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[[ファイル:Johann gottfried herder.jpg|thumb|ヘルダー]]
{{Portal|文学}}
'''ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann'''(Johann Gottfried von Herder''', [[1744年]][[8月25日]] - [[1803年]][[12月18日]])は、[[ドイツ]]の[[哲学者]]・[[文学者]]、[[詩人]]、[[神学者]]。
 
[[イマヌエル・カント|カント]]の哲学などに触発され、若き[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]、ドイツ[[古典主義]]文学および[[ドイツロマン主義]]に多大な影響を残すなど[[ドイツ文学]]・哲学両面において忘れることの出来ない人物である。優れた[[言語]]論や[[歴史哲学]]、[[詩]]作を残したほか、一世を風靡していたカントの[[超越論哲学|超越論的観念論]]の哲学と対決し、歴史的・人間発生学的な見地から自身の哲学を展開し、カントの哲学とは違った面で20世紀の哲学に影響を与えた人物としても知られている。
 
息子には[[地質学者]]・[[鉱物学者]]の[[ジギムント・アウグスト・ヴォルフガング・ヘルダー]]がいは息子で、[[植物学者]]の[[フェルディナント・ゴットフリート・フォン・ヘルダー]]は孫である。
 
== 生涯 ==
=== 生い立ちからケーニヒスベルクまで ===
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=== リガからフランス滞在まで ===
当地リガでは熱心な教育ぶりが買われ、好評であった。またハーマンの発行する文芸新聞にハーマンの詩の批評をすることができた。この批評も好評で、ヘルダーの文芸評論の才能を世間に認めさせることになった。1766年からは文筆活動も開始、現代ドイツ文学断章を出版。これは、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]、[[モーゼス・メンデルスゾーン]]、[[トマス・アプト]]らが中心となって編集していた最近のドイツ文学に関する文学書簡という雑誌に対する見解が元になっており、後の文芸評論に大きな影響を与えた。既にこの中に[[歴史主義]]的な見解が述べられ、ヘルダーの[[言語哲学]]・歴史哲学の大元が出来上がっている。この文芸評論によってたちまち著名になったヘルダーであったが、改版時の同評論における、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]の雄弁術教授、[[クリスティアン・アドルフ・クロッツ]]の詩に対する評価が原因でクロッツによる非難が始まり、論争になった。ついで出版された批判論叢(あるいは批判の森。クロッツに対する反論)やヘブライ人の考古学など、歴史家としてのヘルダーの著作が、[[汎神論]]的な見解によってリガで聖職者の身である人物にふさわしくないと非難される。これも一因となって彼はリガを去り、フランス文学に対する知見を広めようとフランスへ向けて旅立った。1769年であった。リガから中継地を経て、[[パリ]]にまで赴いた記録がフランスへの旅の日誌という著作である。ヘルダーは、フランスの哲学者の著作などを読みあさり、パリでは[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]や[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]を訪問した。ほどなくして、ドイツの王子の教養旅行の同伴者の話がきて、またドイツへと帰った。1770年のことであった。
 
=== ゲーテとの出会い ===
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ドイツへの帰路船が難破したが、運良く救い出され、九死に一生を得た。途中の[[ハンブルク]]ではレッシングと会うことができた。その後、任務である王子のお供をし、[[イタリア]]へと旅立った。途中の街で、妻になる[[カロリーネ・フラックスラント]]に逢う。しかし、宮中の他の人物たちとうまが合わず、なかなか思うようにいかない旅行だった。そこへ彼の性格に適した牧師の話が届き、[[シュトラスブルク]]滞在中、王子に同伴の辞退を申し入れる。眼病を癒しながらその準備をしていた時、当地の学生であった若き[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]がヘルダーを訪ねてくるという、ドイツ文学史上特筆すべき出会いがあった。ゲーテはヘルダーから[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]という新しい文学観を吹き込まれたのであった。1771年の春であった。
 
