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== 歴史 ==
{{中国の歴史}}
書論の発生期は[[漢|漢代]]といわれ、最も古いとされる書論は[[中国の書家一覧#趙壱後漢|趙壱]]の『[[#非草書|非草書]]』である。漢代から[[中国の書道史#唐|唐]]の前半期までは[[#書品論|書品]]が好んで行われ、四賢<ref name="shiken">四賢とは、[[張芝]]・[[鍾ヨウ|鍾繇]]・[[王羲之]]・[[王献之]]の4人のこと。『[[書譜]]』の中で使われている語。</ref>を最上とし、その他の[[書家|書人]]の作品が[[#品第法|品第]]され批評される。これが'''伝統派'''の書論であり、その基本は[[中国の書道史#南朝|南朝]]の書品論から出て、その第一は[[中国の書家一覧#ユ肩吾南朝|庾肩吾]]の『[[#書品 (肩吾)|書品]]』である。[[中国の書道史#隋|隋]]を経て唐王朝になると、その伝統派の書論がますます洗練され、ここから[[二王]]を典型とする書道の精神が確立される。よって、伝統派の基本的な考え方は南朝から唐におよぶ書論に求めなければならない。そして、その文献の大部分は『[[#法書要録|法書要録]]』に収められている。
 
唐の後半期からは[[顔真卿]]・[[張旭]]・[[懐素]]などにより書の創作性を強調した新しい意識が芽生え、'''革新派'''の書論が起こってくる。これをさらに理論づけたのは[[中国の書道史#北宋|北宋]]の[[欧陽脩]]・[[中国の書道史#宋の三大家|宋の三大家]]であった。またこのころ[[書道用語一覧#題跋|題跋]]の流行、『[[淳化閣帖]]』などの集刻、[[金石文]]の集録があり、これらも書論に取り込まれていく<ref name="iijima382">飯島(辞典) P.382</ref><ref name="suzuki_sr">鈴木(書論の歴史) P.166</ref><ref name="nakata80"/><ref name="nakata_syoron1">中田(書論集) P.1</ref>。
 
[[中国の書道史#元|元]]になると[[趙孟フ|趙孟頫]]の主張により王羲之を中心とする伝統派への復古的傾向が強まり、[[中国の書道史#明|明初]]もこの傾向が継承された。中期になると[[法帖]]が流行してその研究者による'''[[#帖学派|帖学派]]'''の書論が起こった。明末には[[董其昌]]が現われて革新派を受け継いだ書論を展開するが、この時代は飛躍的に[[書画]]の需要が高まり鑑賞が深まったため[[#書画録|書画録]]が多く発行され、[[中国の書道史#清|清]]に入るとますます流行した。清代の初期までは[[#帖学派|帖学]]が重んじられたが、その後、[[金石学]]の発展とともに[[#碑学派|碑学]]が勃興し、[[中国の書家一覧#阮元|阮元]]・[[包世臣]]・[[康有為]]などにより帖よりも碑を重んじる'''[[#碑学派|碑学派]]'''の書論が盛大になった。日本に碑学をもたらした[[楊守敬]]は碑学・帖学の両方の著を残している<ref name="iijima382"/><ref name="suzuki_sr"/><ref name="iijima349">飯島(辞典) P.349</ref>。
 
[[中華民国|民国]]期も碑学は依然として盛行していたが、帖学派の書人([[中国の書家一覧#沈尹黙|沈尹黙]]・[[潘伯鷹]]・[[白蕉]]など)が顕著な成果を上げ帖学が復興し、清末の楊守敬が碑学派の最後の書人となった。以来、帖学・碑学両派を超えて各名跡の長所を探ろうとする気風が起こり今日に至っている。民国期に脚光を浴びたのは清末に発見された[[亀甲獣骨文字|甲骨文]]や[[木簡|簡牘]]を素材とした書表現であった。[[羅振玉]]は甲骨・簡牘の銘文・墨書の解読書である『[[#殷虚書契考釈|殷虚書契考釈]]』や『[[#流沙墜簡|流沙墜簡]]』([[王国維]]共著)などを著したが、これはこれまで蓄積されてきた金石学の成果により、発見当初から高水準の考証を備えた著録であった。さらに、[[民国紀元|民国]]16年(1927年)に[[居延漢簡]]の発見があり、[[中国の書道史#漢簡|漢簡]]中の[[章草]]に関心を持った書人も少なからず現れ、これに帖学の復興が相まって[[草書体|草書]]の研究が飛躍的に進展した。[[于右任]]は草書の研究書『[[#標準草書|標準草書]]』を刊行し、その後、書体研究が相次いで興った<ref>鈴木(書人名鑑) P.288</ref><ref>小坂 P.103</ref><ref name="kanno171">菅野 P.171</ref><ref>魚住 PP..188-189</ref><ref>飯島(辞典) PP..798-799</ref>。
 
=== 帖学派 ===
[[中国の書道史#南北朝|南北朝時代]]、[[中国の書道史#南朝|南朝]]では四賢<ref name="shiken"/>の書を手本としたが、これらの書が紙や[[中国の書道史#馬王堆帛書|帛]]に書かれていることから[[書道用語一覧#帖|帖]]と呼ばれた。唐の[[太宗 (唐)|太宗]]の王羲之の書の愛好や宋の[[太宗 (宋)|太宗]]の『[[淳化閣帖]]』によって帖の主流は王羲之が占めるようになり、その後、この『淳化閣帖』をもとに様々な[[法帖]]・[[集帖]]・[[書道用語一覧#模本|模本]]が作られた。さらに、明の中期から[[江南]]の経済が発達して収蔵家が数多く出現して法帖の集刻が流行し、また、このころから[[直筆|真跡]]の入手が困難になって法帖を使っての学書が盛行した。この法帖を研究する帖学が[[中国の書家一覧#姜宸英|姜宸英]]や[[中国の書家一覧#王ジュ|王澍]]らによって興され、[[中国の書家一覧#張照|張照]]・[[中国の書家一覧#劉ヨウ|劉墉]]・[[翁方綱]]によって大成された。帖学は王法を主とした伝統的な学書方法をとる立場で、その研究者たちを帖学派と呼ぶ。帖学派の書論として、王澍の『[[#論書ヨウ語|論書賸語]]』、[[中国の書家一覧#梁ケン|梁巘]]の『[[#評書帖|評書帖]]』、[[中国の書家一覧#馮班|馮班]]の『[[#鈍吟書要|鈍吟書要]]』、[[中国の書家一覧#楊賓|楊賓]]の『[[#大瓢偶筆|大瓢偶筆]]』、[[中国の書家一覧#梁同書|梁同書]]の『[[#頻羅庵論書|頻羅庵論書]]』、[[楊守敬]]の『[[#平帖記|平帖記]]』などがある<ref name="suzuki_sr"/><ref name="iijima349"/><ref name="iiyama">飯山 PP..156-157</ref>。
 
=== 碑学派 ===
宋の[[欧陽脩]]の『[[#集古録跋尾|集古録跋尾]]』と[[中国の書家一覧#趙明誠|趙明誠]]の『[[#金石録|金石録]]』によって金石資料が集録されたが、元・明ではこの研究は衰退した。しかし、清代の学問が実証的になって[[考証学]]が興起し、その資料として[[金石文]]が注目された。[[金石学]]を興したのは清初の[[顧炎武]]であるが、これに刺激されて[[トウ石如|鄧石如]]・[[朱彝尊]]・[[鄭燮]]・[[中国の書家一覧#金農|金農]]らが漢碑を習うようになった。金石学に造詣の深い[[中国の書家一覧#阮元|阮元]]は、『[[南北書派論]]』・『[[北碑南帖論]]』を発表し、「法帖の書は翻刻が繰り返されて真意を失っている。これに対し、碑刻の書は真跡に近い。よって書法の正統は[[北碑]]であり、北碑に学ぶべきだ。(趣意)」と主張した。[[#帖学派|帖学派]]の[[包世臣]]も阮元の説に同調し、『[[#芸舟双楫|芸舟双楫]]』を著して碑学が興り、その理論を実践して漢碑や[[北碑]]を学ぶ人たちが現れた。この人たちを碑学派と呼び、清末には[[康有為]]の『[[#広芸舟双楫|広芸舟双楫]]』によってますます碑学派に気勢を加えた。碑学派の人々はみな帖学の素養を持ち、さらに[[篆刻]]にも造詣が深い。他に碑学派の書論として、楊守敬の『[[#平碑記|平碑記]]』などがある<ref name="suzuki_sr"/><ref name="iiyama"/><ref>飯島(辞典) PP..633-634</ref><ref>西川(辞典) P.107</ref>。
 
== 理論体系 ==
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=== 書体論 ===
書体論(文字論を含む)は、[[書体]]の起源・美学・[[用筆法]]などについての論で、[[衛恒]]の『[[#四体書勢|四体書勢]]』、[[中国の書家一覧#元威|庾元威]]の『[[#論書 (元威)|論書]]』、[[中国の書家一覧#張懐カン|張懐瓘]]の『[[#書断|書断]]』上巻などがある。[[許慎]]の[[#『説文解字』序文|『説文解字』序文]]では文字の起源である[[六書]]から各書体の起源までを説く。また、[[漢字]]の書体を初めて示したのは本書で、[[#秦の八体|秦の八体]]と[[#新の六体|新の六体]]をあげている。[[梁 (南朝)|南朝梁]]の『[[#論書 (元威)|論書]]』には100体の雑体書<ref name="zattaisyo">雑体書とは、一般的な通用の体とは違った書体の総称で、雲書・[[飛白体|飛白書]]・虎爪書(こそうしょ)・龍爪書など意匠性の強いものである(綾部 P.152)。[[斉 (南朝)|斉]][[梁 (南朝)|梁]]時代にはこの雑体書が流行した(中田(書論集) P.51)。</ref>が書かれ、唐の『書断』では[[#十体論 (書断)|十体論]]を説いているように書体には数多くの名称があるが、その中心は、[[篆書体|篆書]]・[[隷書体|隷書]]・[[楷書体|楷書]]・[[行書体|行書]]・[[草書体|草書]]の5体で、発生の順序は篆書・隷書と続いて草書・行書、そして最後に楷書である<ref name="iijima382"/><ref name="suzuki_tsm114"/><ref name="nakata_syoron45"/><ref name="fukuda"/>。
 
