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|称号・役職 = 陽城侯・監軍使者・振威将軍
|出生 = 生年不詳
|出身地 = [[荊州]][[江夏郡]]竟陵県
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]24年([[219年]])
|死没地 =
|ピン音 = Liú Zhāng
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}}
 
'''劉 璋'''(りゅう しょう、? - [[219年]]([[建安 (漢)|建安]]24年))は、[[中国]][[後漢]]末期の群雄である。[[劉焉字 (人名)|字]]の子は'''季玉'''家系[[本貫]]は[[劉氏荊州]][[江夏郡]]竟陵県<ref>『三国志』蜀書 劉焉伝記載、父の劉焉の本貫。[[s:zh:三國志/卷31#劉焉]]は'''季玉'''</ref>父は[[劉]]の弟である
 
== 生涯 ==
劉焉の少子(末の子)だったが、若い時に長兄の[[劉範]]や次兄の[[劉誕 (後漢)|劉誕]]と共に、[[都尉|奉車都尉]]として[[長安]]の[[献帝 (漢)|献帝]]近侍て仕えていた。献帝は[[宗室]]の劉焉の暴走を諫めさせるために、劉璋を[[益州]]に派遣したが、劉焉はこれを聞かずに劉璋を二度と都に戻さなかったという<ref>『[[194年英雄記]]』は、逆に劉焉が病気と称して劉璋を呼び、劉璋が上表して見舞いのために益州へ向かったとしている。</ref>。[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])に兄[[劉範]][[劉誕]]が相次いで亡くなった<ref>『三国志』蜀志「劉二牧伝」によると兄・[[劉瑁]]の死については、[[曹操]]が荊州を制圧時に劉璋が使者を送った時期である。</ref>。劉焉が病死した時に州の大吏の[[趙韙]](巴西出身)らは劉璋の温仁を貪らんと、共に上書して劉璋を益州刺史とした<ref>『三国志』蜀志 「劉二牧伝」 州大吏趙韙等貪璋温仁、共上璋為益州刺史</ref>。朝廷([[李傕]]政権)は、劉璋を監軍使者・益州牧に任命した<ref>
『英雄記』によると、長安の朝廷は潁川の[[扈瑁]]を益州刺史に任命し、荊州別駕の[[劉コウ (荊州別駕)|劉闔]]と劉璋の将の[[沈彌]]・[[婁發]]・[[甘寧]]を叛かせ劉璋を攻撃させたが勝てず、彼等は荊州に逃亡した。劉璋は報復のため、趙韙を征東中郎将に任じ、荊州に侵攻させるため、朐に駐屯させたという</ref>。
 
[[200年]](建安 (漢)|建安]]5年([[200年]])、自分に叛いた[[張魯]]の生母(盧氏)とその弟の張徴を見せしめのために[[殺害|誅殺]]した。
 
この頃、劉璋と中郎将趙韙は感情的な対立がもとで決裂し、趙韙は劉璋に兵を向けようとしたが、返り討ちにされた。『英雄記』によると劉璋は、[[荊州]]・[[三輔]]出身の兵士である[[東州兵]]が民衆を侵害しても取り締まることができず、政令に欠けるところも多かったので、これらの事を不満に思う民衆は少なくなかった。劉璋は趙韙にこの問題を解決させようとしたが、趙韙は民の怨嗟の心を利用して、州内の豪族と手を結び謀反を起こした。[[蜀郡]]・[[広漢郡|広漢]]・[[ケン為郡|犍為]]の三郡(「三蜀」ともいう)は趙韙に呼応し、劉璋は成都籠城などの窮地に陥ったが、東州兵の奮戦により趙韙の軍勢は撃退され、趙韙は翌建安6年([[201年]])に配下の龐楽・[[李異]]らに裏切られ巴郡江州にて斬られ、反乱は終結した。また『華陽国志』では、趙韙は劉璋を諫めたが聞き入れられず、謀反を起こしたとある。なお、『後漢書』「列女伝」にみえる[[趙媛姜]]の逸話はこの三蜀の内乱での出来事である
 
[[曹操]]が荊州を制圧すると、劉璋は陰溥を使者として派遣して曹操に敬意を表した。曹操は劉璋に振威将軍の将軍位を与えた。この際、兄・[[劉瑁]]は平寇将軍の官位を貰っている。その後、劉瑁は精神を病み間もなく亡くなった<ref>『三国志』蜀志「劉二牧伝」 璋聞曹公征荊州、已定漢中、遣河内陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍、兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故</ref>。
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重臣の中には野心家の[[張松]]・[[法正]]・[[孟達]]らがいて、彼等は既に劉璋の下では出世が覚束ないと考え、これを見限り[[劉備]]を益州の牧として迎えるべく画策する。この頃、益州にもようやく張魯や曹操らの脅威が迫りつつあった。元々、戦が不得手であった劉璋は、このこともあって張松らの進言を聞き入れて、あっさりと劉備を益州に入れることを許してしまう。この時、[[王累]]・[[黄権]]・[[劉巴]]らが反対したが、劉璋は聞き入れなかった。
 
