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国家権力の[[暴力装置]]([[警察]]等)に対する暴力=[[ゲバルト]]を公然と表明する新左翼であるが、[[革命]]という共通した目的をもつ左翼陣営の内部にありながら、路線対立・[[覇権|ヘゲモニー]]争いを理由に、ある党派が別の党派に暴力を行使する。これを内部ゲバルト、略して「内ゲバ」という。
 
日本では1950年に[[日本共産党]]が[[所感派]]と[[国際派]]に分裂して以降、[[日本の学生運動]]で両派の[[テロ]]や[[私刑|リンチ]]が頻発したのが始まりである<ref>「全学連第五回大会で、旧中執二十七人を追放する、共産党中央支持派の玉井新執行部が誕生するのだが、この大会では、新執行部系所感派「人民警官隊」による国際派の反戦学同系活動家に対するリンチ事件が起こっている。これは、反戦学同が帝国主義の手先であり、CIC([[対敵諜報部隊|アメリカ軍情報部]]〉のスパイだとして、十数人を密室に監禁、リンチを加えたもので、のちに、七0年代に入って激化するグ内ゲバ事件4 のはしりということができよう。」(高木正幸『全学連と全共闘』)</ref><ref name="荒岱介『新左翼とは何だったのか』p187">「日本の学生運動の内ゲバは、日本共産党が一九五O年に所感派と国際派に分裂し、両派のテロリンチが繰り返されるというなかで最初に発生しています。五二年六月に開催された全学連五回大会で、国際派の反戦学生同盟メンバーが所感派系の学生にリンチされる事件(立命館事件)がおこりました。お前らは「帝国主義の手先、CIAのスパイだ」というレッテル貼りです。リンチを受けた一人である松本忠明は自殺しましてるおた。しかしその前年、東京大学では、国際派の武井昭夫らが「スパイ容疑」で不破哲三らをリンチしていました。」{{Harv|荒岱介|2008|p=187}}</ref>。
 
日本共産党(特に国際派の[[議会闘争]]路線)を否定して生まれた[[日本の新左翼]]が、1960年代初期には多数に分裂し、ここでも内ゲバが発生した。初めは集団の小競り合い程度だったが、後に[[個人]]を[[拉致]]し[[リンチ]]を徹底的に加えるという陰惨なものになっていった<ref>「36年(1961年)に始まった極左暴力集団による内ゲバの形態は、47年(1972年)ころまでは、全学連大会や学園紛争、大衆運動の中でのトラブルや主導権争いのため発生した集団遭遇戦が大半を占めていたが、48年(1973年)からは、被害者の再起不能や殺害をねらった個人「テロ」の様相を深めた。」{{Harv|警庁|1988}}</ref>。また新左翼の[[街頭闘争|街頭武装闘争]]が激しくなるにつれて、集団での抗争も[[武器]]がエスカレートし激しいものとなっていった。こうして1960年代の後半以降は多くの新左翼党派間に内ゲバが蔓延した。特に[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]・[[革命的労働者協会(社会党社青同解放派)|革労協]]と[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]との間の内ゲバは激しく、1970年代には殺し合いの状態になり、革マル派が中核派と革労協の最高[[指導者]]を[[暗殺]]したことで、内ゲバは「[[戦争]]」<ref>元々「内ゲバ」は、「党派は違えど、同じ新左翼に属する」とする立場から、「左翼の仁義」と称される一定のルール([[死者]]は出さない、[[警察]]には介入させない等)に則って行われていた。しかし、「内ゲバ」がエスカレートし死者が続出するような段階になると、「内ゲバ」を行っている党派はお互いを「[[敵]]対集団」「反革命」と規定し、対立党派は「新左翼内部」ではないと見なすようになった。この段階に至った党派は、対立党派への暴力はもはや「内ゲバ」ではないとし、「戦争」と表現する。</ref>状態となった。なお[[日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)|第四インター]]などは内ゲバを否定し続けた。
 
日本共産党は1955年(昭和30年)の[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]で、従来の武装闘争路線から、議会による[[平和革命]]を目指す方向に転換したため、その指導を受ける[[日本民主青年同盟|民青]]とともに表向きは暴力反対運動を主張してきた。[[選挙]][[戦略]]の面からも、左翼が暴力的と見られることに敏感だった。しかし、民青系と新左翼系の内ゲバが起こった際には、民青系と新左翼は互いに暴行を振るい、それを新聞が「内ゲバ」「乱闘」と表現したと主張している。東大闘争でも民青もヘルメットやゲバ棒で武装して闘争を行ったが、代々木系は「正当防衛」と主張している。民青の実力部隊は「あかつき行動隊」とも呼ばれた{{Refnest|group="注"|その内情は、[[宮崎学]]『突破者』(南風社、1996年)に詳しい。}}
 
[[犯罪白書]]によれば内ゲバ事件(1968年~2000年)は件数2020件、死者97名、負傷者5429名<ref name="moj" />だが、2004年迄の死者3名を加えると死者100名である。内ゲバの巻き添え、あるいは[[攻撃]]側の誤認、活動資金確保を目的としたノックアウト強盗(内ゲバを装う)によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。これらは「[[誤爆]]」と言われた。しかし誤爆について、実行した党派が[[謝罪]]したケースはほとんどない。
 
また、大衆運動、学生運動の全盛期には、それらを内部分裂から自滅へ導くため、[[公安警察]]が各[[セクト]]にその敵対者の所在情報を巧みに[[リーク]]するなどし、内ゲバを裏で手引きすることもしばしばあった。敵対党派を互いに「警察の手先」と非難するのはこのためであるが、実際に内ゲバで殺された中には、[[スパイ]]として潜入していた[[警察官]]もいたという。

のよした学生運動の変遷が凶暴化し、組織的な殺人を繰り返すようになってから[[社会主義]]や[[共産主義]]に対する幻滅を生み、彼ら新左翼が忌み嫌っていたはずの[[スターリン主義]]の思想や、同志を[[大量虐殺]]した[[大粛清]]とも重なり、運動の衰退を決定づけてゆくこととなる。なお最大の内ゲバ状態にあった中核派と革マル派の抗争については両派トップの会談によって[[停戦]]状態になったとされているが、両派ともに公表していない。
 
また、さらに大抵の内ゲバは組織的な犯行で、盗難車を使って別のメンバーが退路の確保、[[覆面]]姿で襲撃を行うことが多いため、誰が襲撃に関与したのか特定しにくい。これに加え、電話線を切断するなどの巧妙な[[捜査]]妨害、隠ぺい[[工作]]から、白昼に行われたり、[[機関紙]]で[[犯行]]を自認したような事件でも[[公訴時効]]が成立して[[犯人]]を[[検挙]]できなかった事件は少なくない。
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なお[[新右翼]]([[民族派学生組織|民族派]])においても、[[スパイ粛清事件]]など少数ではあるが内ゲバ事件が発生している。
 
== 主な種類内ゲバの原因 ==
内ゲバの原因としては、他派切り崩し、自治会の主導権争い、分派闘争があり、その背景として、各派は自派が唯一正しく、自派以外は有害で殲滅すべき革命の敵とする分派撃滅の思想があるという<ref name="NPA-S50"/>。とりわけ革マル派は、他党派解体を路線化し組織的・計画的に他党派にテロを仕掛けたため、新左翼に内ゲバを広げることとなった。内ゲバによる犠牲者数は革マル派が突出して多い。
=== 所感派と国際派 ===
各集団は、内ゲバを、「革命闘争」「武装解放闘争の重大な萌芽」「[[日本帝国主義|日帝(日本帝国主義)]]に対する武装闘争の導火線」であり、革命達成に不可避の[[崇高]]な義務と位置づけ、正当化してきた<ref name="NPA-S50"/>。
日本共産党が[[所感派]]と[[国際派 (日本共産党)|国際派]]に分裂していた1950年代に発生し、殴る蹴るから[[根性焼き]]、輪姦まで行われた。1955年の[[六全協]]の後もしばらく続いた<ref name="rekishi1"/>。
 
== 主な種類 ==
=== 代々木系(日本共産党系)と新左翼系 ===
初期の内ゲバの代表例。1968年から1973年の5年間で、内ゲバは1023件(死者 10名)発生し、約半数の488件が代々木系全学連と新左翼系学生集団との抗争であった<ref>[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480700.html 昭和48年 警察白書 第7章 公安の維持 表7-9 内ゲバ発生状況(昭和43~47年)]</ref>。
 
日本共産党・[[民主青年同盟]]は組織力が桁違いであり恐れられ、[[投石機]]を投入して[[ヘルメット]]を叩き割るなどしたため、後の[[野党共闘]]に遺恨を残した<ref>北田暁大, 白井 聡, 五野井郁夫『リベラル再起動のために』p.38</ref><ref name="rekishi1">[https://note.com/toyamakoichi/n/n21f3503cfd6a 川口事件と現在 1.内ゲバの歴史|外山恒一|note]</ref>。
 
=== 中核派と革マル派 ===
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== 内ゲバの歴史 ==
{{See|日本の新左翼#歴史}}
=== 1950年代 ===
*[[1950年]]([[昭和]]25年) - [[日本共産党]]が[[所感派]]と[[国際派]]に分裂し、両派のリンチが繰り返される。'''学生運動での初めての内ゲバ'''となっていく<ref name="荒岱介『新左翼とは何だったのか』p187"/>。
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** 24日 - 東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘<ref>「12/24 東大医学部学生大会に全共闘が殴り込み代々木系の民主化行動委の学生と乱闘」{{Harv|毎日新聞社|1998}}</ref>
 
1968(昭和43)年の内ゲバ事犯による負傷者数は700人にのぼった<ref name="75WPC"/>。内ゲバ事犯の当初の形態は、偶然的な遭遇に起因するもので,集会・デモ等における主導権争いからの抗争が大部分で、凶器も,プラカードの柄,竹竿,角材などのいわゆる[[ゲバ棒]]であった<ref name="75WPC"/>。しかし、この頃には、襲撃専門の特別部隊を編成し、綿密な計画を練ったうえでの計画的・組織的な襲撃となり、犯行場所も大学、アジトだけでなく、駅のホーム、百貨店、喫茶店などでも行われるようになり、凶器も、[[鉄パイプ]]、[[バール (工具)|バール]]、[[斧|まさかり]]、とび口(先端に金属)、[[槌|掛け矢]]など殺傷能力の強いものへと変貌し、攻撃の方法も、頭部をねらう事案が多くなるなど凶悪化した<ref name="75WPC"/>。
 
