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{{別人|小笠原長教|小笠原長逵}}
{{Otheruses|江戸時代末期の人物|戦国時代の人物|小笠原長行 (戦国時代)|}}
{{出典の明記|date=2022-11-30}}
[[画像:Ogasawara.jpg|thumb|200px|小笠原長行]]
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 小笠原 長行
| 画像 = Ogasawara nagamichi.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 晩年の小笠原長行
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治|明治時代]]
| 生誕 = [[文政]]5年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]([[1822年]][[6月29日]])
| 死没 = [[明治]]24年([[1891年]])[[1月25日]]<br>[[享年]]70(満68歳没)
| 改名 = 行若(幼名)、敬七郎、長行、明山(号)
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 顕忠院殿深信長行日解大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[東京都]][[世田谷区]]の[[幸龍寺 (世田谷区)|幸龍寺]]
| 官位 = [[従五位]]、[[従四位]]、[[壱岐国|壱岐守]]、[[図書寮|図書頭]]
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[奏者番]]、[[若年寄]]、[[老中格]]、[[老中]]
| 主君 = [[徳川家茂]]、[[徳川慶喜|慶喜]]
| 藩 = [[肥前国|肥前]][[唐津藩]]世嗣
| 氏族 = [[小笠原氏]]
| 父母 = 父:[[小笠原長昌]]、母:松倉氏<br>養父:[[小笠原長国]]
| 兄弟 = '''長行'''、[[森忠徳]]継室
| 妻 = '''満寿子'''([[小笠原長国]]娘)、美和
| 子 = [[小笠原長生|長生]]、静、艶子、丁、名村壬午郎
| 特記事項 =
}}
'''小笠原 長行'''(おがさわら ながみち)は、唐津小笠原家の世嗣(藩主とする資料もある)。[[江戸幕府]]の[[老中]]、外国事務総裁。
 
== 生涯 ==
'''小笠原 長行'''(おがさわら ながみち、[[1822年]][[6月29日]]([[文政]]5年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[1891年]]([[明治]]24年)[[1月25日]])は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[江戸幕府]]の[[老中]]、外国事務総裁。[[肥前国]][[唐津藩]]主、[[小笠原長昌]]の長子。号は明山。幼名は行若、後に敬七郎。弟に[[小笠原胖之助]]がいる。
=== 老中就任まで ===
[[文政]]5年([[1822年]])5月11日、[[肥前国]][[唐津藩]]主・[[小笠原長昌]]の長男として[[唐津城]]二の丸で誕生した。[[幼名]]は行若(後に敬七郎)。
 
文政6年([[1823年]])に長昌が死去すると、後継の藩主には[[信濃国]][[松本藩]]主・[[松平光庸|戸田光庸]]の長男・[[小笠原長国]]まで4人続いて養子が迎えられ、幼少の長行は庶子として扱われた。
== 経歴 ==
[[1823年]]([[文政]]6年)に父が死去し、唐津藩は[[松本藩]]から藩主[[松平光庸]]の子([[小笠原長国]])を養子に迎え、幼少の長行は庶子となる。
 
長行は幼少から明敏であったのでことから、[[1838年天保]]9年([[天保1838年]]9年)に[[江戸]]に出、そこで[[朝川善庵]]に師事した。[[1857年安政]]4年([[安政1857年]]4年長国の養嗣子になり、藩政に携わり、そのって名声かっ。図書頭と称する。[[1862年文久]]2年([[文久1862年]]2年)に幕府は世嗣の身分のまま、[[奏者番]]から[[若年寄]]、9月11日には[[老中格]]、そしてもなく[[老中]]となった。[[1863年]](文久328月21日発生した[[生麦事件]]が起こったときに対しては、事態を早急に終結させるために幕府に無断で賠償金を[[イギリス文久3年]][[5月9日 (旧暦)|5月9日]]([[1863年]][[6月24日]])、幕府支払った。ただ無断{{efn|「無断」とされるが、[[将軍後見職]]の[[徳川慶喜|一橋慶喜]]の黙認は得ていたといわれている。この事は}}で賠償金10万[[尊皇攘夷スターリング・ポンド|ポンド]]派からの反発呼び、14代将軍・[[徳川家茂イギリス]]に弁明しようとしたが、[[大坂]]に滞在中に事が露見して老中職を罷免され支払った。
 