==== 書体の創始者 ====
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| [[小篆]] || [[李斯]] || 『書断』([[#小篆の創始者 (書断)|内容]])<br>『[[#書概|芸概]]』([[#小篆の創始者|内容]])
|-
| [[古隷]] ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[程邈]] || 『書断』([[#古隷の創始者|内容]])
|-
| [[八分]] || [[中国の書家一覧#王次仲|王次仲]] || 『[[#古来能書人名|古来能書人名]]』([[#八分の創始者|内容]])<br>『書断』([[#八分の創始者 (書断)|内容]])
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| [[草書]] || [[張芝]] || 『書断』([[#草書の創始者|内容]])
|-
| [[飛白体|飛白]] ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[蔡ヨウ|蔡邕]] || 『書断』([[#飛白の創始者 (書断)|内容]])
|}
 
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; 草書
『説文解字』序文に、「漢興って草書あり」とある。この草書は[[章草]]とされており、今の草書(今草)と区別され、[[#章草の創始者 (書断)|章草の創始者]]は[[中国の書家一覧#史游|史游]]<ref name="syousou"/>と『書断』にある。章草には隷書の特徴である[[書道用語一覧#波磔|波磔]]がのこるため、篆書→隷書→章草という[[中国の書道史#書体の変遷|書体の変遷]]になるが、漢代で草書という名称が生まれていることから、その源流は[[中国の書道史#秦(篆書時代)|秦代]]や[[中国の書道史#周(古文・籀文時代)|周代]]の篆書が行われていた時代に、篆書に対する筆記体の書として存在していたことが考えられる。現に、今使われている草書の中には篆書からくずされてできたものがあり、例えば「無」の字の草体は隷書からの連絡がない。また、[[中国の書道史#漢簡|漢簡]]の中には篆隷の省略体としての草体の実例がある。よって、草書は隷書と篆書の2つの源流から変移し形式化し定型化され、後漢の[[張芝]]が[[#草書の創始者|草書の創始者]]となるに至った<ref name="nakata_syoron45"/>。
 
; 行書
『書断』に、「[[#行書の創始者|行書なる者は、後漢の劉徳昇の作る所なり]]」とあり、続いて、「行書は即ち正書<ref name="seisyo">中国の書論には「楷書」という名称はほとんど見えず、その異名である「正書」と「真書」が多く用いられている(福田 P.26)。</ref>の小訛」とあるように、行書は楷書を少し崩したものとしているが、今日では草書と隷書の長所をとって発生した行狎書<ref>行狎書(ぎょうこうしょ)は行押書(ぎょうおうしょ)ともいう。「押」はここでは「狎」と同様に習熟することを言ったもので、習熟して筆記体の書のようにくだけた書体の意味と思われる(中田(書論集) P.49)。</ref>が楷書以前に行われていたとされている。行書はこの行狎書と唐代に完成された楷書をくずして生まれたものとの二通りの成立の仕方があった。のちの行書と区別される行狎書とは、相聞の書といわれる[[手紙|書簡]]のための書体で、西域出土の残紙類に見られ、『古来能書人名』にも[[#鍾ヨウの書の三体|鍾繇の書の三体]]の一つとして記されている<ref name="fukuda"/><ref name="nakata_syoron49"/><ref name="tsuruta"/><ref>小原 P.10</ref><ref>西川(辞典) P.36</ref>。
 
=== 書法論 ===
書法論は、[[筆法]]・[[間架結構法]]・[[布置章法]]という書の技法についての論で、[[用筆]]を[[書法]]の中心とすることが多い。[[中国の書家一覧#衛鑠|衛夫人]]の作とされる『[[#筆陣図|筆陣図]]』、[[蕭衍|武帝]]の『[[#観鍾ヨウ書法十二意|観鍾繇書法十二意]]』、[[中国の書家一覧#梁ケン|梁巘]]の『[[#評書帖|評書帖]]』、[[中国の書家一覧#陳繹曽|陳繹曽]]の『[[#翰林要訣|翰林要訣]]』などがある<ref name="iijima382"/><ref name="suzuki_tsm114"/><ref name="mori89"/>。
 
『翰林要訣』では、[[王羲之]]の遺法とされる中国の[[伝統]]的[[書法#執筆法|執筆法]]・[[#撥鐙法|撥鐙法]]を説いている。撥鐙法の名義や方法には諸説あるが、『翰林要訣』の「[[#撥鐙法|八字訣]]」がその説明として一般的である。撥鐙法は現在の[[書法#双鉤法|双鉤法]]に類似しており、力強い書線を書くのに適している。また、本書には執筆の際の腕の構え方([[腕法]])も説明しており、現在一般に通用している腕法の種類([[書法#枕腕法|枕腕]]・[[書法#提腕法|提腕]]<ref>『[[#翰林要訣|翰林要訣]]』での[[書法#提腕法|提腕法]]は[[肘]]だけを机につけて手首は宙に浮かせて書くとしているが、現在の提腕法は[[手首]]と肘の両方を机につけるのが一般的である(市澤 P.27)。</ref>・[[書法#懸腕法|懸腕]])は本書の説に基づくものである。そして、枕腕は小字に、提腕は中字に、懸腕は大字にそれぞれ用いよとある。しかし、[[米フツ|米芾]]は小字も提腕で書くべきことを説き、[[中国の書家一覧#王ジュ|王澍]]は小字も懸腕で書けといっているように見解に相違がある<ref name="mori14">森高雲 PP..14-15</ref><ref>飯島(辞典) P.624</ref><ref name="ichizawa30">市澤 PP..30-31</ref><ref>森高雲 PP..12-13</ref>。
 
=== 書学論 ===
書学論は、書全般についての考証的な研究である。書学とは書の形式である[[書法]]を集成したもので、中国では書道という言葉は使わず書学という語を用いている。書とは何かということについて中国の書論では、「人間の精神」・「自然(道)」・「[[書道用語一覧#骨法|骨法]]用筆」という3者との関係でおおむね論述されている。[[孫過庭]]の『[[書譜]]』、[[姜キ|姜夔]]の『[[#続書譜|続書譜]]』などがある<ref name="iijima382"/><ref name="suzuki_tsm114"/><ref name="kaizuka"/><ref name="mori88"/>。
 
前漢の[[揚雄]]の言葉に、「[[#書は心画たり|書は心画たり]]」とあり、書は人間の心をあらわすものといっている。孫過庭は『書譜』の中で、この心の奥底(魂)を「[[#霊台|霊台]]」と表現し、書の表現の素晴らしさは人間の深い内面がそのまま筆の動きにあらわれることだと述べている。また、張懐瓘も『[[#文字論 (張懐カン)|文字論]]』の中で、「霊台に由らざれば、必ず神気に乏し」と記している。筆には筆者の無意識の心の動きを引き出す力が備わっているように思える。[[高村光太郎]]は、「画は見飽きることもあるが、書はいくら見てゐてもあきない」といっているが、それは画よりも書の方にその人の無意識の内容がより多く表現されているためである<ref name="mori94"/>。
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! 逸品と9品<ref name="9hin"/> !! 書人
|-
| 逸品 || [[李斯]](小篆)、[[張芝]](章草)、[[鍾ヨウ|鍾繇]](楷書)<br>[[王羲之]](三体<ref>楷書・行書・草書のこと。</ref>・飛白)、[[王献之]](草・行・半草行)
|-
| 上上品 || [[程邈]](隷書)、[[中国の書家一覧#崔エン (書家)|崔瑗]](小篆)
|-
| 上中品 || [[蔡ヨウ|蔡邕]]、[[中国の書家一覧#索靖|索靖]]、[[中国の書家一覧#梁鵠|梁鵠]]、[[鍾会]]、[[衛カン|衛瓘]]、[[韋誕]]、[[中国の書家一覧#皇象|皇象]]
|-
| 上下品 || [[崔寔]](章草)、[[チ鑒|郗鑒]]、[[中国の書家一覧#王イ|王廙]]、[[中国の書家一覧#衛鑠|衛夫人]](楷書)、[[中国の書家一覧#王洽東晋|王洽]]、[[中国の書家一覧#チイン郗愔|郗愔]]<br>[[中国の書家一覧#李式|李式]]、[[中国の書家一覧#ユ翼東晋|庾翼]]、[[羊欣]]、[[欧陽詢]]、[[虞世南]]、[[チョ遂良|褚遂良]]
|-
| 中上品 ||style="text-align:center;"| 7人<ref>『[[#書後品|書後品]]』の中上品7人([[中国の書家一覧#張昶|張昶]]、[[衛恒]]、[[杜預]]、[[張翼]]、[[チ超|郗超]]、[[中国の書家一覧#阮研|阮研]]、[[李元昌]])([[:zh:s:書後品|『書後品』の原文]])</ref>
|-
| 中中品 ||style="text-align:center;"| 12人<ref>『書後品』の中中品12人([[謝安]]、[[康キン|康昕]]、[[桓玄]]、[[丘道護]]、[[許静]]、[[中国の書家一覧#蕭子雲|蕭子雲]]、[[陶弘景]]、[[智永]]、[[劉ビン|劉珉]]、[[房玄齢]]、[[中国の書家一覧#陸柬之|陸柬之]]、[[中国の書家一覧#王知敬|王知敬]])([[:zh:s:書後品|『書後品』の原文]])</ref>
|-
| 中下品 ||style="text-align:center;"| 7人<ref>『書後品』の中下品7人([[孫晧]]、[[張超 (別部司馬)|張超]]、[[謝道韞]]、[[宗炳]]、[[文帝 (南朝宋)|宋文帝]]、[[蕭道成|斉高帝]]、[[謝霊運]])([[:zh:s:書後品|『書後品』の原文]])</ref>
|-
| 下上品 ||style="text-align:center;"| 13人<ref>『書後品』の下上品13人([[陸機]]、[[袁崧]]、[[李夫人]]、[[謝チョウ|謝朓]]、[[中国の書家一覧#ユ肩吾南朝|庾肩吾]]、[[蕭綸]]、[[王褒 (南北朝)|王褒]]、[[斛斯彦明]]、[[銭毅]]、[[房彦謙]]、[[殷令名]]、[[張大隠]]、[[藺静文]])([[s:zh:書後品|『書後品』の原文]])</ref>
|-
| 下中品 ||style="text-align:center;"| 10人
109行目:
書品論(書評論を含む)は、書・書人を品評することで、3つの論法がある。一つは[[#品第法|品第法]](ランク付け)、一つは[[#比況法|比況法]](比喩表現)、もう一つは[[#品性法|品性法]](特性表現)であり、この3つの方法が中国の書の品評の歴史の上に流れている。比況法は唐代までで絶えたが、品第法は時代によってその方法を変化させながら後世まで行われた。しかし、品第法は書に差が設けられる理想と典型の上に成立するものであり、書が個人の創作芸術であるという見方からすると不適当で、この場合は品性法の方がよい。また、良い書はその人間の情性と徳性の優れていることが必要であり、その意味では品性法による書の品評は書を書く人に指針を与え、3つの方法の中では最も新しい意識を持つものといえる<ref name="nakata_syoron5"/><ref>中田(書論集) P.29</ref>。
 
