「海上保安庁の歴史」の版間の差分

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1950年6月に[[朝鮮戦争]]が勃発すると日本国内の治安の確保が重要になり、7月8日に「警察力増強に関するマッカーサー書簡」が発せられたが、これには[[警察予備隊]]の創設とともに海上保安庁の増強も盛り込まれていた{{Sfn|海上保安庁総務部政務課|1961|pp=10-16}}。従来の海上保安庁法には、上記の制限に従って職員総数と船舶隻数、その全トン数の制限規定が盛り込まれていたが、10月23日、マッカーサー書簡に基づいて「海上保安庁法等の一部を改正する政令」(政令318)が制定されて、職員総数は18,000名、船舶の隻数は200隻、また合計トン数は8万排水トンへと緩和された{{Sfn|海上幕僚監部防衛部|1961|pp=16-18}}。また強化策の一環として、[[海上保安大学校]]、[[海上保安学校]]および海上保安訓練所が設置された{{Sfn|海上幕僚監部防衛部|1961|pp=16-18}}。
 
また1950年10月には、極東海軍司令部参謀副長(DCSTFE)[[アーレイ・バーク]]少将より、[[ソ連海軍]]から返却されたあと[[横須賀港]]に係留されている[[タコマ級フリゲート]](PF)を海上保安庁に提供してもよいとの申し出があった{{Sfn|大久保|1978|pp=205-210}}。ただし[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン大統領]]は、これを用いて海上保安庁にアメリカ沿岸警備隊と同様の軍事的性格を付与することを構想していたのに対して、[[アメリカ極東軍|アメリカ極東海軍]]はこれを海軍そのものを再建するための礎と捉えており、[[野村吉三郎]]元海軍大将など海軍再建を志向する旧海軍軍人とともに、その方向で動き出していた{{Sfn|柴山|2010|pp=530-537}}。
 
[[日本国との平和条約|平和条約]]の発効直前の1952年4月26日、これらの[[軍艦]]を運用するため、海上保安庁の附属機関として[[海上警備隊]]が設置された{{Sfn|海上保安庁総務部政務課|1961|pp=10-16}}。これは海上保安庁の在来の勢力とは異なり、平時においてはひたすら訓練を重ね、海上における人命もしくは財産の保護または治安の維持のため緊急の必要がある場合に満を持して出動するための部隊であり、[[機動隊|機動]]的[[警視庁予備隊|予備隊]]のような性格をもつものと位置付けられた{{Sfn|海上保安庁総務部政務課|1961|pp=10-16}}。またこの際の海上保安庁法の一部改正により海上保安庁の規模についての制限が撤廃されるとともに、[[航空機]]の保有についても規定が置かれた{{Sfn|海上保安庁総務部政務課|1961|pp=10-16}}。
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*; [[1999年]](平成11年)
: [[3月23日]]:[[能登半島]]沖の日本領海内に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のものとみられる[[不審船]]が侵入する事件が発生。巡視船に[[特殊警備隊]]の隊員も乗船して追跡を行ったが、船速の違いから追跡を断念、[[海上自衛隊]]に追跡任務を引き継ぐ。([[能登半島沖不審船事件]])
: [[8月30日]]:[[東ティモール]]で[[インドネシア]]からの独立を問う[[住民投票]]が行われる。住民投票後の暴動に備え、邦人保護の名目でヘリコプター2機搭載型の巡視船「[[みずほ (巡視船・初代)|みずほ]]」をディリ沖に派遣。特殊警備隊SSTが上陸し、残留邦人を警護しながら「みずほ」に避難させたとされているが{{Sfn|小峯|坂本|2005|pp=147-151}}、海上保安庁は本件に関して公式には発表していない{{Sfn|菊池|2008|p=130}}
*; [[2000年]](平成12年)
: [[5月1日]]:[[緊急通報用電話番号]]「[[118番]]」運用開始。