=== 1969年(昭和44年) ===
* 1月9日 - 東大闘争勝利総決起集会後、民青系と全共闘が乱闘、重軽傷100人余。東大闘争での内ゲバで[[火炎瓶]]が初めて使用され、投げ合いになった<ref>「日共民青はそれを阻止せんとしゲバルト部隊が派遣されていた。集会後全共闘は法および経済学部に突入し、再占拠を企てた。本郷全体でゲバルトになったのである。タ闇の中、教育学部屋上で民青との問に火炎ピンの投げ合いになったのを思い出す。火炎ビンは安田講堂内ではこのとき既に、多量に作られていたが、表だって使用されてはいなかった。(略)バリケードを築き、投石し合う中、村松はライターで布切れに火をつけたウイスキーピンを投げた。ガチャン、ボワ!と青い炎が広がり、投げつけられた民青はワァ!と後方に逃げて行った。追いかける私たち、そして再び火炎ビンが投げられたが、今度は不発だった。途中で火が消えてしまったのだ。それを拾った暗闇の中の民青は、火をつけて逆にこちらに投げ返した。放物線を描いて小さな炎が飛んで来て、それが私の足許に落ちた。次の瞬間、ボワァと青い炎が私の足許に広がった。「ワァ!」と思わず飛びのいた。「民育が火炎ピン投げんのか」と叫ぶと、「そっちが投げたんだろ」と聞の中から言い返してきた。」{{Harv|荒岱介|2001}}</ref>。翌10日、東大駒場で全共闘と民青が乱闘。民青は寮の屋上から[[ピッチングマシン]]で投石し、全共闘側は捕まえた民青を殴打し、[[拷問]]した<ref>「民青が翌日代議員大会でスト解除を決談しようとするのを粉砕するためだ。(略)民青の代議員大会は寮食堂で開かれるということで、寮食と明、中、北寮をめぐる攻防になった。(略)。明寮への突入を試みたが、屋上からすさまじい勢いで投石され、眼の前でパタパタと人が倒れた。なんと日共民青はピッチングマシンを持込み、それで全共閥系の学生めがけて発射していたのである。ヒユン、ヒユンと瓦を砕いたとおもわれる石が、すさまじいスピードでしかもカーブしながら飛んできた。夜間なので弾は全く見えない。寮の廊下には畳が積み上げられ、中に突入することもままならぬのだ。(略)全共闘側は日大全共闘を中心に捕まえた民青を拷問した。ボコボコにぶん殴ったあげく、南京袋をかぶせ、紐で縛って引っ張り回した。夜は寒かったのであちらこちらで机や椅子がこわされ焚き火がたかれたが、その火の中にまで引っ張り回そうとするのを見たときはたまげた。(略)11日に捕虜交換をしたが、民青は戸板にのせて持っていくしかない人もいた。」{{Harv|荒岱介|2001}}</ref>。10日夜から、東大本郷でも[[安田講堂]]を占拠する全共闘と民青の間で乱闘<ref>「10日夜から日共民青は安田講堂に対しても攻撃をかけ、これは占拠中の東大全共闘と支援に駆けつけた中大会中闘でしのいだが、リヤカーにピッチングマシンを積んで撃ちながら攻めてきたという。法文一、二号館のバリケードがその結果解除された。この攻撃は11日午前中まで続き、全共闘側は火炎ピンを投げて抵抗した。本郷にやってきたのは地区民(地域の日共党員) で、1000名はゆうにこえる大部隊だったという。」{{Harv|荒岱介|2001}}</ref>。
* 1月
* 4月28日 - [[破防法事件|沖繩デー事件]]
** 9日 - 東大闘争勝利総決起集会後、民青系と全共闘が乱闘、重軽傷100人余。東大闘争での内ゲバで火炎瓶が初めて使用される<ref>「日共民青はそれを阻止せんとしゲバルト部隊が派遣されていた。集会後全共闘は法および経済学部に突入し、再占拠を企てた。本郷全体でゲバルトになったのである。タ闇の中、教育学部屋上で民青との問に火炎ピンの投げ合いになったのを思い出す。火炎ビンは安田講堂内ではこのとき既に、多量に作られていたが、表だって使用されてはいなかった。(略)バリケードを築き、投石し合う中、村松はライターで布切れに火をつけたウイスキーピンを投げた。ガチャン、ボワ!と青い炎が広がり、投げつけられた民青はワァ!と後方に逃げて行った。追いかける私たち、そして再び火炎ビンが投げられたが、今度は不発だった。途中で火が消えてしまったのだ。それを拾った暗闇の中の民青は、火をつけて逆にこちらに投げ返した。放物線を描いて小さな炎が飛んで来て、それが私の足許に落ちた。次の瞬間、ボワァと青い炎が私の足許に広がった。「ワァ!」と思わず飛びのいた。「民育が火炎ピン投げんのか」と叫ぶと、「そっちが投げたんだろ」と聞の中から言い返してきた。」{{Harv|荒岱介|2001}}</ref>。
* 9月17日 - 中核派が埼玉大の[[反戦連合]]を襲撃<ref>「事件の経緯は、前夜の9月17日から始まる。中核派の全学連書記局と中心メンバーたちが、バリケード封鎖中の埼玉大学に襲撃をかけた。理工学部の親反戦連合系のボックスにあるヘルメットをかぶり、武器を調達したという。目標はただ1人、反戦連合のリーダーで元中核派、天才的なアジテーションで人気の高いNだ。(略)内部を知り尽くしている滝沢さんの手引きによる襲撃の前に、彼らは一気に蹴散らされた。そこここで逃げ遅れた学生が叩きのめされる。中核派は標的のNを確保して、車に押し込む。埼玉の山中に連行する途中、人違いに気付いたようだ。拉致されたのは理工学部のTだった。ひと気の無い山道に放り棄てたらしい。その頃、北浦和キャンパスには、急を聞いて駆け付けた学生たちが三々五々集っていた。当初、襲撃したのは革マルだと思われた。バリケードの破壊は凄まじかった。埼大中核派も、滝沢さんを除いて駆け付けて来た。彼らは何も知らされていない。襲撃を許さない、Tを何としても取り戻す。意志一致が進む。しかし後から戻って来た学生によって、「滝沢がいた、中核だ」という事が明らかになった。埼大中核派は、非難を一身に浴びて弁明する。「聞いていない、事実だとすれば自己批判する」。Tが拉致された先は、芝工大・大宮キャンパスだろうと目星がついた。今もこの瞬間、Tはリンチに遭っている。救出に行こう。志願者たちで行動隊を組織する。(略)熟睡中に、不意を衝かれた書記局や、芝工大中核派は追い詰められ、2階から4人が転落した。その1人、滝沢さんが死んだ。「内ゲバによる最初の死者」だった。」『狂おしく 悩ましく』元中核派・編集局員</ref>。翌18日、芝浦工大で反戦連合の学生が中核派を襲撃し、埼玉大中核派学生が死亡。'''内ゲバでの初めての死者'''となった<ref>[[高橋和己]]『内ゲバの論理』「九月一八日、『大学立法反対などでバリケード封鎖中の芝浦工大で、同校二号館にたてこもっていた反日共系全学闘の学生が、十人前後の学生に寝込みを襲われ、二階の窓から落とされ、うち一人がコンクリートの地面にたたきつけられて死亡、三人が重傷を負った』事件である。事後にあきらかになった事実は、芝浦工大の二号館校舎にたてこもっていたのは、革マル、中核、四トロなど反代々木系学生。そして殺された滝沢紀昭はじめ負傷者はすべて中核系学生。襲撃したのは、埼玉大学において中核派と対立していた反戦連合の学生二十余名。襲った理由は埼玉大学で中核と反戦連合が対立していて、前日に内ゲパがあり、反戦連合系学生一人が人質として芝浦工大へ連行されていて、その人質の奪還ないしは仕返しのために襲撃したものという。」</ref>。
** 10日 - 東大駒場で全共闘と民青が乱闘<ref>「民青が翌日代議員大会でスト解除を決談しようとするのを粉砕するためだ。(略)民青の代議員大会は寮食堂で開かれるということで、寮食と明、中、北寮をめぐる攻防になった。(略)。明寮への突入を試みたが、屋上からすさまじい勢いで投石され、眼の前でパタパタと人が倒れた。なんと日共民青はピッチングマシンを持込み、それで全共閥系の学生めがけて発射していたのである。ヒユン、ヒユンと瓦を砕いたとおもわれる石が、すさまじいスピードでしかもカーブしながら飛んできた。夜間なので弾は全く見えない。寮の廊下には畳が積み上げられ、中に突入することもままならぬのだ。(略)全共闘側は日大全共闘を中心に捕まえた民青を拷問した。ボコボコにぶん殴ったあげく、南京袋をかぶせ、紐で縛って引っ張り回した。夜は寒かったのであちらこちらで机や椅子がこわされ焚き火がたかれたが、その火の中にまで引っ張り回そうとするのを見たときはたまげた。(略)11日に捕虜交換をしたが、民青は戸板にのせて持っていくしかない人もいた。」{{Harv|荒岱介|2001}}</ref>。また、東大本郷でも安田講堂を占拠する全共闘と民青の間で乱闘<ref>「10日夜から日共民青は安田講堂に対しても攻撃をかけ、これは占拠中の東大全共闘と支援に駆けつけた中大会中闘でしのいだが、リヤカーにピッチングマシンを積んで撃ちながら攻めてきたという。法文一、二号館のバリケードがその結果解除された。この攻撃は11日午前中まで続き、全共闘側は火炎ピンを投げて抵抗した。本郷にやってきたのは地区民(地域の日共党員) で、1000名はゆうにこえる大部隊だったという。」{{Harv|荒岱介|2001}}</ref>。
* 10月21日 - [[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|国際反戦デー事件]]
* 9月
* 11月16日~17日 - [[佐藤首相訪米阻止闘争]]で2500人超の逮捕者を出した。
** 17日 - 中核派が埼玉大の[[反戦連合]]を襲撃<ref>「事件の経緯は、前夜の9月17日から始まる。中核派の全学連書記局と中心メンバーたちが、バリケード封鎖中の埼玉大学に襲撃をかけた。理工学部の親反戦連合系のボックスにあるヘルメットをかぶり、武器を調達したという。目標はただ1人、反戦連合のリーダーで元中核派、天才的なアジテーションで人気の高いNだ。(略)内部を知り尽くしている滝沢さんの手引きによる襲撃の前に、彼らは一気に蹴散らされた。そこここで逃げ遅れた学生が叩きのめされる。中核派は標的のNを確保して、車に押し込む。埼玉の山中に連行する途中、人違いに気付いたようだ。拉致されたのは理工学部のTだった。ひと気の無い山道に放り棄てたらしい。その頃、北浦和キャンパスには、急を聞いて駆け付けた学生たちが三々五々集っていた。当初、襲撃したのは革マルだと思われた。バリケードの破壊は凄まじかった。埼大中核派も、滝沢さんを除いて駆け付けて来た。彼らは何も知らされていない。襲撃を許さない、Tを何としても取り戻す。意志一致が進む。しかし後から戻って来た学生によって、「滝沢がいた、中核だ」という事が明らかになった。埼大中核派は、非難を一身に浴びて弁明する。「聞いていない、事実だとすれば自己批判する」。Tが拉致された先は、芝工大・大宮キャンパスだろうと目星がついた。今もこの瞬間、Tはリンチに遭っている。救出に行こう。志願者たちで行動隊を組織する。(略)熟睡中に、不意を衝かれた書記局や、芝工大中核派は追い詰められ、2階から4人が転落した。その1人、滝沢さんが死んだ。「内ゲバによる最初の死者」だった。」『狂おしく 悩ましく』元中核派・編集局員</ref>。
* 11月28日、[[日比谷野外音楽堂]]の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が竹竿や投石で乱闘した<ref>「双方竹ザオをふりまわし、投石しあって大乱戦。負傷者十数人がでた。」{{Harv|立花隆|1975|loc=上巻}}</ref>。12月14日にも、同音楽堂での糟谷君虐殺人民葬で同八派に対し革マル派が襲撃し、1500人規模の乱闘で50人が負傷した<ref>「双方合わせて1500人が日曜日の日比谷公園を舞台に、大乱闘をくり広げ、50人が負傷」{{Harv|立花隆|1975|loc=上巻}}</ref>。
** 18日 - 芝浦工大で反戦連合の学生が中核派を襲撃し、埼玉大中核派学生が死亡。'''内ゲバでの初めての死者'''となった<ref>高橋和己『内ゲバの論理』「九月一八日、『大学立法反対などでバリケード封鎖中の芝浦工大で、同校二号館にたてこもっていた反日共系全学闘の学生が、十人前後の学生に寝込みを襲われ、二階の窓から落とされ、うち一人がコンクリートの地面にたたきつけられて死亡、三人が重傷を負った』事件である。事後にあきらかになった事実は、芝浦工大の二号館校舎にたてこもっていたのは、革マル、中核、四トロなど反代々木系学生。そして殺された滝沢紀昭はじめ負傷者はすべて中核系学生。襲撃したのは、埼玉大学において中核派と対立していた反戦連合の学生二十余名。襲った理由は埼玉大学で中核と反戦連合が対立していて、前日に内ゲパがあり、反戦連合系学生一人が人質として芝浦工大へ連行されていて、その人質の奪還ないしは仕返しのために襲撃したものという。」</ref>。
 
