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| 各国語表記 = {{en|George W. Bush}}
| 画像 = George-W-Bush.jpeg
| 画像サイズ =200px
| キャプション = 大統領公式肖像(2003年1月14日)
| 生地 = {{USA1912}} [[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]
| 出身校 = [[イェール大学]]<br />[[ハーバード・ビジネス・スクール|ハーバード大学大学院]]
| 配偶者 = [[ローラ・ブッシュ]]
| 子女 = [[バーバラ・ピアース・ブッシュ]]<br/>[[ジェンナ・ブッシュ]]
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| サイン = GeorgeWBush Signature.svg
| 国名 = {{USA}}
| 職名 = [[
| 就任日 = [[2001年]][[1月20日]]
| 退任日 = [[2009年]][[1月20日]]
| 副大統領 = [[ディック・チェイニー]]
| 国名2 = {{Flag|Texas}}
| 職名2 = [[
| 就任日2 = [[1995年]][[1月17日]]
| 退任日2 = [[2000年]][[12月21日]]
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|title = $1.35 trillion tax cut becomes law
|accessdate = 2007-10-21
}}</ref>、2002年には全国一斉学力テストを義務化して成績次第で助成金とペナルティを学校に課す「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」(通称:[[:en:No Child Left Behind Act|落ちこぼれゼロ法]]<ref>{{Cite web
2001年9月11日に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受け、ブッシュは世界的な「[[対テロ戦争|テロとの戦い]]」を発表した。ブッシュへのアメリカ国民の支持率は同時多発テロ事件後<ref name="Reuters">{{cite web|url=http://www.reuters.com/article/topNews/idUSN1624620720071017?feedType=RSS&feedName=topNews&rpc=22&sp=true|title=Voters Unhappy with Bush and Congress|date=October 17, 2007|accessdate=2007-10-17|publisher=Reuters}}</ref>、歴代のアメリカ合衆国大統領の中で最高値である91パーセントにまで達した<ref name="USA Today">{{cite news|url=http://blogs.usatoday.com/onpolitics/2007/07/usatgallup-po-1.html|accessdate=2007-11-28|publisher=USA Today|date=10 July 2007|title=USAT/Gallup Poll:Bush approval at new low;Republican support eroding}}</ref>。後に[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガン侵攻]]に臨み、[[ターリバーン]]政権を打倒して[[アルカーイダ]]を壊滅させ、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]を[[デッド・オア・アライブ]]<ref>[http://abcnews.go.com/US/story?id=92483 Bush: Bin Laden Wanted Dead or Alive - ABC News]</ref>として[[逮捕]]あるいは[[殺害]]することを命じた。2003年3月、ブッシュ・[[ディック・チェイニー|チェイニー]]政権は[[イラク]]の[[イラク武装解除問題|武装解除]]および[[民主化]]とイラク国民の[[独裁者]]からの解放などを掲げた法案を[[民主党 (アメリカ)|民主党]]・[[共和党 (アメリカ)|共和党]]両党の全会一致で可決して[[イラク戦争]]に臨み、独裁者である[[サッダーム・フセイン]]政権の打倒・排除に成功した。イラクについては「[[イラク]]が[[国際連合安全保障理事会決議1441]]に違反しており、戦争がアメリカ合衆国の保護のために必要だった」と発言している<ref>{{cite web|url=http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2003/03/20030319-1.html|title=March 18, 2003 Presidential Letter|publisher=Whitehouse.gov|accessdate=2006-05-25}}</ref><ref>{{cite web|url=http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2003/02/20030205-1.html|year=February 5, 2003|title=U.S. Secretary of State Colin Powell Addresses the U.N. Security Council|first=Colin|last=Powell|publisher=Whitehouse.gov|accessdate=2006-05-25}}</ref>。
