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{{改名提案|フランス保護領カンボジア|date=2022年8月}}
{{基礎情報 過去の国
|日本語国名 = カンボジア王国
|公式国名 = {{native name|km|ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា|italic=no}}<br>{{native name|fr|Royaume du Cambodge|italic=no}}
|略名 = カンボジア
|建国時期 = [[1863年]]
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|変遷6 = 独立
|変遷年月日6 = 1945年3月13日
|変遷7 = {{nowrap|フランス支配の復活再開}}
|変遷年月日7 = 1945年10月16日
|変遷8 = 憲法制定
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|変遷10 = [[ジュネーブ協定]]
|変遷年月日10 = 1954年7月21日
|先代1 = Post-Angkor Periodカンボジアの暗黒時代
|先代2旗1 = カンプチア王国Flag of Cambodia (1945年pre-1863).svg
|32 = カンボジア王国 (1954年-19701945年)
|先旗2 = Flag of Cambodia under French protection.svg
|次代1 = フラス領インドシナボジア王国 (1945年)
|次旗1 = Flag of FranceCambodia (1794–1815,under 1830–1958)French protection.svg
|次代2 = カンプチボジア王国 (19451954年-1970年)
|次旗2 = Flag of Cambodia under French protection.svg
|次代3 = カンボジア王国 (1954年-1970年)
|次旗3 = Flag of Cambodia.svg
|国旗画像 = Flag of Cambodia under French protection.svg
|国旗リンク = [[カンボジアの国旗|国旗]]{{smaller|(1863年 - 1948年)}}
|国章画像 = Coat of arms of Cambodia (1864–1970).svg
|国章リンク = [[カンボジアの国章|国章]]{{smaller|(1935年 - 1953年)}}
|位置画像 = Atlas de l'Indochine dressé (...)Indochine française bpt6k11001779 76.jpg
{{改名提案|位置画像説明 = フランス保護領カンボジア|date=2022年8月}}の位置
|公用語 = [[フランス語]]
|言語 = [[クメール語]]
|宗教 = [[上座部仏教]]<br />[[ローマ・カトリック]]
|人口測定時期1 = 1931年
|人口値1 = 2,803,000
|国歌 =
|首都 = [[ウドン (カンボジア)|ウドン]]{{smaller|(1863年 - 1865年)}}<br />[[プノンペン]]{{smaller|(1865年 - 1953年)}}
|最高指導者等肩書 = 君主
|最高指導者等氏名1 = [[ノロドム]]
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|首相等年代始2 = 1953年
|首相等年代終2 = 1953年
|通貨 = [[Cambodian tical|tical]]{{smaller|(1875年まで)}}<br />[[カンボジア・フラン|フラン]]{{smaller|(1875年 - 1885年)}}<br />[[フランス領インドシナ・ピアストル|ピアストル]]{{smaller|(1885年以降)}}
|現在 = {{CAM}}
|国章画像 = Coat of arms of Cambodia (1864–1970).svg
|国章リンク = [[カンボジアの国章|国章]]{{smaller|(1935年-1953年)}}
|次旗4 = Flag of Cambodia under French protection.svg
|次代4 =
}}
{{特殊文字|Khmer}}
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== フランス統治開始 ==
19世紀、カンボジア王国は、ベトナムの[[阮朝]]からの影響力が高まり、国の東部を脅かす一方で、[[アンコール遺跡|アンコール]]を含む西部の州を併合したシャム王国([[チャクリー王朝|ラタナコーシン朝]])の従属国となった。フランスが1862年にコーチシナ(現在のベトナム南部)に植民地を設立した後、カンボジアの国王ノロドムは王国のフランスによる保護国化を要請した。当時コーチシナの植民地総督であった{{仮リンク|ピエール=ポール・ド・ラ・グランディエール|fr|Pierre-Paul de La Grandière}}は、フランスの支配をベトナム全体に拡大する計画を実行しており、カンボジアをベトナムとシャムにおけるフランスの領土の間の緩衝材と見なしていた<ref name="名前なし-20230316104029">Philippe Franchini, ''Les Guerres d'Indochine'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, page 92</ref><ref name="名前なし-20230316104029-2">Pierre Montagnon, ''La France coloniale'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, pages 146–147</ref>。
 
