削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: 差し戻し済み モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
 
(6人の利用者による、間の7版が非表示)
17行目:
 
== 来歴・人物 ==
[[画像:Saionji Memorial Hall Foundation Stone(Kinugasa Campus, Ritsumeikan University, Kyoto, Japan).JPG|250px|thumb|「 [[立命館大学#西園寺記念館|西園寺記念館]]」定礎石の題字(堀田庄三 揮毫)]]
[[愛知県]][[名古屋市]]に牛田正太の二男として生まれ、堀田家に養子入りする。[[愛知県立旭丘高等学校|愛知一中]]、[[松本高等学校 (旧制)|松本高校]]文科甲類を経て、[[1926年]][[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|京都帝国大学経済学部]]を卒業し、住友銀行(現・[[三井住友銀行]])に入行。名古屋支店勤務を経て、[[1928年]]東京・[[日本橋人形町|人形町]]支店に異動。ここで経営コンサルティングを行いながら新規顧客開拓に成果を上げ、行内で頭角を顕す。[[1940年]]には新設の東京事務所に異動、[[1942年]]には所長となり、国の統制経済政策に機敏に対応するため、足しげく[[大蔵省]]、[[日本銀行]]などに通いつめた。後の“[[MOF担]]”の先駆的存在であった。
 
24行目:
[[1952年]]、頭取に就任すると、「堅実経営による経営の健全化」「情実になじまず、因縁にとらわれず、合理性に立脚する」「凡百の議論より実践」の三点を掲げ、世上'''堀田イズム'''と称された合理主義的経営を行った。
 
堀田が頭取に就任以来取った政策は、[[1882年]]に初代総理事[[広瀬宰平]]が策定した家憲(「営業の信用を重んじ確実をむねとする」「浮利にはしり、軽進すべからず」などが謳われている「家法」)にのっとった合理主義経営の実践であった。そのため取引先企業の経営がかたむき始めると融資を引き上げ、「がめつい」「逃げ足が速い」と批判された。この政策は1949年頃の融資担当常務から実践されており、[[トヨタ自動車]]に「'''[[豊田自動織機|機屋]]に貸せても、鍛冶屋には貸せない'''」とにべもなく峻拒、貸出金の回収に走り、同社は住友銀行との取引を断交した。そのため、中京地域で住銀が苦戦する遠因となった事や、三井住友銀行発足まで同社と取引出来なかった事がある。また、後に[[イトマン事件]]等の不祥事が続発するような、利益第一主義の遠因となったという指摘もある。
 
しかし入行直後に[[昭和金融恐慌]]を体験し、相続く銀行の破綻をつぶさに見てきた堀田は、「預金者のお金を厳格に運用するのは銀行の責務」とたじろがなかった。[[1965年]]、[[河内銀行]]を吸収合併し、それまで資金量で四位に甘んじていた住友銀行は、[[三菱銀行]]、[[三和銀行]](両行とも現[[三菱UFJ銀行]])両行を抜き、[[富士銀行]]に次いで二位に躍り出た。資金量の増加と共に外延企業拡大戦略が大々的に展開され、事業の将来性と経営者の能力を厳密に評価した上で、[[パナソニック|松下電器産業]]、[[三洋電機]]、[[武田薬品工業]]、[[ブリヂストン]]、[[マツダ]]、[[小松製作所|コマツ]]、[[旭化成]]、[[伊藤忠商事]]、[[ダイエー]]といった日本を代表する企業を育てていった。
 
[[1971年]]に会長、[[1977年]]に取締役相談役・名誉会長となる。その他、朝日放送<ref>会社法人としては現在の[[朝日放送グループホールディングス]]。放送局としては現在の[[朝日放送テレビ]]・[[朝日放送ラジオ]]。</ref>取締役、[[日本万国博覧会記念機構|日本万国博覧会協会]]副会長<ref>[https://www.obayashi.co.jp/chronicle/80yrs/t4c4s1.html 第一節 エキスポ'70開催まで― | 第四章 日本万国博覧会]</ref>なども務めた。
 
1990年12月18日、[[肺炎]]のため死去。享年91。
36行目:
 
== 親族 ==
堀田庄三の長男健介が[[安西正夫]]の三女公子を娶っている。安西家は、[[正田英三郎]]家から皇室、そして[[岸信介]]、[[佐藤栄作]]、[[三木武夫]]の元[[内閣総理大臣]]などに連なる姻戚関係を持つ一族である。また健介の娘の真理は[[トヨタ自動車]]創業家の本家の一族である[[豊田達也]](元デンソー常務)に嫁いでいる。
 
長女育子は、元[[日本郵船]]会長の[[浅尾新甫]]の二男浩二に嫁いでいる。浅尾家は山梨県中郡筋下小河村の旧家で「甲州十五人衆」の一家として名門一族である。浅尾新甫の父[[浅尾長慶]]は元衆議院議員で、[[東京電力]]の前身である東京電燈の創設者の1人。浅尾浩二の兄新一郎の妻道子は、元侍従長の[[三谷隆信]]の二女。隆信は外務省の条約局長、駐スイス公使、駐フランス大使を歴任し、戦後退官した外交官。三谷隆信の長男信の妻涼子は、元興銀総裁[[岸喜二雄]]。また隆信の長女邦子は、元駐ドイツ大使[[永井松三]]の長男邦夫に嫁ぎ、三女正子は、[[鮎川義介]]の長男弥一郎に嫁いでいる。
69行目:
[[Category:名古屋市出身の人物]]
[[Category:愛知県立旭丘高等学校出身の人物]]
[[Category:旧制松本高等学校出身の人物]]
[[Category:京都大学出身の人物]]
[[Category:1899年生]]