[[イラク戦争]]の最中、ブッシュは「戦時大統領」と自称して<ref name="War President">{{cite web|url = http://www.msnbc.msn.com/id/4179618/|title = Transcript for Feb. 8th|accessdate = 2006-09-09|date= 2004-02-08|publisher = MSNBC}}</ref>[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]に再選を狙って出馬し、イラク戦争と国内問題の遂行をめぐる論争にもかかわらず、上院議員の[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]に大きな差をつけて2004年11月2日に再選された<ref>[http://uselectionatlas.org/RESULTS/national.php?year=2004 2004 Presidential Election Results]</ref><ref>[http://www.debates.org/pages/trans2004d.html 13 October 2004 "The Third Bush-Kerry Presidential Debate" transcript]</ref><ref>CNN's exit poll showed Terrorism (19パーセント) and Iraq (15パーセント) as the third and fourth most important issues behind Moral Values (22パーセント) and the Economy (20パーセント) [
しかし再選後のブッシュは益々激しい批判を受けた。ブッシュの国内の支持率は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ直後の<ref name="Reuters"/>91パーセント(ザ・ギャラップ・オーガナイゼーションがこれまでに記録した中の最高値)<ref name="USA Today"/>から、[[2008年]][[2月20日]]には記録に残る中で最も低い現職アメリカ合衆国大統領支持率<ref>{{cite news|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/07/24/AR2007072402263.html?hpid=moreheadlines|accessdate=2007-07-25|publisher=[[Washington Post]]|date=25 July 2007|title=Disfavor for Bush Hits Rare Heights;In Modern Era, Only Nixon and Truman Scored Worse, Just Barely}}</ref>となる19パーセントにまで低下した。このときブッシュの不支持率は76パーセントまで上昇し、国内ではブッシュ批判が激しさを増した<ref>{{cite web|url=http://americanresearchgroup.com/economy/|title=American Research Group:The National Economy|date=February 20, 2008|accessdate=2008-02-20|publisher=[[American Research Group]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090125052550/http://americanresearchgroup.com/economy/|archivedate=2009年1月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。それは2009年1月20日に後継の[[バラク・オバマ]]に[[政権]]をバトンタッチするその日まで続いた<ref>[http://www.j-cast.com/tv/m/2009/01/21033961.html ブッシュの「成功」に勝てるか 麻生首相の実績とは] J-CASTモバイル テレビウォッチ</ref>。しかし退任後の好感度は上昇しており、2009年1月の退任時には33%だった好感度が2018年1月には61%にまで上昇した。
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|date= 1999-11-01
|accessdate = 2007-01-21
}}</ref>。この買収劇に父親の名前がプラスに働いたことをブッシュ自身が認めているが、オーナーとしては精力的に働き、前身球団を含めて1996年に初の地区優勝を果たすなど徐々に優勝できるようになっていたほか、[[
</ref> <ref>{{cite web
|url = http://www.tsl.state.tx.us/governors/modern/bush-p04.html
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|publisher = [[Texas State Library and Archives Commission]]
|accessdate = 2007-01-21
}}</ref>。[[1998年]]
|url = http://www.makethemaccountable.com/tax/SaleOfBaseballTeam.htm
|title = Sale of baseball team