* 11月
1969(昭和44年)の内ゲバ事犯による死傷者数は1145人、うち,死亡者2人<ref name="77WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/18/nfm/n_18_2_1_1_4_1.html 昭和52年犯罪白書,第一編第1章第4節過激派集団の犯罪],1977(昭和52),法務省</ref>。街頭を[[バリケード]]で封鎖したり、駅で混乱を起こして交通機関を停止させるなどし、凶器も、角材だけでなく、石塊、鉄片、劇薬などが用いられるようになり過激化し、[[検挙]]人員は前年には6600人であったが、1969年には1万4700人にのぼった<ref name="75WPC"/>。
** 28日 - 日比谷野外音楽堂の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が衝突<ref>「双方竹ザオをふりまわし、投石しあって大乱戦。負傷者十数人がでた。」{{Harv|立花隆|1975|loc=上巻}}</ref>。
* 12月
** 14日 - 日比谷野外音楽堂、糟谷君虐殺人民葬で中核派、解放派ら八派に対し革マル派が襲撃<ref>「双方合わせて1500人が日曜日の日比谷公園を舞台に、大乱闘をくり広げ、50人が負傷」{{Harv|立花隆|1975|loc=上巻}}</ref>。
1969(昭和44年)の内ゲバ事犯による死傷者数は1145人、うち,死亡者2人<ref name="77WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/18/nfm/n_18_2_1_1_4_1.html
昭和52年犯罪白書,第一編第1章第4節過激派集団の犯罪],1977(昭和52),法務省</ref>
 
=== 1970年(昭和45年) ===
* 3月31日 - [[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]による[[よど号ハイジャック事件]]
* 5月22日 - 明治大学商学部十一号館前で学生大会参加への呼びかけを行っていた代々木系の学部自治会約80人に対し、反対する全共闘系の約300人が押しかけて衝突。乱闘により数人が負傷<ref>名大では学生同士乱闘『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版 3面</ref>。
* 5月30日 - この日までに警視庁が都内で把握した内ゲバが62件(前年同期38件)と増加傾向を見せたことから、警視庁は各警察署に対して「内ゲバ警戒報」を発出した<ref>警視庁「内ゲバ警戒報」出す 都内では昨年の倍『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版 3面</ref>。
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=== 1973年(昭和48年) ===
* 9月
** 15日 - 革マル派が拠点であった神奈川大学の革労協(社青同解放派)を襲撃。襲撃自体には成功する、革労協が反撃レポ活動をていた革マル派東大生と革マル派国際基督教大生を捕捉し殺害。[[神奈川大学内ゲバ殺人事件]]<ref>「反帝学評約50人が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて前日から拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、9月15日午前1時45分ごろ、革マル派約150人がヘルメット、覆面、鉄パイプの武闘スタイルでこれを襲撃し、相互に多くの負傷者が出た。この間にあって、反帝学評約20人、レンタカーを使って反帝学評の動向を視察していた革マル派2人を襲い、鉄パイプで殴る、突く、ける等の暴行を加えて両名を殺害し、現場から5キロメートル離れた浄水場裏に死体を遺棄した。」{{Harv|警庁|1974}}</ref>
** 17日 - 革マル派と中核派が東京鶯谷駅で集団戦。[[国電鶯谷駅内ゲバ事件]]<ref>「9月17日午前7時30分ごろ、都下国電鶯谷駅構内に中核派約150人が集合していたところ、突然鉄パイプで武装した革マル派約80人がこれに襲いかかった。このため、駅構内及び線路上で乱闘となり、山手線、京浜東北線の一部が数分間電車の運行を中止した。この間、双方合わせて7人が負傷し、救急車で付近の病院へ収容されたほか、ホームにいた乗客が巻き添えになった。」{{Harv|警庁|1974}}</ref>
* 10月20日 革マル派が中核派のアジトを襲撃。[[中核派アジト襲撃事件]]。<ref>「10月20日午前4時ごろ、東京、横浜、京都、大阪の各地で革マル派約200人がいっせいに中核派のアジト12箇所を鉄パイプ、竹ざお、木槌、ガスバーナー等で襲撃し、双方合わせて13人が負傷した。」{{Harv|警庁|1974}}</ref>
1973(昭和48年)の内ゲバ事犯による死傷者数は575人、うち,死亡者2人<ref name="78WPC"/>
 
=== 1974年(昭和49年) ===
* 1月
** 24日 - 東京[[世田谷区]]中核派が引っ越し作業中の革マル派活動家とその友人の東大生4人を襲撃、革マル派とは無関係だった友人2人(22歳、21歳)は鉄パイプ等で殴打され、殺害。殺された2人は革マル派とは無関係だった。<ref>「世田谷区のアパート「ふく荘」前で引っ越し作業中、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref><ref>難を逃れたうちの1人は後の仏文学者[[石田英敬]]だった。「革マル派活動家石田君が、最近中核派に狙われているらしいと気づき、住所を変えようとしていた。この日、三人の友人に手伝ってもらって朝から引越し作業をしていた。(略)石田君は二階から飛び降りて夢中で逃げ、引っ越しの手伝いにきていたもう一人の友人も逃げたが、富山隆君は逃げる途中でころんでしまった。そこを囲まれてバール、鉄パイプでメッタ打ちにされた。また、二階にいた四宮俊治君も逃げられないでいる所を踏みこまれ、これまたメッタ打ち。」{{Harvnb|立花隆|1975}}</ref><ref>「わたしは引っ越しの当日に運良く逃げおおせた石田英敬のことを考えてみた。二十歳の時点で親友の同級生二人を目の前で殺害され、かろうじて生き延びた石田の心の傷と恐怖を想像すると、眩暈のような感覚に襲われる気がした。」{{Harv|四方田犬彦|2009}}</ref>この事件後に出た中核派は「偉大なる戦果」とし、「わがたたかう人民は、[[暴力革命]]と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていく」との声明を事件後に発表、[[立花隆]]この声明を「暴力論の一つの極点として、歴史に残る文書になるだろう」としている。<ref>『革共同通信』「一・二四の偉大なる戦果を実現したわが同盟と、そのもとに結集するたたかう全人民の志気はいよいよ高まり、その精神はいよいよ純潔である。(略)わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていくのである。」{{Harv|立花隆|1975|loc=下巻}}</ref>
** 24日 - 中核派が革マル派神奈川大生(24歳)を満員の学生食堂内で殺害。止めに入った一般学生数人も負傷。[[横浜国大内ゲバ殺人事件]]<ref>「(神奈川)横浜国大経済学部食堂内で、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref><ref>「横浜国大でも革マル派活動家の矢崎知二君が六人の中核派に襲撃された。矢崎君は、おりからの昼食時で満員の学生食堂に逃げ込んだ。しかし、そこで追いつかれて引き倒された。そして、約三百人の学生が遠巻きに見守るなかで、一人が矢崎君の上に馬のりになって押さえつけ、他の二人が一メートルものバールをクワのようにふるって後頭部を打ちくだいたほか、全身をメッタ打ちにした。」{{Harv|立花隆|1975|loc=下巻}}</ref>
* 2月8日 - 中核派が革マル派だとして琉球大生(21歳)を講義中の教室内で殺害。[[琉球大学内ゲバ誤認殺人事件]]<ref>「(沖縄)教室受講中乱入してきた中核派と思われる数人に人違いされ、鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref><ref>「中核派の殺し屋八人は(略)七十余名の学生が講義(物理学概説)を受けていた教養Aの教室に後方から突如として乱入した。そして、『自治委員長の安室はいるか!安室はどこだ!』とヒステリックに叫び、(略)その時、一人黒板の方向に走って退避せんとした比嘉君を、殺し屋どもはその顔を何ら確かめることもなく『あれが、安室だ!殺れ!』と口ぐちにわめきながら、バール、鉄パイプなどの殺人用武器をふりかざして、背後から襲いかかり、彼、比嘉君の後頭部に狙いを定めてメッタ打ちにしたのである。 (『解放』)」「二・八は琉大カクマル幹部安室某に対する断固たる制裁として、またその革命的制裁活動に反動的敵対をなしたカクマル分子比嘉某の徹底的せん滅として圧倒的にうちぬかれたのである。(中核派)」{{Harv|立花隆|1975|loc=下巻}}</ref>
* 5月13日 - 革マル派が中核派東京都[[特別区]]男性職員(37歳)を、東京都千代田区の法政大学から出て国鉄市ヶ谷駅に向かう外濠土手下の路上で襲い殺害。<ref>「中核派数十人と法大から出たところを待ち伏せ中の革マル派に襲撃され、鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref>殺されたのは中核派東京東部地区委員長(第一次法政大会戦)。<ref>立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)94ページ</ref>
* 6月
** 7日 - 革マル派大阪産業大生(20歳)が大阪[[大東市]]で殺害<ref name="HakushoS50-apart">「アパート自室で就寝中、乱入してきた数人に鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref><ref name="75WPC"/>。
** 26日 - 午前4時30分、法政大学に泊まり込んでいた中核派20名と学外から合流した50名の計70名を、法政大学内に潜んでいた革マル派50名が襲った。内ゲバ史上最大の激戦といわれ、2時間半にわたる大激突となったが、死者は出ていない(第二次法政大会戦)。<ref>立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)101ページ。同書などを見たところ、この時期、法政大学構内で行われた内ゲバで死者は出ていない。5月13日の死者は、法政大学外の路上。大学側の記録にもない。</ref>
* 9月
** 10日 - 革マル派が中核派郵便局員(25歳)を東京荒川区内ビルで殺害。<ref name="HakushoS50-apart" /><ref name="75WPC"/>
*** 24日 - 大阪[[守口市]]路上で、革マル派数人中核派大阪市立大生(25歳)を大阪鉄パイプ殺害。殴打、2週間後に死亡<ref>「守口市中央観光バス前で、革マル派数人に鉄パイプで殴打され、入院中2週間後に死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref><ref name="75WPC"/>
* 10月
** 3日 - 東京品川区の[[品川区立総合区民会館|品川公会堂]]で、中核派数人革マル派郵便局員(30歳)を東京鉄パイプ殴打、殺害<ref>「品川公会堂付近を歩行中、後方から追いかけてきた中核派数人に鉄パイプで殴打され、同日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref>
** 15日 - 東京[[代々木駅]]付近で、革マル派が中核派工員を東京鉄パイプ殴打、殺害<ref>「代々木駅付近を歩行中、後方から革マル派数人に鉄パイプで殴打され、同日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref>
* 12月1日 - 大阪西区で、中核派数人革マル派元高校教諭(30歳)を大阪のアパートに侵入、鉄パイプやハンマー殴打し、殺害。<ref>「西区のアパート自室で就寝中、乱入してきた中核派数人に鉄パイプ、ハンマー等で殴打され、同日死亡した。」{{Harv|警庁|1975}}</ref>
 