六朝以来の書品は[[梁 (南朝)|南朝梁]]の庾肩吾の『[[#書品 (肩吾)|書品]]』に始まり、その方法を継承した唐の[[中国の書家一覧#李嗣真|李嗣真]]の『[[#書後品|書後品]]』、さらに[[中国の書家一覧#張懐カン|張懐瓘]]の『[[#書断|書断]]』となって大成された。そして、宋の[[中国の書家一覧#朱長文|朱長文]]の『[[#続書断|続書断]]』よって内容は大きく変化してきている。それは伝統的な品第法によりながらも、[[顔真卿]]を第一に置くなど新しい唐の書風を主流に立てている。
 
その他の書品論には、張懐瓘の『[[#書估|書估]]』・『[[#書議|書議]]』、[[羊欣]]の『[[#古来能書人名|古来能書人名]]』、[[中国の書家一覧#王僧虔|王僧虔]]の『[[#論書 (王僧虔)|論書]]』、[[中国の書家一覧#袁昂|袁昂]]の『[[#古今書評|古今書評]]』などがある<ref name="iijima382"/><ref name="suzuki_tsm114"/><ref name="nakata80"/><ref name="nakata_syoron21"/>。
 
==== 品第法 ====
品第法(品等法とも)とは、書人の優劣上下をランク付けする方法である。東晋以来、書を論ずるのに人物を比較して優劣上下を定める方法が多い。このような品第法の見られるのは[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[中国の書家一覧#虞|虞龢]]の『[[#論書表 (虞)|論書表]]』が初めであり、上中下の品第が行われている。その方法が斉梁のころになると九品法<ref name="9hin"/>という古来から行われている品等の立て方を用いるようになり、『[[#書品 (肩吾)|書品]]』にそれが見られる。また、その『書品』には「[[#天然と工夫|天然と工夫]]」という言葉で言い表す品評の方法があり、これが『書品』の要旨となっている。その他に、「[[#天性と習学|天性と習学]]」、「心と手」、「意と筆」、「神彩と形質」などの表現を使って品評している書論もある<ref name="nakata80"/><ref name="nakata_syoron5"/><ref name="nakata_syoron8"/>。
 
李嗣真の『[[#書後品|書後品]]』は、『書品』の9品<ref name="9hin"/>の最上(上上品)の上に逸品を設け10品とし、秦から唐にいたる82人<ref>原文には81人とあるが、82人の誤り。</ref>をランク付けしている。逸品には[[李斯]]と四賢<ref name="shiken"/>の5人をあげてさらに絶対的な存在とした<ref name="syokouhin_genbun"/><ref name="nakata_syoron12"/>。
131行目:
| [[小篆]] || [[李斯]] || 5 || 12
|-
| [[八分]] ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[蔡ヨウ|蔡邕]] || 9 || 3
|-
| [[楷書]] ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[鍾ヨウ|鍾繇]]、[[王羲之]]、[[王献之]] || 25 || 23
|-
| [[行書]] ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[張芝]]、鍾繇、王羲之、王献之 || 16 || 18
|-
| [[章草]] || [[中国の書家一覧#杜度|杜度]]、[[中国の書家一覧#崔エン (書家)|崔瑗]]、張芝、[[中国の書家一覧#皇象|皇象]]<br>[[衛カン|衛瓘]]、[[中国の書家一覧#索靖|索靖]]、王羲之、王献之 || 8 || 15
|-
| [[飛白体|飛白]] ||lang="zh" xml:lang="zh"| 蔡邕、王羲之、王献之 || 5 || 1
|-
| [[草書]] || 張芝、王羲之、王献之 || 22 || 25
162行目:
* 特定の地方の人物に比喩したもの。
* 音楽に比喩したもの。
これらの比喩の中で、書を自然現象にたとえることが特に多い。これは中国の文字がすべて絵画的要素をもち、物象との関連があるためこのような表現法で批評される性質をもつといえる。しかし、この比況法による書評は、唐代後期の[[張旭]]から始まる革新派の書(個人の人間に主体性をおいた自由な創作的な書)では廃れてきて、宋代になるとほとんどなくなってしまう。[[米フツ|米芾]]は、『[[#海嶽名言|海嶽名言]]』に、「物に比況して変わった珍しい表現をしている書論は、修辞に技巧を凝らしてかえって書法をわかりにくくしている。これでは学ぶ人の役に立たない。だから私が書を論ずるときは余計な修辞を述べないことにしている。(趣意)」と記し、南朝の人が好んだ比況法はまわりくどい言い方だとしている<ref name="nakata_syoron21">中田(書論集) PP..21-23</ref><ref name="nakata_syoron24">中田(書論集) PP..24-28</ref><ref name="kaigaku">[[:zh:s:海嶽名言|『海嶽名言』の原文]]</ref>。
 
==== 品性法 ====
172行目:
<span id="題跋">'''題跋'''</span>は、作品に対する感想などを書いたもので、重要な言説が多い。[[蘇軾]]の『[[#東坡題跋|東坡題跋]]』、[[黄庭堅]]の『[[#山谷題跋|山谷題跋]]』などがある<ref name="suzuki_sr"/><ref name="suzuki_tsm206">鈴木(書人名鑑) P.206</ref>。
 
<span id="書画録">'''書画録'''</span>は、自身の所蔵した、または過眼した書画の記録で、作品の釈文・[[画賛|賛]]・題跋・収蔵印記・[[装幀|装丁]]・自らの見解などを記している。[[朱存理]]の『[[#珊瑚木難|珊瑚木難]]』、[[郁逢慶]]の『[[#書画題跋記|書画題跋記]]』、[[張丑]]の『[[#清河書画舫|清河書画舫]]』などがある<ref name="suzuki_sr"/><ref name="suzuki_tsm202">鈴木(書人名鑑) P.202</ref>。
 
<span id="墨譜">'''墨譜'''</span>は、[[墨]]に刻み込まれた図象を写し取ったもの。明代は製墨技術が最高に達し巨匠が現われ、また墨が鑑賞品となって墨譜が刊行された。[[程君房]]の『[[#程氏墨苑|程氏墨苑]]』、[[方于魯]]の『[[#方氏墨譜|方氏墨譜]]』などがある<ref name="suzuki_tsm203">鈴木(書人名鑑) P.203</ref><ref name="nakamuranobu">中村伸夫 PP..140-141</ref>。
183行目:
! 時代 !! 刊行年 !! 名称 !! 巻数 !! 撰者
|-
| [[中国の書道史#後漢|後漢]] || 不詳 || [[#非草書|非草書]]([[:zh:s:非草書|原文]]) || 不詳 || [[中国の書家一覧#趙壱後漢|趙壱]]
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| rowspan="3" | [[中国の書道史#南朝|宋]] || 不詳 || [[#古来能書人名|古来能書人名]]([[:zh:s:采古來能書人名|原文]]) || 1 || [[羊欣]]
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| 470年 || [[#論書表 (虞)|論書表]] || 1 ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[中国の書家一覧#虞|虞龢]]
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| 不詳 || <span id="文字志目">文字志目(もじしもく)</span> || 3 ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[中国の書家一覧#王イン南朝|王愔]]
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| 不詳 || [[#篆隷文体|篆隷文体]] || 不詳 || [[蕭子良]]
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| rowspan="5" | 梁 || 不詳 ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[#観鍾ヨウ書法十二意|観鍾繇書法十二意]]([[:zh:s:法書論 (蕭衍)#觀鍾繇書法十二意|原文]]) || 不詳 || rowspan="2" | [[蕭衍|武帝]]
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| 不詳 || <span id="古今書人優劣評">古今書人優劣評</span>([[:zh:s:法書論 (蕭衍)#古今書人優劣評|原文]]) || 不詳
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| 不詳 || [[#書品 (肩吾)|書品]] || 1 ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[中国の書家一覧#ユ肩吾|庾肩吾]]
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| 523年 || [[#古今書評|古今書評]]([[:zh:s:古今書評|原文]]) || 不詳 || [[中国の書家一覧#袁昂|袁昂]]
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| 不詳 || [[#論書 (元威)|論書]] || 不詳 ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[中国の書家一覧#元威|庾元威]]
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| 陳 || 不詳 || [[永字八法]] || 不詳 || [[智永]]
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| 687年 || [[書譜]]([[:zh:s:書譜序|原文]]) || 2 || [[孫過庭]]
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| 727年 || [[#書断|書断]]([[:zh:s:書斷|原文]]) || 3 || rowspan="8" lang="zh" xml:lang="zh"| [[中国の書家一覧#張懐カン|張懐瓘]]
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| 754年 || [[#書估|書估]]([[:zh:s:書估|原文]]) || 不詳
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| 不詳 || <span id="玉堂禁経">玉堂禁経([[:zh:s:玉堂禁經|原文]])</span> || 不詳
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| 不詳 || [[#文字論 (張懐カン)|文字論]]([[:zh:s:文字論|原文]]) || 不詳
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| 不詳 || <span id="六体書論">六体書論(ろくたいしょろん、[[:zh:s:六體書論|原文]])</span> || 不詳
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| 不詳 || [[#張長史十二意筆法記|張長史十二意筆法記]]([[:zh:s:張長史十二意筆法記|原文]]) || 不詳 || [[顔真卿]]
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| 847年以後 || [[#法書要録|法書要録]]([[:zh:s:法書要錄|原文]]) || 10 || [[張彦遠]]
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| 不詳 || [[#山谷題跋|山谷題跋]]([[:zh:s:論書 (黃庭堅)|原文]]) || 9 || [[黄庭堅]]
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| 不詳 || [[#海嶽名言|海嶽名言]]([[:zh:s:海嶽名言|原文]])</span> || 1 || rowspan="2" | [[米フツ|米芾]]
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| 1103年以後 || [[#書史 (米芾)宋代|書史]] || 不詳
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| 1066年以後 || [[#墨池編|墨池編]] || 20 || rowspan="2" | [[中国の書家一覧#朱長文|朱長文]]
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| [[宣和]]年間 || [[#宣和書譜|宣和書譜]]([[:zh:s:宣和書譜|原文]]) || 20 || 不詳
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| 不詳 || <span id="論書 (趙孟堅)">論書(ろんしょ)</span> || 不詳 || [[中国の書家一覧#趙孟堅|趙孟堅]]
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| rowspan="4" | [[中国の書道史#元|元]] || 1344年 || [[#法書攷|法書攷]]([[:zh:s:法書考|原文]]) || 8 || [[中国の書家一覧#盛熙明|盛熙明]]
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| 不詳 || [[#翰林要訣|翰林要訣]]([[:zh:s:翰林要訣|原文]]) || 1 || [[中国の書家一覧#陳繹曽|陳繹曽]]
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| 不詳 || <span id="書法約言">書法約言(しょほうやくげん、[[:zh:s:書法約言|原文]])</span> || 不詳 || [[宋曹]]
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| 不詳 ||lang="zh" xml:lang="zh"| [[#論書ヨウ語|論書賸語]] || 1 ||rowspan="3" lang="zh" xml:lang="zh"| [[中国の書家一覧#王ジュ|王澍]]
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| 不詳 || [[#頻羅庵論書|頻羅庵論書]]([[:zh:s:頻羅庵論書|原文]])</span> || 1 || [[中国の書家一覧#梁同書|梁同書]]
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| 不詳 || <span id="書概">書概(しょがい、『[[芸概]]』第5巻)</span> || 1 || [[劉熙載]]
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| 不詳 || [[南北書派論]]([[:zh:s:南北書派論|原文]]) || 不詳 || rowspan="2" | [[中国の書家一覧#阮元|阮元]]
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| 不詳 || [[北碑南帖論]]([[:zh:s:北碑南帖論|原文]]) || 不詳
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| 1914年 || [[#流沙墜簡|流沙墜簡]] || 3 || 羅振玉<br>[[王国維]]
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| 1919年 || <span id="セン寿堂所蔵殷虚文字考釈">戩寿堂所蔵殷虚文字考釈<br>(せんじゅどうしょぞういんきょもじこうしゃく)</span> || 1 || 王国維
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| 1925年 || <span id="金文編">金文編(きんぶんへん)</span> || 18 || [[容庚]]
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=== 漢から南北朝 ===
漢代は書が芸術であるというはっきりした自覚がもたれた時期であるが、まだ書論は未発達で、本格的な書論は[[二王]]が登場する[[中国の書道史#東晋|東晋]]から[[中国の書道史#南北朝|南北朝]]に入ってからあらわれる。漢代の書論として、[[中国の書家一覧#曹喜|曹喜]]の『筆論』、[[中国の書家一覧#崔エン (書家)|崔瑗]]の『草書勢』、[[張芝]]の『筆心論』、[[蔡ヨウ|蔡邕]]の『筆勢』という著作があったというが、現存するのは『[[#非草書|非草書]]』のみである<ref>比田井 P.70</ref><ref>小野 PP..43-44</ref>。
 
