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{{参照方法|date=2022-09}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =祖 劉邦
|代数 =初代
|呼称 =皇帝
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|諡号 =高皇帝
|廟号 =高祖<ref>『[[史記]]』巻8 本紀8 高祖本紀</ref>→太祖<ref>『[[漢書]]』巻五 景帝紀第五</ref>
|生年 =[[昭襄考烈王]]5116年([[紀元前256247年|前256247年]])<br/><small>または/[[荘襄考烈王]]37年([[紀元前247256年|前247256年]])</small><ref group="注釈">『[[史記集解]]』が引用した[[皇甫謐]]によると、秦の昭襄王51年に生まれ、在位12年に62歳で崩じたとされている。しかし、『漢書』高帝記の注釈では53歳で崩じたと伝えている。</ref>
|没年 =高祖12年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]<br/>([[紀元前195年|前195年]][[6月1日]])
|父 =[[劉太公]]
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== 生涯 ==
=== 出生 ===
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]末期に[[楚 (戦国)|楚]]の領域だった[[沛郡|泗水郡]][[沛県]]豊邑中陽里(現在の[[江蘇省]][[徐州市]][[豊県]])で、父の[[劉太公]]と母の[[劉媼]]の間の男児として誕生した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖、沛豐邑中陽里人、姓劉氏、字季。父曰太公、母曰劉媼」</ref>。長兄に[[劉伯]]、次兄に[[劉喜 (代王)|劉喜]]が、異母弟に[[劉交]]がいる。『史記』によれば劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「其先劉媼嘗息大澤之陂、夢與神遇。是時雷電晦冥、太公往視、則見蛟龍於其上」</ref>。また、[[諱]]の「'''邦'''」は『[[史記]]』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは[[後漢]]の[[荀悦]]『[[漢紀]]』に記され、『[[史記]]』『[[漢書]]』の注釈でそれを引用している<ref group="注釈">「邦」の語義は、元々「幇」([[ピンイン]]は“{{lang|zh-hans|bāng}}”、意味は「兄貴」)という意味の一般名詞ではないかと推測されている(司馬遼太郎・[[佐竹靖彦]]の説)。ただし現在に伝わる「幇」という字の意味には「兄貴」はない。</ref>。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである<ref group="注釈">父母の名前も、「太公」はある程度年を取った男性の一般呼称であり、「媼」(姓は不詳)も同じく“おばさん”といった程度の呼称、長兄の伯(伯は字)にしてもこれは長男を指すものに過ぎない。このことから、劉邦一家の本名は不明であり、[[司馬遷]]が『[[史記]]』を書く際にもわからなかったので、思い切ってこのように簡単な名前を付けたという説もある。また、庶民においては正式な名をつけず、「劉家の長男坊=劉伯」や「劉家の末っ子=劉季」といった通称で足りていたという説もある。ただし、次兄の仲や弟にはそれぞれ「喜」「交」という名が伝わっており、一家全員の本名が不明なわけではない。また[[避諱]]のため故意に曖昧に記述したという説もある。なお、劉邦の「邦」の字の避諱のため、漢代は以降「邦」の字が公式に使えなくなり、主に「国」の字が代用された。廷臣の最高職名が「相邦」から「[[相国]]」に変わったことなどが例である。これは漢滅亡後も元に戻されなかったし、多くの言葉に現代まで継続する影響を与えた。</ref>。
 
その頃の幼馴染に[[盧綰]]と[[樊噲]]がおり<ref>『史記』巻95 列伝35 樊噲伝「舞陽侯樊噲者、沛人也。以屠狗為事、與高祖俱隱」</ref><ref>『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰者、豐人也、與高祖同里」</ref>、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から親しくして育った<ref>『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰親與高祖太上皇相愛、及生男、高祖盧綰同日生、里中持羊酒賀兩家」</ref>。中国の主要王朝の創始者としては、後年の[[明]]の[[朱元璋]]と並ぶ庶民出身者であるが、家族が次々餓死して一家離散した朱元璋ほどの極貧な生まれではなかったとされる。ただし、中年期までろくな定職も持たずに過ごし<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「仁而愛人、喜施、意豁如也。常有大度、不事家人生産作業」</ref>、まともな読み書きも身につけないままであった。その一方で、遊び人なりに多くの人に好かれていたことは、蜂起後に彼の大きな財産となっている。
 