=== 武装上洛、長州征討 ===
[[1865年]]([[慶応]]元年)には赦免され、再び老中となり、外交事務総裁職を兼任する。[[1866年]](慶応2年)の第2次長州征討([[幕長戦争]])に際しては、小倉口の総督として指揮をとったが、肥後藩はじめ諸藩を束ねることができず連敗を重ね、家茂の死の報を聞き戦線をひそかに離脱している。11月に一時老中を罷免。
文久3年([[1863年]])5月、イギリスから借り入れた2隻の汽船を含む5隻に、千数百名の兵を引き連れて海路で上京した。この頃、14代将軍・[[徳川家茂]]は京都で人質に近い状況に置かれており、この行動は当時京都政局を主導していた[[尊王攘夷]]派を一掃するため、京都の武力制圧を図ったものとされている<ref>奈良勝司「徳川政権と万国対峙」『講座 明治維新2』(有志舎)2011年、p.169。</ref>。長行一行は6月1日に[[大阪|大坂]]に上陸するが、在京幕閣による猛反対に遭い、家茂からも上京差し止めを命じられるにおよび、上京計画を断念した。長行は9日に下坂、10日には老中職を罷免され、結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗に終わった。一行には元[[外国奉行]][[水野忠徳]]、[[町奉行#南町奉行|南町奉行]][[井上清直]]ら、攘夷反対を強硬に主張していたグループが同行しており、一連の計画の首謀者は水野であったとも言われている<ref>奈良勝司『明治維新と世界認識体系』(有志舎)2010年、p.117。</ref>。
 
[[元治]]元年([[1864年]])に謹慎を解かれて[[壱岐国|壱岐守]]となり、[[慶応]]元年([[1865年]])9月4日に再び老中格、さらに老中に再任される。
15代将軍[[徳川慶喜]]にも仕え、[[1868年]](明治元年)、[[大政奉還]]の後に[[戊辰戦争]]が起こると江戸において徹底抗戦を主張し、[[箱館]]まで転戦して新政府軍に抗戦した。箱館戦争に敗北した後は潜伏して行方不明。[[1872年]](明治5年)4月に[[東京]]に戻り、7月に新政府に自首したが、8月4日に赦されている。その後は東京駒込動坂の小邸に隠棲し、明治9年(1876年)11月従五位に叙任され、明治13年(1880年)6月、従四位に叙任された。1891年(明治24年)、70歳で死去した。
 
元治元年7月の[[長州征討#第一次長州征討|第一次長州征討]]後、幕府は再び長州征伐に取りかかる。慶応2年([[1866年]])2月、長行は長州処分の幕命を伝えるために広島に赴き、[[広島藩]]を通じて長州藩家老と支藩藩主らに召喚命令を出したが、病として拒絶された。翌月、長行はさらに藩主父子、家老、支藩藩主らが出頭するように命令を出したが、長州藩側は命令に従わなかったため、幕府は6月5日をもって諸方面から進撃すると決定し、長行は6月2日に広島を発って小倉へ向かい、征討に備えた。
養父の小笠原長国から養子関係を絶縁されても最後まで譜代の家臣として幕府に忠誠を誓ったことは評価されている。新政府に最後まで抵抗したためか、彼を唐津藩の藩主として認めていない史料もある。
 
