「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」の版間の差分

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{{Expand English|date= 2022年12月}}
{{翻訳中途|1=[[:ru:Украинская Советская Социалистическая Республика]]|2=[[:uk:Українська Радянська Соціалістична Республіка]]|3=[[:en:Ukrainian Soviet Socialist Republic]]|date=2021年12月}}
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{{出典の明記|date=2018年6月|ソートキー=うくらいなそえとしかいしゅぎゆききようわこく}}
|otherarticle = Украинская Советская Социалистическая Республика
{{基礎情報  過去の国
|langcode2 = uk
| 略名 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
|otherarticle2 = Українська Радянська Соціалістична Республіка
| 日本語国名 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
|langcode3 = en
| 公式国名 = {{native name|uk|Українська Радянська Соціалістична Республіка|italic=no}}<br />{{native name|ru|Украинская Советская Социалистическая Республика|italic=no}}
|otherarticle3 = Ukrainian Soviet Socialist Republic
| 建国時期 = [[1919年]]
|date= 2022年12月
| 亡国時期 = [[1991年]]
}}
| 先代21 = ウクライナ人民共和国
{{出典の明記|date=2018年6月|ソートキー=うくらいなそびえとしゃかいしゅぎきようわこく}}
|21 = Flag of Ukraine.svg
{{基礎情報 過去の国
| 先代2 = マフノフシチナ
|略名 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
| 先旗2 = Махновское_знамя.svg
|日本語国名 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
| 先代3 = ホロランヌィイ・ヤール第二共和国
|公式国名 = {{native name|uk|Українська Радянська Соціалістична Республіка|italic=no}}<br />{{native name|ru|Украинская Советская Социалистическая Республика|italic=no}}
| 先旗3 = Flag of Poland (1928-1980).svg
|建国時期 = [[1919年]]
| 先代4 = ルーマニア王国
|亡国時期 = [[1991年]]
|画像4 = Flag of Ukrainian SSRRomania.svg
|先代1 = ウクライナ・ソビエト共和国
| 先代5 = ハンガリー王国 (1920年-1946年)
|先旗1 = Flag_of_Ukrainian_People's_Republic_of_the_Soviets.svg
| 先旗25 = Flag of Ukrainian People's RepublicHungary 19171940.svg
|先代2 = ウクライナ人民共和国
|代1 = ウクライナ・ソビエト共和国 (1991年-1996年)
|先旗2 = Flag of Ukrainian People's Republic 1917.svg
| 次旗1 = Flag of Ukraine.svg
|先代3 = ホロードヌィイ・ヤール共和国
|3画像 = Flag of UkraineUkrainian SSR.svg
| 国旗リンク =
|先代4 = 自由地区
|4 = RPAU flag.svg150
| 国旗縁 =
|次代1 = ロシア
|次旗1 国章画像 = FlagCoat of arms of RussiaUkrainian 1991-1993SSR.svg
|次代2 国章リンク = [[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 (1991年-1996年)の国章|国章]]
| 国章幅 = 105px105
|次旗2 = Flag of Ukraine.svg
| 標語 = <br>[[万国の労働者よ、団結せよ!|{{lang|uk|Пролетарі всіх країн, єднайтеся!}}]]{{uk icon}}<br />''万国の労働者よ、団結せよ!''
|国旗画像 = Flag of Ukrainian SSR.svg
| 国歌 = <br>[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国歌|{{lang|uk|Державний гімн Української Радянської Соціалістичної Республіки}}]]{{uk icon}}<br>''ウクライナ・ソビエト社会主義共和国国歌''<br>(歌詞付き)<br>{{center|[[file:Anthem Ukrainian SSR.ogg]]}}<br>(演奏のみ)<br>{{center|[[file:Anthem of the Ukrainian Soviet Socialist Republic (Instrumental).oga]]}}