=== 任侠生活 ===
反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる[[親分]]肌の[[侠客]]であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。幼い頃の劉邦は、[[魏 (戦国)|魏]]の[[公子]]である[[信陵君]]を慕い、彼の食客だった[[民権県|外黄]]県令の[[張耳]]を訪ねて親交を深めた<ref>『史記』巻89 列伝29 張耳伝「張耳者、大梁人也。其少時、及魏公子毋忌為客。張耳嘗亡命黃。……秦之滅大梁也、張耳家外。高祖為布衣時、嘗數從張耳、客數月」</ref>。その後、魏が秦により滅亡すると、張耳は姓を変えて[[淮陽区|陳]]に忍び込み、劉邦も故郷に戻った。後日、劉邦は帝位についてから[[大梁]]を通るたびに信陵君の墓に祭祀を行うことで尊敬を表した<ref>『史記』巻77 列伝17 魏公子伝「高祖始微少時、數聞公子賢。及即天子位、過大梁、常祠公子」</ref>。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる[[蕭何]]と[[曹参]]もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり満席になるので、この店は劉邦のツケ払いの踏み倒しを黙認していたと伝えられる<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖毎酤留飲、酒讎數倍。及見怪、歳竟、此兩家常折券棄責」</ref>。
 
史記によればある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで[[始皇帝]]の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と語ったという<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖常繇咸陽、縱觀、觀秦皇帝、喟然太息曰:「嗟乎、大丈夫當如此也!」」</ref>。またある時、[[単県|単父]]の有力者の[[呂公 (前漢)|呂公]]が仇討ちを避けて沛へとやって来た<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「單父人呂公善沛令、避仇從之客、因家沛焉」</ref>。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「蕭何為主吏、主進、令諸大夫曰:「進不滿千錢、坐之堂下。」高祖為亭長、素易諸吏、乃紿為謁曰「賀錢萬」、實不持一錢」</ref>。あまりの金額に驚いた呂公は、慌てて門まで劉邦を迎え、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「臣少好相人、相人多矣、無如季相、願季自愛。臣有息女、願為季箕帚妾」</ref>。これが[[呂雉]]である。
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ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。秦は法も厳しく、人夫が足りなければその引率者が責任を取らされる、とやけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がした。そして、行くあてがないと残った人夫らと共に沼沢へ隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分になりたいと次々と集まり、劉邦は小規模な勢力の頭となった。
 
[[紀元前209年]]、[[陳勝・呉広の乱]]が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに[[蕭何]]と[[曹参]]が「秦の役人である県令が反乱しても誰も従わない。人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛令恐……乃令樊噲召劉季」</ref>。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦の元に使者が向かった後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛令後悔、恐其有變、乃閉城城守、欲誅蕭・曹。蕭・曹恐、踰城保劉季」</ref>。劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に[[城郭都市|城塞都市]]である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れ、長老らは新たな県令に就く事を求めた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「劉季乃書帛射城上……欲以為沛令」</ref>。劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退したが、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「劉季曰……盡讓劉季」</ref>。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。
 
沛公となった劉邦は蕭何や曹参・樊噲らと共に地元の若者2000~3000人らを率いて武装集団を結成し、秦に服属する胡陵・方与などの周囲の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を[[雍歯]]という者に任せたが、雍歯は旧[[魏 (戦国)|魏]]の地に割拠していた[[魏咎]]の武将の[[周フツ|周巿]]に誘いをかけられて寝返ってしまった<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「周巿使人謂雍齒曰……即反為魏守豐」</ref>。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、[[陳勝]]は秦の[[章邯]]の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した戦国時代の[[楚 (春秋)|楚]]の公族の末裔である[[景駒]]という人物が、同じく陳勝軍の[[甯君]]と[[秦嘉 (秦末)|秦嘉]]という者に陳勝に代わる王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公怨雍齒與豐子弟叛之……欲請兵以攻豐」</ref>。
 