また、かねてからヘルダーの哲学において常に関心の中心にあった言語の問題に関する懸賞論文を執筆し、言語起源論として1772年に出版した。[[ヨハン・ペーター・ジュスミルヒ]]([[:w:Johann Peter Süssmilch|Johann Peter Süßmilch]])の言語神授説に対して、ヘルダーは言語を人間によってのみ作り出されたものであるとし、神による創造を徹頭徹尾否定したのである。この書は、神秘的な思想を持つ師匠のハーマンには批判されたが、後の世の[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]などにも影響を与え、後の近代[[言語学]]の礎にもなった。
 
=== [[ヴァイマル]]へ ===
シュトラスブルク滞在後、かねてから望んでいた牧師の職についた。場所は、[[ザクセン公国]](現[[ニーダーザクセン州]])の小都市ビュッケブルク(Bückeburg)である。文学だけでは生計がままならず、孤独な時期でもあった。1776年、[[ヴァイマル]]で政治家をしていたゲーテの尽力により、ヴァイマル公国の宗務管区の総監督につくことができ、学者として大いに活躍することができた。この頃のゲーテは、既に疾風怒濤の時代を離れていた。1780年代には、ヘルダーはゲーテと共同で当時タブーであった[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]の哲学を研究する(後の[[スピノザ論争]]の機縁になるとともに、現代におけるスピノザ研究の礎になった)など、ドイツでも屈指の著名な学者になっていた。1784年から1791年にかけて、未刊の大著『人類歴史哲学考』を著し、人類の歴史の発展過程を「[[人間性]]」と「[[時代精神]]」という概念を軸に論述した。また[[フランス革命]]に感銘を受け、『人間性促進のための書簡』(1793-95年)を著した。これはかの歴史的出来事を、ヘルダーの依拠した人間性と時代精神の観点から考察したものである。いずれも古典主義文学に見られるゲーテの美的世界観に対する批判でもあった。これらの書に対しては、ゲーテや[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、カントらから厳しい評価がなされる。
 
これへの応酬として、ヘルダーは、かつての恩師で当時ドイツ哲学界を席巻していたカントの唱えた批判哲学に対する再批判の書『[[純粋理性批判]]のメタ批判』(1799年)、『カリゴーネ』(1800年)を著す。ヘルダーによれば、カントの哲学は人間の意識を個々の諸能力に分解し、対象世界を「現象」と「[[物自体]]」という非生命的なものに分断しており、「純粋な理性」や「[[プリオリ]]な認識」などは人間理性本来の姿をわきまえない単なる「言葉の乱用」であり、カント哲学は人間理性本来の姿である言語の問題をいっこうに直視していないという。人間性・歴史性を重視するヘルダーの哲学らしい立場をみせるが、これらの書で彼のカント哲学に対する誤解や理解不足が認められたのも事実であった。しかしヘルダーの哲学が、19世紀から20世紀にかけてカント以来のドイツ観念論哲学が批判的に検討され、歴史主義や人間学的な立場が旺盛になるにつれて、この先駆をなすものの一つとして評価されていることも見逃せない。
文化の中心地ヴァイマルにおいて、ヘルダーにしてみれば、時代が自身の考えを受け入れようとはせず、友人や恩師とも論争を繰り返さなければならないという苦悩の晩年を過ごしつつ、1803年に59歳で没した。
 
