「東洋紡績富田工場」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎第3紡績工場(3B): Wikipedia:表記ガイド#略記号に従って全角組文字1文字の「㎝」を半角2文字の「cm」に修正
(28人の利用者による、間の48版が非表示)
1行目:
'''東洋紡績富田工場'''(とうようぼうせきとみだこうじょう)は、[[三重県]][[四日市市]]富州原町(旧[[三重郡]][[富洲原町]]の[[大字]][[松原]]([[小字]]塩役)西元町自治会・四日市市(旧|原町)の松原地区宮町自治会)]]に存在した[[東洋紡#社史|東洋紡績]][[株式会社]](現:[[東洋紡]])の最大規模の工場。社宅地の住民が富洲原地区[[松原地区 (四日市市)|松原宮町自治会]]を構成して、四日市市富州原町の元町社宅・四日市市松原町の宮町社宅・社員寮及び富田工場の用地は商業施設の[[イオンモール四日市北]]や住宅地(小規模住宅団地)新栄町自治会に所属する松原町地域の[[寿司屋]]及び[[漫画喫茶]]店と[[不動産会社]]や[[歯医者]][[病院]]施設・サニーハイツ自治会を構成する[[マンション]]として開発された。公共施設([[三重県警察]]の[[四日市北警察署]]その後[[百五銀行]]富田支店・[[四日市松原郵便局]]・[[創価学会]]の四日市北文化会館)として転売された。
==歴史==
[[1914年]](大正3年)に、[[三重県]][[四日市市]]発祥の四日市の実業家の[[伊藤伝七 (10代目)|十代目伊藤伝七]]創設の三重紡績と大阪紡績が対等合併して東洋紡績株式会社が誕生した。[[昭和]]期に、東洋紡績は、対等合併や吸収合併を繰り返し、66工場と100個の関連会社を持つ大企業に発展した。
 
== 歴史 ==
東洋紡績富田工場は富洲原の地方政治家の伊藤平治郎が誘致した工場である。[[塩役運河]]と呼ばれた堀川の西の堤防に囲まれた土地が富州原に広がっていて、この区域は大字松原小字塩役と呼ばれていて、塩水が混じるので不良田が多くて、芦原になっている場所であった。農業には不向きだが、海上交通は便利で工場建設に有利な条件を備えており、工場立地には最適地であった。[[1918年]](大正7年)に紡績設備第一工場などが三重郡富洲原町大字松原小字塩役の約20万㎡の敷地に建設された。三重郡富洲原町の[[二代目平田佐次郎]]・片岡徳松・[[加藤正家]](三重郡富洲原村長)・田村与三吉(三重郡富洲原村の[[助役]])・[[伊藤平治郎]](三重郡[[富洲原町]]会議員)などの政治家が東洋紡績富田工場敷地となった大字塩役の土地買収に尽力した。同じ三重郡[[富洲原町]](四日市市富洲原地区)の天ヶ須賀地区には[[平田紡績]]製網工場(東洋紡績富田工場と平田紡績四日市本社工場は富洲原地区の2大企業で富洲原2大紡績工場であった)があり、近隣の三重郡富田町(四日市市富田地区)には[[網勘製網]]が立地していた。<ref>四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌の147ページの項目</ref>紡績事業と[[ミシン]][[糸]]中心の繊維製品の製造がされた。
東洋紡績富田工場の建設の陰には[[伊藤平治郎]]の努力があった。[[1912年]]([[明治]]45年)の[[大正時代]]以前は三重郡富洲原村の主要産業は[[漁業]]と[[農業]]であった。漁業は不安定であり、農業も耕地が狭い上に塩分が混じる不良田があり、生産は行きつまりの状態であった。工業は漁網を生産する平田製網とタオルを生産する伊藤平治郎が経営する会社の三重浴布があるにすぎず、富洲原村内の子女を養うには不十分であった。伊藤平治郎は富洲原に大工場を誘致して、東洋紡績で最大規模の工場だった東洋紡績富田工場から得られる収入で富洲原発展に結び付けようと思考した。富洲原には、[[塩役運河]]と呼ばれた堀川の西の堤防に囲まれた土地が広がっていた。この土地は大字松原の一部で小字名も塩役と呼ばれていて、塩水が混じるので不良田が多くて、芦原になっているところであった。それゆえ農業には不向きだが、海上交通は有利な条件を備えており、松原地区に新しい工場を誘致しようとした。伊藤平治郎は誘致工場に富洲原に近い大企業の三重紡績の(その後の東洋紡績株式会社)を選び、経営者の10代目伊藤伝七と交渉して、平田製網の経営者で富洲原の大地主の2代目平田佐次郎の協力を得てひそかに工場用地を買収をすすめた。ところが米価の高騰が地価上昇となり、地主が土地売却を売り惜しんだこと、計画途中で社宅買収が必要となり、秘密買収が伊藤平治郎の私欲である噂が広まり交渉が進まなかった。
以下の富洲原の政治家の2代目平田佐次郎と片岡徳松と[[1914年加藤正家]](三重郡富洲原村長)と田村与三吉(三重郡富洲原村の助役)など富洲原町の有力政治家の援助もあった富洲原村民の理解も進み、1915年(大正4年)に、ついに東洋紡績富田工場の建設工事が始まった。1914年(大正3年)に、[[三重県]][[四日市市]]発祥の四日市の実業家の[[伊藤伝七 (10代目)|十代目伊藤伝七]]創設の三重紡績と大阪紡績が対等合併して東洋紡績株式会社が誕生した。[[昭和]]期に、東洋紡績は、対等合併や吸収合併を繰り返し、66工場と100個の関連会社を持つ大企業に発展した。
 
