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{{Infobox 人物
{{出典の明記|date=2012年6月}}
|氏名=堀田 庄三
'''堀田 庄三'''(ほった しょうぞう、[[1899年]][[1月23日]] - [[1990年]][[12月18日]])は日本の[[銀行家]]。[[住友銀行]]頭取を19年務め([[1952年]]~[[1971年]])、「'''住銀の法皇'''」と称された。[[住友家評議員会]]委員長、[[住友老壮会]]会長、[[日本航空]]元会長。[[勲一等旭日大綬章]]受章。元[[モルガン・スタンレー]]証券代表取締役会長の堀田健介は長男。[[大正製薬]]社長の[[上原明]]は二男。
|ふりがな=ほった しょうぞう
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|生年月日={{生年月日と年齢|1899|1|23|死去}}
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|出身校=[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|京都帝国大学経済学部]]卒業
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'''堀田 庄三'''(ほった しょうぞう、[[1899年]][[1月23日]] - [[1990年]][[12月18日]])は、[[日本]]の[[銀行|銀行家]]。[[住友銀行]]頭取を19年務め([[1952年]]~[[1971年]])、「'''住銀の法皇'''」と称された。[[住友家評議員会]]委員長、[[住友老壮会]]会長、[[日本航空]]元会長。[[勲一等旭日大綬章]]受章。元[[モルガン・スタンレー]]証券代表取締役会長の堀田健介は長男。[[大正製薬]]社長の[[上原明]]は二男。
 
== 来歴・人物 ==
[[画像:Saionji Memorial Hall Foundation Stone(Kinugasa Campus, Ritsumeikan University, Kyoto, Japan).JPG|250px|thumb|「 [[立命館大学#西園寺記念館|西園寺記念館]]」定礎石の題字(堀田庄三 揮毫)]]
[[愛知県]][[名古屋市]]に牛田正太の二男として生まれ、堀田家に養子入りする。[[愛知県立旭丘高等学校|愛知一中]]、[[松本高等学校 (旧制)|松本高校]]文科甲類を経て、[[1926年]][[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|京都帝国大学経済学部]]を卒業し、住友銀行(現・[[三井住友銀行]])に入行。名古屋支店勤務を経て、[[1928年]]東京・[[日本橋人形町|人形町]]支店に異動。ここで経営コンサルティングを行いながら新規顧客開拓に成果を上げ、行内で頭角を顕す。[[1940年]]には新設の東京事務所に異動、[[1942年]]には所長となり、国の統制経済政策に機敏に対応するため、足しげく[[大蔵省]]、[[日本銀行]]などに通いつめた。後の“[[MOF担]]”の先駆的存在であった。
 
終戦後、公職追放により上層部が退陣すると、[[1947年]][[2月]]に取締役に選ばれると同時に常務取締役に就任。同年[[8月]]には副社長に就任した。また[[経済同友会]]の代表幹事(当時の役職名は当番幹事)にもなり、政治家、経済人との親交を結び、[[吉田茂]]、[[池田勇人]]、[[佐藤栄作]]と続く[[保守本流]]との関係や、[[財界四天王]]である[[小林中]]、[[桜田武]]、[[永野重雄]]、[[水野成夫]]、東大教授の[[東畑精一]]などとの関係を深めた<ref>[https://web.archive.org/web/20160612061913/http://net.keizaikai.co.jp/archives/13955 「連載」 実録! 関西の勇士たち(第15回)ワンマンシリーズ(2) 住友の堀田、グループを束ねる 眞島弘(経済ジャーナリスト)]</ref>。また、[[官僚主導]][[金融政策]]に対抗して、大蔵省・日銀・市中銀行・学識経験者からなる金融委員会の創設を提言したりした。やがて財界活動からは徐々に距離を置くことになる(住友銀行が財界活動に復帰するのは[[1986年]]に[[磯田一郎]]が経団連副会長に就任するまで待たなければならなかった)。
 
[[1952年]]、頭取に就任すると、「堅実経営による経営の健全化」「情実になじまず、因縁にとらわれず、合理性に立脚する」「凡百の議論より実践」の三点を掲げ、世上'''堀田イズム'''と称された合理主義的経営を行った。
 
堀田が頭取に就任以来取った政策は、[[1882年]]に初代総理事[[広瀬宰平]]が策定した家憲(「営業の信用を重んじ確実をむねとする」「浮利にはしり、軽進すべからず」などが謳われている「家法」)にのっとった合理主義経営の実践であった。そのため取引先企業の経営がかたむき始めると融資を引き上げ、「がめつい」「逃げ足が速い」と批判された。この政策は1949年頃の融資担当常務から実践されており、[[トヨタ自動車]]に「'''[[豊田自動織機|機屋]]に貸せても、鍛冶屋には貸せない'''」とにべもなく峻拒、貸出金の回収に走り、同社は住友銀行との取引を断交した。そのため、中京地域で住銀が苦戦する遠因となった事や、三井住友銀行発足まで同社と取引出来なかった事がある。また、後に[[イトマン事件]]等の不祥事が続発するような、利益第一主義の遠因となったという指摘もある。
 
しかし入行直後に[[昭和金融恐慌]]を体験し、相続く銀行の破綻をつぶさに見てきた堀田は、「預金者のお金を厳格に運用するのは銀行の責務」とたじろがなかった。[[1965年]]、[[河内銀行]]を吸収合併し、それまで資金量で四位に甘んじていた住友銀行は、[[三菱銀行]]、[[三和銀行]](両行とも現[[三菱UFJ銀行]])両行を抜き、[[富士銀行]]に次いで二位に躍り出た。資金量の増加と共に外延企業拡大戦略が大々的に展開され、事業の将来性と経営者の能力を厳密に評価した上で、[[パナソニック|松下電器産業]]、[[三洋電機]]、[[武田薬品工業]]、[[ブリヂストン]]、[[マツダ]]、[[小松製作所|コマツ]]、[[旭化成]]、[[伊藤忠商事]]、[[ダイエー]]といった日本を代表する企業を育てていった。
 
[[1971年]]に会長、[[1977年]]に取締役相談役・名誉会長となる。その他、朝日放送<ref>会社法人としては現在の[[朝日放送グループホールディングス]]。放送局としては現在の[[朝日放送テレビ]]・[[朝日放送ラジオ]]。</ref>取締役、[[日本万国博覧会記念機構|日本万国博覧会協会]]副会長<ref>[https://www.obayashi.co.jp/chronicle/80yrs/t4c4s1.html 第一節 エキスポ'70開催まで― | 第四章 日本万国博覧会]</ref>なども務めた。
 
1990年12月18日、[[肺炎]]のため死去。享年91。
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{{経済同友会代表幹事}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ほつた しようそう}}
[[Category:日本の銀行家]]
[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:三井住友フィナンシャルグループの人物]]
[[Category:住友グループの人物]]
[[Category:日本航空の人物]]
[[Category:朝日放送の人物]]
[[Category:大阪万博に関係した人物]]
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]
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[[Category:愛知県立旭丘高等学校出身の人物]]
[[Category:旧制松本高等学校出身の人物]]
[[Category:京都大学出身の人物]]
[[Category:1899年生]]