|国旗リンク =
|国旗幅 = 150px
|国旗縁 =
|国章画像 =Coat of arms of Ukrainian SSR.svg
|国章リンク = [[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国章|国章]]
|国章幅 = 105px
|標語 = <br>[[万国の労働者よ、団結せよ!|{{lang|uk|Пролетарі всіх країн, єднайтеся!}}]]{{uk icon}}<br />''万国の労働者よ、団結せよ!''
|国歌 = <br>[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国歌|{{lang|uk|Державний гімн Української Радянської Соціалістичної Республіки}}]]{{uk icon}}<br>''ウクライナ・ソビエト社会主義共和国国歌''<br>(歌詞付き)<br>{{center|[[file:Anthem Ukrainian SSR.ogg]]}}<br>(演奏のみ)<br>{{center|[[file:Anthem of the Ukrainian Soviet Socialist Republic (Instrumental).oga]]}}
<br>(スターリン時代版)<br>{{center|
[[File:Ukraine SSR Anthem (Stalinist Version).ogg|Ukraine_SSR_Anthem_(Stalinist_Version)]]}}<br><br>[[ウクライナの国歌|{{lang|uk|Ще не вмерла Україна}}]]{{uk icon}}<br>''ウクライナは滅びず''(非公式)<br>{{center|[[ファイル:National anthem of Ukraine, instrumental.oga]]}}
| 国歌追記 =
| 位置画像 = Soviet Union - Ukrainian SSR.svg
| 位置画像説明 = ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の領土(1954年以降)
| 公用語 = [[ウクライナ語]]<br />[[ロシア語]]
| 首都 = [[ハルキウ|ハリコフ]]{{smaller|(1934年まで)}}<br />[[キーウ|キエフ]]{{smaller|(1934年から)}}
| 最高指導者等肩書 = {{仮リンク|ウクライナ共産党 (ソビエト連邦)|en|Communist Party of Ukraine (Soviet Union)|label =ウクライナ共産党第一書記}}{{smaller|([[#指導者|注1参照]])}}
| 最高指導者等年代始1 = 1918年10月23日
| 最高指導者等年代終1 = 1919年3月6日
| 最高指導者等氏名1 = {{仮リンク|エマニュエル・クビリング|en|Emanuel Kviring|ru|Квиринг, Эммануил Ионович}}
| 最高指導者等年代始2 = 1990年6月22日
| 最高指導者等年代終2 = 1991年9月1日
| 最高指導者等氏名2 = {{仮リンク|スタニスラフ・グレチコ|ru|Гуренко, Станислав Иванович}}
| 元首等肩書 = 元首{{smaller|([[#元首|注2参照]])}}
| 元首等年代始1 = 1919年
| 元首等年代終1 = 1938年
| 元首等氏名1 = [[グリゴリー・ペトロフスキー (政治家)|グリゴリー・ペトロフスキー]]
| 元首等年代始2 = 1990年
| 元首等年代終2 = 1991年
| 元首等氏名2 = [[レオニード・クラフチュク]]
| 首相等肩書 = [[ウクライナの首相|首相]]{{smaller|([[#首相|注3参照]])}}
| 首相等年代始1 = 1919年1月16日
| 首相等年代終1 = 1923年7月15日
| 首相等氏名1 = {{仮リンク|フリスチアン・ラコフスキー|en|Christian Rakovsky}}
| 首相等年代始2 = 1990年11月14日
| 首相等年代終2 = 1991年8月24日
| 首相等氏名2 = {{仮リンク|ヴィトリド・フォーキン|en|Vitold Fokin|ru|Фокин, Витольд Павлович}}
| 面積測定時期1 = 1989年
| 面積値1 = 603,700
| 人口測定時期1 = 1989年
| 人口値1 = 51,706,746
| 変遷1 = 成立
| 変遷年月日1 = 1919年1月6日
| 変遷2 = [[ソビエト連邦]]に加盟
| 変遷年月日2 = 1922年12月30日
| 変遷3 = [[ソビエト連邦の崩壊]]により[[ウクライナ共和国 (1991年-1996年)|ウクライナ共和国]]として独立
| 変遷年月日3 = 1991年8月24日
| 通貨 = [[ソビエト連邦ルーブル]]
| 時間帯 = +2
| 夏時間 =
| 時間帯追記 =
| ccTLD =
| ccTLD追記 =
| 国際電話番号 =
| 国際電話番号追記 =
| 現在 = {{UKR}}<br />{{RUS}}([[ロシアによるウクライナ4州の併合宣言|一部を実効支配]])
| 注記 = {{Anchors|指導者}}注1: 国家指導者の肩書は、1920年までは'''ウクライナ共産党中央委員会書記'''、1920年から1921年までは'''中央委員会第一書記'''、1921年は'''中央委員会執行書記'''、1921年から1925年までは'''第一書記'''、1925年から1934年までは'''中央委員会書記長'''、それ以降は'''中央委員会第一書記'''。<br />{{Anchors|元首}}注2: 中央執行委員会議長、最高会議議長。<br />{{Anchors|首相}}注3: 首相の肩書は、1946年までは'''[[人民委員会議]]議長'''(1919年から1920年の一時期は'''全ウクライナ革命委員会委員長''')、それ以降は'''閣僚会議議長'''。
}}
 