東洋紡績富田工場は富洲原の地方政治家の伊藤平治郎が誘致した工場である。[[塩役運河]]と呼ばれた堀川の西の堤防に囲まれた土地が富州原に広がっていて、この区域は大字松原小字塩役と呼ばれていて、塩水が混じるので不良田が多くて、芦原になっている場所であった。農業には不向きだが、海上交通は便利で工場建設に有利な条件を備えており、工場立地には最適地であった。富洲原町の人口は四日市市史や富洲原地区の郷土史料の人口統計では、三重郡富洲原町の人口は大正時代初期には富田町と同数レベルだったが、大正時代に富洲原町は約6000人増加して、富田町は1700人の増加であったので[[富洲原町]]のほうが4000人多くて経済的に差をつけた。[[1921年]](大正10年)には1万人を突破した。
==建物==
1941年(昭和16年)の四日市市に合併する直前の人口統計は合計約1万6000人で、その内男女比は男性人口が約6000人対<女性が約10000人(1万人)の割合で、性比が60%で女性比率が日本一多い市町村であった。昭和13年調査の東洋紡績富田工場の従業員が合計3652人であり(綿糸・綿布・紡績工場であり、男性従業員が246人で若い女性労働者が3406人)と昭和13年調査の平田紡績の従業員が2544人であり(製網・綿糸・綿布工場であり、男性従業員が381人で若い女性労働者が2163人) や三重織布工場の従業員が211人で(タオル工場・別珍製織工場であり、男性従業員が18人で若い女性労働者が196人)や平田浴布の従業員が30人で(タオル製織工場であり、男性従業員が2人で若い女性労働者が28人)などの若い女性労働者の流入が理由であった。
東洋紡績富田工場の紡績工場の建物の大部分は昭和初期までに建設された。社員が居住する松原地区の宮町自治会を構成する東洋紡績社宅が建設された。[[1944年]]([[昭和]]19年)[[12月7日]]の[[東南海地震]]で紡績第一工場の一部が破損した。
イオンモール四日市北の商業用地となり紡績工場は取り壊された。東洋紡績富田工場だった広大な松原地区所属の四日市市富州原町の空き地は[[1919年]]([[大正]]8年)建設の原綿倉庫だけ文化財として保存された。[[文化財]]の原綿倉庫は5棟が連続に続いて並んでいて、5棟の倉庫には東側から順番に[[アラビア数字]]で番号が書いてあった。<ref>http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuji/toyoboseki.html</ref>
 
