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[[File:Shugaku-in Imperial Villa - Upper Garden pond.JPG|300px|thumb|隣雲亭から浴竜池を臨む]]
'''修学院離宮'''(しゅがくいんりきゅう)は、[[京都市]][[左京区]][[修学院 (京都市の地名)|修学院]]の[[比叡山]]麓にある皇室関連施設。[[17世紀]]中頃([[1653年]]([[承応]]2年) - [[1655年]](承応4年))に[[後水尾天皇|後水尾上皇]]の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。[[桂離宮]]・[[仙洞御所]]とならび、王朝文化の[[美学|美意識]]の到達点を示すものとなっている。[[宮内庁]][[宮内庁京都事務所|京都事務所]]が管理している。▼
[[File:Shugaku-in Imperial Villa Aerial Photograph.jpg|thumb|270px|修学院離宮付近の空中写真。(1982年撮影)画像中央上部に見える池が浴龍池。{{国土航空写真}}]]▼
[[File:Shugakuin Imperial Villa Nishihama.JPG|thumb|270px|浴竜池の西浜]]▼
▲'''修学院離宮'''(しゅがくいんりきゅう)は[[京都市]][[左京区]][[修学院 (京都市の地名)|修学院]]の[[比叡山]]麓にある皇室関連施設。[[17世紀]]中頃([[1653年]]([[承応]]2年) - [[1655年]](承応4年))に[[後水尾天皇|後水尾上皇]]の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。[[桂離宮]]・[[仙洞御所]]とならび、王朝文化の[[美学|美意識]]の到達点を示すものとなっている。[[宮内庁]]京都事務所が管理している。
==概要==
▲[[File:
▲[[File:Shugakuin Imperial Villa Nishihama.JPG|thumb|270px|浴竜池の西浜]]
修学院離宮は'''上御茶屋'''(かみのおちゃや)、'''中御茶屋'''(なかのおちゃや)、'''下御茶屋'''(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ。
各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、[[1655年]]([[明暦]]元年)から[[1659年]]([[万治]]2年)にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。
上・下御茶屋は[[1884年]]([[明治]]17年)、[[宮内省]]の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、[[1885年]](明治18年)に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、[[京都御所]]、[[桂離宮]]などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。見学には、事前に宮内庁京都事務所に、郵送・直接申請あるいはインターネットを通じて申し込んで許可を得る必要がある。また18歳未満の者の見学は不可で
なお、修学院離宮の「修学院」は離宮の名称でなく、離宮の所在する地名の旧称、すなわち([[山城国]][[愛宕郡]])[[修学院村]](現在の京都市左京区[[修学院 (京都市の地名)|修学院]]などを含む)を意味し、その名はかつてこの近隣に所在していた寺院に由来するものである。
==庭園と建物==
[[File:Shugakuin Naka no Ochaya.jpg|thumb|180px|<center>中御茶屋・客殿の内部(縁座敷)奥の杉戸絵は祇園祭の岩戸山と放下鉾を描いたもの</center>]]▼
敷地は上・中・下の御茶屋のほか、周囲の山林や水田も含めて54万5千平方メートルに及ぶ。上・中・下の御茶屋の間に広がる、実際に耕作されている水田をも風景に取り入れている。この水田は昭和39年(1964年)に宮内庁が買い上げ、地元農家と契約を結んで耕作させている。上・中・下の御茶屋の間を結ぶ松並木の道は、もとはあぜ道であったが、明治18年(1885年)の中御茶屋併合後、明治天皇の行幸に備えて拡幅整備し、松を植栽したものである。<ref>(京都新聞、2004)、pp.131, 164</ref>
===下御茶屋===
池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった寿月観が建つ。門などの付属建物を除くと、下御茶屋に残る建物は寿月観のみである(寿月観も当初の建物ではない)。かつてはこのほかに茶屋の「蔵六庵」と2階建て楼建築の「彎曲閣」があったが失われた。丸太の門柱に竹を並べた簡素な表総門を入り、左(北)方向に進むと右手石段上に御幸門がある。御幸門を入り右折すると中門があり、池を掘った土を盛り上げた高みに寿月観がある。庭園裏手には東裏門があり、これを出ると、道は右の中御茶屋方面と左の上御茶屋方面に分かれる。<ref name="#1">(渡辺、2010)、p.118</ref><ref>(京都新聞、2004)、pp.132, 136</ref>
'''寿月観''' - 後水尾院行幸時の御座所となった建物。当初の建物は岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものであったが、享保年間(18世紀前半)に失われ、文政7年(1824年)に再建された。文政の再建は、徳川家斉が光格上皇のために離宮の改修を行った際のものである。東側に「一の間」、その西に「二の間」、その南に「三の間」が鉤の手に連なり、三の間の西には5畳の茶室がある。二の間の北には4畳半、その北には10畳半の「玄関の間」が突出し、建物の北西端に式台玄関(御輿寄)がある。屋根は杮葺で、一の間側が寄棟造、三の間側の南妻は入母屋造とする。一の間の東・南面から二の間・三の間の東面にかけて板縁を設け
===中御茶屋===
[[File:Shugakuin-Kiakuden-03-2G-2C.jpg|thumb|200px|中御茶屋・客殿の霞棚]]
▲[[File:Shugakuin Naka no Ochaya.jpg|thumb|180px|<center>中御茶屋・客殿の内部(縁座敷)奥の杉戸絵は祇園祭の岩戸山と放下鉾を描いたもの</center>]]