'''ウクライナ・ソビエト社会主義共和国'''(ウクライナ・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく)、[[略称]]'''ウクライナ共和国'''(ウクライナきょうわこく)は、かつて[[ウクライナ]]に存在した[[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦構成共和国|構成共和国]]である。[[1917年]][[12月25日]]に成立した[[ウクライナ人民共和国 (ソビエト派)|ウクライナ人民共和国]]がその祖となっており、その後、いくつかの構成共和国を併合し、以後[[1991年]]8月24日まで存続した。[[国際連合|国連]]の原加盟国である
 
== 国名 ==
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=== 革命 ===
{{main|{{仮リンク|ウクライナ革命|uk|Українська революція}}}}
[[1917年]]3月に[[ロシア帝国|ロシア]]の[[サンクトペテルブルク|ペトログラー]]で[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こると、ウクライナでは帝政時代より広範囲の自治と自由を求めて各派が集まり、中央政治機関となる[[ウクライナ中央ラーダ]]が構成された。中央ラーダは新たな「ロシア連邦」のもとでのウクライナとロシアの協力を求め、ペトログラーの[[ロシア臨時政府|臨時政府]]と交渉に当たった。その結果、夏には中央ラーダの要求は臨時政府によって認められ、ウクライナは「ロシア連邦」のもとでの[[自治権]]を獲得した。しかし、その後[[ボリシェヴィキ]]が臨時政府を武力で倒してロシアの権力を掌握する[[十月革命]]が発生すると、中央ラーダはこれを認めず[[ウクライナ人民共和国]]の成立を宣言した。これ以降、ウクライナの併合を図るソビエト政府と自治を守ろうとする中央ラーダとの間に激しい戦争が開始されることとなった。
 
ボリシェヴィキは、中央ラーダを傀儡化するため議会をボリシェヴィキ派で乗っ取ることを企図し党員を送り込んだが、当時ウクライナでは急進的で暴力的な都市政党であるボリシェヴィキは人気がなく、その議席は1割に満たなかった。ボリシェヴィキの支持層は都市の[[労働者]]が中心であり、またボリシェヴィキはロシアからの外来者という形でウクライナに現れたということも、多くが[[農民]]であった[[ウクライナ人]]の支持を失う要因となった。当時、ウクライナの都市と農村の隔たりはほとんど外国であるといってよいほど大きなものであった。また、ボリシェヴィキが農民を「農民問題」として敵視・蔑視していたことや、[[ロシア人]]が伝統的にウクライナ人を軽んじてきたこともウクライナ人をしてロシアからの外来者ボリシェヴィキを嫌わせる原因となった。
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=== 赤軍の勝利 ===
[[ファイル: Europe location UkrSSR 1922.png|thumb|1922年におけるウクライナの領土<br/>※[[クリミア半島]]は[[クリミア自治ソビエト社会主義共和国]]として、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシアSFSR]]の領域とされた。]]
1919年6月には、[[クリミア・ソビエト社会主義共和国]]が、9月には[[オデッサ]]を首都とする[[ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国]]がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に統合された。また、[[1920年]]9月には[[リヴィウ|リヴォフ]]を首都とする[[ガリツィア・ソビエト社会主義共和国]]も統合された。これらの領土は、すぐにウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ譲渡された。
 