; <span id="『説文解字』序文">『説文解字』序文</span>
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; <span id="非草書">非草書</span>
『非草書』(ひそうしょ)は、[[中国の書道史#後漢|後漢]]・[[中国の書家一覧#趙壱後漢|趙壱]]撰。'''現存する最も古い書論'''とされる。当時は[[草書体|草書]]が流行していたが、本来、早書きが目的の草書が懲りすぎて、却って時間のかかるものになったとして草書の形骸化を非難したものである。また、「草書学習に梁孔達([[梁宣]])・姜孟穎([[姜詡]])の書を手本にした」との記述があり、当時の[[書道用語一覧#法書|法書]]が存在しない今、貴重な資料となっている<ref name="nakata80"/><ref name="suzuki_tsm115"/><ref>飯島(辞典) P.735</ref><ref>[[:zh:s:非草書|『非草書』の原文]]</ref>。
 
; <span id="四体書勢">四体書勢</span>
『四体書勢』(したいしょせい)は、[[中国の書道史#西晋|西晋]]・[[衛恒]]撰。[[古文]]・篆書・隷書(八分・行書・楷書の3書体を含む)・草書の4書体について名筆家を列挙したあとに、各書体の起源・書法・逸話などの内容を記述したもの。草書が篆書・隷書と並んで一体をなし、重要な書体としての地位を確立していることが分かる。また、[[中国の書家一覧#曹喜|曹喜]]・[[邯鄲淳]]・[[韋誕]]・[[蔡ヨウ|蔡邕]]の漢代の名人の書の特徴と優劣を論じている<ref name="nakata_syoron49">中田(書論集) P.49</ref><ref name="kaizuka"/><ref name="suzuki_tsm115">鈴木(書人名鑑) P.115</ref><ref name="suda_tensyo"/><ref>[[:zh:s:四體書勢|『四体書勢』の原文]]</ref>。
 
; <span id="筆陣図">筆陣図</span>
436行目:
 
; <span id="自論書">自論書</span>
『自論書』(じろんしょ)は、東晋・[[王羲之]]撰。王羲之が自らの書を[[張芝]]・[[鍾ヨウ|鍾繇]]と比較し論じたもの。羲之は常に張芝と鍾繇を意識し、自分の書は彼らに対抗できるとしている<ref name="suzuki_tsm115"/><ref name="suzuki_tsm18"/>。
 
; <span id="古来能書人名">古来能書人名</span>
『古来能書人名』(こらいのうしょじんめい)1巻は、[[中国の書道史#南朝|南朝宋]]・[[羊欣]]撰。南朝になって最初の書論で書評論として最も早いもの。勅命により[[中国の書家一覧#王僧虔|王僧虔]]が本書1巻を筆録し、『能書人名』12巻とともに上進した<ref name="suzuki_tsm116"/><ref>飯島(辞典) P.69、P.821</ref><ref>[[:zh:s:采古來能書人名|『古来能書人名』の原文]]</ref>。
 
; <span id="論書表 (虞)">論書表</span>
『論書表』(ろんしょひょう)1巻は、470年、南朝宋・[[中国の書家一覧#虞|虞龢]]撰。二王の書の蒐集状況の報告書であり、二王の逸話を含む。また、[[#品第法|品第法]]の見られる最初の書論であり、この文の中に、「書一巻の中、好いものを巻首におき、下なるものをその次におき、中のものを最後におくとよい。人は巻首を注意して熱心に見る。中ほどになると退屈してだらだら進み、それから中品に出逢うといつまでも賞玩して巻を終えるにも気がつかない(趣意)」という。書の作品の良し悪しの上から、上中下の品第が行われている<ref name="nakata_syoron5"/><ref name="suzuki_tsm116"/>。
 
; <span id="論書 (王僧虔)">論書</span>
450行目:
『篆隷文体』(てんれいぶんたい)は、南朝斉・[[蕭子良]]撰。43体の雑体書<ref name="zattaisyo"/>が図示され、それぞれの体の創始者とその由来を説明している。中国の書論では六朝時代を頂点として雑体書についての論述が多数あるが、具体的な形態についての資料がほとんどなく本書は貴重である。蕭子良の撰を後代に書写したものが京都・[[毘沙門堂]]に[[重要文化財]]として現存している<ref>中田(書論集) P.51</ref><ref>綾部 P.152</ref>。
 
; <span id="観鍾ヨウ書法十二意">観鍾繇書法十二意</span>
『観鍾繇書法十二意』(かんしょうようしょほうじゅうにい)は、南朝梁・[[蕭衍|武帝]]撰。鍾繇の書法論<ref name="suzuki_tsm116"/><ref>[[:zh:s:法書論 (蕭衍)#觀鍾繇書法十二意|『観鍾繇書法十二意』の原文]]</ref>。
 
; <span id="書品 (肩吾)">書品</span>
『書品』(しょひん、『書品論』とも)1巻は、南朝梁・[[中国の書家一覧#ユ肩吾南朝|庾肩吾]]撰。漢の[[張芝]]から梁に至る能書人(序説によると128人)を9品<ref name="9hin">上・中・下の3品それぞれに上・中・下のランク付けをして9品としている。</ref>に分けて各品ごとに評論を加えたもの。また、品評に、[[#天然と工夫|天然と工夫]]という言葉を使って述べている<ref name="nakata80">中田(書道史) PP..80-81</ref><ref name="nakata_syoron8">中田(書論集) PP..8-10</ref><ref>飯島(辞典) P.381</ref><ref name="suzuki_tsm31"/>。
 
; <span id="古今書評">古今書評</span>
『古今書評』(ここんしょひょう)は、523年、南朝梁・[[中国の書家一覧#袁昂|袁昂]]撰。[[蕭衍|武帝]]の命で秦・漢以来の書人25人を批評したもの。書を主として日月風雲山川草木鳥獣などの自然の物象に比喩した批評を行っている。この手法を[[#比況法|比況法]]といい、例えば、「鍾繇の書は雲鵠の天に遊び、群鴻の海に戯るるが如し」などの表現がある。これは自然の物象を美の基準として書の美しさを表現したものである。『[[#法書要録|法書要録]]』に収められている<ref name="iijima382"/><ref name="nakata80"/><ref name="nakata_syoron21"/><ref name="suzuki_tsm116"/><ref>[[:zh:s:古今書評|『古今書評』の原文]]</ref>。
 
; <span id="論書 (元威)">論書</span>
『論書』(ろんしょ)は、南朝梁・[[中国の書家一覧#元威|庾元威]]撰。雑体書<ref name="zattaisyo"/>の流行について述べたもので、百種を越える雑体書を記している。それは龍書・蛇書・亀書・鶴頭書・雲書などで自然の物象を書の中に取り入れた一種の意匠文字であり、まるで比況法を具体的に意匠化したようである<ref name="nakata80"/><ref name="suzuki_tsm116"/>。
 
