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{{脚注の不足|date=2023年12月}}
{{日本の城郭概要表
|name = 唐沢山
|pref = 栃木県
|img = File:Karasawayama_Shrine.JPG
|img_capt = 本丸跡(唐沢山神社)
|img_width = 275px
|ar_called = 栃本城、根古屋城、牛ヶ城
|struct = 連郭式山城
|tower_struct = なし
|builders = [[藤原秀郷]]
|build_y = [[延長 (元号)|延長]]25年([[924927年]])
|revamp = [[佐野成俊]]、[[佐野盛綱]]
|rulers = [[佐野氏]]
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緯度度=36|緯度分=21|緯度秒=13.1|
経度度=139|経度分=36|経度秒=3.4|
ラベル=唐沢山城|
アイコン=日本の城跡|
ラベル位置=bottom
}}
'''唐沢山城'''(からさわやまじょう)は、[[日本の城]]。所在地は[[栃木県]][[佐野市]]富士町栃本町にかけてあった[[日本の城]]。別名は{{要出典範囲|'''栃本城'''、'''根古屋城'''、'''牛ヶ城'''|date=2023年12月}}。 「'''関東一の山城'''」と称される。城跡は国の[[史跡]]に指定されている。2017年には[[続日本100名城]](114番)に選定された。
 
== 概要 ==
[[関東七名城]]の一つ。佐野市街地の北方約5キロメートルの[[唐沢山]](247メートル)山頂を[[本丸]]として一帯に[[曲輪]]が配された連郭式[[山城]]である。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]において、[[佐野氏]]第15代当主・[[佐野昌綱]]による[[唐沢山城の戦い]]で有名で、[[上杉謙信]]の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。<!--全国屈指の名城である-->[[関東地方]]の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。続日本100名城に選ばれた。<!--城からは、晴れた日には[[新宿区|新宿]]の高層ビル群が見える。-->
 
現在は[[栃木県立自然公園]]の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる[[藤原秀郷]]を祀る[[唐沢山神社]]が鎮座する。杉郭跡には栃木県唐沢青年の家が建てられたが、[[平成]]19年([[2007年]])[[3月31日]]閉所した。遺構として石垣、大手枡形、土塁、堀切、土橋、近世に復元された井戸などが残っている。
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以下のように伝承されている。
 
築城は[[平安時代]]の[[延長 (元号)|延長]]25年([[924927年]])に、藤原秀郷が従五位下・[[下野国]][[押領使]]を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。
[[天慶]]3年([[940年]])[[平将門]]による[[承平天慶の乱#平将門の乱|天慶の乱]]が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、[[武蔵国|武蔵]]・下野両国[[鎮守府将軍]]を拝領した
また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年([[942年]])に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代[[藤原行|行]]は結城足利荘に移り一時廃城となった。
 
平安時代末期の[[治承]]4年([[1180年]])9代[[藤原俊綱|俊綱]]の弟[[佐野成俊|成俊]]は再びここに城を再興し、[[佐野氏]]を名乗った。[[鎌倉時代]]に入った[[建保]]元年([[1213年]])成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた
 
以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は[[15世紀]]後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる<ref>齋藤慎一 『中世東国の領域と城館』 吉川弘文館 2002年 ISBN 9784642026765 → 160ページ</ref><ref>橋本澄朗・千田孝明編 『知られざる下野の中世』 随想舎 2005年 ISBN 9784887481053 → 56ページ</ref>。
[[室町時代]]中期の[[延徳]]3年([[1491年]])には[[佐野盛綱]]が城の拡張修築を行った。
 
[[室町時代]]中期の[[延徳]]3年([[1491年]])には[[佐野盛綱]]が城の拡張修築を行った。
戦国時代の佐野氏は[[相模国|相模]]の[[後北条氏|北条氏]]、[[越後国|越後]]の[[上杉氏]]の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ[[佐野昌綱]]は、[[永禄]]2年([[1559年]])[[北条氏政]]に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。
 
戦国時代の佐野氏は[[相模国|相模]]の[[後北条氏|北条氏]]、[[越後国|越後]]の[[上杉氏]]の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ[[佐野昌綱]]は、[[永禄]]2年([[1559年]])[[北条氏政]]に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、[[佐竹氏]]をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている<ref>松本一夫「上杉謙信による下野佐野支配の特質」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1)→ 154ページ</ref>。
 
昌綱の子・[[佐野宗綱|宗綱]]は弟で上杉と北条養子に入った虎松丸と不和になり、一族で「唐沢山天正の乱」と呼ばれを右往左往す争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別する至った。[[天正]]4年([[1576年]])虎松丸に加勢た上杉謙信は1万5千の兵をもっこの城を攻めたが一族の[[結城氏]]・[[小山氏]]・[[皆川氏]]などの加勢により上杉軍を撤退させた{{要出典|date=2013年12月}}。それまでも9合計10度にわたり上杉軍の唐沢山城攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。
 
上杉氏と決別し孤立化した昌綱の後を継いだ[[佐野宗綱]][[常陸国]]の[[佐竹氏]]と同盟を結んで北条氏と戦い続けるものの宗綱が戦死すると天正15年([[1587年]])に[[北条氏康]]の五男・子の[[北条氏忠|氏忠]]を養子佐野氏の当主に迎え北条氏と和議の傘下に入り、これ結んだ反発した昌綱の弟の[[佐野房綱]]は出奔して[[豊臣秀吉]]に仕えた
 
天正18年([[1590年]])[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]では、当主の[[佐野房綱]]は豊臣方に付き唐沢山内の北条勢を一掃に帰郷て接収し、氏忠は秀吉の命令で[[高野山]]へ追放された。[[文禄]]2年([[1593年]])[[豊臣氏]]家臣[[富田一白]]の二男・信種を養子に迎え、秀吉の[[偏諱]]を賜り[[佐野信吉]]と名乗った。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では信吉は[[徳川家康]]方に付き3万5千石の旧領を安堵され[[佐野藩]]が成立した。慶長7年([[1602年]])麓に[[佐野城]]が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説として、[[江戸]]に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある
 
[[江戸]]に火災があったとき山上にある唐澤城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買い、慶長7年([[1602年]])麓に[[春日城]]が築かれ平安時代より続いた唐澤城は江戸から20里(80キロメートル)以内の山城禁令でその歴史に幕を閉じた。
 
[[明治]]16年([[1883年]])有志により本丸跡に唐沢山神社が建立された。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=西ヶ谷恭弘|title=定本 日本城郭事典|publisher=[[秋田書店]]|year=2000|page=54|isbn=4-253-00375-3}}
* 唐澤城老談記『群書類従』巻第六百二十七 合戦部五十七
* [[黒田基樹]]・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』[[宮帯出版社]]、2015年。ISBN 978-4-8016-0017-1。
* 佐野宗綱記 国会図書館所蔵『栃木県史』史料編中世5 所収
* 国会図書館所蔵 栃木縣安蘇郡教育会編纂安蘇郡郷土史年表
 
== 関連項目 ==