に流布している説の例''' ====
<table border="1">
<tr><td>方角</td><th>東</th><th>西</th><th>南</th><th>北</th><th>北東</th><th>南西</th>
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==現代に残る四神相応の例==
[[ファイル:Chirashi-zushi.jpg|thumb|300px|ちらし寿司]]
*[[大相撲]] - [[土俵]]上にある4つの色分けされた房は元来方屋の屋根を支えた4柱の名残であり四神を表している。
*[[ちらし寿司]] - 四色の具材で四神または[[四季]]、五色([[五行]])の具材で[[宇宙]]を表現しているといわれる。
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==脚注==
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{{Reflist|3}}
 
==参考文献==
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* {{Cite|和書|last=加藤|first=繁生|title=「京都検定」を検定する(一)「四神相応の都」|journal=史迹と美術|publisher=史迹美術同攷会|volume=867|page=212-222|date=2016-8-28|ISSN=0386-9393}}
* 寺本健三『風水説研究』(京都・中西印刷)2016年
* {{cite|和書|last=多ヶ谷|first=有子|title=平安京 境界考|journal=関東学院大学文学部紀要|volume=第112号|year=2007|url=https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=NI20000318&elmid=Body&fname=181tagaya.pdf&loginflg=on&block_id=_296&once=true|type=pdf|ref=harv}}
 
 
==関連項目==