; <span id="論書表 (江式)">論書表</span>
467行目:
=== 唐代 ===
----
唐代の書論は南北朝の書論を受け、[[二王]]を中心とした伝統的な書法論が確立する。特に[[太宗 (唐)|太宗]]が王羲之を支持したことにより、王羲之が最高の書人という地位を確定する。太宗自身、歴代帝王中第一の能書であり、この帝によって初唐に多くの能書家・書論家が輩出した。唐代における書品の最も主要な役割をなす人は、[[中国の書家一覧#李嗣真|李嗣真]]と[[中国の書家一覧#張懐カン|張懐瓘]]である。張懐瓘の説は、六朝以来の伝統書道の書論を受け、『[[#書断|書断]]』における神・妙・能の品第法は六朝における九品説を一歩進めた新しい境域を開いている。しかし、初唐の末期の書は、謹厳方正を主とし表面的技巧に陥り堕落していったため、伝統書とは異なる新たな書法が求められた。そして、[[玄宗 (唐)|玄宗]]の頃になると、[[顔真卿]]・[[張旭]]・[[懐素]]などの書人が現れ、革新派の書論が起こってくる<ref name="suzuki_sr"/><ref name="suzuki_tsm116">鈴木(書人名鑑) P.116</ref><ref name="nakata_syoron19"/>。
 
; <span id="書旨述">書旨述</span>
473行目:
 
; <span id="書後品">書後品</span>
『書後品』(しょこうひん、『後書品』・『書品後』とも)1巻は、[[中国の書家一覧#李嗣真|李嗣真]]撰。『[[#書品 (肩吾)|書品]]』を受け、さらに秦から初唐に至る82人を品第している([[#書人ランク一覧 (書後品)|書人ランク一覧]]を参照)。本書中、「古の学ぶ者には、みな師法があった。今の学ぶものは、ただ胸懐に任せて自然の逸気がなく、師心の独往がある。」とある。これはその当時の書風に、伝統的な書風を守らないで勝手気儘な書をかく新しい動きがあり、古人の備えていた自然の逸気がなくなっていることを述べたものである。また、四賢<ref name="shiken"/>の中でも特に王羲之を丁寧に形容し、書の聖といい、草の聖といい、飛白の仙というなど、最上の賛辞をささげている。王羲之が尊ばれる理由は、一種の偏った書体をよくするのではなく、三体・飛白みな優れているところにある。この調和した円満な書人を高く評価する書論は唐代になってから明確な考え方としてあらわれている<ref name="nakata80"/><ref name="syokouhin_genbun"/><ref name="nakata_syoron12">中田(書論集) PP..12-13</ref><ref name="suzuki_tsm117"/><ref>飯島(辞典) P.377</ref>。
 
; <span id="九品書人論">九品書人論</span>
479行目:
 
; <span id="書断">書断</span>
『書断』(しょだん、『十体書断』とも)3巻は、727年、[[中国の書家一覧#張懐カン|張懐瓘]]撰。上・中・下の3巻で構成され、書体論・書品論・書評論を記述しており、特に書品論は最も完備したものとして定評がある。その書品では、神(最上)・妙・能の3品にランク付けし、書体別に[[#書人ランク一覧 (書断)|書人のランクを一覧]]にしている。3巻の内容は以下のとおり<ref name="nakata_syoron14"/><ref name="suzuki_tsm18">鈴木(書人名鑑) PP..18-21</ref><ref name="suzuki_tsm31">鈴木(書人名鑑) PP..31-32</ref><ref name="suzuki_tsm117">鈴木(書人名鑑) P.117</ref><ref name="nishikawa68">西川(辞典) P.68</ref><ref name="syodan_genbun">[[:zh:s:書斷|『書断』の原文]]</ref>。
 
* 上巻…<span id="十体論 (書断)">十体論</span>([[古文]]・[[篆書体|大篆]]・[[籀文]]・小篆・八分・隷書(今の楷書を指す)・行書・[[中国の書道史#章草|章草]]・[[飛白体|飛白]]・草書の10体の源流を説く)
487行目:
本書のおわりに、全文の「評」があり、神品12人から5人(四賢<ref name="shiken"/>と[[中国の書家一覧#杜度|杜度]])を取り上げて称賛している。「真書が古雅で、道が神明に合してりうのは、鍾繇が第一である。真行が妍美で、粉黛を施すことがないのは、王羲之が第一である。章草が古逸で、極致の高深なのは、杜度が第一である。章は勁骨天縦、草は変化無方なのは、張芝が第一である。諸体を精しくすることができるのは、唯ひとり王羲之だけであり、次いで王献之に至っている。」といい、中でも王羲之が諸体を精しくすることができるとして、その最上においている<ref name="nakata_syoron17"/>。
 
; <span id="文字論 (張懐カン)">文字論</span>
『文字論』(もじろん)は、張懐瓘撰。創作の重要性を説いた革新派の論であるが、書の品第についての意見を見ることができる。その説では、「神彩が第一で、字形は第二であり、心中にあるものが先で、目に見えるものは後である。技術が優れて実際に役立つというよりも、情性のあらわれが入神の域に達して優れている。心と目が対立するのではなく、心の方に主体性があるのである。」としている<ref name="nakata_syoron19"/><ref name="suzuki_tsm117"/><ref>[[:zh:s:文字論|『文字論』の原文]]</ref>。
 
494行目:
 
; <span id="書議">書議</span>
『書議』(しょぎ)は、758年、張懐瓘撰。[[中国の書家一覧#崔エン (書家)|崔瑗]]、[[張芝]]、[[中国の書家一覧#張昶|張昶]]、[[鍾ヨウ|鍾繇]]、[[鍾会]]、[[韋誕]]、[[皇象]]、[[ケイ康|嵆康]]、[[衛カン|衛瓘]]、[[中国の書家一覧#衛鑠|衛夫人]]、[[中国の書家一覧#索靖|索靖]]、[[謝安]]、[[王導]]、[[王敦]]、[[王洽 (東晋)|王洽]]、[[王ヨク|王廙]]、[[中国の書家一覧#王ビン|王珉]]、[[王羲之]]、[[王献之]]の19人を真書・行書・章草・草書の4体に分けて、それぞれに書人を序列した書品論。「1000年間、その妙を得た者は、この19人を越えず、その声聞を万里の遠くに飛ばし、栄誉は百代に擢んでている。ただ、王羲之は筆跡が遒潤で、ひとり一家の美を恣にしている。」という。しかし、王羲之にも長短があるとして、「王羲之は真行は優れているが、草では諸家に劣る。」と言っている。これは『[[#書断|書断]]』で神品の草書3人の中に王羲之を入れているのと一致しないが、本書は『書断』より30年ほど後に書かれた晩年のもので、見解に変化が見られる。また、本書には六朝における「[[#天然と工夫|天然と工夫]]」の説とほぼ同様な考え方を「[[#天性と習学|天性と習学]]」という語を用いて表現している<ref name="suzuki_tsm117"/><ref name="nakata_syoron17">中田(書論集) PP..17-18</ref><ref>[[:zh:s:書議|『書議』の原文]]</ref>。
 
; <span id="張長史十二意筆法記">張長史十二意筆法記</span>
『張長史十二意筆法記』(ちょうちょうしじゅうにいひっぽうき)は、[[顔真卿]]撰。[[張旭]]から受けた『[[#観鍾ヨウ書法十二意|観鍾繇書法十二意]]』の教えを記録したもの。張長史とは張旭の別称で、彼が左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことによる<ref name="suzuki_tsm117"/><ref>比田井 P.201</ref><ref>[[:zh:s:張長史十二意筆法記|『張長史十二意筆法記』の原文]]</ref>。
 
; <span id="述書賦">述書賦</span>
『述書賦』(じゅつしょふ)2巻は、[[中国の書家一覧#竇|竇臮]]撰。周より唐に至る書人198人の書評論<ref>飯島(辞典) P.344</ref><ref>[[:zh:s:述書賦|『述書賦』の原文]]</ref>。
 
; <span id="法書要録">法書要録</span>
『法書要録』(ほうしょようろく)10巻は、847年以後、[[張彦遠]]撰。張家は高官の家柄で、その家には書画の収蔵がおびただしく、彦遠は書画の鑑賞に恵まれた環境に生まれた。よってその著述も書と画との両方面にわたり、画の方面では『[[歴代名画記]]』という名著があって本書の姉妹編となっている。本書は後漢から唐におよぶ46編の書論(内4編は書名のみ)をほぼ時代順に排列して編集した書論集である。初めの自序以外はすべて他人の文章であり、その自序には、「好書者ありて余の二書を得れば、書画の事、畢(おわ)れり。」といっている。また、「書法の伝承はまず[[蔡ヨウ|蔡邕]]が神人から受け、[[蔡エン|蔡琰]]、鍾繇、衛夫人、そして王羲之に伝わり、さらに、[[中国の書家一覧#王僧虔|王僧虔]]、[[智永]]、[[虞世南]]、[[欧陽詢]]を経て、ついに私(張彦遠)に及んだ。」とある<ref name="suzuki_tsm114"/><ref name="nakata_syoron2"/><ref name="nakata_syoron1"/><ref name="kaizuka">貝塚 PP..9-10</ref><ref name="iijima737"/>。
 
