「ミハイ1世 (ルーマニア王)」の版間の差分

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|全名 ={{Lang|ro|Mihai}}<br/>ミハイ
|出生日 =[[1921年]][[10月25日]]
|生地 ={{ROM1881}}<br/>[[シナヤ]]<br/>[[ペレシュ城]]
|死亡日 ={{死亡年月日と没年齢|1921|10|25|2017|12|5}}
|没地 ={{SWI}}<br/>{{仮リンク|オボンヌ|en|Aubonne}}
|埋葬日 =[[2017年]][[12月16日]]
|埋葬地 ={{ROM}}<br/>[[クルテア・デ・アルジェシュ]]
|継承者 =
|継承形式 =
|配偶者1 =[[アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム|アナ・デ・ブルボン=パルマ]]
|子女 =[[マルガレータ・ドゥダア・ロムニエイ|マルガレータ]]<br/>{{仮リンク|エレナ・メドフォース=ミルズ|label=エレナ|en|Princess Elena of Romania}}<br/>{{仮リンク|イリナ・ウォーカー|label=イリナ|en|Princess Irina of Romania}}<br/>{{仮リンク|ソフィア (ルーマニア王女)|label=ソフィア|ro|Sofia, Principesă a României}}<br/>{{仮リンク|マリア (ルーマニア王女)|label=マリア|ro|Maria, Principesă a României}}
|王家 ={{仮リンク|ロムニエイ家|en|Romanian royal family}}
|王朝 =ロムニエイ家(2011年までは[[ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家]])
|王室歌 ={{仮リンク|[[国王万歳 (ルーマニア王国の国歌)|label=国王万歳|ro|Imnul Regal}}]]
|父親 =[[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]]
|母親 =[[エレナ・ア・ロムニエイ|エレナ・デ・グレチア・シ・ダネマルカ]]
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=== 退位と亡命生活 ===
[[File:Actul de Abdicare Mihai I.png|right|thumb|200px|ミハイ1世の退位文書]]
[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]が劣勢にまわるとともにアントネスク政権も動揺した。1944年8月23日、ミハイは国防大臣の[[コンスタンチン・サナテスク]]らと謀りクーデタ(いわゆる[[ルーマニア革命 (1944年)|ルーマニア革命]])を起こしてアントネスクを追放し、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側につくことを宣言した。しかしソ連軍による占領を免れることはできず、ルーマニア軍兵士13万人が捕虜としてソ連に送られその多くが消息を絶つなどした。ミハイは親共産党政府の任命を強要されたため、政府から裁可を求められた文書への署名を拒否する「国王のストライキ」で対抗したが、ソ連に加えて米英も政府に従うことを要求したため、政府への非協力を断念した。
 
[[1947年]][[12月30日]]、親共産党の陸軍部隊による包囲のなか、ミハイは事前に用意されていた退位文書に署名し、亡命に追い込まれた。電話回線を切られ、ミハイは国王に忠実な部隊を呼び出すことができなかった。当時のルーマニアではソ連軍の駐留に反対する市民運動が激化して逮捕者が続出しており、一説によれば、ミハイに対しソ連駐留軍の[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]司令官が「退位して国外に去らなければ、逮捕者を処刑する」と脅迫したため、やむなく退位したとも伝えられる<ref name="惠谷3-2">{{Cite news|url=http://www.sukuukai.jp/resuponse/item_1104.html|title=ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった|agency=救う会 全国協議会|date=2017-12-08|accessdate=2017-12-13|archiveurl=https://archive.ph/5uijI|archivedate=2019-12-13}}</ref>{{sfn|惠谷|p=2}}。
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ルーマニア共和国政府との関係はおおむね良好で、大統領や首相から公式に「[[陛下]]」の敬称で呼ばれるなど、国家からの生活保障も相まってルーマニアは君主制と共和制の折衷のような状況となった。
 
90歳の誕生日となる2011年10月25日、退位後初めてルーマニア議会での演説を行った。「国家としての誇りの回復」と「民主主義の強化」を呼び掛け、多くの議員からスタンディングオベーションを受けたが、[[トラヤン・バセスク]]大統領は記念式典を欠席した<ref>[{{cite news|url=http://nna.jp/free_eu/news/20111026rol603A.html |title=元ルーマニア国王ミハイ1世、初の議会演説[社会]」(『|publisher=NNA.EU』、 |date=2011-10-26日)]}}</ref>。またこの年の5月10日には、王家はルーマニアを意味するロムニエイ(a României)を称するようになっている。
 
国民統合の象徴として広く親しまれた。2012年1月の世論調査では、過去のルーマニア政治指導者のなかで最も信頼できる公人として選出された<ref>[{{cite web|url=http://www.nineoclock.ro/romanians-have-the-highest-confidence-in-king-mihai-i |title=Romanians Have the Highest Confidence in King Mihai I]. Retrieved|publisher= |language= |accessdate=31 July 2012. }}</ref>。2013年7月における調査では、対象となったルーマニア人の56%が、ミハイ1世に対して「良い」もしくは「非常に良い」感情を持っていると答えた<ref>[{{cite web|url=http://www.ziare.com/alegeri/sondaj/41-la-suta-dintre-romani-ar-vota-pentru-mentinerea-republicii-27-2-la-suta-ar-alege-monarhia-inscop-1248839 |title=41% dintre romani ar vota pentru mentinerea republicii, 27,2% ar alege monarhia |publisher= INSCOP]. Retrieved|language= |accessdate= 2 August 2013. }}</ref>。
 
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== 家族 ==
[[File:King Michael I and Queen Anne of Romania.jpg|thumb|right|200px|[[アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム]]との結婚式(1948年)]]
1947年に、イギリス王女エリザベス(のちの[[エリザベス2世]]女王)と[[エディンバラ公]][[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]との結婚式で、[[ブルボン=パルマ家]]の[[アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム|アンヌ・アントワネット]](1923-2016)と出会い、翌[[1948年]]に結婚し、5女を儲けた。
# [[マルガレータ・ドゥダ|マルガレータ]]([[1949年]] - )
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[[Category:第二次世界大戦期のルーマニアの軍人]]
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