後水尾上皇の第8皇女・[[光子内親王|光子(てるこ)内親王]]のために[[1668年]]([[寛文]]8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である[[梅宮]]が出家して[[円照寺]]という尼寺を構えていたが、上皇の離宮建設の意思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、[[林丘寺]](りんきゅうじ)という寺に改められた。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年(寛文8年)頃の造営である。[[書院造]]の'''客殿'''は、[[1677年]]([[延宝]]5年)造営された[[東福門院]](後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、[[桂離宮]]の桂棚、[[醍醐寺]][[三宝院]]の醍醐棚とともに「[[天下三棚]]」の一として知られる。他に表門、中門、瓦葺の総門(もと林丘寺の総門であった)がある。<ref>(渡辺、2010)、pp.119 - 120</ref><ref>(京都新聞、2004)、p.166</ref>
'''楽只軒''' - 瓦葺、杮庇の建物。軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。ほぼ正方形平面で、南面と東面に板縁を設ける。主たる部屋は東側の「一の間」とその西、建物中心部に位置する二の間
'''客殿''' - 楽只軒の南東
===上御茶屋===
[[Image:Shugakuin Imperial Villa.jpg|thumb|250px|浴竜池]]▼
巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした壮大な庭園である。杮葺の御成門を入ると、右は山道、左は池畔の道となる。一般参観者の順路は前者をとる。浴竜池は谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及び4段の石垣で補強されているが、武骨な石垣が見えないよう、3段の生垣と[[大刈込]]で覆っている。大刈込とは、異なる種類の樹木を混ぜ植えたものを刈込んで、全体の形を整えたものである。御幸門から石段を上った離宮内の最高所に隣雲亭が建つ。ここまで登ると、急に展望が開け、眼下に浴龍池、遠方に借景の山々を望む壮大な風景が広がる。<ref>(京都新聞、2004)、pp.192, 194</ref>
浴竜池には中央の中島(窮邃亭)のほか、2つの島があり、北側の島は三保島、南側の島は万松塢(ばんしょうう)という。中島には東岸から楓橋、北岸から土橋が架かる。楓橋は欄干付の木橋。土橋は上に土を盛った木橋である。中島と万松塢の間には後述の千歳橋が架かる。<ref>(京都新聞、2004)、pp.210 - 216</ref>
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上御茶屋の主要建物は隣雲亭と窮邃亭の2棟である。他に池の北岸に止々斎という建物があったが、宝永6年(1709年)に仙洞御所に移築され、天明の大火(1788年)で仙洞御所が焼失した際に失われてしまった。<ref>(京都新聞、2004)、p.188</ref>
'''隣雲亭''' - 海抜150メートル、浴竜池との標高差10メートルのところに建つ。当初の建物は延宝5年(1677年)に焼失し、現存する建物は文政7年(1824年)の再建である。なお、霊元法皇が享保6年(1721年)修学院離宮を訪問した際に隣雲亭を訪れたという記録があり、延宝の焼失後、いったん再建されたものが荒廃したため、文政年間に建て直したとみられる<ref>(岡田、1989)、p.216</ref>。池を眺望するための簡素な建物で、床(とこ)、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられる程度である。建具は間仕切り、外回りとも明障子とする。主室の「一の間
'''窮邃亭''' -
'''千歳橋''' - 中島と万松塢の間に架かる。特色ある外観をもった屋形橋であるが、当初から離宮にあったものではない。切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けたもので、宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立つ。[[文政]]7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものである。<ref>(渡辺、2010)、p.124</ref><ref>(京都新聞、2004)、pp.216 - 219</ref>
== ギャラリー ==
<gallery widths="200px" heights="150px">
File:Shugakuin villa (5835045504).jpg|土橋(上御茶屋)
File:Shugakuin villa (5835050370).jpg|袖形燈籠(下御茶屋)
File:Shugakuin villa (5835042706).jpg|窮邃亭内部
File:Shugakuin villa (5835041898).jpg|楓橋(上御茶屋)
</gallery>
<gallery>
Image:Shugaku-in Imperial Villa - allee.JPG|御茶屋間を結ぶ松並木と田園の借景
▲Image:Shugakuin Imperial Villa.jpg|浴竜池
Image:Shugaku-in Imperial Villa - Upper Garden waterfall.JPG|上御茶屋雄滝
Image:Shugaku-in Imperial Villa - Middle Garden.JPG|中御茶屋庭園
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== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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* 京都新聞出版センター編・刊『桂離宮 修学院離宮』、2004
* 『京の離宮と御所』(JTBキャンブックス)、JTB日本交通公社出版事業局、1995
* 岡田孝男『京の茶室 千家・宮廷編』、学芸出版社、1989
==関連項目==
*[[後水尾天皇|後水尾上皇]]
*[[鷺森神社#歴史|鷺森神社]]
==外部リンク==
{{commonscat|Shugaku-in Imperial Villa}}
*[
{{Coord|35.0537|N|135.80174|E|type:landmark_region:JP|format=dms|display=title}}
{{天皇項目}}
{{Japan-culture-stub}}
{{Architecture-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆかくいんりきゆう}}
[[Category:左京
[[Category:修学院]]
[[Category:京都にある日本庭園]]
[[Category:江戸時代の庭園]]
[[Category:茶道]]
[[Category:皇室の施設]]
[[Category:日本の宮殿]]
[[Category:後水尾天皇]]
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