本書は3種類に大別することができる。第1には二王の書論に関するもの、第2には南朝の書論に関するもの、第3には唐代の伝統派の書論に関するものである。南朝宋の虞龢と羊欣、斉の王僧虔、梁の庾肩吾の著述は本書によって初めて世に伝わったといってよい。本書10巻の内容は次のとおり<ref name="nakata_syoron2">中田(書論集) PP..2-3</ref><ref name="iijima737"/><ref>[[:zh:s:法書要錄|『法書要録』の原文]]</ref>。
# 後漢趙壱[[#非草書|非草書]]、晋[[王羲之|王右軍]][[#自論書|自論書]]、(王羲之教子敬筆論)、晋衛夫人[[#筆陣図|筆陣図]]、王右軍[[#題衛夫人筆陣図後|題衛夫人筆陣図後]]、宋羊欣[[#古来能書人名|古来能書人名]]、伝授筆法人名、南斉王特進答斉太祖論書啓、南斉王僧虔[[#論書 (王僧虔)|論書]]、宋王愔[[#文字志目|文字志目]]、梁蕭子雲啓
# 宋虞龢[[#論書表 (虞)|論書表]]、梁武帝[[#観鍾ヨウ書法十二意|観鍾繇書法十有二意]]、陶隠居与梁武帝論書啓九首、{{zh|梁庾元威}}[[#論書 (元威)|論書]]、梁庾肩吾[[#書品 (肩吾)|書品論]]、梁袁昂[[#古今書評|古今書評]]、陳釈[[智永]]題右軍楽毅論後、後魏江式[[#論書表 (江式)|論書表]]
# 唐虞世南[[#書旨述|書旨述]]、唐[[チョ遂良|褚遂良]]右軍書目、唐李嗣真[[#書後品|書後品]]、唐武平一徐氏法書記、唐徐浩[[#古跡記|古跡記]]、唐何延之蘭亭記、唐褚遂良搨本楽毅論記、唐崔備壁書飛白蕭字記、唐李約壁書飛白蕭字賛、唐高平公蕭斎記、(唐蔡惲書無定体論)
# (唐[[顔師古]]注[[急就章]])、唐張懐瓘[[#書估|書估]]、唐張懐瓘[[#二王等書録|二王等書録]]、唐張懐瓘[[#書議|書議]]、唐張懐瓘[[#文字論 (張懐カン)|文字論]]、(唐張懐瓘[[#六体書論|六体書論]])、唐朝叙書録、唐盧元卿法書録
# 唐竇臮[[#述書賦|述書賦]]上
# 唐竇臮述書賦下
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宋代に書の理論を説いた人としてまず第一に[[欧陽脩]]があげられる。彼は書というものは人によって存するものであり、他人の書を模倣するのは奴書であるとし、この奴書という言葉をその理論の中でよく使った。また、欧陽脩は史学者・金石学者としても著名で、彼が金石文の題跋を書いてから[[蘇軾]]や[[黄庭堅]]がこれにならい題跋が盛んになった。
 
北宋末の[[宮殿|宮廷]]における[[徽宗]]の書画[[コレクション]]の[[鑑定人|鑑定家]]となった[[米フツ|米芾]]は、その龐大なコレクションを自由に利用でき、[[書道#古典|古典]]を徹底的に研究し、自ら蒐集もした。この宮廷コレクションの素晴らしさは『[[#宣和書譜|宣和書譜]]』などによって知ることができる。彼が書き残した[[#書画録|書画録]]は今日においても正確で信頼のおけるものとされ、その鑑識眼は中国史上最高というべきものであった<ref name="nakata127"/><ref>西川(辞典) P.84</ref><ref>比田井 P.231、P.237、P.238</ref>。
 
; <span id="集古録跋尾">集古録跋尾</span>
『集古録跋尾』(しゅうころくばつび)10巻は、1063年、[[欧陽脩]]撰。[[中国の書道史#秦(篆書時代)|秦]]から[[中国の書道史#五代・十国|五代]]までの数百の金石資料を集録し、その考証結果を題跋に記したものである。これによって金石学という分野が研究されるようになった<ref name="nakata127"/><ref>西川(辞典) P.59</ref><ref>飯島(辞典) P.337</ref>。
 
; <span id="金石録">金石録</span>
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; <span id="海嶽名言">海嶽名言</span>
『海嶽名言』(かいがくめいげん)1巻は、[[米フツ|米芾]]撰。書名から推測して米芾の論を後人が編集したものと言われている。顔真卿の楷書を俗品に入れ、[[柳公権]]を醜怪悪礼の祖と評するなど、唐から宋に至る名家を遠慮なく非難している<ref name="suzuki_tsm118"/><ref>飯島(辞典) P.101</ref><ref>西川(辞典) P.22</ref><ref name="kaigaku"/>。
 
; <span id="書史 (米フツ)">書史</span>
『書史』(しょし)は、1103年以後、米芾撰。宋代の[[書道用語一覧#法書|法書]]を鑑賞した時の記録で、法書の真贋優劣・印章・[[書道用語一覧#題跋|跋尾]]など豊富な史料となっている<ref name="iijima378">飯島(辞典) P.378</ref>。
 
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; <span id="続書断">続書断</span>
『続書断』(ぞくしょだん)は、1074年(序文の日付)以後、朱長文撰。張懐瓘の『[[#書断|書断]]』の続篇であり、張懐瓘の品例を用いて主に唐宋の書人を集めて品第しており、神品3人([[顔真卿]]・[[張旭]]・[[李陽冰]])、妙品16人<ref>『[[中国の書論#続書断|続書断]]』の妙品16人([[太宗 (唐)|唐太宗]]、[[虞世南]]、[[欧陽詢]]、[[チョ遂良|褚遂良]]、[[中国の書家一覧#陸柬之|陸柬之]]、[[徐浩]]、[[懐素]]、[[柳公権]]、[[欧陽通]]、[[徐キョウ之|徐嶠之]]、[[中国の書家一覧#沈伝師|沈伝師]]、[[韓択木]]、[[徐鉉]]、[[石延年]]、[[蘇舜欽]]、[[蔡襄]])([[:zh:s:續書斷|『続書断』の原文]])</ref>、能品66人を補っている。本書は、唐宋の書人の小伝などとして参考になるものが多く、特に記録の少ない宋代の書についての歴史的な記述や小伝、書評などがある。著者の朱長文は『[[#墨池編|墨池編]]』の序文によると、10歳のとき父から顔真卿の書を教えられており、その尊ぶところは伝統派の人と異なっている。よって、伝統的な品第法によりながらも、事実上は新しい唐の書風を主流に立て、異なる方向の書品論となっている<ref name="nakata_syoron21"/><ref name="nakata_syoron19">中田(書論集) PP..19-20</ref><ref>[[:zh:s:續書斷|『続書断』の原文]]</ref>。
 
; <span id="宣和書譜">宣和書譜</span>
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; <span id="続書譜">続書譜</span>
『続書譜』(ぞくしょふ)1巻は、[[姜キ|姜夔]]撰。[[孫過庭]]の『[[書譜]]』を継承した書学論。晋魏の書法を祖述しようとするもので、[[顔真卿]]や[[楊凝式]]などの革新派の書人を評価しない<ref name="zokusyofu_genbun"/><ref name="suzuki_tsm119"/>。
 
; <span id="書苑菁華">書苑菁華</span>
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=== 元代 ===
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[[モンゴル族]]が支配した元王朝は漢文化に冷淡であり、書の方面も沈滞したが、[[趙孟フ|趙孟頫]]は元王朝に仕えて元王朝の書壇を代表する存在となり、王羲之の書を最高とした復古調の書風を主張した。そして、[[中国の書道史#宋の三大家|宋の三大家]]らの革新派の書は古法を荒廃に導くものと捉え、書の伝統を保持しようとする古典主義的な書論が多く作られた<ref name="suzuki_sr"/><ref name="suzuki_tsm119">鈴木(書人名鑑) P.119</ref>。
 
; <span id="法書攷">法書攷</span>
『法書攷』(ほうしょこう、『法書考』とも)8巻は、1344年、[[中国の書家一覧#盛熙明|盛熙明]]撰。字源・筆法・図訣・形勢など、書の全般にわたった概論の書である。書品としては、[[蒼頡]]より以降、秦から唐に至るまでの書人を上中下の3品に分けて人名を配し、人名の下に古人の品評の言葉を略記している。評語を付した品第表として便利にできている。なお、上品に39人<ref>『[[中国の書論#法書攷|法書攷]]』の上品39人([[倉頡]]、[[中国の書家一覧#史籀|史籀]]、[[李斯]]、[[趙高]]、[[程邈]]、[[中国の書家一覧#王次仲|王次仲]]、[[陳遵]]、[[中国の書家一覧#史游|史游]]、[[杜操]]、[[劉穆]]、[[中国の書家一覧#杜度|杜度]]、[[中国の書家一覧#劉徳昇|劉徳昇]]、[[中国の書家一覧#崔エン (書家)|崔瑗]]、[[崔寔]]、[[中国の書家一覧#曹喜|曹喜]]、[[邯鄲淳]]、[[中国の書家一覧#師宜官|師宜官]]、[[衛弘]]、[[蔡ヨウ|蔡邕]]、[[張芝]]、[[中国の書家一覧#張昶|張昶]]、[[胡昭]]、[[韋誕]]、[[鍾ヨウ|鍾繇]]、[[鍾会]]、[[中国の書家一覧#皇象|皇象]]、[[中国の書家一覧#梁鵠|梁鵠]]、[[衛カン|衛瓘]]、[[中国の書家一覧#索靖|索靖]]、[[張華]]、[[ケイ康|嵆康]]、[[謝安]]、[[中国の書家一覧#衛鑠|衛夫人]]、[[中国の書家一覧#王イ|王廙]]、[[王羲之]]、[[王献之]]、[[中国の書家一覧#王ビン|王珉]]、[[荀輿]]、[[中国の書家一覧#阮研|阮研]])([[:zh:s:法書考|『法書攷』の原文]])</ref>、中品に72人、下品に135人を配している<ref name="nakata_syoron21"/><ref name="iijima737">飯島(辞典) P.737</ref><ref name="suzuki_tsm119"/><ref>[[:zh:s:法書考|『法書攷』の原文]]</ref>。
 
; <span id="翰林要訣">翰林要訣</span>
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=== 明代 ===
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明初は王羲之以来の古典が尊重され、それを継承しようとする書論が大勢で、師から弟子への伝授書も多い。中期は商業が著しく繁栄し、中国第一の商工業都市となった呉中(現在の[[蘇州市|蘇州]])ではこの繁栄を背景に詩書画結合の芸術形式が普及し、また[[篆刻]]も[[文人]]芸術として発展した。また、優れた鑑賞眼と見識をそなえ収蔵に熱意を傾ける鑑蔵家が多数現われ、[[集帖]]・[[#書画録|書画録]]が刊行された。末期はまず[[董其昌]]が天真爛漫の境地を理想にかかげた革新的な傑作を数多くのこした。彼の理念は[[蘇軾]]や[[米フツ|米芾]]の書論に立脚し、[[王鐸]]も董其昌の理論を実践している<ref name="suzuki_tsm204">鈴木(書人名鑑) PP..204-205</ref><ref>中田(書道史) PP..155-165</ref><ref name="nakamuranobu"/><ref>澤田 PP..129-134</ref>。
 
