削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
 
(14人の利用者による、間の16版が非表示)
11行目:
|死没地 = [[北海道]]
|出身校 =
|前職 = [[農民]][[商人]]
|現職 =
|所属政党 =
35行目:
}}
 
'''中川 文蔵'''(? -なかがわ ぶんぞう、[[昭和1892年]]53([[明治]]25) / [[1893年]]明治26年) - [[1978年]]))は[[日本昭和]]53年))は、日本[[農民]][[商人]][[雑貨]]商兼[[家畜]]商)、[[政治家。[[北海道]]。元[[広尾町]]議会議員を務めた。あだ名は“拙者(せっしゃ)文蔵”<ref>『反骨の宰相候補 中川一郎』{{refnest|group="注"|{{Harvnb|今井久夫|1979|p=240}}によると「“拙者文蔵”というのは文蔵が改まった時に使う一人称である。つまり文蔵は「拙者(せっしゃ)文蔵…」と切り出すような[[明治時代|明治]]の古いタイプの人間であった。広尾周辺の人たちは、文蔵を“拙者文蔵”とアダ名で呼ぶようになった。」という</ref>。}}
 
政治家[[中川一郎]][[中川義雄]]の父、政治家[[中川昭一]]の祖父。
 
== 経歴 ==
==== 入植者 ====
[[富山県]][[西砺波郡]][[福光町]](現在の[[南砺市]])出身。14歳の時[[北海道]]に渡り{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}、[[道東]]の僻地を選んで開拓に従事した{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}
 
19歳で父を失った<ref name="hankotu_p240">{{Sfn|今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』|1979|p=240頁</ref>}}。以来、文蔵はたったひとりで一家眷族(いっかけんぞく)を養うことになった<ref name{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p240"/>240}}。ある時は田地[[田畑]]の作物が全滅し、また[[]]や[[]]が人手に渡ったことも一度や二度ではなかった<ref name{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p240"/>240}}
14歳の時[[北海道]]に渡り<ref name="hankotu_p239">今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』239頁</ref>、[[北海道]]の中でも[[チベット]]といわれる道東の僻地を選んで[[開拓]]に従事した<ref name="hankotu_p239"/>。
 
=== 雑貨商兼家畜商 ===
政治評論家の[[今井久夫]]によると「なにしろ広尾というところは[[北海道]]の中央を北から南に貫く[[日高山脈]]が[[太平洋]]に没するその海岸線の北に位置する小さな部落である<ref name="hankotu_p239"/>。[[馬]]が生きながら[[エゾヒグマ|クマ]]に喰われるところであった<ref name="hankotu_p239"/>。人々はその馬の泣き声を何度も聞いた<ref name="hankotu_p239"/>。」という。
長男の[[中川一郎|一郎]]が小学校2年生の時、文蔵は[[開拓]]地を離れて町なかに住み、[[雑貨]]商兼[[家畜]]商に転じた<ref>『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73頁</ref>}}
 
==== 政治家として ====
19歳で父を失った<ref name="hankotu_p240">今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』240頁</ref>。以来、文蔵はたったひとりで一家眷族(いっかけんぞく)を養うことになった<ref name="hankotu_p240"/>。ある時は田地[[田畑]]の作物が全滅し、また[[牛]]や[[馬]]が人手に渡ったことも一度や二度ではなかった<ref name="hankotu_p240"/>。
政治評論家の[[今井久夫]]によると村議となった文蔵はある時[[陳情]]のため札幌の[[北海道庁|道庁]]に出かけた<ref name{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p240"/>240}}。そこで受けた待遇が文蔵の頭にカチンときた<ref name{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p240"/>240}}。そのカチンが中川の運命を左右する<ref name{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p240"/>240}}。道庁の[[役人]]は、田舎の村議をまるで虫ケラの如く扱ったのである<ref name{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p240"/>240}}。その尊大な、威張り散らした態度に、文蔵は屈辱を覚えると同時に、ハラの底から怒りがこみあげてくるのを押えることができなかった<ref name="hankotu_p240-241">{{Sfn|今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』|1979|p=240-241頁</ref>}}。“よーし、この仇はとってやる”文蔵はそう決意する。そのためには文蔵は長男の[[中川一郎|一郎]]を一流の[[官吏]]に育てあげ、道庁の木っ葉[[役人]]どもを見返すほかはない<ref name="hankotu_p241">{{Sfn|今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』|1979|p=241頁</ref>}}。文蔵は中川に後事を托するような気持で中川息子の成長を見守り、その出世(しゅっせ)を期待する<ref nameしたという{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p241"/>。…」241}}
 
==== 雑貨商兼家畜商晩年 ====
[[昭和1978年]]53年([[1978年昭和]]53年[[中川一郎|一郎]]が[[農林大臣]]の要職にある時に85歳で逝去した<ref>『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』{{Sfn|内藤國夫|1985|p=150頁</ref>}}
[[中川一郎|一郎]]が小学校2年生の時、文蔵は[[開拓]]地を離れて町なかに住み、[[雑貨]]商兼[[家畜]]商に転じた<ref>『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』73頁</ref>。
 
