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'''スフォルツェスコ城'''または'''スフォルツァ城'''{{Efn|Sforza(スフォルツァ)は名詞、sforzesco(スフォルツェスコ)はその形容詞形。<ref>{{Cite book|和書|title=伊和中辞典|edition=第2版|publisher=[[小学館]]|date=1999-03-20|isbn=4-09-515402-0|page=1438}}</ref>}}([[イタリア語]]:{{lang-it|Castello Sforzesco)Sforzesco}})は、[[イタリア]][[ミラノ]]にある[[城塞]]。現在は[[美術館]]としても公開されている。
 
==歴史==
1358年から1370年ごろ、中世イタリア・ミラノの名族[[ヴィスコンティ家]]の[[僭主]][[ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ]]によって<ref>[http://www.icastelli.it/castle-1235247212-castello_sforzesco_di_milano-it.php Page at icastelli.it] {{it icon}}</ref>、近くの市壁門の名前から「 Castello di Porta Giova (もしくは Porta Zubia)」と呼ばれる城として建造命令がなされた<ref name="Tour">{{cite book|title=Guida Milano|publisher=Touring Club Italiano|year=1985|page=436}}</ref>。[[居城]]として子孫たちによって拡張されていったが<ref name="Tour"/>、1447年にミラノで発足した短命政権「{{仮リンク|黄金のアンブロジアーナ共和国|it|Aurea Repubblica Ambrosiana|en|Golden Ambrosian Republic}}」によって破壊された。
 
[[1450年]]に[[ミラノ公国|ミラノ公爵]]の[[フランチェスコ・スフォルツァ]]がヴィスコンティ家の居城を改築して城塞とした。その後、16世紀から17世紀にかけて改装・増築され、ヨーロッパでも有数の規模の城塞となった。1796年この地を征服した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]によって一部の施設が破壊されたが、1891年から1905年にかけて、建築家{{仮リンク|ルカ・ベルトラ|it|Luca Beltrami|en|Luca Beltrami}}らによって修復された。
 
もともとは星型の形状の広大な城郭であったが、現存しているのは元々の面積の1/4程度以下であり、残りの敷地は公園や道路となっている。現在、スフォルツェスコ城の内部は市立博物館(スフォルツェスコ城博物館;Musei ''Musei del Castello Sforzesco)Sforzesco'')となっている。内部には[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の最後の作品「[[ピエタ (ミケランジェロ)#ロンダニーニのピエタ|ロンダニーニのピエタ]]」などが展示されている。また、アッセの間の天井と壁には、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が未完成の壁画を残しているが、後年、塗りつぶされている。この壁画については、2013年現在修復作業が続けられている<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20131118090120/http://sankei.jp.msn.com/world/news/131118/erp13111814460009-n1.htm|title=塗料の下に数百年眠っていたダビンチの絵 波乱の運命、やっと表に|work=MSN産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2013-11-18|accessdate=2013-11-18}}</ref>。
 
== ギャラリー ==