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任期9か月目の[[9月11日]]、[[ニューヨーク]]とワシントンD.C.で'''[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]'''が発生。3日後の[[9月14日]]、[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]跡地(いわゆる[[グラウンド・ゼロ]])を見舞い<ref name="Bush tours ground zero"/>、救助作業に当たる消防隊員や[[警察官]]らを拡声器で激励してリーダーシップを発揮し、歴代トップだった[[湾岸戦争]]開戦時の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]の89パーセントをも上回る驚異的な支持率91パーセントを獲得した。18日には[[:en:Authorization for Use of Military Force Against Terrorists|テロを計画・承認・実行・支援したと大統領が判断した国家・組織・個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与える]]とする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る(これは[[グアンタナモ湾収容キャンプ]]での無期限の拘留の根拠となる)。12日に開かれた[[国際連合安全保障理事会]]と第56回[[国際連合総会]]ではアメリカに連帯、哀悼を表してテロへの対応を求める決議が満場一致で採択され、28日には安保理決議でテロ対策が全世界に義務化され<ref>[http://www.state.gov/p/io/rls/rpt/2001/6917.htm U.S. Report to the UN Counterterrorism Committee]</ref>、11月10日に[[ニューヨーク]]の[[ルドルフ・ジュリアーニ]][[ニューヨーク市長|市長]]とともに[[国際連合]]総会の演説で国際社会の支持に感謝して[[テロとの戦い]]を宣言した<ref>"U.S. President Bush's speech to United Nations". CNN.com. November 10, 2001</ref>。また、[[炭疽菌]]小包による[[バイオテロ]]である[[アメリカ炭疽菌事件]]も起き、同時テロとともに国内はパニック状態になった。
ブッシュ自身は、[[第三次世界大戦]]<ref>"Bush likens 'war on terror' to WWIII". ABC News Online – Abc.net.au. 06/05/2006.</ref>とも呼んだこの戦争は、[[10月7日]]に'''[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタンへの侵攻]]'''によって開始され、世界各地で[[不朽の自由作戦]]が実行された。国際的なテロリズムとの戦いにも必要として[[国際的監視網]]も秘密裏に強化した。国内では、テロ対策に不可欠だとして「'''パトリオット法'''」([[米国愛国者法]])を制定し、本来アメリカの領土ではないとされる[[国際連合本部ビル|国連本部]]に対しても監視していたとする{{仮リンク|国連盗聴疑惑|en|Spying on the United Nations}}も起きた。アフガニスタン作戦は順調に進み、[[12月7日]]には[[ターリバーン|タリバーン]]政権は転覆し、同月に新政権を樹立させた。
{{Main|アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)}}
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==政権==
===政権スタッフ===
{|class=wikitable align=
!職名!!氏名!!任期
|-
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|[[マイケル・チャートフ]]||2005 - 2009
|}
{{clear}}▼
ブッシュ政権の[[外交政策]]は、[[新保守主義 (アメリカ)|ネオコン]]と称される閣僚が要職を多く占め、さらに[[宗教右派|キリスト教右派]]を支持母体にしているため、中東の原油をめぐる利権の追求、それに伴うアフガニスタンやイラク侵攻などに関して、対外的な武力行使も辞さないアメリカの覇権を追求する[[単独行動主義]](ユニラテラリズム)が顕著であり、[[第十次十字軍]]と諷刺されることもあった。
このような[[タカ派]]ともとれる姿勢は、アフガニスタン侵攻、イラク戦争など戦時のたびに、ブッシュ大統領本人のみならず、閣僚・政権関係者が所有・関係する企業([[軍産複合体]])などに莫大な経済的利益をもたらす構造が度々指摘された。
▲{{clear}}
===政策===
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およびこの戦争では、[[バグダード]]が占領される前より、占領した後に死傷した兵士の数の方が多い。戦車や戦闘機など大掛かりな兵器を早々に手放して兵力を温存させ、隠しておいた[[手榴弾]]や小型爆弾のような小型の兵器、あるいは地雷などを流用した[[即席爆発装置]]を使って[[ゲリラ戦]]に持ち込まれたことがその要因である。[[イラク治安部隊|イラク軍]]内では開戦前からそのような方法が研究されていたにもかかわらず、情報を見過ごしていた、あるいは過小評価していたことが要因である。これは完全に先見の明がなかったことをあらわしている。
-->
:イギリスの歴史家のポール・ケネディは読売新聞紙上に載せたコラムで、[[第二次世界大戦]]の二人の指導者、[[フランクリン・ルーズベルト]]が小児マヒでありながら国外の戦略会議に3回出席したことやポツダム宣言で果たした役割、さらに[[ウィンストン・チャーチル]]が主要な戦場に何回も足を運んだことを指摘し、一方のブッシュが開戦から5年の間にイラクに訪問したのはいずれも数時間足らずで合計するとイラクに居たのは一日にも満たないと両者を対比しながら述べている。またブッシュは石油の利権を手に入れた事でそのあがり<ref>{{Cite web