; <span id="書法雅言">書法雅言</span>
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; <span id="書史会要">書史会要</span>
『[[書史会要]]』(しょしかいよう)9巻・補遺1巻は、[[陶宗儀]]撰。1巻から8巻は、上古から元代までの書人の伝記・書風を記し、評論を加えている。元代の書人を多く含む。9巻に書法を付し、補遺には明代の書人を収録する。[[朱謀イン|朱謀垔]]の『書史会要続編』1巻があり、明代の書家をおさめている<ref name="nishikawa68"/><ref name="iijima378"/><ref name="suzuki_tsm204"/>。
 
; <span id="古今法書苑">古今法書苑</span>
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=== 清代 ===
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清朝の皇帝は[[満民族]]でありながら[[漢民族]]の伝統文化を尊重して大規模な文化振興事業を実施した。また[[考証学]]が盛んになるなど、その資料として金石文に注目が移り、阮元と包世臣の書論により[[#碑学派|碑学]]が勃興した。清代で特筆すべきはこの碑学を研究する[[#碑学派|碑学派]]の出現である。
 
; <span id="佩文斎書画譜">佩文斎書画譜</span>
『佩文斎書画譜』(はいぶんさいしょがふ)100巻は、1708年、[[康熙帝]]撰。明末までの歴代の書画関係を統一整理し、出典を明記したもの。書の理論体系を立てて、書体・書法・書学・書品という4つの部門を分け、さらに書家伝・書跋・弁証・鑑蔵という項目を加えている<ref name="iijima382"/><ref name="nakata_syoron5">中田(書論集) PP..5-7</ref><ref>西川(辞典) P.104</ref><ref>飯島(辞典) P.618</ref>。
 
; <span id="論書ヨウ語">論書賸語</span>
『論書賸語』(ろんしょようご)1巻は、[[中国の書家一覧#王ジュ|王澍]]撰。執筆・運筆・結字・用墨・臨古・篆書・隷書・楷書・行書・草書・[[書道用語一覧#牓書|牓書]]・論古の12節に分けて学書法を論じている。[[董其昌]]を否定し唐碑を重視している。独創の見解が多い。[[江戸時代]]に[[市河米庵]]が本書を『清三家書論』の中に入れている<ref name="suzuki_tsm206"/><ref>西川(辞典) P.135</ref><ref>飯島(辞典) P.869</ref>。
 
; <span id="鈍吟書要">鈍吟書要</span>
『鈍吟書要』(どんぎんしょよう)1巻は、[[中国の書家一覧#馮班|馮班]]撰。主として[[#楷の定義|楷法]]を論じ、鍾繇・王羲之・顔真卿・[[柳公権]]を宗としている。宋代では[[蔡襄]]、元代では[[趙孟フ|趙孟頫]]を推している<ref name="suzuki_tsm206"/><ref>西川(辞典) P.99</ref><ref>飯島(辞典) P.568</ref>。
 
; <span id="頻羅庵論書">頻羅庵論書</span>
『頻羅庵論書』(ひんらあんろんしょ)1巻は、[[中国の書家一覧#梁同書|梁同書]]撰。乾隆時代の書家として一流の撰者が心得した書に対する所論を明確にしたもので、見識の高さがうかがえ書論書として屈指のものとされる。[[王鐸]]の『擬山園帖』を取るに足らずと述べている<ref>飯島(辞典) P.644</ref><ref>中西(辞典) P.841</ref><ref>[[:zh:s:頻羅庵論書|『頻羅庵論書』の原文]]</ref>。
 
; <span id="評書帖">評書帖</span>
『評書帖』(ひょうしょじょう)1巻は、[[中国の書家一覧#梁ケン|梁巘]]撰。[[書法#執筆法|執筆法]]、法帖・諸碑の評論、古名人より[[中国の書家一覧#張照|張照]]に至るまでの書評論である。書と時代について、「晋韻、唐法、宋意、明態」と表現している<ref>飯島(辞典) P.641</ref><ref>西川(辞典) P.108</ref><ref>石川 P.54</ref><ref>[[:zh:s:評書帖|『評書帖』の原文]]</ref>。
 
; <span id="芸舟双楫">芸舟双楫</span><span id="安呉論書"></span>
『芸舟双楫』(げいしゅうそうしゅう、『安呉論書』(あんごろんしょ)とも)6巻は、[[包世臣]]撰。論文4巻・論書2巻・付録3巻からなり、『安呉論書』と称するのは、この中の論書の部分を指す。本書は阮元の説を継ぐ北碑派の理論であり、[[#碑学派|碑学派]]の立場をゆるぎないものにして清朝末期の書道界に大きな影響を与えた。本書中、[[逆入平出]]の[[用筆]]を説き、この理論を[[趙之謙]]が実践した。また、[[トウ石如|鄧石如]]の篆書・隷書・楷書を天下第一と称揚し、さらに[[鄭道昭]]の名を広く世に知らしめた<ref name="iiyama"/><ref name="suzuki_tsm24">鈴木(書人名鑑) P.24</ref><ref>飯島(辞典) P.202</ref><ref name="suzuki_tsm283">鈴木(書人名鑑) P.283</ref><ref>西川(辞典) P.8</ref><ref>[[:zh:s:藝舟雙楫|『芸舟双楫』の原文]]</ref>。
 
; <span id="広芸舟双楫">広芸舟双楫</span>
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=== 書体について ===
* <span id="書契の創始者 (四体書勢)">'''書契の創始者'''</span>:「昔在(むかし)[[黄帝]]、制を創り物を造る。沮誦(そしょう)・[[蒼頡|倉頡]]なる者有り、始めて[[書道用語一覧#書契|書契]]を作りて、以て[[結縄]]に代う。蓋し鳥の跡を覩(み)て以て思いを興すなり。」(文字の創始者として沮誦と倉頡の2人を挙げているが、倉頡ばかりが有名になっている。[[中国の書道史#漢字の創成・進化]]を参照)…『[[#四体書勢|四体書勢]]』<ref name="suda_tensyo"/>
* <span id="書契の創始者 (説文解字)">'''書契の創始者'''</span>:「[[黄帝]]の史官・倉頡、鳥獣蹄迒(ていこう)の跡を見て、分理の相い別異す可きを知るや、初めて書契を造る。」…[[#『説文解字』序文|『説文解字』の序文]]<ref name="suda_tensyo"/><ref name="jyobun_genbun"/>
* <span id="秦の八体">'''秦の八体'''</span>:「爾(そ)れより秦の書に八体有り。一に曰く大篆、二に曰く小篆、三に曰く刻符、四に曰く[[書道用語一覧#鳥書|蟲書]]、五に曰く摹印、六に曰く署書、七に曰く殳書、八に曰く隷書。」(秦の[[始皇帝]]期の書体は8体あり、大篆は小篆の古体、小篆は秦代の[[中国の書道史#正体|正体]]、最後の隷書は実務用の俗体で、残りの5体は小篆にもとづく用途別の体であり、刻符(こくふ)は符信(割り符)に、蟲書(ちゅうしょ)は幡信に、摹印(もいん)は印章に、署書(しょしょ)は題署に、殳書(しゅしょ)は兵器に用いられた)…[[#『説文解字』序文|『説文解字』の序文]]<ref name="nakata_syoron45">中田(書論集) PP..45-47</ref><ref name="jyobun_genbun">[[:zh:s:說文解字/01|『説文解字』序文の原文]]</ref>
* <span id="新の六体">'''新の六体'''</span>:「一に曰く古文、孔子壁中の書なり。二に曰く奇字、即ち古文にして異るものなり。三に曰く篆書、即ち小篆。四に曰く左書、即ち秦の隷書。秦の始皇帝が下杜人の[[程邈]]に作らせしところのものなり。五に曰く繆篆(びゅうてん)、摹印の所以なり。六に曰く[[書道用語一覧#鳥書|鳥蟲書]]、幡信に書する所以なり。」(孔子壁中の書とは、前漢の[[景帝 (漢)|景帝]]の子、[[魯]]の[[劉余|恭王]]が[[孔子]]の旧宅を壊して宮殿を修築しようとしたとき、その壁中から見つかった大量の[[経書]]のことである。これは秦の焚書を避けるために魯の[[儒者]]たちが隠しておいたものであり、この経書の文字の書体を古文という)…[[#『説文解字』序文|『説文解字』の序文]]<ref name="nakata_syoron45"/><ref name="jyobun_genbun"/><ref>松宮 P.38</ref>
* <span id="鍾ヨウの書の三体">'''鍾繇の書の三体'''</span>:「[[鍾ヨウ|鍾繇]]の書に三体あり、一に曰く銘石の書、最も妙なる者なり。二に曰く章程書、秘書に伝え小学を教うる者なり、三に曰く行狎書、相聞する者なり。三法皆な世人の善しとする所なり。」(鍾繇が銘石書(隷書)と章程書(楷書)と行狎書(行書)の三体をよくしたという。銘石書とは、[[石碑|碑版]]のための書体で、漢隷を継承するものである。『[[中国の筆跡一覧#受禅表|受禅表]]』などがその例である。章程書とは、正しい文書記録のための書体で、子弟の教育のために用いられた。『[[中国の筆跡一覧#宣示表|宣示表]]』などがその例である。行狎書とは、[[手紙|書簡]]のための書体で、のちの行書である)…『[[#古来能書人名|古来能書人名]]』<ref name="tsuruta"/><ref name="nakata_syoron49"/><ref>木村 P.104</ref><ref>玉村 P.33</ref>
* 「[[顔真卿|顔魯公]]の行字は教うべし。真は便ち俗品に入る。」(顔真卿の行書は習うべきであるが、楷書については俗品に入ると評価している)…『[[#海嶽名言|海嶽名言]]』<ref name="tsuruta"/>
* 「唐人、八分・楷・行兼ねて善くする者は、[[欧陽詢]]・[[徐浩]]のみ。[[虞世南|虞]]・[[チョ遂良|褚]]・[[李ヨウ (唐)|李]]・[[顔真卿|顔]]・[[柳公権|柳]]・諸家は、行・楷は妙なるも、八分は未だ精ならず。」(唐代の諸家は楷書・行書だけでなく、八分にも精通していなければならないことを示唆している)…『[[#評書帖|評書帖]]』<ref name="tsuruta"/>
* 「古人、真行書を論ずるに、率ね篆分の意を失わざるを以て上と為す。」(楷行書に篆書の筆意があるものが良い)…『[[#安呉論書|安呉論書]]』<ref name="tsuruta"/>
* 「今世草書を善くするを称する者は、或いは真行を能くせず。これ大妄なり。真は行を生じ、行は草を生ず。真は立つ如く、行は行く如く、草は走るが如し。」(各体の特徴を端的に言い当てている)…『[[#東坡題跋|東坡題跋]]』<ref name="tsuruta"/>
* 「楷を書くには当に黄庭・懐素を以て宗と為すべし。得べからざれば則ち女子箴を宗とせよ。行書は[[米フツ|米元章]][[顔真卿|顔魯公]]を以て宗と為し、草は十七帖を以て宗と為せ。」(楷書では『黄庭経』を学び、それができなければ『女子箴』(じょししん)を学ぶ。行書は米芾、顔真卿を、草書は『[[王羲之#十七帖|十七帖]]』を学ぶのが基本である)…『[[#画禅室随筆|画禅室随筆]]』<ref name="tsuruta"/>
 