[[紀元前208年]]、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(現在の[[安徽省]][[宿州市]][[碭山県]])を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「東陽甯君沛公引兵西……還軍豐」</ref>。
 
豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。[[張良]]である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧[[韓 (戦国)|韓]]の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた<ref>『史記』巻55 世家25 留侯世家「景駒自立為楚假王、在留。良欲往從之、道還沛公」</ref>。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた<ref>『史記』巻55 世家25 留侯世家「良數以太公兵法説沛公、沛公善之、常用其策。良為他人者、皆不省。良曰:「沛公殆天授。」故遂從之、不去見景駒」</ref>。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。{{誰範囲|date=2023年8月26日 (土) 10:14 (UTC)|劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる}}。その頃、景駒は[[項梁]]によって殺され、項梁は薛の地にて各地の諸将を招集し、陳勝の死を確認した上で、反秦勢力の新たな頭領として今後の計画に関する会盟を執り行った。また旧[[楚 (春秋)|楚]]の[[懐王]]の孫にたる[[義帝|熊心]]という人物を探し出して楚王の位に即け、祖父と同じ懐王の号を与えて名目上の君主として擁立した。この会盟には劉邦も参加し<ref>『史記』巻7 本紀7 項羽本紀「項梁乃引兵入薛……此時沛公亦起沛、往焉」</ref>、項梁の勢力へと参入する事となる。そして項梁より新たに5000人の兵と10名の将を得て、ようやく豊の地を奪還する事に成功した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「項梁益沛公卒五千人、五大夫將十人。沛公還、引兵攻豐」</ref>。
 
項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、[[章邯]]軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の[[江蘇省]][[徐州市]])へと集結した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公與項羽方攻陳留、聞項梁死、引兵與呂將軍俱東。呂臣軍彭城東、項羽軍彭城西、沛公軍碭」</ref>。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて[[趙 (戦国)|趙]]を攻め、趙王[[趙歇]]の居城[[鉅鹿県|鉅鹿]]を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は[[宋義]]・項羽・[[范増]]を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王はこうした行軍の条件に差を設けた上で、「一番先に[[関中]](咸陽を中心とした一帯)に入った者を、その地の王としよう」と約束した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「趙數請救、懷王乃以宋義為上將軍、項羽為次將、范增為末將、北救趙。令沛公西略地入關。與諸將約、先入定關中者王之」</ref>。
 
==== 関中入り ====
劉邦は西に別働隊を率いて行軍し、剛武侯の軍の兵4000を奪った後、魏の将軍の皇欣・申徒・武蒲らと合同して昌邑を攻めたものの、これを落とす事はできず、高陽(現在の[[河南省]][[開封市]][[杞県]])へと向かった<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公引兵西……西過高陽」</ref>。ここで劉邦は[[儒者]]の[[酈食其]]の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「酈食其曰……延上坐」</ref>。酈食其は「近くの陳留は、交通の要所であり秦軍の食料も蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているが、民衆からの復讐を恐れているので、降るに降れない。降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、[[開封市|大梁]]を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた[[韓王成]]と張良を救援して、[[楊熊]]率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「食其説沛公襲陳留……因張良遂略韓地轘轅」</ref>。
 