東洋紡績富田工場は富洲原の地方政治家の若い女性人口が多かったため伊藤平治郎が誘致した工場である。[[塩役運河]]と呼ばれた堀川の西の堤防は女子教育囲ま力を入た土地がて、三重郡広がっていて、この区域は大字松三重県富洲小字塩役と呼ばれていて、塩水が混じる町立実科高等女学校(戦後に現在で不良田が多くて、芦原三重県立四日市高等学校なっている場所であっ統合され。農業には不向きだが、海上交通は便利で工場建設に有利な条件備えており、工場立地には最適地であっ開校をした。[[1918年]](大正7年)に紡績設備第一工場などが三重郡富洲原町大字松原小字塩役の約20万m{{sup|2}}の敷地に建設された。三重郡富洲原町の[[二代目平田佐次郎]]・片岡徳松・[[加藤正家]](三重郡富洲原村長)・田村与三吉(三重郡富洲原村の[[助役]])・[[伊藤平治郎]](三重郡[[富洲原町]]会議員)などの政治家が東洋紡績富田工場敷地となった大字塩役の土地買収に尽力した。同じ三重郡[[富洲原町]](四日市市富洲原地区)の天ヶ須賀地区には[[平田紡績]]製網工場(東洋紡績富田工場と平田紡績四日市本社工場は富洲原地区の2大企業で富洲原2大紡績工場であった)があり、繊維産業都市富洲原町の産業革命を推進した。近隣の三重郡富田町(四日市市富田地区)には[[網勘製網]]が立地していた<ref>四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌の147ページの項目</ref>紡績事業と[[ミシン]][[糸]]中心の繊維製品の製造がされた。平成初期の[[1990年代]]に外国人女性労働者を受け入れた。紡績工場の見学が可能だった。
東洋紡績富田工場は、[[1918年]](大正7年)に完成した第1工場・第2工場・第3工場をはじめ、[[1934年]](昭和9年)までにミシン糸工場、原綿倉庫、ガス焼室、事務所、教育をする学院施設、講堂棟、松原元町社宅、松原宮町社宅、松原町社宅(東松武町自治会所属の社宅)、男子寮、女子寮などが建設された。広大な面積の松原宮町に20万㎡あった東洋紡績富田工場と社宅の松原宮町自治会の敷地は、東洋紡績の紡績工場施設のなかでも最大規模であった。
 
== 建物 ==
[[21世紀]]になり原綿倉庫のみしか富田工場だった建築物が残っていない。原綿倉庫の建物は改装されて、JUSCO四日市北店フードスタジアムと云う名称のレストラン館として活用された。壁の面を補強する控え壁が縦に伸びた倉庫の間には、重厚な扉と扉の上部には通気口が設けられた 。ショッピングセンターの[[イオンモール四日市北]]の一角として、[[飲食店]]の[[ビュッフェ]][[レストラン]]の[[ひな野]]四日市北店→ [[豆乃畑]]四日市北店やイオンの女性従業員が使用する[[保育所]]の「ちびっこランド四日市と呼ばれるイオン四日市北園保育所」として活用されている。東洋紡績富田工場の敷地は[[四日市岡田家]]の富洲原進出で広大なイオン四日市北ショッピングセンターとして再開発された。原綿倉庫は加工前の精錬されていない綿を保管していた倉庫で、[[1918年]]([[大正]]7年)に建設された。桁行きは約18mで、梁間は約9mの規模で、全体の構造は煉瓦造で平屋建で木造によるトラスの構造である。屋根の構造は切妻造のセメント瓦葺であり、外部の構造は煉瓦造仕上げであり、基礎の構造は煉瓦造布基礎だった。入り口の上部分に換気窓を設置して、内部は煉瓦造であり、側壁を格子組の材で保護した。国の[[登録有形文化財]](建造物)で指定登録日は[[2000年]]([[平成]]12年)[[4月28日]]である。文化財の原綿倉庫の所在地は 四日市市富州原町221-1 で所有者は[[三菱UFJ信託銀行]][[株式会社]]である。5棟一体 で構造は 煉瓦造平屋建・瓦葺である。建築面積は1072㎡である。
[[File:Old Toyo Boseki Tomida Factory 2021-01 ac (1).jpg|thumb|工場の一部が転用されたイオンモール四日市北 レンガ棟]]
[[File:Old Toyo Boseki Tomida Factory 2021-01 ac (3).jpg|thumb|工場の一部が転用されたイオンモール四日市北 レンガ棟]]
東洋紡績富田工場の紡績工場の建物の大部分は昭和初期までに建設された。社員が居住する松原地区の宮町自治会を構成する東洋紡績社宅が建設された。[[1944年]]([[昭和]]19年)[[12)12月7日]]の[[東南海地震]]で紡績第一工場の一部が破損した。
イオンモール四日市北の商業用地となり紡績工場は取り壊された。東洋紡績富田工場だった広大な松原地区所属の四日市市富州原町の空き地は[[1919年]]([[大正]]8年)建設の原綿倉庫だけ文化財として保存された。[[文化財]]の原綿倉庫は5棟が連続に続いて並んでいて、5棟の倉庫には東側から順番に[[アラビア数字]]で番号が書いてあった。<ref>http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuji/toyoboseki.html</ref>
 