1974(昭和49)年の内ゲバ事犯による死傷者数は618人、うち,死亡者11人<ref name="78WPC"/>
1974(昭和49)年の内ゲバ事犯による死傷者数は618人、うち死亡者11人<ref name="78WPC"/>。そのほとんどが革マル派対反革マル派(中核派)の抗争であった<ref name="NPA-S50">[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s50/s500700.html 昭和50年 警察白書 第7章 公安の維持 3 暴走を続ける極左暴力集団]</ref>。内ゲバは従来大学内で発生することが多かったが、昭和49年には大学内84件、学外202件となった<ref name="NPA-S50"/>。東京121件、大阪32件、神奈川21件、福岡17件、広島14件、沖縄14件と地方165件で、地方での発生が目立った<ref name="NPA-S50"/>。昭和49年後半から、学生に代わって職場労働者が抗争の主力となった<ref name="75WPC"/>。かつて内ゲバは、集会の主導権や自派の組織力を誇示するため、旗ざお、ゲバ棒で殴り合うといったケースが多かったが、昭和48年後半から個人へのテロへと傾斜した<ref name="NPA-S50"/>。
74年の第二次法政大会戦までは、集団戦では鉄パイプで武装した革マル派が中核派・解放派を襲撃し圧倒するケースが多かった。集団戦で勝てない中核派・解放派は特殊部隊で革マル派のアジトを襲い死傷させる個人テロ戦術をとるようになった。
この頃の内ゲバの手口は、各派は、「武装遊撃隊・人民革命軍」(中核派)、「全学連特別行動隊(JAC)」(革マル派)、「プロレタリア突撃隊(後に革命軍)」(解放派)などの非合法・非公然部隊を組織し、標的の動静を徹底的に調査し、相手のすきを突いて、奇襲<ref name="NPA-S50"/>。マンションの隣室に回覧板と偽って侵入して土足のまま駆け抜け[[ベランダ]]から相手の部屋に突入したり、屋上から縄ばしごを使ってベランダ越しに部屋に侵入した例もあった<ref name="NPA-S50"/>。相手に襲撃を予告したり、犬や鶏の生首等を送りつけるなどの心理作戦 (革マル派はナーバス作戦と称した)も実行した<ref name="NPA-S50"/>。
 
=== 1975年(昭和50年) ===
* 3月
** 6日 - 東京の路上で、中核派が革マル派幹部(33歳)を殺害。[[革マル派機関紙発行責任者内ゲバ殺人事件]]<ref>「被害者ほか2人が荷物発送作業中、車2台で追尾してきた中核派数人に鉄パイプで殴打され、同日1人が死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
** 14日 - 埼玉のアパートで、革マル派が中核派の最高指導者(41歳)を殺害。[[中核派書記長内ゲバ殺人事件]]([[本多延嘉]]氏)<ref>「アパート自宅で就寝中、鉄パイプ、まさかり等を持って室内に乱入してきた革マル派十数人に頭部等を殴打され、即死した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
** 20日 - 東京のマンションで、中核派が、革マル派郵便局員2名を(25歳、28歳)を殺害<ref>「マンション2階の自室で就寝中、鉄のはしごを利用して室内に侵入してきた中核派数人に鉄パイプ、バール、スコップ等で殴打され、1人が即死、1人は翌々日死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
** 27日 - 神奈川の路上で、中核派が革マル派川崎市役所職員(26歳)を殺害。[[川崎市女子職員内ゲバ殺人事件]]。<ref>「被害者が川崎市役所裏出入口から外に出てきたところ、鉄パイプを所持して待ち構えていた中核派3人に頭部等を殴打され、同日死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
* 4月
** 1日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派元全学連中央執行委員(27歳)を殺害<ref>「被害者が喫茶店内で電話中、店内に乱入してきた中核派3人に鉄パイプで頭部等を殴打され、同日死亡した。」{{Harv|警視庁|1976}}</ref>。
** 26日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派政治局員ら(32歳、23歳)を殺害<ref>「被害者が喫茶店内で飲食中、店内に乱入してきた中核派7,8人に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日、1人が翌日死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
* 5月
** 7日 - 鹿児島のアパートで、中核派が革マル派高校教諭(41歳)を殺害<ref>「被害者を含む4人がアパートで就寝中、室内に乱入してきた中核派数人に頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
** 25日 - 岡山大で、[[マルクス主義青年同盟|マル青同]]がノンセクトの岡山大生(18歳)を殺害<ref>「被害者を含む岡山大ノンセクト約60人が、岡山大オルグのためマイクロバスで乗り込んできたマル青同約30人と対じ中、マル青同が、マイクロバスを突込んできたためれき死した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
* 6月
** 4日 - 大阪市立大で、革マル派30数人と中核派約40人が衝突、革マル派の大阪経済大生3名(21歳、24歳、25歳)が死亡<ref>「革マル派30数人が大阪市立大教養部内に入り、芝生でたむろしていたところ、中核派約40人に鉄パイプ等で襲撃され、2人が同日、1人は翌日死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
** 19日 - 東京の路上で、中核派が革マル派郵便局員(22歳)を殺害。<ref>「路上を通行中、中核派3人に襲われて、鉄パイプで頭部等を殴打され、翌日死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
** 24日 - 静岡で、革マル派が革労協数10人を襲撃、革労協の元九州大生(26歳)を殺害<ref>「被害者を含む反帝学評系10数人が、歌手加藤登紀子の別荘に就寝中、室内に乱入してきた革マル派(人数不詳)に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」{{Harv|警庁|1976}}</ref>。
* 10月
** 27日 - 革労協が革マル派東大生(22歳)を東京で殺害。<ref name="HakushoS51-1027">『昭和51年 警察白書』「被害者が東大教養学部生協食堂前で情宣活動中、反帝学評系十数人に襲われて、鉄パイプ等で殴打され、同日死亡した。」</ref><ref>殺害された学生は後の仏文学者石田英敬の駒場寮同室。石田英敬は、この2年前に目の前でやはり革マル派の友人を殺害されている。「石田は私の知らなかったいくつかの事実を教えてくれた。駒場寮では同室にもう一人、梅田順彦という学生がいたが、彼もまた1975年10月に大学の学生会館の前で社青同の手で頭蓋骨を割られ、惨殺されたこと。」{{Harv|四方田犬彦|2009}}</ref><ref>後に劇作家となる[[野田秀樹]]はこの事件を至近距離で目撃しており、後の NODA・MAP 『贋作・罪と罰』などに大きな影響を与えている</ref><ref>{{Cite web |和書|title=『贋作・罪と罰』 - 賄いエッセイ - 野田地図 |url=https://www.nodamap.com/site/column/category/2/14 |website=www.nodamap.com |accessdate=2022-02-23 |language=ja}}</ref>
1975(昭和50)年の内ゲバ事犯による死傷者数は563人、うち,死亡者20人<ref name="78WPC"/>
 