さらに[[南陽郡]]を攻略し、郡守の[[呂齮]]を撃破して、呂齮が宛(現在の河南省[[南陽市 (河南省)|南陽市]][[宛城区]])に逃げ込んだために張良の助言でこれを包囲した<ref>史記 巻8 本紀8 高祖本紀:南,戰雒陽東軍不利還至陽城……更旗幟黎明圍宛城三匝</ref>。呂齮の舎人である陳恢の説得に応じて、これを降伏させると、呂齮に殷侯の爵位を封じて宛の地を守らせ、<ref>史記 巻8 本紀8 高祖本紀人陳恢曰……引兵西無不下者</ref>。そして魏の人物である甯昌を秦に派遣するが、この間に項羽の軍が[[章邯]]率いる秦の主力軍を撃破し([[鉅鹿の戦い]])<ref>史記 巻8 本紀8 高祖本紀是時章邯已以軍降項羽於趙矣……降章邯諸侯皆附</ref>、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、秦の朝廷では[[宦官]]の[[趙高]]が二世皇帝[[胡亥]]を傀儡として専横をふるっていたが、この敗戦が胡亥に伝われば自分が責任を取らされると考え、胡亥を弑殺した上で、反乱軍を率いる劉邦に対して、関中を二分して王になろうという密書を送った<ref>史記 巻8 本紀8 高祖本紀及趙高已殺二世使人來欲約分王關中</ref>。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを破って武関を突破した<ref>史記 巻8 本紀8 高祖本紀沛公以為詐乃用張良計使酈生陸賈往秦將啗以利因襲攻武關破之</ref>。
 
さらに藍田にて再び秦軍と対峙し、大量の旗を掲げて見せ掛けの兵数を増やし、兵達による略奪を禁じたため、秦の民衆は喜び、反乱軍は再び勝利を収めた<ref>史記 巻8 本紀8 高祖本紀又與秦軍戰於藍田南~乘……乗遂破之</ref>。史記の張良の伝である「留侯世家」では、武関の撃破の次の戦いは別の拠点である嶢関の攻略戦であり、張良の策によりまず秦の将軍を降伏させた後で、城内に残る兵士達は士気が高くなおも降伏はしないと見越し、騙し討ちで制圧して嶢関を突破した後に、逃げる兵達を追って藍田にて交戦したとされる<ref>史記 巻55 世家25 留侯列伝沛公欲以兵二萬人秦嶢下軍……遂北至藍田再戰秦兵竟敗</ref>。
 
劉邦の軍はやがて覇上(現在の陝西省西安近郊の河川・覇水の周辺の地名)にまで迫った<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「漢元年十月、沛公兵遂先諸侯至霸上」</ref>。の朝廷ではこの頃、胡亥を暗殺した趙高によって皇族の[[子嬰]]が新たに擁立されるも覇上子嬰は逆趙高を暗殺し、自らは皇帝はなく秦王を名乗っていた劉邦のところへ。子嬰は白装束で首紐をかけた姿で劉邦の軍の前に現れ、皇帝の証である[[玉璽]]などを差し出して降伏した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「秦王子嬰素車白馬、繋頸以組、封皇帝璽符節、降軹道旁」</ref>。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦は「懐王は儂の寛容さに期待を持ったからそ、儂ここに派遣したのだ。加えて降伏した者に手を掛けるのは不吉だ」と話し、子嬰を官吏に落とすのみで許した上で、咸陽に入城した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公曰……乃以秦王屬吏、遂西入咸陽」</ref>
 
=== 漢王劉邦 ===
咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊噲と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、部下に諌められると一切手を出さなかった。こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、項羽と対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。
入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、部下の樊噲と張良に諫められると一切手を付けず、覇上へと引き上げた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「欲止宮休舎、樊噲・張良諫、乃封秦重寶財物府庫、還軍霸上」</ref>。そして関中の父老(村落のまとめ役)を集め、秦の時代の事細かな上に苛烈な法律を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めた「[[法三章]]」による統治を宣言した。この施策に関中の民は歓喜し、牛・羊の肉や酒などを献上しようとしたが、劉邦は「我が軍の食料が十分だから断るのではない。民に出させるに忍びないのだ」とこれを断った。これを聞いた民衆の劉邦人気は更に大きく高まり、劉邦が王にならなかったらどうしよう、と話し合うほどとなったとされる<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公曰……秦人大喜、爭持牛羊酒食獻饗軍士」</ref>
 