慶応2年6月7日に周防大島で戦闘が始まり([[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征討]])、17日には小倉口でも戦闘が開始される(小倉戦争)。長行は小倉口の総督として[[幕府陸軍]]歩兵隊や、[[小倉藩]]、[[熊本藩]]など九州諸藩の軍勢を指揮し、関門海峡をはさんで長州藩と戦うこととなった。小倉藩は小倉口先鋒として戦意は高かったものの装備は旧式であり、幕府歩兵隊、他の九州諸藩兵とも戦闘に消極的で、長行は諸藩をうまく束ねることができず、優勢な海軍力を有しながらも渡海侵攻を躊躇している間、長州軍が6月17日に田野浦に、7月2日には大里にも上陸して攻勢を掛け、戦闘の主導権を奪われた。7月27日の[[赤坂 (北九州市)#赤坂の戦い|赤坂・鳥越の戦い]]では熊本藩兵が善戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せたが、長行が援軍を拒否したことなどから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国した。長州軍は優勢に戦闘を展開し、幕府側の敗色は濃厚となり、長行は将軍家茂の薨去を機に、事態を収拾することなく戦線を離脱した。孤立した小倉藩は8月1日に[[小倉城]]に放火して退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わった。この敗戦責任を問われた長行は10月に老中を罷免されたが、[[徳川慶喜]]の強い意向により、11月には再任された。
墓所は元は[[東京都]][[台東区]]の[[天王寺 (台東区)|天王寺]]の[[谷中霊園]]であったが、後に子の長生により東京都[[世田谷区]][[北烏山]]に有る[[日蓮宗]]の妙祐山[[幸龍寺]]に改葬された。子の[[小笠原長生]]が後を継ぎ、[[子爵]]を授爵する。長生は[[海軍中将]]に進む。
 
=== 戊辰戦争とその後 ===
辞世の句  夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢
将軍家茂の後継問題に当たり、長行は[[板倉勝静]]と共に慶喜を次期将軍に推し、12月に慶喜が15代将軍に就任する。慶喜政権においては、外交担当老中として欧米公使との折衝に当たり、慶應3年6月には外国事務総裁に任じられた。
 
[[慶應]]4年([[1868年]])、[[大政奉還]]の後、上方で新政府と旧幕府との緊張が高まる中、江戸にあった長行は非戦を主張するが、[[鳥羽・伏見の戦い]]を経て[[戊辰戦争]]が起こる。唐津藩も新政府軍の討伐対象となったが、藩主・[[小笠原長国]]は世嗣・長行との養子関係を義絶し、新政府に降伏した。大坂から逃げ帰り恭順の意を決していた慶喜に対し、長行は徹底抗戦を主張するが遠ざけられ、2月10日に老中を辞任した。3月、国元の唐津から帰国の命令が来ると、長行は江戸を逐電して奥州棚倉へ向かった。4月、[[江戸城]]が無血開城した後の[[上野戦争]]で幕府勢力は敗北し、新政府軍が会津へ迫ると、長行は棚倉から会津へ入り、新政府軍に抗戦する。[[奥羽越列藩同盟]]が結成された後には板倉勝静と共に参謀となり、白石に赴く。会津戦争において会津藩が敗れると、仙台から[[榎本武揚]]の軍艦[[開陽丸]]に乗船して[[函館市|箱館]]へ向かったが、榎本の[[蝦夷共和国|箱館政権]]には参画していない。[[明治]]2年(1869年)5月、[[箱館戦争]]で旧幕府勢力が敗れると、長行はアメリカ汽船で脱出潜伏して行方不明となった。
人並み外れた才能を持ちながら、時流に呑み込まれ翻弄された彼の人生がうかがえる句であり、またこの辞世の句を見れば、彼の異能を察することができる。
 
