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{{基礎情報 中国君主
|名 =祖 劉邦
|代数 =初代
|呼称 =皇帝
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|諡号 =高皇帝
|廟号 =高祖<ref>『[[史記]]』巻8 本紀8 高祖本紀</ref>→太祖<ref>『[[漢書]]』巻五 景帝紀第五</ref>
|生年 =[[荘襄考烈王]]316年([[紀元前247年|前247年]])<br/>または、/[[昭襄考烈王]]517年([[紀元前256年|前256年]])<ref group="注釈">『[[史記集解]]』が引用した[[皇甫謐]]によると、秦の昭襄王51年に生まれ、在位12年に62歳で崩じたとされている。しかし、『漢書』高帝記の注釈では53歳で崩じたと伝えている。</ref>
|没年 =高祖12年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]<br/>([[紀元前195年|前195年]][[6月1日]])
|父 =[[劉太公]]
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== 生涯 ==
=== 出生 ===
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]末期に[[楚 (戦国)|楚]]の領域だった[[沛郡|泗水郡]][[沛県]]豊邑中陽里(現在の[[江蘇省]][[徐州市]][[豊県]])で、父の[[劉太公]]と母の[[劉媼]]の間の男児として誕生した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖、沛豐邑中陽里人、姓劉氏、字季。父曰太公、母曰劉媼」</ref>。長兄に[[劉伯]]、次兄に[[劉喜 (代王)|劉喜]]が、異母弟に[[劉交]]がいる。『史記』によれば劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「其先劉媼嘗息大澤之陂、夢與神遇。是時雷電晦冥、太公往視、則見蛟龍於其上」</ref>。また、[[諱]]の「'''邦'''」は『[[史記]]』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは[[後漢]]の[[荀悦]]『[[漢紀]]』に記され、『[[史記]]』『[[漢書]]』の注釈でそれを引用している<ref group="注釈">「邦」の語義は、元々「幇」([[ピンイン]]は“{{lang|zh-hans|bāng}}”、意味は「兄貴」)という意味の一般名詞ではないかと推測されている(司馬遼太郎・[[佐竹靖彦]]の説)。ただし現在に伝わる「幇」という字の意味には「兄貴」はない。</ref>。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである<ref group="注釈">父母の名前も、「太公」はある程度年を取った男性の一般呼称であり、「媼」(姓は不詳)も同じく“おばさん”といった程度の呼称、長兄の伯(伯は字)にしてもこれは長男を指すものに過ぎない。このことから、劉邦一家の本名は不明であり、[[司馬遷]]が『[[史記]]』を書く際にもわからなかったので、思い切ってこのように簡単な名前を付けたという説もある。また、庶民においては正式な名をつけず、「劉家の長男坊=劉伯」や「劉家の末っ子=劉季」といった通称で足りていたという説もある。ただし、次兄の仲や弟にはそれぞれ「喜」「交」という名が伝わっており、一家全員の本名が不明なわけではない。また[[避諱]]のため故意に曖昧に記述したという説もある。なお、劉邦の「邦」の字の避諱のため、漢代は以降「邦」の字が公式に使えなくなり、主に「国」の字が代用された。廷臣の最高職名が「相邦」から「[[相国]]」に変わったことなどが例である。これは漢滅亡後も元に戻されなかったし、多くの言葉に現代まで継続する影響を与えた。</ref>。
 