その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である[[函谷関]]に兵士を派遣して守らせていた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「或説沛公曰……沛公然其計、從之。十一月中、項羽果率諸侯兵西、欲入關、關門閉」</ref>。劉邦が関中入りできた最大の要因は、秦の主力軍の相手を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、[[英布]]に命じてこれを破らせた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「聞沛公已定關中、大怒、使黥布等攻破函谷關。十二月中、遂至戲」</ref>。項羽の軍師[[范増]]は、劉邦が関中で聖人君子の如く振る舞ったのは天下を狙う大望有るゆえと見て、殺すべきと進言。先の激怒もあって、項羽は40万の軍で劉邦を攻めて滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である[[曹無傷]]は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公左司馬曹無傷聞項王怒、欲攻沛公、使人言項羽曰……欲以求封」</ref>ので、項羽はますます激怒した。
=== 漢王劉邦 ===
覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて「法三章」を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された。しかも一族皆殺しもよくあることであった)を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めたものである。この施策に関中の民は歓喜し、牛などを献上しようとしたが、劉邦はこれを断った上で「我が軍の食料が十分だから断るのではない。民に出させるに忍びないのだ」と言った。これを聞いた民衆の劉邦人気は更に大きく高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。
 
その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である[[函谷関]]に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は、秦の主力軍の相手を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、[[英布]]に命じてこれを破らせた。項羽の軍師[[范増]]は、劉邦が関中で聖人君子の如く振る舞ったのは天下を狙う大望有るゆえと見て、殺すべきと進言。先の激怒もあって、項羽は40万の軍で劉邦を攻めて滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である[[曹無傷]]は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言したので、項羽はますます激怒した。
 
項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である[[項伯]]が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが[[鴻門の会]]である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。
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当時の漢中は、流刑地とされるほどの非常な辺境であった。そこへ行くには「[[蜀道の険]]」と呼ばれる、人一人がやっと通れるような桟道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。
 
=== 楚漢戦争項羽との対決 ===
==== 項羽との対決 ====
この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが[[韓信]]である。韓信は元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた[[蕭何]]の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。
 
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[[紀元前205年]]、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという([[彭城の戦い]])。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
 
{{要出典範囲|劉邦は息子の劉盈(後の[[恵帝 (漢)|恵帝]])と娘(後の[[魯元公主]])と一緒に馬車に乗り、[[夏侯嬰]]が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。
|date=2023年8月26日 (土) 12:41 (UTC)}}
 
劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、[[随何]]に命じて楚軍の[[英布]]を味方に引き込むことに成功したが、英布は楚の武将の[[龍且]]と戦って破れ、劉邦軍と合流した。劉邦は道々兵を集めながら軍を[[滎陽]]に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・[[陳平]]が加わっている。
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=== 粛清 ===
その年の7月、燕王[[臧荼]]が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の[[盧綰]]を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった<ref group="注釈">[[明智憲三郎]]はこの猜疑からの功臣粛清に対し、自身の死後に重臣の趙高や[[李斯]]が実権を握った結果、子の[[扶蘇]]・胡亥を殺され秦王朝の滅亡にまで至った始皇帝の末路と比較し、自分の死後に[[謀反]]・[[簒奪]]などの危険行為を起こしかねない家臣を自分が生きている間に処分しておく事で(非情ではあるが)子孫を安全に存続させるための責務を果たしたと評価している。</ref>
 
ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離眜の首を持参した韓信がやって来たところを虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。
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そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。
 
死後、太子の劉盈が即位したが(恵帝)、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく、呂氏の時代がやって。呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、恵帝の異母弟の代王劉恒([[文帝 (漢)|文帝]])が迎えられ、[[文景の治]]の繁栄となる。劉邦の人物眼の確かさがうかがえる。
 