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=== 1977年(昭和52年) ===
* 2月 - 革マル派による[[革労協書記長内ゲバ殺人事件]]
* 4月 - 15日の[[浦和車両放火内ゲバ殺人事件]](浦和市内ゲバ殺人事件)では、[[浦和市]]内の[[県道]]上において、革労協が、革マル派幹部4人を自動車[[マイクロバス]]に閉じ込めて全員を焼き殺した<ref name="77WPC"/><ref>[[浦和市内ゲバ殺人事件]][「浦和市内ゲバ殺人事件」(4月)は、革労協が革マル派の自動車を前後からはさみ打ちにして停車させた上、金網付の窓ガラスをつるはし、鉄パイプ等で破壊して車内にガソリンをまき、発煙筒を投げ込んで炎上させ、乗車していた4人全員を焼殺するという極めて凶悪、残忍な事件であった。」(『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s53/s530800.html 昭和53年 警察白書]』)</ref>。[[浦和革マル派らの乗両放火内ゲするマイクロ殺人事件スを、2台の貨物自動車で前後から襲い、つるはし等で車の窓ガラスを破壊し、[[ガソリン]]を注ぎ込み、放火するという手口だった<ref name="77WPC"/>
 
1977(昭和52)年の内ゲバ事犯による死傷者数56人、うち死亡者10人<ref name="78WPC"/>
1977年の内ゲバ事犯による死傷者数56人、うち死亡者10人<ref name="78WPC"/>。
 
=== 1978年(昭和53年) ===
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*9月30日の横浜国大内ゲバ殺人事件では、構内にいた30数人を,対立する20数人が襲撃して鉄パイプ等による乱闘となり,1人が死亡し,2人が負傷した<ref name="79WPC"/>。
 
発生件数32件、死者数7人、負傷者数45人<ref name="HakushoS63-fig1-3">{{Harvnb|警庁|1988}} 図1-3 内ゲバ事件の発生状況(昭和53~62年)</ref>。死傷者数53人とも<ref name="79WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/20/nfm/n_20_2_1_2_1_3.html 昭和54年犯罪白書,第一編第二章第一節3,過激派集団の犯罪,2内ゲバ事犯],1979(昭和54),法務省</ref>。
 
=== 1979年(昭和54年) ===
202 ⟶ 205行目:
1979(昭和54)年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)<ref name="80WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/21/nfm/n_21_2_1_2_3_2.html 昭和55年犯罪白書,第一編第二章第一節3/2内ゲバ事犯],1980(昭和55)</ref>。鉄パイプ、ハンマー、斧、[[アイスピック]]等で殺害し又は負傷させる手口が依然続いた<ref name="80WPC"/>。
 
=== 1980年(昭和55年) ===
[[1980年代]]にも内ゲバ事件は発生した。徐々に発生件数は減少したものの、死者数は1980年に8人、1981年2人、1982年1人、1986年2人、1988年1人、1989年3人で、合計17人だった。
* 9月 - 革労協による[[東成区路上内ゲバ事件]]<ref>「革労協による「東成区路上内ゲバ事件」(9月、大阪)では、盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃したことなどにみられるように、計画的で極めて凶悪、残忍なものであった。」(『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s56/s560800.html 昭和56年 警察白書]』)</ref>。
*[[1980年]](昭和55年)9月に発生した、革労協による[[東成区路上内ゲバ事件]]では、盗難車両で相手車両をはさんで停車させ、鉄パイプに[[出刃包丁]]を取り付けた凶器で攻撃した<ref>「革労協による「東成区路上内ゲバ事件」(9月、大阪)では、盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃したことなどにみられるように、計画的で極めて凶悪、残忍なものであった。」(『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s56/s560800.html 昭和56年 警察白書]』)</ref>。同年10月30日の[[大田区南千束路上内ゲバ殺人事件]]では、白昼、南千束の路上で、武装した中核派10数人が、東京工業大生ら革マル派学生5人を鉄パイプ,ハンマー等で襲撃し、全員を殺害した<ref name="81WPC"/><ref>「55年10月30日白昼、南千束の路上において、東京工業大生ら5人が、待ち伏せしていたスキー帽やヘルメット着用の集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨骨折等により5人全員即死した。この事件では、あらかじめ現場付近の電話線が切断され、逃走用等に盗難車2台が使われた。事件について、中核派は、「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」などと犯行を自認した(東京)。」{{Harv|警庁|1988}}</ref>。1980年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)<ref name="81WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/22/nfm/n_22_2_1_2_2_2.html 昭和56年犯罪白書,第一編第二章第2節/2内ゲバ事犯],1981(昭和56年)</ref>。
* [[1981年]](昭和56年) 7月11日、革労協による[[7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件]]では、就寝中あるいは出勤途上の被害者を襲撃し、頭部や顔面等を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した<ref>「革労協による「7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件」にみられるように、綿密、周到な事前調査の後、被害者が居住するアパート付近の電話線を切断の上、被害者の居室のドアや窓を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部、顔面等を鉄パイプで乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s57/s570700.html 昭和57年 警察白書]』</ref><ref name="82WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/23/nfm/n_23_2_1_2_4_2.html 昭和57年犯罪白書,第一編第二章第4節2],1982(昭和57年)</ref>。1981年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者2人<ref name="82WPC"/>。
 
*[[1982年]](昭和57年)2月24日の[[2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件]]では革労協が、就寝中の革マル派活動家の部屋に押し入り、その頭部を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した<ref>「革労協による「2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件」は、事前に調査した上、付近の電話線を切断した後、ドアを破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部を鉄パイプ様の物で乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s58/s580700.html 昭和58年 警察白書]』</ref><ref name="83WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/24/nfm/n_24_2_1_2_3_0.html 昭和58年犯罪白書,第一編第二章第3節],1983(昭和58年)</ref>。1982年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者1人<ref name="83WPC"/>。
1980(昭和55)年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)<ref name="81WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/22/nfm/n_22_2_1_2_2_2.html 昭和56年犯罪白書,第一編第二章第2節/2内ゲバ事犯],1981(昭和56年)</ref>。
*[[1983年]](昭和58年)の内ゲバ事犯による負傷者数5人<ref name="85WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/26/nfm/n_26_2_1_2_6_2.html 昭和60年犯罪白書,第一編第二章第6節2],1985(昭和60年)</ref>。
 
*[[1984年]](昭和59年)、中核派が成田闘争での主導権をめぐって[[第4インター]]に対しテロを開始した<ref>「昭和59年の内ゲバの特徴は、中核派が成田闘争での主導権掌握をねらい第4インター日本支部活動家に対して行ったものが多かったこと、大学構内で3件の内ゲバ事件が発生するなど大学自治会の主導権をめぐっての対立動向が目立ったことである。」(『昭和60年 警察白書』)</ref>。1984年の内ゲバ事犯による負傷者数12人<ref name="85WPC"/>。
=== 1981年(昭和56年) ===
* 1981[[1985]](昭和5660年) 7211日 - 労協マル派による[[7.11渋谷区本町内ゲバ殺人和光大事件]]。革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたとされる<ref>「革労協による「7.11渋谷区本町60年の内ゲバ殺人事件」にみられるように綿密、周到な事前調査の後、被害者中核派居住するアパート付近の電話線「新たな対カクマル10年戦争」切断の上、被害者の居室のドアや窓を破壊標ぼうして侵入しいることや就寝革マル派が核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたことから、すべて両派被害者間で引き起こされ、そ頭部うち4件は顔面等を鉄パイプで乱打革マル派が攻撃て殺害するといっ凶悪、残忍なものであった。また、12件の内ゲバ事件のうち6件は、学園での主導権争いがその原因とみられる。」([https://www.npa.go.jp/hakusyo/s57/s570700.html 昭和5761年 警察白書])</ref>。1985年の内ゲバ事行手口,就寝あるいは出勤途上核派と革マル派被害者を襲撃間で発生し、頭部や顔面等を鉄パイプ等でめ負傷者数は22人だった打ちにして殺害するなど残忍である<ref name="82WPC86WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/2327/nfm/n_23_2_1_2_4_2n_27_2_1_2_5_3.html 昭和5761年犯罪白書,第一編第二章第4523],19821986(昭和5761年)</ref>。
*[[1986年]](昭和61年)1月20日午前10時30分頃、[[京都大学]]教養部A1号館廊下で、革マル派が中核派で全学連副委員長代行の京大生(25歳)を鉄パイプ様のもので頭部を乱打し、殺害した([[京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件]])<ref name="87WPC"/><ref>「61年1月20日白昼、京都大学教養部構内において、中核派の全学連副委員長代行が、待ち伏せしていた集団に鉄パイプ様のもので頭部を乱打され、脳ざ傷等により死亡した。革マル派は、「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した(京都)。」{{Harv|警察庁|1988}}</ref><ref>「1月20日午前10時30分頃、教養部A1号館廊下で教育学部3回生で、中核派の活動家、 福嶋慎一郎さん(25)が、革マル派に襲われ殺害された。福嶋さんはC代大の情宣でクラス入りに向かう途中であった。これに対し、学生からの糾弾の声が上がっている。中核派は、声明を出し「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」また、同学会、文学部学友会、経済学部同好会など11団体連名で、「革マル派による1.20福嶋君殺害を糾弾する」という声明を出している。民学同もビラで「殺人行為を満身の怒りを持って糾弾する。殺人グループは、自治会運動内部の自治破壊者として追放されねばならない」と述べた。一方、民青系学生諸君は、「内ゲバ殺人」キャンペーンを展開。「大学の内ゲバの戦場化を許すな」「暴力学生は大学から出てゆけ」「大学当局は責任ある態度をとれ」と主張して、弾圧を要請している。警察は、事件を口実に、1月20日に尚賢館、21日に熊野寮を不当捜査した。 」(『京都大学新聞 1986年2月1日号』)</ref>。同年9月1日、国鉄分割・民営化にからんで、中核派が、革マル派だとして国鉄労組幹部を殺害した([[真国労大阪地本書記長内ゲバ殺人事件]])<ref>「9月1日未明、埼玉、大阪、兵庫の3府県6箇所において、真国労幹部等がヘルメット、鉄パイプ等で武装した数人の男に襲撃され、真国労大阪地本書記長が死亡したほか、8人が重軽傷を負った。事件は、あらかじめ電話線を切断して窓等から被害者宅に侵入し、被害者に手錠をかけた上で、凶器で乱打するなどの残忍なものであったが、「国鉄分割・民営化絶対阻止」を叫ぶ中核派は、機関紙で「9月1日、…反革命カクマル分子を…徹底せん滅した」などと犯行を自認している。」(『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s62/s620700.html 昭和62年 警察白書]』)</ref><ref name="87WPC"/>。1986年の内ゲバ事犯による死傷者数12人(うち死者2人)<ref name="87WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/28/nfm/n_28_2_1_2_7_3.html 昭和62年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1987(昭和62年)</ref>
 