その頃の幼馴染に[[盧綰]]と[[樊噲]]がおり<ref>『史記』巻95 列伝35 樊噲伝「舞陽侯樊噲者、沛人也。以屠狗為事、與高祖俱隱」</ref><ref>『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰者、豐人也、與高祖同里」</ref>、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から親しくして育った<ref>『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰親與高祖太上皇相愛、及生男、高祖・盧綰同日生、里中持羊酒賀兩家」</ref>。中国の主要王朝の創始者としては、後年の[[明]]の[[朱元璋]]と並ぶ庶民出身者であるが、家族が次々餓死して一家離散した朱元璋ほどの極貧な生まれではなかったとされる。ただし、中年期までろくな定職も持たずに過ごし<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「仁而愛人、喜施、意豁如也。常有大度、不事家人生産作業」</ref>、まともな読み書きも身につけないままであった。その一方で、遊び人なりに多くの人に好かれていたことは、蜂起後に彼の大きな財産となっている。
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[[紀元前208年]]、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(現在の[[安徽省]][[宿州市]][[碭山県]])を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「東陽甯君・沛公引兵西……還軍豐」</ref>。
 
豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。[[張良]]である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧[[韓 (戦国)|韓]]の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた<ref>『史記』巻55 世家25 留侯世家「景駒自立為楚假王、在留。良欲往從之、道還沛公」</ref>。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた<ref>『史記』巻55 世家25 留侯世家「良數以太公兵法説沛公、沛公善之、常用其策。良為他人者、皆不省。良曰:「沛公殆天授。」故遂從之、不去見景駒」</ref>。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。{{誰範囲|date=2023年8月26日 (土) 10:14 (UTC)|劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる}}。その頃、景駒は[[項梁]]によって殺され、項梁は薛の地にて各地の諸将を招集し、陳勝の死を確認した上で、反秦勢力の新たな頭領として今後の計画に関する会盟を執り行った。また旧[[楚 (春秋)|楚]]の[[懐王]]の孫にあたる[[義帝|熊心]]という人物を探し出して楚王の位に即け、祖父と同じ懐王の号を与えて名目上の君主として擁立した。この会盟には劉邦も参加し<ref>『史記』巻7 本紀7 項羽本紀「項梁乃引兵入薛……此時沛公亦起沛、往焉」</ref>、項梁の勢力へと参入する事となる。そして項梁より新たに5000人の兵と10名の将を得て、ようやく豊の地を奪還する事に成功した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「項梁益沛公卒五千人、五大夫將十人。沛公還、引兵攻豐」</ref>。
 
項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、[[章邯]]軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の[[江蘇省]][[徐州市]])へと集結した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公與項羽方攻陳留、聞項梁死、引兵與呂將軍俱東。呂臣軍彭城東、項羽軍彭城西、沛公軍碭」</ref>。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて[[趙 (戦国)|趙]]を攻め、趙王[[趙歇]]の居城の[[鉅鹿県|鉅鹿]]を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は[[宋義]]・項羽・[[范増]]を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王はこうした行軍の条件に差を設けた上で、「一番先に[[関中]](咸陽を中心とした一帯)に入った者を、その地の王としよう」と約束した<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「趙數請救、懷王乃以宋義為上將軍、項羽為次將、范增為末將、北救趙。令沛公西略地入關。與諸將約、先入定關中者王之」</ref>。
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[[紀元前205年]]、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという([[彭城の戦い]])。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
 
{{要出典範囲|劉邦は息子の劉盈(後の[[恵帝 (漢)|恵帝]])と娘(後の[[魯元公主]])と一緒に馬車に乗り、[[夏侯嬰]]が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。
|date=2023年8月26日 (土) 12:41 (UTC)}}
 
劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、[[随何]]に命じて楚軍の[[英布]]を味方に引き込むことに成功したが、英布は楚の武将の[[龍且]]と戦って破れ、劉邦軍と合流した。劉邦は道々兵を集めながら軍を[[滎陽]]に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・[[陳平]]が加わっている。
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=== 粛清 ===
その年の7月、燕王[[臧荼]]が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の[[盧綰]]を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった<ref group="注釈">[[明智憲三郎]]はこの猜疑からの功臣粛清に対し、自身の死後に重臣の趙高や[[李斯]]が実権を握った結果、子の[[扶蘇]]・胡亥を殺され秦王朝の滅亡にまで至った始皇帝の末路と比較し、自分の死後に[[謀反]]・[[簒奪]]などの危険行為を起こしかねない家臣を自分が生きている間に処分しておく事で(非情ではあるが)子孫を安全に存続させるための責務を果たしたと評価している。</ref>
 
ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離眜の首を持参した韓信がやって来たところを虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。
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そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。
 
死後、太子の劉盈が即位したが(恵帝)、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく、呂氏の時代がやって。呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、恵帝の異母弟の代王劉恒([[文帝 (漢)|文帝]])が迎えられ、[[文景の治]]の繁栄となる。劉邦の人物眼の確かさがうかがえる。
 
'''赤帝子'''
 
劉邦に関する伝説では、劉邦は赤龍子とされ、時には赤帝子とされることもある。赤帝は火徳を代表する神炎帝であり、赤帝子劉邦が白帝子である白蛇を斬殺したのも古代中国人の「劉邦が秦を滅ぼす」ことに対する神格化である。<ref>《史记·高祖本纪》:“高祖,沛丰邑中阳里人,姓刘氏,字季。父曰太公,母曰刘媪。其先刘媪尝息大泽之陂,梦与神遇。是时雷电晦冥,太公往视,则见蛟龙於其上。已而有身,遂产高祖。”</ref><ref>《史记·高祖本纪》:“高祖被酒,夜径泽中,令一人行前。行前者还报曰:‘前有大蛇当径,愿还。’高祖醉,曰:‘壮士行,何畏!’乃前,拔剑击斩蛇。蛇遂分为两,径开。行数里,醉,因卧。后人来至蛇所,有一老妪夜哭。人问何哭,妪曰:‘人杀吾子,故哭之。’人曰:‘妪子何为见杀?’妪曰:‘吾子,白帝子也,化为蛇,当道,今为赤帝子斩之,故哭。’人乃以妪为不诚,欲告之,妪因忽不见。”</ref>
 
'''赤霄剣'''
 
赤霄剣は、劉邦の剣であり、中国古代の十大名剣の一つであり、漢高祖劉邦はこの剣によって大沢に白蛇を斬首した。<ref>《古今刀剑录》:“刘季在位十二年,以始皇三十四年,于南山得一铁剑,长三尺,铭曰‘赤霄’,大篆书</ref><ref>《西京杂记》:“高祖斩白蛇剑,十二年一加磨莹,刃上常若霜雪。”</ref>
 
'''劉邦が蛇を斬る'''
 
劉邦が竜蛇を斬ったという伝説は民間で流行しており、劉邦が豊西すすきの山沢で蛇を斬って、暴秦に反抗する義旗を掲げたという伝説がある。白帝子では秦皇室を代表し、秦国では白帝を至高の神としているため、民間では始皇帝を含む秦皇室を「白帝子」と呼んでいる。竜蛇の子としても赤帝子劉邦が白帝子である蛇神を赤霄剣を持って斬殺したのも民間の「劉邦が秦を滅ぼす」神格化である。<ref>《史记·高祖本纪》:“高祖被酒,夜径泽中,令一人行前。行前者还报曰:‘前有大蛇当径,愿还。’高祖醉,曰:‘壮士行,何畏!’乃前,拔剑击斩蛇。蛇遂分为两,径开。行数里,醉,因卧。后人来至蛇所,有一老妪夜哭。人问何哭,妪曰:‘人杀吾子,故哭之。’人曰:‘妪子何为见杀?’妪曰:‘吾子,白帝子也,化为蛇,当道,今为赤帝子斩之,故哭。’人乃以妪为不诚,欲告之,妪因忽不见。</ref>
 