東洋紡績富田工場は、[[1918年]](大正7年)に完成した第1工場・第2工場・第3工場をはじめ、[[1934年]](昭和9年)までにミシン糸工場、原綿倉庫、ガス焼室、事務所、教育をする学院施設、講堂棟、松原元町社宅、松原宮町社宅、松原町社宅(東松武町自治会所属の社宅)、男子寮、女子寮などが建設された。広大な面積の松原宮町に20万m{{sup|2}}あった東洋紡績富田工場と社宅の松原宮町自治会の敷地は、東洋紡績の紡績工場施設のなかでも最大規模であった。
 
[[21世紀]]になり原綿倉庫のみしか富田工場だった建築物が残っていない。原綿倉庫の建物は改装されて、JUSCO四日市北店フードスタジアムと云う名称のレストラン館として活用された。壁の面を補強する控え壁が縦に伸びた倉庫の間には、重厚な扉と扉の上部には通気口が設けられた 。ショッピングセンターの[[イオンモール四日市北]]の一角として、[[飲食店]]の[[ビュッフェ]][[レストラン]]の[[ひな野]]四日市北店→ [[豆乃畑]]四日市北店やイオンの女性従業員が使用する[[保育所]]の「ちびっこランド四日市と呼ばれるイオン四日市北園保育所」として活用されている。東洋紡績富田工場の敷地は[[四日市岡田家]]の富洲原進出で広大なイオン四日市北ショッピングセンターとして再開発された。原綿倉庫は加工前の精錬されていない綿を保管していた倉庫で、[[1918年]]([[大正]]7年)に建設された。桁行きは約18mで、梁間は約9mの規模で、全体の構造は煉瓦造で平屋建で木造によるトラスの構造である。屋根の構造は切妻造のセメント瓦葺であり、外部の構造は煉瓦造仕上げであり、基礎の構造は煉瓦造布基礎だった。入口の上部分に換気窓を設置して、内部は煉瓦造であり、側壁を格子組の材で保護した。国の[[登録有形文化財]](建造物)で指定登録日は[[2000年]]([[平成]]12年)[[4)4月28日]]である。文化財の原綿倉庫の所在地は 四日市市富州原町221-1 で所有者は[[三菱UFJ信託銀行]][[株式会社]]である。5棟一体 で構造は 煉瓦造平屋建・瓦葺である。建築面積は1072㎡1072m{{sup|2}}である。
 
==生産体制==
[[1914年]](大正3年)に工場建設用地の[[三重郡]][[富洲原町]]の大字松原小字塩役と松原地区の宮町自治会の社宅地を買収していた。
 
[[1916年]](大正5年)6月に建設工事を開始した。
 
[[1918年]](大正7年)5月に精紡機15000錘を備え付けて操業を開始した。
 
1930年(昭和5年)には精紡機139500錘、撚糸機28160錘で東洋紡績の全工場で最大規模の工場となった。
[[1916年]](大正5年)6月に建設工事を開始した。
 
[[大正時代]]に制定された[[労働法]]の[[条文]]では[[女子]]の[[深夜労働]]が禁止されていた事で紡績工場の設備の[[合理化]]が進んだ。
[[1918年]](大正7年)5月に精紡機15000錘を備え付けて操業を開始した。
 
[[1930製品の高級化も進み、1924]]昭和5大正13年)には精紡瓦斯糸13950060000、撚糸木28160錘で東洋紡績第2工場で最大規模のと第3工場となっに設置した。
 
[[1928年]](昭和3年)には他の紡績会社に存在しない、[[イギリス]]の[[プラット]][[]]製の精綿機12台を設置した。
[[大正時代]]に制定された[[労働法]]の[[条文]]では[[女子]]の[[深夜労働]]が禁止されていた事で紡績工場の設備の[[合理化]]が進んだ。
 
[[戦時中]]が東洋紡績富田工場のピーク時で、従業員と生産量が最大規模となり精紡機械が139568台、撚糸錘が70360台、織気が2224台だった。
製品の高級化も進み、[[1924年]](大正13年)に瓦斯糸機60000錘の第2工場と第3工場に設置した。
 