1863年8月11日、ノロドムはカンボジア王国をフランスが保護することを認める条約に署名した。条約の下で、[[カンボジア君主・国家元首一覧|カンボジアの君主制]]の存続が認められたが、権力の大部分は[[プノンペン]]に収容される統監に与えられた。また、フランスはカンボジアの外交および貿易関係を担当し、軍事的保護を提供することになっていた。フランスがカンボジアの[[バタンバン州|バッタンバン]]州を割譲し、タイが[[アンコール遺跡|アンコール]]を支配することを認めた後、サイアムは後に保護領を認めた<ref>Philippe Franchini, ''Les Guerres d'Indochine'', tome 1, Pygmalionname="名前なし-Gérard Watelet, 1988, page 92<20230316104029"/ref><ref>Pierre Montagnon, ''La France coloniale'', tome 1, Pygmalionname="名前なし-Gérard Watelet, 1988, pages 146–147<20230316104029-2"/ref>。
 
== フランスの植民地支配 ==
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[[ファイル:Carte_politique_de_l'Indo-Chine_(...)Deloncle_François_btv1b53025089w.jpg|リンク=//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Carte_politique_de_l%27Indo-Chine_%28...%29Deloncle_Fran%C3%A7ois_btv1b53025089w.jpg/200px-Carte_politique_de_l%27Indo-Chine_%28...%29Deloncle_Fran%C3%A7ois_btv1b53025089w.jpg|左|サムネイル|302x302ピクセル|フランス領インドシナの地図(1889年10月)]]
1904年、ノロドムが亡くなり、フランス人はノロドムの息子たちに王位を譲るのではなく、ノロドムの兄弟である[[シソワット]]に王位を譲った。シソワットはノロドム家の分家であり、ノロドム家より服従的で、親仏であった。同様に、ノロドムはフランスの支配に対するカンボジアの絶え間ない反乱の責任があると見なされていた。もう1つの理由は、ノロドムのお気に入りの息子であり、王位継承を望んでいたユカントール王子が、ヨーロッパへの旅行中に、占領下のカンボジアにおけるフランスの残虐行為について世論を巻き起こしたことである<ref name="名前なし-20230316104029-3">Maurice Zimmerman, [http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/geo_0003-4010_1907_num_16_87_6973 Traité du 23 mars 1907 avec le Siam], [[:en:Annales de géographie|Annales de géographie]], Année 1907, Volume 16, n°87, pp. 277–278, sur ''Persée.fr''</ref>。
 
その後、フランスは1902年と1904年に、シャムとの条約によって[[プリアヴィヒア州]]と[[チャンパーサック県]]をカンボジアに加え、バサック川を完全に支配することでカンボジア保護領の領土を拡大しながら支配を強化した。カンボジアが[[ストゥントレン州]]の領有権を主張する以前の1904年には、カンボジアが[[チャンパーサック]]を譲り受け、ストゥントレン州をフランス保護領ラオスから獲得するという交換が行われた。その後、[[バタンバン州]]と[[シェムリアップ州]]をめぐるフランスとシャムの領土紛争により、1904年に偶然にも[[トラート県]]がフランスに併合されることになった。
 
フランスとシャムは、1907年のフランス・シャム条約に基づいて領土交換を行うことに同意した。これにより、フランスは18世紀後半まで元々はカンボジア領だった[[バタンバン]]州と[[シェムリアップ]]州を獲得した。これらの州の獲得は、インドシナにおけるフランスの領土拡大の最終段階となった。また、シャムは後にこの地域のイギリスと協力することになった。彼らはフランスの無秩序な拡大とシャムの支配がインドシナの権力のバランスを崩すことを恐れていた<ref>Maurice Zimmerman, [http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/geo_0003name="名前なし-4010_1907_num_16_87_6973 Traité du 23 mars 1907 avec le Siam], [[:en:Annales de géographie|Annales de géographie]], Année 1907, Volume 16, n°87, pp. 277–278, sur ''Persée.fr''<20230316104029-3"/ref>。
 