:ブッシュは「イラク撤退はベトナムの二の舞いになる。アメリカ軍撤退はアメリカの信頼性を傷つけ、テロリストを勢いづかせる」と主張した<ref group="注釈">[[ベトナム戦争]]ではアメリカ軍撤退後に隙を狙った[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]がサイゴンを陥落させ、[[ベトナム]]でもアメリカ軍に協力した[[南ベトナム]]の市民は北ベトナム政府によって[[強制収容所]]に送られ[[虐殺]][[拷問]]とひどい扱いを受けた。</ref><ref>[http://www.biglizards.net/strawberryblog/archives/2007/08/post_524.html]</ref>。
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;日本
[[ファイル:Abductee families of North Korean abductions.jpg|thumb|[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)に[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致]]された[[横田めぐみ]]の家族と[[脱北者]]の少女と会見するブッシュ]]
:2002年に来日したことがある<ref>{{Cite web
:小泉純一郎の[[内閣総理大臣|首相]]在任中には個人的な繋がりをアピールし、「ジョージ」、「純一郎」と呼び合うほどの仲であった。2006年6月に小泉がアメリカを訪問した際には、ワシントンD.C.から小泉がファンである[[エルヴィス・プレスリー]]の自宅兼[[博物館]]のある[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]まで[[エアフォースワン]]で同乗し、プレスリーの自宅を自分の妻とプレスリーの元妻とその娘との4人で案内するなどした。
:その一方で[[在日米軍再編|在日アメリカ軍再編]]や[[米国産牛肉|アメリカ産牛肉]]の輸入問題などで日米両政府の見解が一致しない政策もある。また、後半には核施設の無力化のみを条件に北朝鮮に対して妥協するなど、拉致問題で対北朝鮮強硬姿勢を取る日本との歩調のズレが目立った。
:アメリカの歴代政権は同盟国である日本の常任理事国入り自体には積極的な支援を表明してきたものの、2005年7月に入って日本が安全保障理事会常任理事国入りの手段とするG4案への「ノー」を断固として表明した。日本だけでなく[[ドイツ]]・[[ブラジル]]・[[インド]]が安全保障理事会常任理事国になるというG4案は安保理全体の大幅拡大が前提であり、ドイツの[[ゲアハルト・シュレーダー]][[政権]]がイラク問題その他で一貫してアメリカの方針に反対してきたためか、アメリカはG4案には正面から反対した<ref>{{Cite web
:2007年8月、アメリカ中西部[[ミズーリ州]]の[[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]で行った演説において、「敵は自由を嫌い、アメリカや[[西ヨーロッパ]]諸国が自分たちを{{Ruby|蔑|さげす}}んでいることに怒りを抱き、大虐殺を産み出した自殺的な攻撃を繰り広げました。どこかで聞いた話のようですが、私が述べる敵とは、[[アルカーイダ]]ではなく、9.11テロでもなく、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]でもなく、パールハーバー(真珠湾)を攻撃した1940年代の[[大日本帝国]]の軍隊のことです」。[[第二次世界大戦]]前の日本について「[[民主主義]]は日本では決して機能せず、[[日本人]]もそう思っているといわれてきたし、実際に多くの日本人も同じことを信じていました。民主主義は機能しないと」、「日本の[[国教]]である「[[神道]]」があまりに狂信的で、[[天皇]]に根ざしていることから、民主主義は日本では成功し得ないという批判もあった」と述べている<ref>https://www.j-cast.com/2007/08/27010694.html</ref>。
:2009年1月14日、退任直前にブッシュは盟友としてトニー・ブレアらに大統領自由勲章を授与したが、日本の政治家には贈られていない。大統領退任後の2009年11月3日に日本シリーズ第3戦(巨人対日本ハム)で巨人の黒のジャンパーを着て笑顔で1球を投じた。小泉純一郎元首相、ジョン・ルース駐日米大使、前駐アメリカ合衆国大使の加藤良三コミッショナー、王貞治コミッショナー特別顧問らと観戦した。
:なお歴代アメリカ合衆国大統領で、初めて来日した1974年11月の[[ジェラルド・R・フォード]]以降前大統領の[[バラク・オバマ]]までの間、国賓としての来日が無かった唯一の大統領である<ref name="mainichi171106">{{Cite web
[[File:Jiang_and_Bush_2001.jpg|thumb|right|200px|[[江沢民]][[中華人民共和国主席|国家主席]](左)と]]
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;北朝鮮