== 人物 ==
* 劉邦は鼻が高く、立派な[[髭]]をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また、太股に72の黒子があった。72とは1年360日を[[五行思想]]の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。
* 「劉氏冠」という竹の皮で作った冠を身に着けていた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖為亭長、乃以竹皮為冠、令求盗之薛治之、時時冠之、及貴常冠、所謂「劉氏冠」乃是也」</ref>。
* 伝説の中で、劉邦は「赤帝子」と呼ばれ、劉媪が赤龍の夢を見て生まれたと伝えられているため、赤龍の子でもあり、赤帝は「火徳」を司る天帝炎帝であるため、劉邦は伝説の中で赤帝の子であり、白帝子である龍蛇を赤霄剣で斬った。その龍蛇も秦皇室を意味する物語は非常に有名だ
 
== 劉邦の影響 ==
中国史上最初の皇帝[[始皇帝]]は以後の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた劉邦は好例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき」という理想を、後世の多くの人々の心に形作ることになる。例えば[[明]]の[[朱元璋]]は謀将[[李善長]]より「高祖のごを手本すれば、天下はあなたのものになる」と進言され、これを受け入れている{{Sfn|檀上|2020b|p=82}}
 
特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させる点は、後の世にもたびたび引き合いに出された。
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== 后妃と子女 ==
{{漢王朝系図}}
* [[皇后]] 正室:[[呂雉]](高皇后) - のちに[[光武帝]]により皇后位・諡号を剥奪される
** 長女:[[魯元公主]] - [[張敖]]室で[[張皇后 (漢恵帝)|孝恵張皇后]]の母
** 次男:[[恵帝 (漢)|劉盈]](恵帝) - 第2代皇帝
* 姫・皇太后 側室:[[薄姫|薄氏]](贈高皇后)- 子の即位により皇太后となる。また光武帝により[[皇后]]位・諡号を追贈される
* [[妾]] 曹氏
** 四男:代王 [[文帝 (漢)|]](斉悼恵王文帝 - 第5代皇帝
* 夫人 側室:[[戚夫人|戚氏]]
** 三男:趙隠王 [[劉如意]](代王→趙隠王)
* 側室:[[趙姫 (前漢)|趙]]
* 姫・皇太后 [[薄姫|薄氏]](子の即位により皇太后となる。また光武帝により[[皇后]]位・諡号を追贈される)
** 七男:淮南厲王 [[劉長]]
** [[文帝 (漢)|劉恒]](代王→文帝)
* 側室:管夫人
* 姫 [[趙姫 (前漢)|趙氏]]
* 側室:趙子児
** [[劉長]](淮南厲王)
* 側室:石美人 - [[石奮]]の姉
* 生母の氏名が不詳の子
* 愛人:曹氏 - 即位前の妾
** [[劉恢]](淮陽王→梁王→趙共王)
** 長男:斉悼恵王 [[劉肥]]
** {{仮リンク|劉友 (趙王)|label=劉友|zh|劉友 (趙王)}}(河間王→淮陽王→趙幽王)
* 生母の氏名が不詳の子
** {{仮リンク|劉建 (燕王)|label=劉建|zh|劉建 (燕王)}}(燕霊王)
** 五男:趙共王 [[劉恢]](淮陽王→梁王→趙共王)
 
** 六男:趙幽王 {{仮リンク|劉友 (趙王)|label=劉友|zh|劉友 (趙王)}}(河間王→淮陽王→趙幽王)
== 装備 ==
** 八男:燕霊王 {{仮リンク|劉建 (燕王)|label=劉建|zh|劉建 (燕王)}}(燕霊王)
* 「劉氏冠」という竹の皮で作った冠を身に着けていた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖為亭長、乃以竹皮為冠、令求盗之薛治之、時時冠之、及貴常冠、所謂「劉氏冠」乃是也」</ref>。
 