== フランス植民地時代の経済 ==
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「アジア人のためのアジア」という日本の呼びかけは、カンボジアのナショナリストの間で受容的な聴衆を見つけた。1942年7月、著名で政治的に活動的な仏教僧{{仮リンク|ヘム・チュー|en|Hem Chieu}}が植民地民兵に扇動的な説教をしたとして逮捕された後、ナガラヴァッタの編集者は彼の釈放を要求するデモを主導した。ヴィシー当局はすぐにデモ参加者を逮捕し、ナガラヴァッタの編集者の1人であるPach Choeunに終身刑を言い渡した。もう一人の編集者、{{仮リンク|ソン・ゴック・タン|en|Son Ngoc Thanh}}はプノンペンから[[東京]]に逃亡した。
 
アジアにおけるヨーロッパの植民地の問題は、[[カイロ会談|カイロ会議]]、[[テヘラン会談|テヘラン会議]]、[[ヤルタ会談|ヤルタ会議]]の3つの会議で、[[連合国 (第二次世界大戦)|ビッグ3]]の連合国の指導者、[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]によって議論されたものの1つである。イギリス最大の植民地であるの [[イギリス領インド帝国|インド植民地]]に関して、ルーズベルトは終戦までにその独立を認める宣言をチャーチルに非常に強く求めたが、チャーチルはその圧力に断固として抵抗した<ref name="名前なし-20230316104029-4">"Roosevelt and Stalin, The Failed Courtship" by Robert Nisbet, pub: Regnery Gateway, 1988</ref><ref name="名前なし-20230316104029-5">"[[:en:Churchill's Secret war|Churchill's Secret war]]", by [[:en:Madhushree Mukherjee|Madhushree Mukherjee]], Pub: Basic Books, 2010></ref>。
 
アジアにおけるイギリス以外の植民地に関しては、ルーズベルトとスターリンはテヘランで、フランスとオランダが戦後アジア支配に復帰しないことを決定した。しかし、終戦前のルーズベルトの早すぎる死に続き、ルーズベルトの想定とは大きく異なる展開が続いた。イギリスはアジアにおけるフランスとオランダの支配の復帰を支持し、この目的のためにイギリスの指揮下でインド兵の派遣を組織した<ref> name="Roosevelt and Stalin, The Failed Courtship名前なし-20230316104029-4" by Robert Nisbet, pub: Regnery Gateway, 1988</ref>{{要ページ番号|date=August 2020}}<ref>"[[:en:Churchill's Secret war|Churchill's Secret war]]name="名前なし-20230316104029-5", by [[:en:Madhushree Mukherjee|Madhushree Mukherjee]], Pub: Basic Books, 2010></ref>{{要ページ番号|date=August 2020}}。
 
戦争の最後の数ヶ月間、日本は現地の支持を得ようとして、1945年3月9日にフランスの植民地政権を解体し、カンボジアに[[大東亜共栄圏]]での独立を宣言するよう促した([[明号作戦]])。4日後、国王シハヌークは独立カンプチア(カンボジアの元のクメール語の発音)を宣言した。ソン・ゴク・タンは5月に東京から帰国し、外務大臣に任命された。
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議会で圧倒的多数を占める民主党は、[[フランス第四共和政|フランス第4共和国]]の憲法をモデルにした憲法を起草した。権力は、一般に選ばれた国民議会の手に集中した。国王はしぶしぶ1947年5月6日に新しい憲法を宣言した。それは彼を「国家の精神的な元首」として認めた一方で、彼を立憲君主の地位にまで引き下げ、国家の政治において彼がどの程度積極的な役割を果たすことができるかは不明のままであった。しかし、シアヌークは後年、この曖昧さを有利に利用することになる<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
 