== 著作の日本語訳 ==
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古書も含め購入しやすい著作のみ。
*『ヘルダー旅日記』 ([[嶋田洋一郎]] [[九州大学]]出版会 ]]、2002年。ISBN 978-4-87378-709-1
*『ヘルダー民謡集』(嶋田洋一郎訳)九州大学出版会、2018年。
*『「愛のうた」・英雄「シッド」』 男沢淳訳 日本図書刊行会:近代文芸社 1997年
*『人類歴史哲学考』(嶋田洋一郎訳)[[岩波文庫]](全5冊)2023年9月-
*『言語起源論』 [[木村直司]]訳  [[大修館書店]]  1972年
*『「愛のうた」・英雄「シッド」』 男沢淳訳 日本図書刊行会(発売:近代文芸社 )、1997年。ISBN 978-4-89039-367-1
*『言語起源論』 叢書ウニベルシタス・[[法政大学出版局]] 1972年
*『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12442228/1/3 言語起源論] [[木村直司]]訳  [[大修館書店]]  1972年。ISBN 4469210137、{{Doi|10.11501/12442228}}
*『言語起源論』(大阪大学ドイツ近代文学研究会訳)[[法政大学出版局]]<[[叢書・ウニベルシタス]]> 1972年、{{Doi|10.11501/12442229}}
**新装版、2015年。ISBN 978-4-588-09998-4
*『言語起源論』(宮谷尚実訳)[[講談社学術文庫]]、2017年。ISBN 978-4-06-292457-3
*『神 第一版・第二版 スピノザをめぐる対話』(吉田達訳)法政大学出版局<叢書・ウニベルシタス>、2018年。ISBN 978-4-588-01087-3
* 『人間形成に関する私なりの歴史哲学』([[高橋昌久]]訳)京緑社、2021年。(電子書籍)
* 『人間形成に関する私なりの歴史哲学』(高橋昌久訳)風詠社(発売:星雲社)、2023年。ISBN 978-4-434-32138-2
*『[[世界の名著]]38巻 ヘルダー/ゲーテ』[[中央公論新社|中央公論社]]<中公バックス>、1979年。ISBN 978-4-12-400648-3
*::[[小栗浩]]・[[七字慶紀]]訳「[https://dl.ndl.go.jp/pid/12406058/1/44 人間性形成のための歴史哲学異説]」、[[登張正実]]訳「[https://dl.ndl.go.jp/pid/12406058/1/95 シェイクスピア]」、「[https://dl.ndl.go.jp/pid/12406058/1/108 彫塑]」
**元版『[[世界の名著]]続7巻 ヘルダー/ゲーテ』中央公論社、1975年
*::小栗浩・七字慶紀訳「[https://dl.ndl.go.jp/pid/2932130/1/43 人間性形成のための歴史哲学異説]」、登張正実訳「[https://dl.ndl.go.jp/pid/2932130/1/94 シェイクスピア]」、「[https://dl.ndl.go.jp/pid/2932130/1/107 彫塑]」
* 『人間史論』全4巻(鼓常良訳)[[白水社]]
** {{Cite book|和書 |title=人間史論 第1 |year=1948 |publisher=白水社 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1041225/1/2 |translator=[[鼓常良]] |doi=10.11501/1041225}}
** {{Cite book|和書 |title=人間史論 第2 |year=1948 |publisher=白水社 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1041226/1/3 |translator=鼓常良 |doi=10.11501/1041226}}
** {{Cite book|和書 |title=人間史論 第3 |year=1949 |publisher=白水社 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1041229/1/3 |translator=鼓常良 |doi=10.11501/1041229}}
** {{Cite book|和書 |title=人間史論 第4 |year=1949 |publisher=白水社 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1154950/1/4 |translator=鼓常良 |doi=10.11501/1154950}}
* {{Cite book|和書 |title=歴史哲学 |year=1933 |publisher=第一書房 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1688898/1/6 |doi=10.11501/1688898 |translator=[[田中萃一郎]]、[[川合貞一]]}}
** 『歴史哲學』上下巻(田中萃一郎・川合貞一訳)丁子屋書店、1948年。
* 『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1126809 民族詩論]』([[中野康存]]訳)桜井書店、1945年、{{Doi|10.11501/1126809}}
 
== 関連文献 ==
* {{Cite book|和書 |title=ヘルダーとゲーテ ドイツ・フマニスムスの一系譜 |year=1979 |publisher=中央公論社 |series=世界の名著 38(中公バックス) ヘルダー/ゲーテ |author=登張正実、小栗浩 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/12406058/1/9 |doi=10.11501/12406058}}
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[[Category:ドイツの哲学者]]
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[[Category:ドイツの詩人]]
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[[Category:ヴァイマル]]
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[[Category:19世紀ドイツの哲学者]]
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[[Category:19世紀ドイツの詩人]]
[[Category:スピノザ研究者]]
[[Category:スピノチスト哲学者]]
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[[Category:ヴァイマルの歴史]]
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[[Category:1803年没]]