:大統領就任前のブッシュは北朝鮮問題に関心も知識も乏しかった。2000年6月の大統領候補時代に、友人である[[サウジアラビア]]の[[バンダル・ビン・スルターン]][[サウジアラビアの国王一覧|王子]]と会談した際、「なぜ自分が北朝鮮のことを心配しなければならないのか?」とこぼして、王子に「北朝鮮の国境付近には3万8,000人のアメリカ兵が駐留しているため、北朝鮮が国境を越えて侵攻すればおそらく1万5000人が戦死して、合衆国は途端に戦争へ突入するからです」と諭されている<ref>[[ボブ・ウッドワード]]『State of Denial:Bush at War, Part III』</ref>。就任後はクリントン政権の宥和策に反対してきた[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の姿勢に沿って、「[[悪の枢軸]]」として批判を行うなど強硬姿勢を取っている。[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]についても、2006年にアメリカを訪問した横田夫妻ら被害者家族との面会時に断固たる姿勢で望む事を表明していた。
:しかし、[[北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮の核実験]]実施や他の外交政策の不振から、「核施設の無能力化を進めれば、拉致問題の進展とは関係なく、[[テロ支援国家]]指定を解除する」との立場を北朝鮮に伝えていたことが明らかになっている<ref>{{Cite web
:だが、土壇場の8月11日に「しっかりとした(核施設の)検証体制を示さない」ことを理由に北朝鮮のテロ支援国家指定解除の発令に対する署名を拒否した。そもそも6月26日の指定解除手続きに関する発表<ref>http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-9.html</ref>では、同時に北朝鮮および北朝鮮の国民に関する確定的な(移動)制限を継続することについての大統領令({{en|Executive Order:Continuing Certain Restrictions with Respect to North Korea and North Korean Nationals}})<ref>http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-4.html</ref>も発表しており、この時点で北朝鮮による手続きが履行されても不履行であっても、対北朝鮮制裁を解除する意志がなかったことが、この大統領令の存在から明らかになっている。オバマ政権に交代後の2009年4月に北朝鮮は核兵器開発の再開と六カ国協議からの離脱を表明することとなった。
:[[2005年]]には[[脱北者]]の[[姜哲煥]]をホワイトハウスに招待している。
486行目:
:イラク戦争が末期に入った2006年[[11月17日]]、[[ベトナム]]の[[ベトナム社会主義共和国主席|国家主席]][[グエン・ミン・チェット]]とアメリカの大統領であるブッシュが[[ハノイ]]で会談し、ベトナムとアメリカの友好関係を誇示した。これは、冷戦後の「米越同盟」の強化と、後に「[[VISTA]]」の一角と呼ばれるようになったベトナムの[[経済成長]]を布告するものになった。
;フィリピン
:2008年に[[フィリピン]]に対して食料価格高騰や台風6号の被害に苦しむ同国民を助けるため、アメリカ海軍の原子力空母[[ロナルド・レーガン (空母)|ロナルド・レーガン]]を被災地に派遣して食料支援を行った。ジョージ・W・ブッシュは会談後、台風の犠牲者らに弔意を表明。[[フィリピンの大統領]][[グロリア・アロヨ]]が[[モロ・イスラム解放戦線]](MILF)や[[イスラーム過激派]][[アブ・サヤフ]]などの反政府勢力に対し、対話と圧力による硬軟両様のテロ対策を進め、効果を上げていると評価した<ref>{{Cite web
;メキシコ
:隣国で強い経済関係を持つ[[メキシコ]]に対しては強い親近感を示し、これまでの歴代大統領は就任後初の訪問国として[[カナダ]]を訪れていたが、子ブッシュは就任後初の訪問国としてメキシコを訪れている。なお、この様なメキシコに対する親近感には、テキサス州知事選挙をはじめとする過去の選挙戦において、テキサス州で多くの票を持つメキシコ系アメリカ人からの支持を受けていたことが強く影響していると言われている。
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第1回の大統領選挙の公開討論の席で、[[アル・ゴア]]がブッシュを小馬鹿にするような態度を示したが、それに対し誠実な対応を行ったことが有権者の好意的評価に結びついたとされる。
戦争中にラムズフェルドが戦死した兵士の家族への手紙の署名に[[オート
[[AP通信|AP通信社]]がアメリカ国民を対象に行った[[世論調査]]では、2006年の「憎まれ役」「英雄」でそれぞれ1位に選ばれた。ちなみに「憎まれ役」は2位以下、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]、[[サッダーム・フセイン]]、[[マフムード・アフマディーネジャード]]、[[金正日]]。「英雄」は2位以下、イラク駐留アメリカ軍、バラク・オバマ。また、[[ジョン・F・ケネディ]]以降の歴代大統領を、ホワイトハウスで取材してきたジャーナリスト、[[ヘレン・トーマス]]は、彼を「今までで最悪の大統領。アメリカ史上最悪の大統領({{en|This is the worst President ever. He is the worst President in all of American history.}})」<ref>http://en.wikiquote.org/wiki/Helen_Thomas</ref>と酷評している。一方でライス国務長官は政権末期のアメリカ[[CBS]]テレビとのインタビューで、ブッシュが直面してきた状況について「[[第二次世界大戦]]後で最も厳しい時期だったのではないか」との見方を示し、そのなかでブッシュが下してきた決断は「時を経て記憶にとどまるだろう」とし、イラクのフセイン政権打倒や中国・[[インド]]・ブラジルなどとの良好な関係を例に挙げ、「歴史がブッシュ政権に良い評価を下すだろう」と述べた。
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