従業員数は男性従業員が362人いて、女性従業員が2955人で東洋紡績全工場の約8%比率を誇っていた。
[[1928年]](昭和3年)には他の紡績会社に存在しない、[[イギリス]]の[[プラット]][[社]]製の精綿機12台を設置した。
 
[[戦時中]]が東洋紡績富田工場のピーク時で、従業員と生産量が最大規模となり精紡機械が139568台、撚糸錘が70360台、織気が2224台、従業員は男性従業員が362人いて、女性従業員が2955人で東洋紡績全工場の約8%比率を誇っていた。三重県四日市市の中心地域にある東洋紡績四日市工場は[[四日市空襲]]で被災して、三重県[[津市]]の東洋紡績津工場は[[津空襲]]で被災して、三重県[[桑名市]]の東洋紡績桑名工場は[[桑名空襲]]など[[日本本土空襲]]で被災したが東洋紡績富田工場のみ[[戦災]]に無事であった。
 
設備の拡張と合理化や製品の高級化が進み、最新工場として整備された。
35 ⟶ 45行目:
大正末期にガス糸を紡出するようになった。
 
昭和7年度に織布工場が建設されて、[[レース (手芸)|レース]]・[[メリヤス]]が一貫生産されるようになった。
 
ガチャマン景気で繁栄した昭和20年代の東洋紡績富田工場は、<ref>https://web.archive.org/web/20141006130429/http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO004281/20130131-OYT8T01312.html</ref>精紡機は105040錘、より糸機は39200錘、織機は1744台を数えた。2交代で働く東洋紡績富田工場従業員は昭和26年度に4581人となった。<ref>東洋紡績70年史</ref>国鉄関西線富田駅の引き込み線から[[蒸気機関車]]が走り、東洋紡績富田工場南端にある原綿倉庫の[[プラットホーム]]に到着すると、[[四日市港]]で陸揚げされた[[綿糸]][[原料]]の[[エジプト]][[綿]]・[[インド]]綿・[[米国]]綿を入れた麻袋を次々を倉庫に運んだ。<ref>読売新聞平成25年1月31日水曜日北勢版21面</ref>[[国道1号]]線が東洋紡績富田工場の敷地の西隣に立地して、建設された[[大正時代]]から[[戦後]]期は[[日本国有鉄道|国鉄]][[富田駅 (三重県)|富田駅]]が西南方面にあり、東側には[[富洲原港]]に流れる[[塩役運河]]があった。国鉄の引き込み線が西南部の原綿倉庫まで延びており、東洋紡績富田工場と[[四日市港]]とが直接鉄道で結ばれ、原料輸送や製品の輸送が盛んだった。戦後、[[貨物自動車|トラック]]による輸送がさかんになり、[[国鉄の引き込み線]]は[[廃線]]となり撤去された。
 
昭和20年度には70400錘だったが、昭和27年度には105040錘となった。昭和30年度の生産設備は、精紡機105040錘、撚糸機41560錘、自動駒巻機24錘、綾巻機468錘、精練釜4基などとなった。
 
;従業員数の推移は以下である。
46 ⟶ 56行目:
*平成8年度には213人の従業員となっている。
 
原料はエジプト綿80%でが80%だった。その他20%での原料は20%だった。原綿の90%90%は[[四日市港]]より輸入されて、[[神戸港]]・[[大阪港]]より[[輸入]]される原綿は10%10%にすぎなかった。[[呉羽紡績]]を吸収合併した東洋紡績は呉羽紡績が高級化路線より高生産化政策を目標としていたため、昭和43年度より連続自動紡績設備(CAS)方式の実用化に向けて整備された。
 
==工場施設==
*[[東京ドーム]]5個分の250000平方mの敷地には、東洋紡績富田工場と松原地区宮町自治会を構成する広大な社宅地があった。東洋紡績富田工場の敷地には以下の施設があった。
===第1紡績工場(1B)===
#混打綿室(大正8年度に完成した建物)<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)546)54頁</ref>
#鉄筋コンクリート筒
#モーター室(レンガ造り・木造・セメント)
72 ⟶ 82行目:
#前紡室
#保全室
#3精紡室(314019㎡(314019m{{sup|2}}
#仕上げ室
#歯車室(81・42㎡.42m{{sup|2}}
#4部保全室
#木管置き場(344・22㎡.22m{{sup|2}}
#糸蒸室(側壁RC)
*1B工場の面積・2B工場の面積・3B工場の面積の合計面積は2階以上の高さがあり2712060㎡2712060m{{sup|2}}で大正8年度に建設されたレンガ造りである。レンガの大きさは10・5×22・5×6㎝.5cm×22.5cm×6cmの[[イギリス]]積みである。
 
