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{{参照方法|date=2011年8月}}
{{Infobox religious building
| building_name= {{PAGENAME}}サンタ・マリア・デル・フィオーレ<br>大聖堂<br /><small>{{lang|it|Basilica di Santa Maria del Fiore}}<br> {{it icon}}<br />{{lang|la|}} Basilica Sanctae Mariae Floris <br>{{la icon}}</small>
| image=Florence_Duomo_from_Michelangelo_hill.jpg
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| materials=[[大理石]]、[[煉瓦]]
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[[ファイル:SMDFplan.jpg|thumb|300px|旧聖堂・大聖堂計画・現大聖堂の平面]]
 
[[ファイル:SMDFplan2.jpg|thumb|300px|大聖堂 配置図]]
[[ファイル:StMariadelFiore-outer.jpg|thumb|左から洗礼堂・大聖堂・鐘楼(西からの眺め)]]
'''サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂'''(サンタ・マリア・デル・フィオーレだいせいどう、{{Llang|言語記事名=イタリア語|it|Cattedrale di Santa Maria del Fiore}})は、[[イタリア]]の[[フィレンツェ]]にある[[キリスト教]]・[[カトリック教会|カトリック]]の教会である。フィレンツェの[[大司教]]座聖堂であり、[[ドゥオーモ]](大聖堂)、[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]、[[ジョットの鐘楼]]の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意である。
 
== 概要 ==
巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期[[ゴシック建築]]および初期[[ルネサンス建築]]を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大{{要出典|date=2011年11月}}である。このドームは予算削減と耐久性を考慮し、二重構造のドームで互いを押し合う設計になっており、木枠を使わずに[[煉瓦]]を積み上げて製作している([[:en:Opus spicatum]]を参照)
[[ファイル:SMDFplan2.jpg|thumb|300px|大聖堂 配置図]]
巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期[[ゴシック建築]]および初期[[ルネサンス建築]]を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大{{要出典|date=2011年11月}}である。
 
建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東に[[バシリカ|ラテン十字]]の平面をもつ大聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつキリスト教において東はイエス・キリストを象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった{{要出典([[西ヨーロッパの大聖堂建築#中心線|date=2011年11月}}西ヨーロッパの大聖堂建築]]を参照)。
 
[[鐘塔|鐘楼]]は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。
 
三つの建築物とも世界遺産[[フィレンツェ歴史地区]]の一部として指定されている。
 
=== 建築 ===
== サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 ==
[[1296年]]から140年以上をかけて建設された<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/サンタマリアデルフィオーレ大聖堂-514190 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-17 }}</ref>。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック様式に仕上がっている。[[ドーム|クーポラ身廊]]とランタン(採光部)は初期[[ルネサンス]]、そして[[19世紀]]に完成した[[ファサード]](正面)は[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ネオ・ゴシック]]による混成様式である。全長153m、最大幅90m、高さ107m114mドームは八角形の大クーポラの内径43m。聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい{{要出典|date=2011年11月}}。
 
=== 歴史 ===
[[ファイル:SMDFplan.jpg|thumb|300px|旧聖堂・大聖堂計画・現大聖堂の平面]]
[[ファイル:StMariadelFiore-inner.jpg|thumb|大聖堂の内部空間]]
現在のドームは3代目にあたる。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っており、[[サンタ・レパラータ教会堂]]と呼ばれ、フィレンツェで二番目に古い教会堂だった。最初この遺構は現在の聖堂の地下に埋まっている。この教会堂は[[4世紀]]から[[5世紀393年]]に古代ローマ時代の[[ドムス]]跡に建設され、ミラノ司教[[アンブロジウス]]によって献堂されたが、[[東ローマ帝国|ビザンティン]]時代の戦役によって破壊されたために、[[7世紀]]から[[9世紀]]にかけて再建修復された。現在、この[[ロマネスク]]様式の大聖堂は建築となった。現在その内観遺構の一部公開されており、側廊を持ち後陣を柱で分ける平面形式をみることができる。
 
フィレンツェの街が発展していく中で、教会堂は次第に手狭となっていった。[[14世紀]]に至るまで、建築、芸術の双方において主導権をにぎること分野で目立った実績のなかったフィレンツェだったが、[[ピサ]]や[[シエーナ|シエナ]]の大聖堂建立に触発されてこれを凌ぐ規模の大聖堂の建設を開始しが計画された。[[1294年]]、フィレンツェ羊毛業組合 (Arte della Lana) は、最も高名な彫刻家石工であった[[アルノルフォ・ディ・カンビオ]]にその設計を依頼した。のちに多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があるが、その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部が[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]の影響を受けて八角形であったこと、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実である。
 