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=== 農業集団化 ===
[[ファイル:GolodomorKharkiv.jpg|thumb|230px|ウクライナ大飢饉([[ホロドモール]])により餓死した市民の遺体]]
しかしながら、[[1927年]]に[[ヨシフ・スターリン]]が実権を握ると、この状況は一転することとなった。スターリンは農民を革命の克服すべき対象として捉えており、農民国家でかつ民族主義の強いウクライナに対して大いなる疑念を抱いていた。加えて、スターリンの採った「[[一国社会主義]]」の立場から、強引な近代化と工業化が進められた。特に「[[五カ年計画]]」で推し進められた農業の集団化は、ウクライナに深刻な事態を齎す(もたらすこととなった。
 
[[1928年]]から[[1932年]]にかけて行われた[[第一次五カ年計画]]では、ウクライナは重点地域となっていた。ウクライナでは急速な工業化が行われ、[[ドンバス]]など東ウクライナから中部ウクライナにかけてその発展は目覚しかった。工業化の結果、それまで主として農村に生活していたウクライナ人の都市部への移住が発生した。都市におけるウクライナ人人口は、[[1926年]]に6パーセントであったものが[[1939年]]には30パーセントとなっていた。
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戦後、ウクライナは目覚しい復興を果たし、かつての繁栄を取り戻した。天然資源関係以外のほぼすべての産業がウクライナで発展し、ウクライナは再びロシアの繁栄に欠くべからざるものとなっていった。なおウクライナは[[国際連合]]創設に携わり、ソ連とは別の[[ソビエト連邦構成共和国]]として、[[国際連合総会|国連総会]]に議席を持っていた。このような措置はソ連構成国では、他に[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]]があるのみだった。
 
[[1954年]]1月18日には、ロシアとウクライナが対ポーランド協力を取り決めた[[ペラヤースラウ会議 (1654年)|ペレヤスラフ協定]]締結の300周年記念として、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から[[クリミア半島]]がウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ譲渡された。しかしこれが後の[[2014年クリミア危機]]の原因となる。
 
[[1986年]]には、領内の[[チェルノブイリ原発]]で[[チェルノブイリ原子力発電所事故|大規模な事故]]が発生し、ウクライナソビエト領内外にまで放射線が飛び現在も影響は続いている。
 
[[1991年]]にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が主権宣言を行うと、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は[[8月24日]]、国家の独立を宣言した。これに伴い、[[ウクライナ共産党]]は解散し、国号も「[[ウクライナ共和国 (1991年-1996年)|ウクライナ共和国]]」を経て、[[ウクライナ]]に改められた。
 
== 宗教 ==
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の時代には、多くの教会やシナゴーグが破壊された<ref>''The Rise of Russia and the Fall of the Soviet Empire'', John B. Dunlop, p. 140.</ref>。
 
== 都市化 ==
[[File:Mykolayiv, Namyv.jpg|thumb|[[ムィコラーイウ]]のようなMicrodistrictが、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の各都市で見られるようになった。]]
 
スターリン後のウクライナの都市化は急速に進んだ。1959年には人口10万人以上の都市は25しかなかったが、1979年には49にまで増えた。この間、人口100万人以上の都市は1つから5つに増え、[[キーウ]]に関しては1959年の110万人から1979年には210万人とほぼ倍増した。これはウクライナ社会の転機となった。ウクライナの歴史上初めて、ウクライナ人の大半が都市部に住み、1979年にはウクライナ人人口の53%が都市部に住んでいたのである。大多数は非農業部門で働いており、1970年には31%のウクライナ人が農業に従事していたが、対照的に63%のウクライナ人は工業労働者とホワイトカラーであった。1959年にはウクライナ人の37%が都市部に住んでいたが、1989年には60%に増えている{{sfn|Magocsi|1996|p=713}}。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
{{ウクライナの歴史}}
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{{ソビエト連邦構成自治共和国}}
{{Normdaten}}
 
{{デフォルトソート:うくらいなそひえとしやかいしゆききようわこく}}
[[Category:ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|*]]
[[Category:過去の国際連合加盟国]]
[[Category:1919年に成立した国家・領域]]
[[Category:1991年に消滅した国家・領域]]