*[[1987年]](昭和62年)10月30日、赤羽駅で、革労協が革マル派だとして[[JR東日本]]社員を襲撃([[JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件]])<ref>「62年10月30日朝、JR東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員が、マスク、帽子等を着用した集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨や両足を骨折するなどの重傷を負った。この事件は、人通りの多い出勤時間帯の駅通路で待ち伏せた上での大胆な犯行で、最初から頭部を重点に攻撃し、背広姿等の目立たない服装で人込みに紛れて逃走するという極めて計画的なものであった。革労協狭間派は、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認した(東京)。{{Harv|警察庁|1988}}</ref>。1987年の内ゲバ事犯による負傷者数は4人。いずれも国鉄分割・民営化に絡んで発生した労組幹部等に対する路上襲撃事件であった<ref name="88WPC"/>。5年ぶりに革労協狭間派による革マル派に対する内ゲバ事件が発生した<ref name="88WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/29/nfm/n_29_2_1_2_7_3.html 昭和63年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1988(昭和63年)</ref>。
1981(昭和56)年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者2人<ref name="82WPC"/>。
*[[1988年]](昭和63年)3月、中核派が、革マル派だとしてJR東日本労組高崎地本委員長を殺害。1988年の内ゲバ事犯による死傷者数23人、うち死者1人<ref name="89WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/31/nfm/n_31_2_1_2_7_2.html 平成元年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1989(平成元年)</ref>。
 
*[[1989年]](昭和64/[[平成]]元年)2月8日、中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害(東鉄労水戸地本組織部長殺害事件)<ref name="『平成2年警察白書』">「中核派は、平成元年2月8日に「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」を、革労協狭間派は、6月25日に「革労協狭間派元最高幹部殺害事件」、12月2日に「JR総連総務部長殺害事件」をそれぞれ引き起こした。これらの事件は、被害者を路上で待ち伏せしたり、就寝中を襲撃したもので、いずれもハンマー、バール等の武器を用いて多数で全身を殴打するという残忍な殺人事件であった。」『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h02/h020700.html 平成2年 警察白書]』</ref>。同年6月25日、埼玉県川口市で[[革命的労働者協会(社会党社青同解放派)|革労協狭間派]]が元最高幹部を殺害([[革労協元幹部内ゲバ殺人事件]])<ref>「革労協狭間派は、闘争方針や戦術をめぐり、ここ数年来内部抗争を続けていたが、6月25日未明、埼玉県川口市内において、主流派の路線に反対する元最高幹部(43)の居宅を多数で襲撃し、ら致した上、撲殺し、茨城県下の路上に放置するという極めて悪質な内ゲバ事件を引き起こした(埼玉、茨城)。」『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h02/h020700.html 平成2年 警察白書]』</ref>。同年12月2日、革労協狭間派が、革マル派だとしてJR組合幹部を殺害<ref name="『平成2年警察白書』"/>。1989年の内ゲバ事犯による死者3人。いずれも[[三里塚闘争|新東京国際空港反対闘争]]に関連する<ref name="90WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/31/nfm/n_31_2_1_2_7_2.html 平成2年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1990(平成2年)</ref>。
=== 1982年(昭和57年) ===
* 2月24日 - 革労協が革マル派1名を殺害。[[2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件]]<ref>「革労協による「2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件」は、事前に調査した上、付近の電話線を切断した後、ドアを破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部を鉄パイプ様の物で乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s58/s580700.html 昭和58年 警察白書]』</ref>
 
1982の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者1人<ref name="83WPC"/>。手口は、被害者宅のドアを破壊して侵入し,就寝中の被害者を襲撃し,その頭部を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害する残忍なものだった<ref name="83WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/24/nfm/n_24_2_1_2_3_0.html 昭和58年犯罪白書,第一編第二章第3節],1983(昭和58年)</ref>。
 
=== 1983年(昭和58年) ===
1983(昭和58年)の内ゲバ事犯による負傷者数5人<ref name="85WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/26/nfm/n_26_2_1_2_6_2.html 昭和60年犯罪白書,第一編第二章第6節2],1985(昭和60年)</ref>
 
=== 1984年(昭和59年) ===
中核派が成田闘争での主導権をめぐって[[第4インター]]に対しテロを開始した。<ref>「昭和59年の内ゲバの特徴は、中核派が成田闘争での主導権掌握をねらい第4インター日本支部活動家に対して行ったものが多かったこと、大学構内で3件の内ゲバ事件が発生するなど大学自治会の主導権をめぐっての対立動向が目立ったことである。」(『昭和60年 警察白書』)</ref>。
 
1984年の内ゲバ事犯による負傷者数12人<ref name="85WPC"/>。
 
=== 1985年(昭和60年) ===
革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたとされる<ref>「60年の内ゲバ事件は、中核派が「新たな対カクマル10年戦争」を標ぼうしていることや、革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたことから、すべて両派の間で引き起こされ、そのうち4件は、革マル派が攻撃したものであった。また、12件の内ゲバ事件のうち6件は、学園での主導権争いがその原因とみられる。」(『昭和61年 警察白書』)</ref>。
* 2月 - 革マル派による[[和光大事件]]
 
1985(昭和60年)の内ゲバ事犯による負傷者数22人。すべて中核派と革マル派の間で発生したもの<ref name="86WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/27/nfm/n_27_2_1_2_5_3.html 昭和61年犯罪白書,第一編第二章第5節3],1986(昭和61年)</ref>。
 
=== 1986年(昭和61年) ===
* 1月20日 - 学園の主導権争いで、革マル派が中核派京大生(25歳)を京大内で殺害した<ref name="87WPC"/>。[[京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件]]<ref>「61年1月20日白昼、京都大学教養部構内において、中核派の全学連副委員長代行が、待ち伏せしていた集団に鉄パイプ様のもので頭部を乱打され、脳ざ傷等により死亡した。革マル派は、「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した(京都)。」{{Harv|警視庁|1988}}</ref><ref>「1月20日午前10時30分頃、教養部A1号館廊下で教育学部3回生で、中核派の活動家、 福嶋慎一郎さん(25)が、革マル派に襲われ殺害された。福嶋さんはC代大の情宣でクラス入りに向かう途中であった。これに対し、学生からの糾弾の声が上がっている。中核派は、声明を出し「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」また、同学会、文学部学友会、経済学部同好会など11団体連名で、「革マル派による1.20福嶋君殺害を糾弾する」という声明を出している。民学同もビラで「殺人行為を満身の怒りを持って糾弾する。殺人グループは、自治会運動内部の自治破壊者として追放されねばならない」と述べた。一方、民青系学生諸君は、「内ゲバ殺人」キャンペーンを展開。「大学の内ゲバの戦場化を許すな」「暴力学生は大学から出てゆけ」「大学当局は責任ある態度をとれ」と主張して、弾圧を要請している。警察は、事件を口実に、1月20日に尚賢館、21日に熊野寮を不当捜査した。 」(『京都大学新聞 1986年2月1日号』)</ref>。
* 9月1日 - 国鉄分割・民営化にからんで、中核派が、革マル派だとして国鉄労組幹部を殺害した<ref name="87WPC"/>。[[真国労大阪地本書記長内ゲバ殺人事件]]<ref>「9月1日未明、埼玉、大阪、兵庫の3府県6箇所において、真国労幹部等がヘルメット、鉄パイプ等で武装した数人の男に襲撃され、真国労大阪地本書記長が死亡したほか、8人が重軽傷を負った。事件は、あらかじめ電話線を切断して窓等から被害者宅に侵入し、被害者に手錠をかけた上で、凶器で乱打するなどの残忍なものであったが、「国鉄分割・民営化絶対阻止」を叫ぶ中核派は、機関紙で「9月1日、…反革命カクマル分子を…徹底せん滅した」などと犯行を自認している。」(『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/s62/s620700.html 昭和62年 警察白書]』)</ref>
 
1986(昭和61年)の内ゲバ事犯による死傷者数12人(うち死者2人)<ref name="87WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/28/nfm/n_28_2_1_2_7_3.html 昭和62年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1987(昭和62年)</ref>
 
=== 1987年(昭和62年) ===
* 10月30日 - 革労協が革マル派だとして[[JR東日本]]社員を襲撃。[[JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件]]<ref>「62年10月30日朝、JR東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員が、マスク、帽子等を着用した集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨や両足を骨折するなどの重傷を負った。この事件は、人通りの多い出勤時間帯の駅通路で待ち伏せた上での大胆な犯行で、最初から頭部を重点に攻撃し、背広姿等の目立たない服装で人込みに紛れて逃走するという極めて計画的なものであった。革労協狭間派は、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認した(東京)。{{Harv|警視庁|1988}}</ref>。
 
1987年の内ゲバ事犯による負傷者数は4人。いずれも国鉄分割・民営化に絡んで発生した労組幹部等に対する路上襲撃事件であった<ref name="88WPC"/>。5年ぶりに革労協狭間派による革マル派に対する内ゲバ事件が発生した<ref name="88WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/29/nfm/n_29_2_1_2_7_3.html 昭和63年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1988(昭和63年)</ref>。
 
=== 1988年(昭和63年) ===
* 3月 - 中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害。JR東日本労組高崎地本委員長内ゲバ殺人事件
 
1988年の内ゲバ事犯による死傷者数23人、うち死者1人<ref name="89WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/31/nfm/n_31_2_1_2_7_2.html 平成元年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1989(平成元年)</ref>。
 
=== 1989年(昭和64/平成元年) ===
* 2月8日 - 中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害。「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」<ref name="『平成2年警察白書』">「中核派は、平成元年2月8日に「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」を、革労協狭間派は、6月25日に「革労協狭間派元最高幹部殺害事件」、12月2日に「JR総連総務部長殺害事件」をそれぞれ引き起こした。これらの事件は、被害者を路上で待ち伏せしたり、就寝中を襲撃したもので、いずれもハンマー、バール等の武器を用いて多数で全身を殴打するという残忍な殺人事件であった。」『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h02/h020700.html 平成2年 警察白書]』</ref>。
* 6月25日 - [[革命的労働者協会(社会党社青同解放派)|革労協狭間派]]が元最高幹部を殺害。[[革労協元幹部内ゲバ殺人事件]]<ref>「革労協狭間派は、闘争方針や戦術をめぐり、ここ数年来内部抗争を続けていたが、6月25日未明、埼玉県川口市内において、主流派の路線に反対する元最高幹部(43)の居宅を多数で襲撃し、ら致した上、撲殺し、茨城県下の路上に放置するという極めて悪質な内ゲバ事件を引き起こした(埼玉、茨城)。」『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h02/h020700.html 平成2年 警察白書]』</ref>。
* 12月2日 - 革労協狭間派が、革マル派だとしてJR組合幹部を殺害<ref name="『平成2年警察白書』"/>。
 