後に張松の兄[[張粛]]の密告で張松の内通行為が露見すると、劉璋は張松を処刑して劉備と対立し、劉備は軍勢を率いて劉璋を攻撃した([[劉備の入蜀]])。[[鄭度]]が劉備軍を飢えさせるために焦土作戦を採るように進言したが、優柔不断で領民思いな劉璋は受け入れなかった。劉璋の武将の[[劉循]]・[[張任]]らが懸命に抗戦したが、戦慣れした劉備軍の前に遂に敗れ、劉備軍は[[成都]]に迫った。建安19年([[214年]](建安19年夏5月の劉備の降伏勧告に対し、官民の多くは戦う覚悟であったが、劉璋は「私はもはや領民を苦しめたくない」と言っ述べて決断し、降伏・開城した。
 
降伏後、劉璋は劉備の命令で次男の劉闡と共に荊州の西部にあ[[士仁]]が守る[[公安県|公安]]に移された。長男の劉循は奉車中郎将として、成都に滞まってそのまま劉備の家臣となった。
 
219年(建安24年12月([[220年]]年始)、[[関羽]]が[[呂蒙]]によって殺され、荊州が[[孫権]]に奪われた時、劉璋はそのまま帰順して家臣となり、孫権に[[益州]][[]]に任じられたが、間もなく病死した。
 
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の著者[[陳寿]]は、「劉璋は英雄としての才に乏しく、土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えない」と厳しい評価をしている。
 
== 関連人物 ==
=== 親族 ===
* [[劉焉]](父) -194 益州牧・陽城侯・監軍使者
* 費氏(母)
* [[劉範]](長兄) -194 左中郎将
* [[劉誕 (後漢)|劉誕]](次兄) -194 治書御史
* [[劉瑁]](三兄) 平寇将軍
* [[劉循]](長男) 奉車[[中郎将]]
* [[劉闡]](次男) 交益二州刺史・御史中丞
* [[費観]](娘婿) 揚威将軍・江州都督・都亭侯
* 劉敞(曾孫)-301 隠士 華陽国士 巻8 大同志
 
=== 配下 ===
{|
| valign="top" |
* [[劉循王商 (文表) |王商]]
* [[費観王甫]]
* [[法正王謀]]
* [[張松王累]]
* [[張粛許靖]]
* [[]]
 
| valign="top" |
* [[呉懿]]
* [[黄権]]
* [[高沛]]
* [[楊懐呉班]]
* [[劉巴秦宓]]
* [[費詩趙韙]]
* [[黄権]]
* [[呉懿]]
 
| valign="top" |
* [[孟達張裔]]
* [[張粛 (後漢)|張粛]]
* [[張]]
* [[厳顔張任]]
* [[秦フク張裕 (後漢)|秦宓張裕]]
* [[王謀程畿]]
 
| valign="top" |
* [[トウ賢|鄧賢鄭度]]
* [[王謀鄧賢]]
* [[董和]]
* [[張裔杜瓊]]
* [[李恢費観]]
* [[程畿費詩]]
| valign="top" |
* [[ホウ羲|龐羲]]
* [[趙韙法正]]
* [[彭ヨウ|彭羕]]
* [[鄭度孟達]]
 
* [[楊懐]]
| valign="top" |
* [[ホウ羲|龐羲]]
* [[王商 (文表) |王商]]
* [[王謀]]
* [[楊洪]]
* [[劉カイ|劉璝]]
* [[趙韙]]
 
| valign="top" |
* [[鄭度]]
* [[李異]]
* [[李恢]]
* [[李厳]]
* [[劉カイ (後漢)|劉璝]]
* [[劉巴]]
* [[冷苞]]
|}
 
=== 演義のみ ===
{|
| valign="top" |
* [[呉蘭]]
* [[譙周]]
* [[卓膺]]
| valign="top" |
* [[張翼]]
* [[馬漢]]
* [[雷銅]]
| valign="top" |
* [[劉晙]]
* [[呂義]]
|}
 
== 出典 ==
*[[陳寿]]撰、[[裴松之]]注『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書 劉璋伝 [[s:zh:三國志/卷31#劉璋]]
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考資料 ==
*『三国志』
 
{{三国志立伝人物}}
 
{{DEFAULTSORT:りゆう しよう}}
[[Category:劉氏|しよう]]
[[Category:219年没劉焉軍の人物]]
[[Category:劉璋軍の人物|*]]
[[Category:劉備軍の人物]]
[[Category:孫堅・孫策・孫権軍の人物]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:漢代2世紀中国]]
[[Category:3世紀中国]]
[[Category:生年不]]
[[Category:219年没]]