[[北海道庁|道庁]][[役人]]を見返してやろうと思った文蔵の願いを、一郎は十倍にも二十倍にもしてかなえてくれた<ref name="hankotu_p251">」と文蔵は称している{{Sfn|今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』|1979|p=251頁</ref>}}
==== 政治家として ====
政治評論家の[[今井久夫]]によると「村議となった文蔵はある時陳情のため札幌の[[北海道庁|道庁]]に出かけた<ref name="hankotu_p240"/>。そこで受けた待遇が文蔵の頭にカチンときた<ref name="hankotu_p240"/>。そのカチンが中川の運命を左右する<ref name="hankotu_p240"/>。道庁の[[役人]]は、田舎の村議をまるで虫ケラの如く扱ったのである<ref name="hankotu_p240"/>。その尊大な、威張り散らした態度に、文蔵は屈辱を覚えると同時に、ハラの底から怒りがこみあげてくるのを押えることができなかった<ref name="hankotu_p240-241">今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』240-241頁</ref>。“よーし、この仇はとってやる”文蔵はそう決意する。そのためには文蔵は長男の[[中川一郎|一郎]]を一流の[[官吏]]に育てあげ、道庁の木っ葉[[役人]]どもを見返すほかはない<ref name="hankotu_p241">今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』241頁</ref>。文蔵は中川に後事を托するような気持で中川の成長を見守り、その出世(しゅっせ)を期待する<ref name="hankotu_p241"/>。…」。
 
==== 晩年 ====
[[昭和]]53年([[1978年]])[[中川一郎|一郎]]が[[農林大臣]]の要職にある時に85歳で逝去した<ref>『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』150頁</ref>。
 
[[北海道庁|道庁]]の[[役人]]を見返してやろうと思った文蔵の願いを、一郎は十倍にも二十倍にもしてかなえてくれた<ref name="hankotu_p251">今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』251頁</ref>。
 
== 人物像 ==
長男の[[中川一郎|一郎]]と貞子が結婚したのは、[[昭和1951年]]26年([[1951年昭和]]26年)[[7月9日]])<ref name="kaishi_p139">{{Sfn|内藤國夫著『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 |1985|p=139頁</ref>}}。[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]南14条西4丁目にある[[弥彦神社 (札幌市)|弥彦神社]]で、神前結婚式が行われた<ref name{{Sfn|内藤國夫|1985|p="kaishi_p139"/>139}}2人の結婚に当初から反対していた文蔵は姿を見せなかった<ref name{{Sfn|内藤國夫|1985|p="kaishi_p139"/>139}}
 
== 家族・親族 ==
{{Main|中川昭一#家族・親族}}
* 妻セイ([[山形県]]出身<ref name="hankotu_p239"/>)
中川家は、文蔵の時に[[富山県]][[西礪波郡]][[福光町]](現[[南砺市]])から[[北海道]][[広尾郡]][[広尾町]]へ移住している<ref>{{Cite book|和書|author=鈴木宗男|authorlink=鈴木宗男|title=政治の修羅場|year=2012|month=6|series=文春新書|isbn=978-4166608645}}</ref>。
* 子供10人(長男の竜太郎が生まれて間もなく、[[いろり]]の火にころがり落ちて[[焼死]]し、[[長女]]のミヨも[[夭折した著名人一覧|夭折]]。[[中川一郎|一郎]]を“'''[[長男]]扱い'''”とした。)<ref>『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』73頁</ref>
* 妻セイ([[山形県]]出身<ref name{{Sfn|今井久夫|1979|p="hankotu_p239"/>239}}
 
* 子供10人
[[中川一郎|一郎]]の長男[[中川昭一|昭一]]は[[兎唇]]の[[障害]]を持って誕生した<ref name="kaishi_p140">[[内藤國夫]]著『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 140頁</ref>。一郎の妻貞子はこれを“中川一族の血”のせいと信じ込み、夫の一郎にあたりちらした<ref name="kaishi_p140-141">内藤國夫著『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 140-141頁</ref>。一郎の父文蔵が[[家畜]]商をしていた、その[[たたり]]だとまで言ったという<ref name="kaishi_p141">内藤國夫著『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 141頁</ref>。
** 子供10人(実際の長男の竜太郎生まれて間もなく、[[いろり]]の火にころがり落ちて[[焼死]]し、[[長女]]のミヨも[[夭折した著名人一覧|夭折]]。[[中川一郎|一郎]]'''[[長男]]扱い'''”とした{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}})<ref>『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』73頁</ref>
 
[[中川一郎|一郎]]の長男[[中川昭一|昭一]]は[[兎唇]]の[[障害]]を持って誕生した<ref name="kaishi_p140">[[{{Sfn|内藤國夫]]著『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 |1985|p=140頁</ref>}}。一郎の妻貞子はこれを“中川一族の血”のせいと信じ込み、夫の一郎にあたりちらした<ref name="kaishi_p140-141">{{Sfn|内藤國夫著『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 |1985|p=140-141頁</ref>}}。一郎の父文蔵が[[家畜]]商をしていた、その[[たたり]]だとまで言ったという<ref name="kaishi_p141">{{Sfn|内藤國夫著『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 |1985|p=141頁</ref>}}
== 参考文献 ==
* 今井久夫 『反骨の宰相候補 中川一郎』1979年
* [[内藤國夫]] 『悶死 <small>中川一郎怪死事件</small>』 1985年
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
==== 晩年注釈 ====
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=今井久夫|title=反骨の宰相候補 中川一郎|year=1979|month=8|publisher=経済往来社|asin=B000J8FIEQ|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=内藤國夫|title=悶死-中川一郎怪死事件-|year=1985|month=2|publisher=草思社|isbn=978-4794202123|ref=harv}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:なかかわ ふんそう}}
{{Japan-politician-stub}}
[[Category:北海道の地方市町村議会議員]]
[[Category:中川文蔵家|ふんそう]]
[[Category:中川一郎]]
[[Category:富山県出身の人物]]
[[Category:農家1890年代生]]
[[Category:1978年没]]