1989年の内ゲバ事犯による死者3人。いずれも[[三里塚闘争|新東京国際空港反対闘争]]に関連する<ref name="90WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/31/nfm/n_31_2_1_2_7_2.html 平成2年犯罪白書,第一編第二章第7節3],1990(平成2年)</ref>。
 
=== 1990(平成2)〜1998(平成10年) ===
[[1990年代]]には1980年代よりもさらに内ゲバ事件の発生件数は減少した。
*1990(平成2年)の内ゲバ事犯による負傷者数2人<ref name="94WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/35/nfm/n_35_2_3_6_3_2.html 平成6年犯罪白書,第3編第6章第3節2],1994(平成6年)</ref>
*1991[[1990年]]([[平成3]]2年)の内ゲバ事犯による負傷者数72人<ref name="94WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/35/nfm/n_35_2_3_6_3_2.html 平成6年犯罪白書,第3編第6章第3節2],1994(平成6年)</ref>
*1992[[1991年]](平成43年)の内ゲバ事犯による負傷者数37人<ref name="94WPC"/>
*1993[[1992年]](平成54年)の内ゲバ事犯による傷者数3人、うち死者1人<ref name="94WPC"/>
*[[1993年]](平成5年)の内ゲバ事犯による死傷者数3人、うち死者1人<ref name="94WPC"/>
*[[1995年]](平成7年)の内ゲバ事犯による負傷者数4人<ref name="99WPC">[https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/40/nfm/n_40_2_4_7_5_2.html 平成11年犯罪白書,第4編第7章第5節2],1999(平成11年)</ref>
*[[1996年]](平成8年)5月14日、神奈川県で、革労協狭間派が革マル派学生を襲撃し、1名を殺害<ref>「革労協狭間派は、8年(略)5月14日、神奈川県内の私立大学キャンパス周辺において、革マル派系全学連学生等に対する内ゲバ事件を引き起こし、1人を死亡させた。」(『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h09/h090600.html 平成9年 警察白書]』)</ref>。1996年の内ゲバ事犯による負傷者数9人、うち死者1人<ref name="99WPC"/>
*1996(平成8年)の内ゲバ事犯による負傷者数9人、うち死者1人<ref name="99WPC"/>
*[[1998年]](平成10年)の内ゲバ事犯による負傷者数8人<ref name="99WPC"/>
** 5月14日 - 神奈川県で、革労協狭間派が革マル派学生を襲撃し、1名を殺害<ref>「革労協狭間派は、8年(略)5月14日、神奈川県内の私立大学キャンパス周辺において、革マル派系全学連学生等に対する内ゲバ事件を引き起こし、1人を死亡させた。」(『[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h09/h090600.html 平成9年 警察白書]』)</ref>。
*1998(平成10年)の内ゲバ事犯による負傷者数8人<ref name="99WPC"/>
 