[[1296年]][[9月8日]]の起工式においてサンタ・マリア・デル・フィオーレと命名され、建設が開始される。市評議会は聖堂建設のために輸出するすべての物品に対し[[関税]]を、市民に対しては[[人頭税]]を課すことを決定した<ref>森田義之監訳『ヴァザーリ ルネサンス彫刻家建築家列伝』p16。</ref>。しかし[[1302年]]にアルノルフォが死去、建築はいったん中断した。大聖堂のための石材は、[[パラッツォ・ヴェッキオ宮殿]]と第3市壁のために転用された。建築依頼主であるフィレンツェ羊毛業組合は建築責任者の後任を探し、[[1334年]]に[[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジョット]]を指名した。彼は、鐘楼の計画を押し進めたが、塔の建築途中([[1337年]])に死去した。
 
[[1355年]]から再開された工事は、[[フランチェスコ・タレンティ]]、[[アルベルト・アルノルディ]]、[[ジョヴァンニ・ダンブロージョ]]、[[ジョバンニ・ディ・ラポジーニ]]、[[ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ]]、[[オルカーニャ]]などの手を経る。とくにタレンティは、[[1357年]]から[[1366年]]にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 [[1380年]]には大聖堂の[[身廊]]が完成し、[[1418年]]にはクーポラ(ドーム部分を残すのみとなった。
 
[[ファイル:View of the Duomo's dome, Florence.jpg|thumb|left|大聖堂の天蓋ドーム]]<!-- StMariaCupola.jpg ブロンズ球が見えるものに差し替えました。 -->
14世紀末から、ポラの架構は建設が危惧されていたが、[[1410年]]には中央上部にドラム(ポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困なものしい局面入った。記録には、[[1417年]]までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。[[1418年]][[8月19日]]、ポラの模型公募の布告が行われ、[[ロレンツォ・ギベルティ]]、[[フィリッポ・ブルネレスキ]]と[[ドナテッロ]]、そして[[ナンニ・ディ・バンコ]]の案の応募があった。(当時の建築技術で)ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。[[1420年]][[4月16日]]、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。[[1420年]][[8月7日]]、建設が開始され、[[1434年]][[8月30日]]にはポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、[[1436年]][[3月25日]]には[[教皇]][[エウゲニウス4世_(ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]によって大聖堂の献堂式が行われた(この献堂式の際に[[ギヨーム・デュファイ]]作曲の[[モテット]]「[[バラの花が咲く頃]]」が演奏された)。このポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。
 
ブルネレスキはポラを完成させたが、クーポラ頭頂部せる[[キューポンタ (建築)|キュン(明り取りの先端部)ポラ ]]については[[1436年]][[12月31日]]に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランタキュポラを載せる方法についてのコンテストが行われた。これには[[ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ|ミケロッツォ]]設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の[[1446年]][[3月13日]]に建設が始まり、[[1461年]]に完成するした
 
天蓋の天頂にあるブロンズ製の球<!-- 地球儀? -->は彫刻家[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]が製作した。当時、ヴェロッキオの弟子であった[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、このブロンズ球を天蓋に揚げる際に使われた[[フィリッポ・ブルネレスキ|フィリッポ]]の機械に魅了され、スケッチに取って絶賛した<ref>Ross King, Brunelleschi's Dome, p. 69</ref>。
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また、レオナルド・ダ・ヴィンチはパリ手稿Gで「私達がサンタ・マリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆している<ref>Paolo Galluzzi, "Leonard de Vinci, engineer and architect",p. 50</ref>。
 
[[ファイル:Santa_Maria_del_FioreSanta Maria del Fiore.JPG|thumb|大聖堂の正面]]
外観で最も重要な部分である大聖堂西側の[[ファサード]](正面)はアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。カンビオの死後、その設計に基づくファサードは下部のみが完成した状態であった。しかし[[1490年代]]には、このファサードは堅固でないという報告がされた。[[ロレンツォ・デ・メディチ]]によってファサード再建が提議され市民はこれを支持、さまざまな芸術家によって再建案の議論が重ねられたが、結論はでなかった。[[1587年]]に、[[メディチ家]]の[[トスカーナ大公]][[フランチェスコ1世・デ・メディチ|フランチェスコ1世]]の命で、建築家[[ベルナルド・ブオンタレンティ]]がファサードを撤去した。これはフランチェスコ1世が構想したフィレンツェの都市計画の一環だったが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかった。一時[[1689年]]に<!--大公コジモ3世の時代、嫡子フェルディナンドの結婚式の折には、-->石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのような[[トロンプ・ルイユ|だまし絵]]が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のまま<!--煉瓦積みのまま?-->であった。そこでフィレンツェの自治体市議会は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、[[1864年]]にコンクールペティションが行われ、[[エミリオ・デ・ファブリス]]設計による新しい[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ネオ・ゴシック]]様式のファサードが建設さ選ばれた。この建設工事は[[1876年]]に始まり、[[1887年]]に完成した。銅製の巨大な扉は[[1899年]]から[[1903年]]にかけて製作されたものである。
 