===原綿置き場・ミシン糸配送センター部===
*構造-鉄角柱。
87 ⟶ 98行目:
*床-板張り。
;第1織布工場(昭和7年度建築)
*[[1932年]](昭和7年)6月に織布第1工場を建設して綿布を生産した。[[1934年]](昭和9年)3月にはトリコット機及びプレンコット機1台を設置して、レースやメリヤスの生産を開始した。
;第2織布工場(昭和10年度建築)
*第2織布工場でイギリス製のダブルトリコット機械を設置した。
101 ⟶ 112行目:
#旧ビーム置き場(昭和11年9月)に建設された。
*ミシン糸工場(旧S工場)には以下の施設がある。
#C染色室<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)556)55頁</ref>
#巻加工室
#染色室
110 ⟶ 121行目:
#撚糸室
#包装室
#合糸室(昭和8年度に建設された建物である)面積は411710㎡411710m{{sup|2}}
#ギヤー室(木造・セメント)
#旧1S・2S間通路<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)566)56頁</ref>
*ミシン糸工場は[[1916年]](大正5年)6月に着工された織布工場の建物が起源である。
 
===工場設備===
132 ⟶ 143行目:
*ポンプ室(白菊寮東側)
*空調室・1B仕上げ・2B精紡・3B精紡・2B3B仕上げ・2B3B空調室・ISC空調室・C配電室・C空調室
*ルーツブロワー室<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)576)57頁</ref>
*3B北浄化槽ポンプ室
*アラムベル室
145 ⟶ 156行目:
*物置
*鉄工室
*1B混綿入りボックス
*浄化槽上屋
*用水ポンプ室
*急速ろ過装置室
*計量管理室
 
171 ⟶ 182行目:
*綿糸倉庫・油倉
*自転車置き場
*渡り廊下<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)586)58頁</ref>
*第4第5休憩室
*第1会議室
185 ⟶ 196行目:
*応接室
*高等女学校の西棟の学院校舎
*高等女学校の東棟の講堂(月1回[[映画]]の上映会があった。[[恋愛]]物が多く、[[歌手]]の[[灰田勝彦]]が来場していた。建物は[[山形県]]出身の[[野田新作]]が[[設計]]した)<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)796)79頁</ref>
*スポーツセンター
*売店
198 ⟶ 209行目:
*運動場
*[[テニスコート]]
*[[バレーボール|バレー]]コート
*ガス焼工場
*イオンモール北のレストランとなったレンガ作りの原綿倉庫
220 ⟶ 231行目:
*女子寮図書館
*女子寮寄宿舎(睦月寮)
*女子寮寄宿舎(如月寮)<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)596)59頁</ref>
*女子寮寄宿舎(弥生寮)
*女子寮  木造4棟  鉄筋4棟
*西元町社宅
*シニア寮
*サニーハイツマンションとなった宮町社宅用地と女子社宅付近の設置された女子夜間教育高校
*東洋紡績が保有していた松原野球場と野球場付近の東洋紡績社員の幼稚園(東洋紡富田出身の[[プロ野球]][[選手]]に[[北海道日本ハムファイターズ|セネタース]]・[[北海道日本ハムファイターズ|東急]]・[[広島東洋カープ|広島]]の[[長持栄吉]]がいた)
*松武町付近の広大な東洋紡績の社宅用地が12棟で、鉄筋アパートが3棟54室あった。
*松原町社宅のA社宅
*松原町のB社宅
*松原町のC社宅
*昭和20年代の後半に[[東洋紡|東洋紡績]]富田工場の社宅の住民で構成された宮町自治会が松原の石取祭の祭車を新造した。東洋紡績富田工場の規模と社宅の縮小で人員が減少して東洋紡績は保有していた祭車を売却して、[[天ヶ須賀 (四日市市)|天ヶ須賀地区]](天ヵ須賀第1組。通称天一)に[[祭車]]を売却する。西元町祭車に加盟して統合された後に東洋紡績富田工場と宮町自治会が廃止された。[[1997年]](平成9年)に東洋紡績富田工場が閉鎖された。
 