== 人物 ==
* 劉邦は鼻が高く、立派な[[髭]]をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また、太股に72の黒子があった。72とは1年360日を[[五行思想]]の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。
* 「劉氏冠」という竹の皮で作った冠を身に着けていた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖為亭長、乃以竹皮為冠、令求盗之薛治之、時時冠之、及貴常冠、所謂「劉氏冠」乃是也」</ref>。
* 伝説の中で、劉邦は「赤帝子」と呼ばれ、劉媪が赤龍の夢を見て生まれたと伝えられているため、赤龍の子でもあり、赤帝は「火徳」を司る天帝炎帝であるため、劉邦は伝説の中で赤帝の子であり、白帝子である龍蛇を赤霄剣で斬った。その龍蛇も秦皇室を意味する物語は非常に有名だ
 
== 劉邦の影響 ==
中国史上最初の皇帝[[始皇帝]]は以後の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた劉邦は好例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき」という理想を、後世の多くの人々の心に形作ることになる。例えば[[明]]の[[朱元璋]]は謀将[[李善長]]より「高祖のごを手本すれば、天下はあなたのものになる」と進言され、これを受け入れている{{Sfn|檀上|2020b|p=82}}
 
特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させる点は、後の世にもたびたび引き合いに出された。
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== 后妃と子女 ==
{{漢王朝系図}}
* [[皇后]] 正室:[[呂雉]](高皇后) - のちに[[光武帝]]により皇后位・諡号を剥奪される
** 長女:[[魯元公主]] - [[張敖]]室で[[張皇后 (漢恵帝)|孝恵張皇后]]の母
** 次男:[[恵帝 (漢)|劉盈]](恵帝) - 第2代皇帝
* 姫・皇太后 側室:[[薄姫|薄氏]](贈高皇后)- 子の即位により皇太后となる。また光武帝により[[皇后]]位・諡号を追贈される
* [[妾]] 曹氏
** 四男:代王 [[文帝 (漢)|]](斉悼恵王文帝 - 第5代皇帝
* 夫人 側室:[[戚夫人|戚氏]]
** 三男:趙隠王 [[劉如意]](代王→趙隠王)
* 側室:[[趙姫 (前漢)|趙]]
* 姫・皇太后 [[薄姫|薄氏]](子の即位により皇太后となる。また光武帝により[[皇后]]位・諡号を追贈される)
** 七男:淮南厲王 [[劉長]]
** [[文帝 (漢)|劉恒]](代王→文帝)
* 側室:管夫人
* 姫 [[趙姫 (前漢)|趙氏]]
* 側室:趙子児
** [[劉長]](淮南厲王)
* 側室:石美人 - [[石奮]]の姉
* 生母の氏名が不詳の子
* 愛人:曹氏 - 即位前の妾
** [[劉恢]](淮陽王→梁王→趙共王)
** 長男:斉悼恵王 [[劉肥]]
** {{仮リンク|劉友 (趙王)|label=劉友|zh|劉友 (趙王)}}(河間王→淮陽王→趙幽王)
* 生母の氏名が不詳の子
** {{仮リンク|劉建 (燕王)|label=劉建|zh|劉建 (燕王)}}(燕霊王)
** 五男:趙共王 [[劉恢]](淮陽王→梁王→趙共王)
 
** 六男:趙幽王 {{仮リンク|劉友 (趙王)|label=劉友|zh|劉友 (趙王)}}(河間王→淮陽王→趙幽王)
== 装備 ==
** 八男:燕霊王 {{仮リンク|劉建 (燕王)|label=劉建|zh|劉建 (燕王)}}(燕霊王)
* 「劉氏冠」という竹の皮で作った冠を身に着けていた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖為亭長、乃以竹皮為冠、令求盗之薛治之、時時冠之、及貴常冠、所謂「劉氏冠」乃是也」</ref>。
 