1947年12月の国民議会選挙では、民主党が再び過半数を獲得した。それにもかかわらず、党内の不和は横行していた。その創設者であるシソワト・ユセボンは亡くなり、彼の後を継ぐ明確なリーダーは現れなかった。 1948年から1949年にかけて、民主党は、国王またはその任命者が後援する法律に反対するという点で団結しているように見えた。主要な問題は、1948年後半にフランスが提出した条約草案で提案された、フランス連合内での独立に対する国王の受容性であった。1949年9月に国民議会が解散された後、シアヌーク国王とフランス政府との間の書簡の交換を通じて、協定に関する合意に達した。それは2か月後に発効したが、国会で条約の批准が確保されることはなかった<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
 
この条約は、シハヌークが「50 パーセントの独立」と呼んだものをカンボジアに与えた。これにより、植民地関係は正式に終了し、カンボジア人はほとんどの行政機能の支配権を与えられた。カンボジア軍は、第二次世界大戦後にタイから回収されたバッタンバン州とシェムリアブ州からなる自治自治区内での行動の自由を認められたが、フランスは他の場所で圧迫され、管理する資源を持っていなかった。しかし、カンボジアは依然としてフランス連合高等評議会との外交政策問題の調整を求められており、フランスは司法制度、財政、および慣習に対する重要な管理手段を保持していた<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
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自治区外での戦時中の軍事作戦の管理は、依然としてフランスの手に委ねられていた。フランスはまた、カンボジアの領地に軍事基地を維持することを許可された。1950年、カンボジアはアメリカとほとんどの非共産主義国から外交上の承認を受けたが、アジアではタイと[[大韓民国|韓国]]のみが承認した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
 
民主党は1951年9月の第2回国民議会選挙で過半数を獲得し、実質的にすべての面で国王に反対する政策を継続した。国民の承認をさらに得るために、シハヌークはフランス人に民族主義者のソン・ゴック・タンを亡命から解放し、彼の国に戻ることを許可するよう求めた。1951年10月29日、彼は意気揚々とプノンペンに入国した。しかし、彼がカンボジアからのフランス軍の撤退を要求し始めるまで、そう長くはかかりませんでしらなかった<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
 
彼は1952年初頭、彼が創刊した週刊紙''クメール クロック''(Khmer Awake!) でこの要求を繰り返しました。同紙は 3 月に発行中止を余儀なくされ、Son Ngoc Thanh ソン・ゴック・タンは少数の武装信者を連れて首都から逃れ、クメール・イサラクに加わった。シハヌークによって共産主義者とアメリカ[[中央情報局]](CIA)のエージェントの烙印を押され、[[ロン・ノル]]が1970年に[[クメール共和国]]を樹立するまで亡命生活を続けた<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
 
== 独立運動 ==
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* {{Cite journal|last=Low|first=Sally|date=Spring 2016|title=''Les Tribunaux Résidentiels'': Disputed Jurisdictions in the Protectorate of Cambodia|journal=French Colonial History|volume=16|pages=73–102|publisher=[[:en:Michigan State University Press|Michigan State University Press]]|DOI=10.14321/frencolohist.16.1.0073|JSTOR=10.14321/frencolohist.16.1.0073}}
 
[[Category:旧{{フランス植民地]]帝国}}
{{DEFAULTSORT:ふらんすほこりようかんほしあ}}
[[Category:枢軸国]]
[[Category:保護国]]
[[Category:カンボジアの歴史|ほこりよう]]
[[Category:カンボジア・フランス関係]]
[[Category:1953年に消滅旧フランス植民地|かんほた国家・領域]]
[[Category:1863年に成立した国家・領域]]
[[Category:旧フランス植民地]]
[[Category:アジアの植民地]]
[[Category:ノロドム・シハヌーク]]
[[Category:未査読の翻訳があるページ]]