明治5年([[1872年]])4月には[[東京]]に戻り、7月に新政府に自首したが、小笠原長国らの赦免運動もあって8月4日に赦されている。その後は東京[[駒込動坂町]]の小邸に隠棲し、明治9年([[1876年]])11月[[従五位]]に叙任され、明治13年([[1880年]])6月には[[従四位]]に叙任された。明治24年([[1891年]])[[1月25日]]、駒込の自邸で死去した。[[享年]]70(満68歳没)。辞世の句は、「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」であった。
もし彼が別の立場に生まれれば、歴史的にもっと大きな存在たりえた逸材であったと唱える人も多い。
 
墓所は元は[[天王寺 (台東区)|天王寺]]([[東京都]][[台東区]])の[[谷中霊園]]であったが、後に子の長生により[[日蓮宗]]の妙祐山[[幸龍寺 (世田谷区)|幸龍寺]]([[世田谷区]][[烏山 (世田谷区)|北烏山]])に改葬された。長国の跡を継いだ長生は[[子爵]]を授爵し、[[中将|海軍中将]]に進んだ。
 
養父・長国から養子関係を絶縁されても、最後まで譜代の家臣として幕府に忠誠を誓った。
 
== 系譜 ==
*父:[[小笠原長昌]](1796年 - 1823年)
*母:松倉氏
*養父:[[小笠原長国]](1812年 - 1877年)
**義弟:[[三好胖|小笠原胖之助]](1852年 - 1868年) - [[小笠原長泰]]の末子
*妻:満寿子(1847年 - 1923年) - 小笠原長国の娘、1882年離縁。
**次男:静(1872年 - ?)
**長女:艶子(1876年1月 - ?) - [[佐藤鉄太郎]]夫人
**三男:丁(1878年 - ?)
**四男:壬午郎(1882年8月 - ?)- 名村泰蔵養子
*妾:美和 - [[松田迂仙]]([[儒学者|儒者]])の娘
**長男:[[小笠原長生]](1867年 - 1958年)
*生母不明の子女
**次女:能勢子 - 上野亮(海軍大佐)の妻。<ref>野口昂『古荘四郎彦の素顔』(酣灯社、1955年)p.130</ref>
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 小笠原長行が登場する作品 ==
; 映画
:* 『[[小笠原壱岐守]]』([[1932年]]、[[嵐寛寿郎プロダクション]])
:** [[佐々木味津三]]原作、[[山中貞雄]]脚本・監督、[[嵐寛寿郎]]主演による作品。サイレント映画。主人公の小笠原長行を嵐寛寿郎が演じた。
; テレビドラマ
:* 『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』(2008年、NHK大河ドラマ、演:[[伊集院八朗]])
:* 『[[花燃ゆ]]』(2015年、NHK大河ドラマ、演:[[長谷川公彦]])
; 小説
:* [[徳永真一郎]]「小笠原長行」([[1982年]]、[[毎日新聞社]]のち[[PHP文庫]])
:* [[滝口康彦]]『流離の譜』([[1984年]]、[[講談社]]のち[[講談社文庫]])
:* [[山田風太郎]]『明治断頭台』([[1979年]]、[[文芸春秋]]のち[[文春文庫]])
 
== 関連項目 ==
* [[幕末の人物一覧政改革]]
 
== 外部リンク ==
* [https://www.city.karatsu.lg.jp/meijiishin/meijiishin_ijin.html 唐津の八偉人/唐津市]
 
{{唐津藩主|小笠原家|(6代)}}
{{江戸幕府勝手掛老中}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:おかさわら なかみち}}
[[Category:小笠原壱岐守家|なかみち]]
[[Category:江戸の大名幕府若年寄]]
[[Category:江戸幕府老中]]
[[Category:幕府の外交官僚]]
[[Category:江戸時代の大名の嫡男]]
[[Category:唐津藩主|?]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末徳川側人物の大名]]
[[Category:幕末唐津藩の人物]]
[[Category:戊辰戦争の人物]]
[[Category:箱館戦争の人物]]
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:1822年生]]
[[Category:1891年没]]
 
[[en:Ogasawara Nagamichi]]