== 劉邦が登場する作品 ==
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*『長城のかげ』(宮城谷昌光)
*『香乱記』(宮城谷昌光)
;映画
* 『[[項羽と劉邦 King's War/その愛と興亡]]』(2012(1994年、中国・香港合作、演:[[チン・ダオミフォイー]])
* 『[[項羽と劉邦/White Vengeance]]』(2011年、中国、演:[[レオン・ライ]])
* 『[[項羽と劉邦 鴻門の会]]』(2012年、中国、演:[[リウ・イエ]])
; テレビドラマ
* 『[[項羽と劉邦・背水の陣]]』(1991年、中国、演:[[石維堅]])
* 『[[劉邦と項羽]]』(1997年、中国、演:[[劉文治]])
* 『[[大漢風 〜項羽と劉邦〜]]』(2004年、中国、演:[[肖栄生|シャオ・ロンション]])
* 『{{仮リンク|項羽と劉邦 (香港のテレビドラマ)|zh|楚漢驕雄|label=項羽と劉邦}}』(2004年、香港、演:[[アダム・チェン]])
* 『[[劉邦の大風歌 -漢建国記-]]』(2009年、中国、演:[[レイ・ロイ]])
* 『[[THE MYTH/神話#テレビドラマ|THE MYTH/神話]]』(2009年、中国、演:[[李易祥|リー・イーシャン]])
*『[[項羽と劉邦 King's War]]』(2012年、中国、演:[[チェン・ダオミン]])
;漫画
*『[[項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)|項羽と劉邦]]』『[[史記 (横山光輝の漫画)|史記]]』([[横山光輝]])
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*『[[龍帥の翼 史記・留侯世家異伝]]』([[川原正敏]])
*『劉邦』([[高橋のぼる]])
;歴史シミュレーションゲーム
;映画
* 『[[項羽と邦/その愛と興亡]]』(1994(1993年、中国・香港合作、演:[[チャン・フォンイコーエテクモ|光栄]])
* 『[[項羽と劉邦/White Vengeance]]』(2011年、中国、演:[[レオン・ライ]])
* 『[[項羽と劉邦 鴻門の会]]』(2012年、中国、演:[[リウ・イエ]])
; テレビドラマ
* 『[[項羽と劉邦・背水の陣]]』(1991年、中国、演:[[石維堅]])
* 『[[劉邦と項羽]]』(1997年、中国、演:[[劉文治]])
* 『[[大漢風 〜項羽と劉邦〜]]』(2004年、中国、演:[[肖栄生|シャオ・ロンション]])
* 『{{仮リンク|項羽と劉邦 (香港のテレビドラマ)|zh|楚漢驕雄|label=項羽と劉邦}}』(2004年、香港、演:[[アダム・チェン]])
* 『[[劉邦の大風歌 -漢建国記-]]』(2009年、中国、演:[[レイ・ロイ]])
* 『[[THE MYTH/神話#テレビドラマ|THE MYTH/神話]]』(2009年、中国、演:[[李易祥|リー・イーシャン]])
* 『[[項羽と劉邦 King's War]]』(2012年、中国、演:[[チェン・ダオミン]])
 
== ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 装備注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=檀上寛 |authorlink=檀上寛|title=明の太祖 朱元璋 |year=1994 |publisher=[[白帝社]] |edition= |series=中国歴史人物選 |volume=9 | isbn=978-4891742256 |ref={{SfnRef|檀上|1994}} }}
** {{Cite book|和書|last= |first= |authorlink=|title=明の太祖 朱元璋 文庫版|year=2020 |publisher=[[筑摩書房]] |edition= |series=ちくま学芸文庫 |volume=| isbn=978-4480510051 |ref={{SfnRef|檀上|2020a}} }}
** {{Cite book|和書|last= |first= |authorlink=|title= 明の太祖 朱元璋 電子書籍版|year=2021 |publisher=|edition= |series= |volume=| isbn= |ref={{SfnRef|檀上|2020b}} }}
 
{{前漢の皇帝|前202年 - 前195年|初代}}
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[[Category:秦代の人物]]
[[Category:楚漢戦争の人物]]
[[Category:中国の反乱指導者]]
[[Category:徐州出身の人物]]
[[Category:紀元前3世紀生]]