=== 1999年(平成11年)〜2004年(平成16年):革労協現代社派と革労協赤砦社派 ===
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=== 主な内ゲバ殺人事件一覧 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small"
|+ 主な内ゲバ殺人事件一覧<ref name="npa" /><ref name="moj" />
! 発生日 !! 事件 !! 加害側 !! 死者側 !! 死者数 !! 備考
|-
| 1969<!-- [[Wikipedia:表記ガイド#年月日]]に準じyyyy/07mm/ddという表記はしない -->1969年7月 || 中央大学内ゲバ事件 || [[社会主義学生同盟|社学同]] || 社学同 || 1 ||社学同の内部抗争で同志社大生が死亡
|-
| 1969/09年9月 || 芝浦工大大宮校舎内ゲバ事件 || 反戦連合 || [[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]] || 1 ||埼玉大生が2階から突き落とされ死亡
|-
| 1970/08/03年8月3日 || [[東京教育大学生リンチ殺人事件]] || 中核派 || [[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]] || 1 || 革マル派は中核派に「階級的報復」宣言
|-
| 1971/06年6月 || 琉球大生内ゲバ殺人事件 || [[日本民主青年同盟|民青]] || 革マル派 || 1 ||
|-
| 1971/10月20日 || 横浜国大内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 1 || 美術学院生が殺害される。革マル派は「中核派絶滅」宣言、中核派は「カクマルに対する全面的せん滅戦争」宣言
|-
| 1971/12/04月4日 || [[関西大学構内内ゲバ殺人事件]] || 革マル派 || 中核派 || 2 || 同志社大生・京大生が鉄パイプで殺害される
|-
| 1971/12~月〜1972/02年2月 || [[山岳ベース事件]] || [[連合赤軍]] || 連合赤軍 || 12 || 総括と称したリンチ殺人。メンバーの一部は、[[あさま山荘事件]]を起こす。
|-
| 1971年12月15日 || 三重大学構内内ゲバ殺人事件 || 革マル派 || 中核派 || 1 || 鉄パイプで殴打<ref>『連合赤軍あさま山荘人質事件』58頁 警察文化協会 1973年</ref><ref name="革マル派の20年" >日本革命的共産主義者同盟政治組織局 編『革マル派の二〇年』解放社 1983年</ref>
| 1972/04/28 || [[大阪城公園事件]] || [[革命的労働者協会|革労協]] || 革マル派 || 1 || 衝突後のリンチ殺人
|-
| 1972/11/08年4月28日 || [[川口三郎阪城公園事件]] || [[マル派命的労働者協会|革労協]] || (中核革マルと誤認) || 1 || [[早大闘争|第三次早大闘争]]で革マル派糾弾、衝突に復権のリンチ殺人
|-
| 1973/09/151972年11月8日 || 神奈[[学内ゲバ殺人三郎事件]] || 革労協マル派 || 革マル(中核と誤認) || 21 || 襲撃側の[[早大闘争|第三次早大闘争]]で革マル派側を鉄パイプで殺害糾弾、後に復権
|-
| 1974/01/241973年9月15日 || 世田谷区神奈川大学内ゲバ殺人事件 || 中核派革労協 || 革マル派 || 2 || 引越し作業中に襲撃側の革マル派側を鉄パイプ殴打殺害
|-
| rowspan="2"|1974/01/年1月24 || 横浜国大世田谷区内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 12 || 経済学部食堂内で引越し作業中に鉄パイプ等で殴打
|-
| 1974/02/06 || [[琉球横浜国内ゲバ誤認殺人事件]] || 中核派 || 革マル派と誤認) || 1 || 教室経済学部食堂内授業中、革マル派は「誤爆」と批判鉄パイプ等で殴打
|-
| 1974/05/13年2月6日 || 区役所職員[[琉球大学内ゲバ誤認殺人事件]] || 革マル中核派 || 中核(革マル と誤認)|| 1 || 法政大学前教室鉄パイプ等で殴打授業中、革マル派は「誤爆」と批判
|-
| 1974/06/07年5月13日 || 大阪産業大生区役所職員内ゲバ殺人事件 || (不明)革マル派 || 革マル中核派 || 1 || アパート自室法政大学前就寝中に鉄パイプ等で殴打
|-
| 1974/09/10年6月7日 || 東京郵便局員大阪産業大生内ゲバ殺人事件 || 革マル派(不明) || 中核革マル派 || 1 || アパート自室で就寝中に鉄パイプ等で殴打
|-
| 1974/09/24年9月10日 || 大阪市立大生内東京郵便局員ゲバ殺人事件 || 革マル派 || 中核派 || 1 || 守口市アパート自室で就寝央観光バス前で鉄パイプで殴打
|-
| 1974/10/03年9月24日 || 東京郵便局員大阪市立大生内ゲバ殺人事件 || 中核革マル派 ||革マル 中核派 || 1 ||品川公会堂付近を歩行 守口市央観光バス前で鉄パイプで殴打
|-
| 1974/10/15月3日 || 代々木駅内東京郵便局員ゲバ殺人事件 || 革マル中核派 || 中核革マル派 || 1 || 品川公会堂付近を歩行中に鉄パイプで殴打
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| 1974/12/01年10月15日 || 大阪元高校教諭代々木駅内ゲバ殺人事件 || 中核革マル派 || 革マル中核派 || 1 || アパート自室で就寝歩行中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打
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| 1975/03/061974年12月1日 || 東京革マル派幹部大阪元高校教諭殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 1 || 荷物発送アパート自室で就寝中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打
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| 1975/03/14年3月6日 || [[中核東京革マル書記長内ゲバ幹部殺人事件]] || 革マル中核派 || 中核革マル || 1 || '''革マル派が中核派最高幹部を殺害'''、アパート自室で就寝荷物発送中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打、中核派が「戦争」宣言
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| 1975/03/27年3月14日 || [[川崎市女子職員中核派書記長内ゲバ殺人事件]] || 中核革マル派 || 革マル中核派 || 1 || 川崎市役所から出たところ'''革マル派が中核派最高幹部殺害'''、アパート自室で就寝中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打、初の女性死者中核派が「戦争」宣言
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| 1975/04/01年3月27日 || 東京元革マル派全学連幹部[[川崎市女子職員内ゲバ殺人事件]] || 中核派 || 革マル派 || 1 || 喫茶店内で電話中に川崎市役所から出たところを鉄パイプで殴打、初の女性死者
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| 1975/04/26年4月1日 || 東京元革マル派全学連幹部内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 21 || 喫茶店内で飲食電話中に鉄パイプで殴打
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| 1975/05/07年4月26日 || 鹿児島高校教諭東京元革マル派幹部内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 2 || アパート自室喫茶店内就寝飲食中に頭部等を鉄パイプで殴打
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| 1975/05/25年5月7日 || 岡山大生鹿児島高校教諭内ゲバ殺人事件 || マル青同中核派 || (ノンセクト)革マル派 || 12 || マル青同のマイクロバス突入アパート自室で就寝中より轢死頭部等を殴打
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| 1975/06/04年5月25日 || 大阪経済岡山大生内ゲバ殺人事件 || 中核派マル青同 ||革マル派 (ノンセクト) || 31 || 大阪市立大マル青同芝生で鉄パプ等で殴打クロバス突入により轢死
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| 1975/06/19年6月4日 || 東京郵便局員大阪経済大生等内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 23 || 路上通行中に大阪市立大の芝生で鉄パイプで殴打
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| 1975/06/24年6月19日 || 静岡別荘東京郵便局員内ゲバ殺人事件 || 革マル中核派 || 革労協マル派 || 12 || 歌手[[加藤登紀子]]の別荘で就寝路上通行中に鉄パイプで殴打
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| 1975/07/17年6月24日 || 新橋駅静岡別荘内ゲバ殺人事件 || 中核革マル派 || 革マル派労協 || 1 || 乗車した革マル派約400人が新橋駅到着時に歌手[[加藤登紀子]]の別荘で就寝核派約400名竹竿・石等鉄パイプ襲撃される殴打
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| 1975/09/12年7月17日 || 埼玉国学院生新橋駅内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 21 || 帰宅途乗車した革マル派約400人が新橋駅到着時に核派約400名鉄パイプ竹竿・石等殴打襲撃される
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| 1975/10/08年9月12日 || 立正大埼玉国学院生内ゲバ殺人事件 || 革労協中核派 || 革マル派 || 12 || 立正大構内で情宣帰宅途中に鉄パイプで殴打、火炎瓶を投てき
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| 1975/10/27月8日 || 東京立正大内ゲバ殺人事件 || 革労協 || 革マル派 || 1 || 立正大構内で情宣中に鉄パイプで殴打、火炎瓶を投てき
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| 1975/12/14年10月27日 || 金沢東京内ゲバ殺人事件 || 中核派革労協 || 革マル派 || 1 || アパート東大構内就寝情宣中に鉄パイプ・バール等で殴打
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| 1977/02/111975年12月14日 || [[革労協書記長金沢大生内ゲバ殺人事件]] || 革マル中核派 || 革労協マル派 || 1 || '''革マアパートで就寝中に鉄パイプ・バー派が革労協最高幹部を殺害'''、革労協が報復宣言等で殴打
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| 1976年2月26日 || 所沢市郵便局員内ゲバ殺人事件 || 革マル派 || 中核派 || 1 || 喫茶店内で襲撃<ref>『埼玉年鑑 昭和52年版 本編』36頁 埼玉新聞社 1976年</ref><ref>「所沢の内ゲバ殺人 革マル派の犯行と断定 女性活動家を手配」『埼玉新聞』昭和51年(1976年)4月3日、9頁</ref>
| 1977/04/15 || [[浦和車両放火内ゲバ殺人事件]] || 革労協 || 革マル派 || 4 || 革労協の革マル派への報復
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| 1978/01/271977年2月11日 || 水戸市、勝田市[[革労協書記長内ゲバ殺人事件]] || 革労協マル派 || 革マル派労協 || 31 || アジト4箇所'''革マル派が革労協最高幹部同時襲撃殺害'''、革労協が報復宣言
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| 1979/11/161977年4月15日 || 新宿区外苑東通り路上[[浦和車両放火内ゲバ殺人事件]] || (不明)革労協 || 革マル派 || 24 || 路上で鉄パイプ・ハン革労協の革ーで殴打ル派への報復
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| 1980/05/051977年5月13日 || 千葉県旅館「権兵衛」盛岡市高校教師内ゲバ殺人事件 || 革労協中核派 || 革マル派と誤認) || 1 || 合宿中に襲撃鉄パイプで殴打<ref>岩手県警察史編れ助教授死亡、革労協は革マル派と主張ん委員会 編『岩手県警察史 第3巻』1257頁 岩手県警察本部 1996年</ref>
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| 1980/07/201978年1月27日 || 練馬区郵便局員水戸市、勝田市内ゲバ殺人事件 || 中核派革労協 || 革マル派 || 13 || 路上で鉄パイプで殴打アジト4箇所を同時襲撃
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| 1980/10/301979年3月5日 || 大田区立洗足池図書館前革マル派神奈川県委員長内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 革マル派 || 51 || 路上で頭部を鉄パイプ・ハンマーで殴打、1件5名は最多<ref name="国民政治年鑑1980">国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1980年版』561-567頁 日本社会党中央本部機関紙局 1980年</ref>
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| 1986/01/201979年3月16日 || 京都千代田区元日内ゲバ殺人事件 || 革マル派労協 || 中核革マル派 || 1 || 構内路上オルグ中に鉄パイプで殴打<ref name="国民政治年鑑1980"/>
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| 1986/09/011979年5月7日 || 国労幹部同時多発襲撃津市三重大生内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 真国労幹部革マル派 || 1 || 大阪・兵庫・埼玉の6箇所同時襲撃<ref name="国民政治年鑑1980"/>
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| 1979年11月16日 || 新宿区外苑東通り路上内ゲバ殺人事件 || (不明) || 革マル派 || 2 || 路上で鉄パイプ・ハンマーで殴打
| 1988/03/03 || 鉄労幹部襲撃事件 || 中核派 || 鉄労幹部 || 1 || 群馬県の自宅で就寝中に襲撃
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| 1989/06/251979年12月8日 || [[革労協元幹部金沢大生内ゲバ殺人事件]] || 革労協中核派 || 労協元幹部)マル派 || 1 || '''革労協の内部抗争激化'''<ref name="国民政治年鑑1980"/>
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| 1980年5月5日 || 千葉県旅館「権兵衛」内ゲバ殺人事件 || 革労協 ||(革マル派と誤認)|| 1 || 合宿中に襲撃され助教授死亡、革労協は革マル派と主張
| 1999/07/02 || 明大生協理事殺人事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||6/13 赤砦社派は現代社派へ「全面戦争」「無制限・無制約の革命的テロ」を宣言
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| 1999/07/211980年7月20日 || 明大生協職練馬区郵便局内ゲバ殺人事件 || 革労協(現代社中核 || 革労協(赤砦社マル || 1 || 路上で鉄パイプで殴打
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| 1980年9月19日 || 自治労労働者内ゲバ殺人事件 || 中核派 || 自治労 || 1 || <ref>国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1981年版』601頁 日本社会党中央本部機関紙局 1981年</ref>
| 1999/11/14 || 福岡県委員会議長殺人事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||
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| 2000/02/081980年10月30日 || 真鶴駅学生活動家大田区立洗足池図書館前内ゲバ殺人事件 || 革労協(現代社中核 || 革労協(赤砦社マル || 15 || 列車内路上刺殺頭部を殴打出刃包丁の初使用1件5名は最多
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| 1981年7月11日 || 渋谷区国学院大生内ゲバ殺人事件 || 革労協 || || 1 || 鉄パイプを発見。部屋からは革マル派のものとみられるビラが見つかったが、公安部は被害者が活動家であったかどうかはつかんでいない。<ref>国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1982年版』606頁 日本社会党中央本部機関紙局 1982年</ref>
| 2000/02/09 || 現代社派襲撃部隊殺傷事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||
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| 1982年2月24日 || 荒川区国学院大生内ゲバ殺人事件 || 革労協 || 革マル派 || 1 || 鉄パイプで殴打。<ref>国民政治年鑑編集委員会 編『国民政治年鑑 1983年版』638-639頁 日本社会党中央本部機関紙局 1983年</ref>
| 2000/08/30 || 鶯谷駅明大生協組合幹部殺人事件 || 革労協(現代社派) || 革労協(赤砦社派) || 1 || 駅前で小型出刃包丁等で刺殺
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| 2000/12/101986年1月20日 || 革労協総務委員京都大学内ゲバ殺人事件 || 革労協(赤砦社マル || 革労協(現代社中核 || 1 || 構内でオルグ中に鉄パイプで殴打
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| 2001/05/161986年9月1日 || 協総務委員殺人幹部同時多発襲撃事件 || 革労協(赤砦社中核 || 真国協(現代社派) || 1 || 大阪・兵庫・埼玉の6箇所同時襲撃
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| 1988年3月3日 || 鉄労幹部襲撃事件 || 中核派 || 東鉄労 || 1 || 群馬県の自宅で就寝中に襲撃
| 2004/06/02 || 赤砦社三ノ輪アジト襲撃事件 || 革労協(現代社派) || 革労協(赤砦社派) || 2 || アジト前で出刃包丁・ハンマー等で襲撃、赤砦社派は報復せず、事実上の停戦に
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| 1989年6月25日 || [[革労協元幹部内ゲバ殺人事件]] || 革労協 || (革労協元幹部) || 1 || '''革労協の内部抗争激化'''
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| 1989年12月2日 || [[上尾市福祉会館事件#概要|JR総連総務部長内ゲバ殺人事件]] || 革労協 || JR総連 || 1 ||
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| 1999年7月2日 || 明大生協理事殺人事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||6/13 赤砦社派は現代社派へ「全面戦争」「無制限・無制約の革命的テロ」を宣言
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| 1999年7月21日 || 明大生協職員殺人事件 || 革労協(現代社派) || 革労協(赤砦社派) || 1 ||
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| 1999年11月14日 || 福岡県委員会議長殺人事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||
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| 2000年2月8日 || 真鶴駅学生活動家殺人事件 || 革労協(現代社派) || 革労協(赤砦社派) || 1 || 列車内で刺殺、出刃包丁の初使用
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| 2000年2月9日 || 現代社派襲撃部隊殺傷事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||
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| 2000年8月30日 || 鶯谷駅明大生協組合幹部殺人事件 || 革労協(現代社派) || 革労協(赤砦社派) || 1 || 駅前で小型出刃包丁等で刺殺
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| 2000年12月10日 || 革労協総務委員殺人事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||
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| 2001年5月16日 || 革労協総務委員殺人事件 || 革労協(赤砦社派) || 革労協(現代社派) || 1 ||
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| 2004年6月2日 || 赤砦社三ノ輪アジト襲撃事件 || 革労協(現代社派) || 革労協(赤砦社派) || 2 || アジト前で出刃包丁・ハンマー等で襲撃、赤砦社派は報復せず、事実上の停戦に
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
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* {{Cite book|和書|title=歳月の鉛 |author=四方田犬彦|year=2009|publisher=工作舎|isbn=978-4875024194 |ref=harv}}
* [[警察庁]]『[[警察白書]]』
** {{Cite report ja|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s49/s490800.html |title=昭和49年 警察白書|year=1974|author=警察庁|ref=harv{{SfnRef|警察庁|1974}} }}
** {{Cite report ja|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s50/s50index.html |title=昭和50年 警察白書|year=1975|author=警察庁|ref=harv{{SfnRef|警察庁|1975}} }}
** {{Cite report ja|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s51/s510700.html |title=昭和51年 警察白書|year=1976|author=警察庁|ref=harv{{SfnRef|警察庁|1976}}}} 表7-2 昭和50年の内ゲバによる死亡事案
** {{Cite report ja|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s63/s630102.html |title=昭和63年 警察白書|year=1988|author=警察庁|ref=harv{{SfnRef|警察庁|1988}} }}
 
== 関連項目 ==