=== 大聖堂内の装飾品 ===
内部空間はイタリア独特の[[ゴシック建築|ゴシック]]様式で簡素である。しかし、それだけにギベルティなどが[[1432年]]から[[1445年]]にかけてデザインした[[ステンドグラス]]や、[[1526年]]から[[1660年]]にかけて作られた大理石の床、そのほかの装飾品をゆっくりと眺めることができる。
[[ファイル:Florence_DomeFlorence Dome.JPG|thumb|大聖堂天蓋の見上げ『最後の審判』]]
[[ファイル:SMDFplan3.jpg|thumb|300px|大聖堂内部の装飾]]
* ポラ内フレスコ『最後の審判』[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]および[[フェデリコ・ツッカリ]]<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 38 |isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>
* ドラムのステンドグラス『聖母被昇天』・『ゲッセマネでの祈り』・『キリストの奉献』下絵はロレンツォ・ギベルティ(『聖母被昇天』は[[1442年]][[7月13日]]から[[1443年]][[9月11日]]にかけて製作。『菜園での祈り』は[[1443年]][[9月11日]]に報酬支払記録あり。『キリストの奉献』の報酬記録は[[1443年]][[12月7日]])
* ドラムのステンドグラス『聖母の戴冠』下絵は[[ドナテッロ]]([[1433年]][[12月]]製作開始、1438年設置)
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* 南側彫像『ジョットの胸像』ベネデット・ダ・マイアーノ([[1490年]]頃)
* 西側壁面『24時間時計文字盤』パオロ・ウッチェロ([[1443年]]製作)
* 南側外壁モザイク『み告げ』[[ダヴィデ・ギルランダイオ|ダビデ]]、[[ドメニコ・ギルランダイオ]]。
* 南側外壁レリーフ『聖処女マリア』、『マリアの被昇天』ナンニ・ディ・バンコ
* 北側外壁『マンドルラの門』ジョヴァンニ・ダンブロージョ(上部浮彫装飾はナンニ・ディ・バンコによるもので[[1414年]]から[[1421年]]にかけて製作された<ref>{{efn|この[[リュネット]]に関しては、ヤーコポ・デッラ・クエルチャも携わっていたらしい<ref>森田義之監訳『ヴァザーリ ルネサンス彫刻家建築家列伝』p344</ref>。}}。)
 
また、このほかルーカ・デッラ・ロッビアとドナテッロによる聖歌隊席などの貴重な装飾品は、ドゥオーモ付属美術館に収められている。
 
=== 拝観 ===
大聖堂へはいつでも無料で中に入ることができる。地下部分にはサンタ・レパラータ教会堂の遺構への入り口がある。高さ90mのクーポラ頂上までは日曜日以外ならば、一人6[[ユーロ]]で上れる。階段464段である。
 