== 劉邦が登場する作品 ==
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*『長城のかげ』(宮城谷昌光)
*『香乱記』(宮城谷昌光)
;映画
* 『[[項羽と劉邦 King's War/その愛と興亡]]』(2012(1994年、中国・香港合作、演:[[チン・ダオミフォイー]])
* 『[[項羽と劉邦/White Vengeance]]』(2011年、中国、演:[[レオン・ライ]])
* 『[[項羽と劉邦 鴻門の会]]』(2012年、中国、演:[[リウ・イエ]])
; テレビドラマ
* 『[[項羽と劉邦・背水の陣]]』(1991年、中国、演:[[石維堅]])
* 『[[劉邦と項羽]]』(1997年、中国、演:[[劉文治]])
* 『[[大漢風 〜項羽と劉邦〜]]』(2004年、中国、演:[[肖栄生|シャオ・ロンション]])
* 『{{仮リンク|項羽と劉邦 (香港のテレビドラマ)|zh|楚漢驕雄|label=項羽と劉邦}}』(2004年、香港、演:[[アダム・チェン]])
* 『[[劉邦の大風歌 -漢建国記-]]』(2009年、中国、演:[[レイ・ロイ]])
* 『[[THE MYTH/神話#テレビドラマ|THE MYTH/神話]]』(2009年、中国、演:[[李易祥|リー・イーシャン]])
*『[[項羽と劉邦 King's War]]』(2012年、中国、演:[[チェン・ダオミン]])
;漫画
*『[[項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)|項羽と劉邦]]』『[[史記 (横山光輝の漫画)|史記]]』([[横山光輝]])
229 ⟶ 240行目:
*『[[龍帥の翼 史記・留侯世家異伝]]』([[川原正敏]])
*『劉邦』([[高橋のぼる]])
;歴史シミュレーションゲーム
;映画
* 『[[項羽と邦/その愛と興亡]]』(1994(1993年、中国・香港合作、演:[[チャン・フォンイコーエテクモ|光栄]])
* 『[[項羽と劉邦/White Vengeance]]』(2011年、中国、演:[[レオン・ライ]])
* 『[[項羽と劉邦 鴻門の会]]』(2012年、中国、演:[[リウ・イエ]])
; テレビドラマ
* 『[[項羽と劉邦・背水の陣]]』(1991年、中国、演:[[石維堅]])
* 『[[劉邦と項羽]]』(1997年、中国、演:[[劉文治]])
* 『[[大漢風 〜項羽と劉邦〜]]』(2004年、中国、演:[[肖栄生|シャオ・ロンション]])
* 『{{仮リンク|項羽と劉邦 (香港のテレビドラマ)|zh|楚漢驕雄|label=項羽と劉邦}}』(2004年、香港、演:[[アダム・チェン]])
* 『[[劉邦の大風歌 -漢建国記-]]』(2009年、中国、演:[[レイ・ロイ]])
* 『[[THE MYTH/神話#テレビドラマ|THE MYTH/神話]]』(2009年、中国、演:[[李易祥|リー・イーシャン]])
* 『[[項羽と劉邦 King's War]]』(2012年、中国、演:[[チェン・ダオミン]])
 
== ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 装備注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=檀上寛 |authorlink=檀上寛|title=明の太祖 朱元璋 |year=1994 |publisher=[[白帝社]] |edition= |series=中国歴史人物選 |volume=9 | isbn=978-4891742256 |ref={{SfnRef|檀上|1994}} }}
** {{Cite book|和書|last= |first= |authorlink=|title=明の太祖 朱元璋 文庫版|year=2020 |publisher=[[筑摩書房]] |edition= |series=ちくま学芸文庫 |volume=| isbn=978-4480510051 |ref={{SfnRef|檀上|2020a}} }}
** {{Cite book|和書|last= |first= |authorlink=|title= 明の太祖 朱元璋 電子書籍版|year=2021 |publisher=|edition= |series= |volume=| isbn= |ref={{SfnRef|檀上|2020b}} }}
 
{{前漢の皇帝|前202年 - 前195年|初代}}
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[[Category:秦代の人物]]
[[Category:楚漢戦争の人物]]
[[Category:中国の反乱指導者]]
[[Category:徐州出身の人物]]
[[Category:紀元前3世紀生]]