==年表==
*[[1932年]](昭和7年)  - 織布工場が操業する。
*[[1934年]](昭和9年)  - 特殊製品の([[レース (手芸)|レース]][[メリヤス]])の製造を開始する。
*[[1937年]](昭和12年)  - ミシン糸工場を増設する。
*[[1944年]](昭和19年)  - [[東南海地震]]で被災する。第1紡績工場が倒壊する。
*[[1946年]](昭和21年)6月に、 - [[高松宮宣仁親王]]が松原地区の東洋紡績富田工場を視察する。
*[[1949年]](昭和24年)5月に、 - [[三笠宮崇仁親王]]が松原地区の東洋紡績富田工場を視察する。
*[[1950年]](昭和25年) - [[東洋紡富田硬式野球部|硬式野球部]]が[[第21回都市対抗野球大会]]に出場。([[1955年]](昭和30年)にも出場している。
*[[1951年]](昭和26年)[[11)11月20日]]に、 - [[昭和天皇]]が伊勢行幸の1つとして四日市市内の主要工場と天ヶ須賀地区の[[平田紡績]]工場と共に松原地区の[[東洋紡|東洋紡績]]富田工場を視察する。
*1956年(昭和31年) - 女子バレーボール部が[[第5回全日本都市対抗バレーボール優勝大会]]に出場。
*[[1957年]](昭和32年)特殊製品製造を他工場に移転する。
*[[19591957]](昭和3432年) [[伊勢湾台風]]で被災する。富田 - 特殊製品製造を他工場と松原宮町社宅が2m浸水に移転する。
*1959年(昭和34年) - [[伊勢湾台風]]で被災する。富田工場と松原宮町社宅が2m浸水する。
*昭和40年代に富田工場の工場設備の[[近代化]]と新鋭化が開始される。<ref>東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)706)70頁</ref>
*昭和60年代に東洋紡績桑名工場及び東洋紡績塩浜工場の閉鎖後の生産設備移転で工場生産が増産される。平成9年の東洋紡績富田工場閉鎖で東洋紡績三重工場及び東洋紡績楠工場に生産設備が移転された。
 
==関連項目==
*[[松原地区 (四日市市)|松原地区]](東洋紡績富田工場は四日市市松原地区に立地)
*[[富洲原町]](三重郡富洲原村が誘致した)
*[[平田紡績]](同じ富洲原地区の紡績工場)
*[[アミカン]](旧網勘製網の富田浜工場)
*[[東洋紡績伊勢工場]](同じ[[東洋紡]]績の工場)
*[[東洋紡績楠工場]](同じ東洋紡績の工場)
*[[東亜紡織楠工場]](近隣の四日市市楠地区に立地する紡績工場)
 
==参考文献==
*東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)
*四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌
*ふるさと富田
*四日市市史(第18巻・通史編・近代)
*四日市市史(第5巻・史料編・民俗)
*地区広報「とみすはら」
 
==引用==
*読売新聞北勢版の記事
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
{{デフォルトソート:とうようほうせきとみたこうしよう}}
*東洋紡績株式会社富田工場(四日市市歴史的建造物(近代建築)調査の記録⑥)6)
[[Category:東洋紡]]
*『[[Category:四日市市立富洲原小学校]]創立100周年記念誌』
*ふるさと富田
[[Category:三重県の歴史]]
*四日市市史 第18巻 通史編 近代』[[四日市市]]
*四日市市史 第5巻 史料編 民俗』四日市市
* 地区広報「とみすはら」
 
== 関連項目 ==
* [[東洋紡績伊勢工場]](同じ[[東洋紡]]績の工場)
* [[平田東洋紡績楠工場]](同じ富洲原地区の東洋紡績工場)
* [[東楠工場]](同じ東洋近隣の四日市市楠地区に立地する紡績工場)
 
{{デフォルトソート:とうようほうせきとみたこうしよう}}
[[Category:東洋紡の歴史|とみたこうしよう]]
[[Category:四日市市の歴史|とうようほうせきとみたこうしよう]]
[[Category:富洲原]]
[[Category:日本三重県の工場]]
[[Category:三重県四日市市歴史建築物]]