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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 梅北国兼
| 時代 = [[戦国時代_ (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[文禄]]元年[[6月17日_(旧暦)|6月17日]]([[15921593年]][[7月25日]])
| 改名 =
| 別名 = 盛定
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| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[宮内省 (律令制)|宮内左衛門尉]]
| 主君 = [[島津貴久]]→[[島津義久|義久]]→[[島津義弘|義弘]]
| 氏族 = [[梅北氏]]([[肝付氏]]支流)
| 父母 = [[梅北兼弘]]
| 兄弟 = '''国兼'''、[[梅北国兼盛勝|国兼盛勝]](盛定)、盛勝(民部左衛門)
| 妻 =
| 子 = [[梅北兼清|兼清]]
| 特記事項 =
}}
 
'''梅北 国兼'''(うめきた くにかね)は、[[戦国時代_ (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[大隅国]]の[[国人|国衆]]、[[島津氏]]の家臣。[[文禄]]元年([[15921593年]])に起きた'''[[梅北一揆]]'''の首謀者。諱は'''盛定'''とも云う。
 
== 生涯 ==
梅北兼弘の子として誕生。[[梅北氏]]は[[肝付氏]]の一族にあたり、[[大隅国]]の[[国人]]。戦国時代にいた[[島津氏]]に従ったといわれる。
 
[[梅北兼弘]]の子として誕生した国兼は、[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])の[[岩剣城]]の戦いに始まり、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])の[[蒲生城]]陥落まで島津氏と[[蒲生氏#薩摩大隅蒲生氏|薩摩蒲生氏]]の間で繰り広げられた合戦において目覚ましい功績を示し、[[大隅国]]帖佐郷山田(現:[[鹿児島県]][[姶良市]])の[[地頭]]に任じられた。山田時代には北山地区に山城を築いてここを根拠とした。その後も[[天正]]6年([[1578年]])と同14年([[1586年]])に[[大友氏]]との合戦において武功を挙げ、天正8年([[1580年]])に[[薩摩国]]湯之尾(現:鹿児島県[[伊佐市]])の地頭([[湯之尾城]]主)となって、島津軍の[[水軍]]を指揮するまでに至った。
 
ところが文禄元年(1592(1593年)、梅北一揆を起こし、一揆勢が[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]に出兵中の[[加藤清正]]が治める[[肥後国]][[佐敷城_(肥後国)|佐敷城]]を占拠し、八代の[[麦島城]]を攻撃した。動機は、[[朝鮮]]出兵もしくは[[豊臣秀吉]]の支配に対する反発といわれる。 国兼は清正の部下の策略によって殺され、反乱はわずか3日で鎮圧されたとされている(近年では佐敷城の占拠は15日間に及んだとする説も浮上している)。国兼の首は朝鮮出兵の前線基地であった[[名護屋城]]に届けられて浜辺に晒され、胴体は佐敷五本松に埋められたという。また、国兼の妻も捕らえられ名護屋城に連行され火あぶりの刑にされた。
 
なお、国兼の死後、旧領である大隅国山田において神として祀られた。現在も鹿児島県姶良市北山には国兼を祀る[[梅北神社]]が残っており、境内には[[西郷従徳]]が揮毫した[[石碑]]がある。
 
== 備考 ==
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{{DEFAULTSORT:うめきた くにかね}}
[[category:戦国武将]]
[[Category:大隅国の人物]]
[[Category:日本の神 (人物神 戦国時代)]]
[[Category:暗殺された武将]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:15921593年没]]