==== 篆書 ====
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==== 隷書 ====
* <span id="古隷の創始者">'''古隷の創始者'''</span>:「邈、字は元岑(げんしん)、始めて(がけん)の獄吏と為るも、罪を始皇に得て、雲陽に幽繋さる。獄中に覃思すること十年、大小篆の方円を益して、隷書三千字を為り、之を奏す。始皇之を善しとし、用いて御史と為す。」([[程邈]]が隷書([[中国の書道史#古隷|古隷]])をつくったと記しているが伝説とされている)…『[[#書断|書断]]』<ref name="suda_reisyo"/>
* 「[[中国の筆跡一覧#開通褒斜道刻石|開通褒斜道刻石]]は、隷の古なり。」(この刻石を古隷と称している)…『[[#書概|芸概]]』<ref name="suda_reisyo"/>
* <span id="八分の創始者">'''八分の創始者'''</span>:「上谷の[[中国の書家一覧#王次仲|王次仲]]、後漢の人。八分の[[#楷の定義|楷法]]を作る。」(八分の創始者を王次仲としている)…『[[#古来能書人名|古来能書人名]]』<ref name="suda_reisyo"/>
* <span id="八分の創始者 (書断)">'''八分の創始者'''</span>:「按八分者秦羽人上谷[[中国の書家一覧#王次仲|王次仲]]所作也。」(八分は王次仲が作った)…『[[#書断|書断]]』<ref name="syodan_genbun"/>
* 「隷書なる者は、篆の捷(しょう、はやいの意)なり。」(隷書は篆書の速書きから生まれた)…『[[#四体書勢|四体書勢]]』<ref name="suda_reisyo"/>
* 「秦は既に篆を用うるも、秦事繁多にして、篆字成り難し。即ち隷人<ref>隷人とは、下級役人のこと(須田(隷書) P.59)。</ref>をして書を佐へ令(し)め、隷字と曰う。漢は因りて之を行い、独り府・印璽(いんじ)・幡信・題署のみ篆を用う。」(隷書の名は下級役人の呼称に由来する。漢代では特別な用途以外は隷書が用いられていた)…『[[#四体書勢|四体書勢]]』<ref name="suda_reisyo">須田(隷書) PP..59-61</ref>
691行目:
* 「漢興って草書あり。」(この草書とは[[中国の書道史#前漢|前漢時代]]の[[中国の書道史#章書|章書]]とされている)…[[#『説文解字』序文|『説文解字』序文]]<ref name="fukuda">福田 PP..25-26</ref><ref name="jyobun_genbun"/>
* <span id="章草の創始者 (書断)">'''章草の創始者'''</span>:「按章草,漢黄門令史[[中国の書家一覧#史游|史游]]所作也。」(章草は史游が作った)…『[[#書断|書断]]』<ref name="syodan_genbun"/>
* <span id="草書の創始者">'''草書の創始者'''</span>:「[[張芝|伯英]]の章草は[[中国の書家一覧#崔エン (書家)|崔]]・[[中国の書家一覧#杜度|杜]]の法を学んで之を変じ以て今草を成す。字の体勢一筆にして成り偶ま連らざるあるも血脈断へず。」(張芝が今草、つまり現在の草書の創始者であるとし、章草が単体であったのに対し、今草は[[書道用語一覧#連綿三絶|連綿]]であることを表現している)…『[[#書断|書断]]』<ref>飯島(辞典) P.507</ref>
* 「[[張芝|張]]の草には猶お当に雁行<ref>雁行(がんこう)とは、がんの列のように斜め後に並んで進むこと(新選漢和辞典)。</ref>すべし。」(これは王羲之の言葉を孫過庭が引用したもので、張芝の草書は王羲之よりも優れているとしている)…『[[書譜]]』<ref>西林 P.55</ref>
 
698行目:
[[ファイル:ZhongQiuTie.jpg|thumb|right|180px|『[[王献之#中秋帖|中秋帖]]』[[王献之]]書]]
 
* <span id="行書の創始者">'''行書の創始者'''</span>:「行書なる者は、後漢の[[中国の書家一覧#劉徳昇|劉徳昇]]の作る所なり。行書は即ち正書の小訛、務めて簡易に従い相聞流行す。故にこれを行書という。[[中国の書家一覧#王イン南朝|王愔]]云う。晋世以来、書に工みなる者は、多く行書を以って名を著すと。[[鍾ヨウ|鍾元常]]行狎書を善くす、是なり。その後、王羲之・献之並びにその極に造る。」(行書の創始者を劉徳昇としている。[[#書体の創始者]]の行書で解説)…『[[#書断|書断]]』<ref name="tsuruta">鶴田 PP..82-83</ref><ref name="syodan_genbun"/>
* 「行書は『[[蘭亭序]]』および[[王羲之]]の諸帖を第一とし、[[謝安]]・[[王献之]]の諸帖が之に次ぐ。(趣意)」(原文の大令とは王献之のこと)…『[[#続書譜|続書譜]]』<ref name="zokusyofu_genbun"/><ref name="nakata_syoron288"/>
* 「唐人の行書は、皆な二王より出て、宋人の行書は、多く[[顔真卿|顔魯公]]より出づ。[[趙孟|趙子昂]]云う、[[用筆]]は千古変らずと。只だ宋人を看て亦た妙たるも、唐人は得難きなり。」(二王よりの唐人を尊重する伝統的な見解)…『[[#鈍吟書要|鈍吟書要]]』<ref name="tsuruta"/>
 
==== 楷書 ====
709行目:
 
==== 雑体書 ====
* <span id="飛白の創始者 (書断)">'''飛白の創始者'''</span>:「按[[飛白体|飛白書]]者、後漢左中郎將[[蔡ヨウ|蔡邕]]所作也。」(飛白は蔡邕が作った)…『[[#書断|書断]]』<ref name="syodan_genbun"/>
* 「雑体書の技巧は文字というより絵画に通じ、書としての条件に欠けるので詳しく論じるほどのものではない。(趣意)」…『[[書譜]]』<ref name="nishibayashi46"/>
 
=== 書学について ===
* 「功は礼楽を宣べ、妙は神仙に擬す。」(書の功は礼楽の教えをひろめ、その妙は[[神仙]]にたとえられる)…『[[書譜]]』<ref name="nishibayashi57"/><ref name="mori88"/>
* <span id="書は心画たり">「'''書は[[書道用語一覧#心画|心画]]たり'''。」</span>(書の表現は人の心をあらわす)…『法言<ref>『法言』(ほうげん)は、前漢の[[揚雄]]の撰で、書論ではないが、本書中の「書心畫也。」([[:zh:s:法言/05|『法言』第五「問神」]]より)は大変有名な言葉で、[[中林梧竹]]も引用している([[日本の書論#六朝書道論]]の「書の奥義」(中林梧竹著)を参照)。</ref>』<ref>森高雲 P.94</ref>
* 「書は如なり。」(書はその人のままである)…[[#『説文解字』序文|『説文解字』序文]]<ref name="mori88">森高雲 P.88</ref><ref name="jyobun_genbun"/>
* 「多力豊筋なる者は聖なり。」(線は骨力・筋力の多くて豊かであるのが良い)…『[[#筆陣図|筆陣図]]』<ref name="mori88"/>
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=== 書品について ===
* <span id="天然と工夫">'''天然と工夫'''</span>:「[[張芝]]は工夫は第一で、天然はこれに次ぐ。[[鍾ヨウ|鍾繇]]は天然は第一で、工夫はこれに次ぐ。[[王羲之]]は工夫は張芝に及ばないが、天然はそれ以上であり、天然は鍾繇に及ばないが、工夫はそれ以上である。」(天然とは、人間の技巧によらないで、情性が自然のままにあらわれること。工夫とは、人間の努力によってなされる技巧のはたらきをいう)…『[[#書品 (肩吾)|書品]]』<ref name="nakata_syoron8"/>
* <span id="天性と習学">'''天性と習学'''</span>:「天性を第一としたものは風神骨気があり、習学を第一としたものは妍美功用においてすぐれている。この2つでは風神骨気ある者がすぐれ、妍美功用のものはその下にある。」…『[[#書議|書議]]』<ref name="nakata_syoron17"/>
 
=== 墨について ===
* 「墨は[[廬山]]の[[墨#松煙墨(青墨)日本|松煙]]、代郡の鹿角の[[ゼラチン|膠]]にて、十年以上にして石の如きがよし。」(良墨について)…『[[#筆陣図|筆陣図]]』<ref name="nagai71"/>
* 「古は松煙、[[グラファイト|石墨]]の2種を用ふ。石墨は晋魏より以後聞くことなし。」(製墨の歴史について)…『[[#墨経|墨経]]』<ref name="nagai71"/>
* 「凡そ墨色は紫光を上となす。青光又之に次ぎ、白光を下と為す。凡そ光と色を廃すべからず。一時久しくして渝(かわ)らざるを貴となす。」(墨色について)…『[[#墨経|墨経]]』<ref name="nagai71">永井 前付PP..71-72</ref>
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* [[中国の絵画]] 
 
{{デフォルトソートDEFAULTSORT:ちゆうこく しよろん}}
[[Category:書|*ちゆうこくのしよろん]]
[[Category:中国の文化史|しよろん]]