大聖堂のミサはほぼ2時間おきに行われる。日曜朝11時のミサは身廊中央の大祭壇で司式される。そのほかのミサは左脇の礼拝堂で行われている(聖体訪問もこちら)。
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=== 所蔵品 ===
[[ファイル:Michelangelo_Pieta_FirenzeMichelangelo Pieta Firenze.jpg|thumb|フィレンツェのピエタ]]
* 『[[ピエタ_(ミケランジェロ)|ピエタ]]』ミケランジェロ・ブオナローティ(1547年から1548年着手、1552年から1553年完成)
* 大聖堂の『聖歌壇』[[カ・デッラ・ロビア]]([[1431年]][[10月4日]]から[[1438年]][[8月]]にかけて制作)
* 大聖堂の『聖歌壇』ドナテッロ([[1433年]][[11月14日]]委託、[[1438年]][[10月30日]]に完成)
* 大聖堂西正面の像『ボニファキウス8世』アルノルフォ・ディ・カンビオ<ref>{{efn|ヴァザーリは、これをアンドレーア・ピサーノの作とする<ref>森田義之監訳『ヴァザーリ ルネサンス彫刻家建築家列伝』p339</ref>。}}
* 大聖堂西正面の像『聖アンブロシウス』、『聖ヒエロムニス』ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・テデスコ<ref>{{efn|聖ステファノ、聖ラウレンティヌスもあったが、これらは[[ルーヴル美術館]]所蔵。ヴァザーリによれば、これもアンドレーア・ピサーノの作とされる<ref>森田義之監訳『ヴァザーリ ルネサンス彫刻家建築家列伝』p340</ref>。}}
* 大聖堂西正面の像『聖アウグスティヌス』、『聖グレゴリウス』ニコラ・ディ・ピエトロ・ランベルティ
* 大聖堂西正面の像『福音記者聖ルカ』ナンニ・ディ・バンコ([[1408年]][[12月19日]]制作委託、[[1413年]][[2月16日]]に報酬支払記録あり)
* 大聖堂西正面の像『福音記者聖ヨハネ』ドナテッロ([[1408年]][[12月19日]]制作委託、[[1415年]][[10月8日]]に聖堂西正面に設置)
* 鐘楼外壁浮彫『7つの惑星』『7つの徳』『7つの慈悲』『技芸と職業(絵画、彫刻、建築、金工、医術、機織)』アンドレーア・ピサーノ、[[ニーノ・ピサーノ]](1336年から1350年頃にかけて製作)
* 鐘楼外壁浮彫『文法(ドナトゥス)』『哲学([[プラトン]]と[[アリストテレス]])』『音楽』『占星術([[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]])』『幾何学([[エウクレイデス]])』ルカ・デッラ・ロビア([[1437年]][[5月30日]]に制作委託、[[1439年]][[3月10日]]まで作成のための支払記録あり)
* 鐘楼外壁西面彫像『預言者エレミア』、『預言者ハバクク』ドナテッロ(『エレミア』は[[1425年]]頃、『ハバクク』は[[1430年]]頃に製作)
* 鐘楼外壁西面彫像『洗礼者ヨハネ(?)』、『預言者オバデア』ナンニ・ディ・バルトロ
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** [[2008年]][[2月18日]]、[[岐阜市立女子短期大学]]の学生が研修旅行で訪れた際、大理石の壁に名前などを落書きをしたことが、この落書きを見つけた日本人[[観光]]客からの訴えにより判明した。この事件では学生6人と引率教員2人が学長厳重注意処分にされている<ref>{{PDFlink|[http://www.gifu-cwc.ac.jp/0806253.pdf 本学海外研修(イタリア、フィレンツェ市)における、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂での本学学生の落書きについて]}} - 岐阜市立女子短期大学</ref>。なお、この事件の対応に対してイタリアの[[マスメディア|マスコミ]]は、落書きだらけの自国の街並みや文化財の惨状を恥じるとともに、自国の学生の行為を恥じ告発する日本人観光客の潔癖さと、迅速な学校側の処分を賞賛とともに伝えた。また、修復費用については不要である旨が大聖堂より大学側に伝えられている。
** 2008年[[3月13日]]、[[京都産業大学]]2年の学生3人が観光旅行で訪れた際、大聖堂最上階の柱等に本人の名前や「京都産業大学」と油性ペンで落書きをした事が上記短大と同様に判明した。この事件で3人は処分を受けている<ref>[http://www.kyoto-su.ac.jp/more/2008/305/20080627_news.html イタリア、フィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」への本学学生の落書きについて] - 京都産業大学</ref>。
** 2008年[[6月30日]]、[[常磐大学高等学校]]の野球部の監督が2006年に自分と妻の名前を落書きしていた事が発覚し、同校はこの監督を解任。同校は前年度の[[全国高等学校野球選手権大会]]の茨城大会で準優勝するなどの強豪校である<ref>[httphttps://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/06/30/kiji/K20080630Z00000330.html 世界遺産落書きの野球部監督解任]スポーツニッポン2008年6月30日配信</ref>
 
== ギャラリー ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
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* [[世界遺産の一覧_(ヨーロッパ)|世界遺産の一覧]]
* [[建築設計競技]]
* [[ペポーゾ]] - 建築中にフィリッポ・ブルネレスキやレンガ職人、建設工事人たちが食べていたと言われる料理。
 
{{-}}
 
160 ⟶ 164行目:
* [http://www.operaduomo.firenze.it/ 大聖堂管理部公式サイト]{{it icon}}{{en icon}}
* [http://www.greatbuildings.com/buildings/Florence_Cathedral.html greatbuildings.com サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]{{en icon}}
*[https://duomoflorencetickets.com/ Florence Cathedral Tour] with Audio guide
* [http://www.florence-guide.it/en/images/virtual-tour/santa-maria-del-fiore 大聖堂のバーチャル ツアー]
 
{{Coord|43.773232|N|11.255992|E|region:IT_type:landmark|display=title}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さんたまりあてるふいおれたいせいとう}}
{{Link_FA|it}}
 
[[Category:15世紀の建築物]]
[[Category:イタリアの世界遺産フィレンツェ歴史地区]]
[[Category:イタリアの大聖堂]]
[[Category:イタリア・ルネサンス建築]]
[[Category:世界遺産 さ行]]
[[Category:フィレンツェにあるキリスト教の教会]]
[[Category:イタリアのキリスト教建築物の世界遺産]]
[[Category:フレスコ画]]