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{{別人|x1=政治家の|伊藤善佐}}
{{出典の明記|date=2016年2月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 伊東 義祐
| 画像 = Itō Yoshisuke.png
| 画像サイズ = 200px
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| 死没 = [[天正]]13年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[1585年]][[8月29日]])
| 改名 = 虎熊丸(幼名)、祐清、可水、義祐、照眼
| 別名 = 六郎五郎([[仮名 (通称)|通称]])、三位入道
| 諡号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正五位|正五位下]]、[[修理職|修理大夫]]、[[従四位|従四位下]]、<br/>[[大膳|大膳大夫]]、[[正四位|正四位下]]、[[従三位]]
| 幕府 = [[室町幕府]][[相伴衆]]
| 主君 =
| 氏族 = [[伊東氏#日向伊東氏|日向伊東氏]]([[藤原為憲|藤原南家為憲流]][[工藤氏]])
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| 兄弟 = [[福永源兵衛]]室、男子(生母は中村氏)、<br/>[[伊東祐充|祐充]]、'''義祐'''、玉蓮夫人([[島津忠治]]室)、[[伊東祐吉|祐吉]]
| 妻 = [[荒武氏]]娘、[[籾木氏]]娘、[[河崎祐長]]娘、<br/>御東(福永源兵衛娘:義祐の姪)、<br/>福園([[川崎良長]]娘)
| 子 = 高城([[肝付良兼]]室、[[杉田宗盛]]室)、<br/>麻生([[北原兼守]]室、[[馬関田右衛門佐]]室)、<br/>[[伊東歓虎丸|歓虎丸]]、'''[[伊東義益|義益]]'''、尼公方丈東興庵、<br/>町上([[伊東祐青]]室、[[伊東マンショ]]の母)、<br/>[[伊東祐信]]室、照覚院、[[伊東祐兵|祐兵]]
| 特記事項 =
}}
 
'''伊東 義祐'''(いとう よしすけ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[日向国]]の[[戦国大名]]。[[伊東氏#日向伊東氏|日向伊東氏]]11代([[伊東氏]]16代)当主。[[伊東祐充]]・[[伊東祐吉|祐吉]]は同母兄弟。
 
== 生涯 ==
=== 家督相続 ===
[[永正]]9年([[1512年]])、日向国の戦国大名・[[伊東尹祐]]の子として誕生。
 
[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])、日向伊東氏9代当主で兄・祐充が若死にすると、叔父・[[伊東祐武]]が反乱を起こし、祐充や祐清(義祐)の外祖父で家中を牛耳っていた[[福永祐炳]]を自害に追い込み、[[都於郡城]]を占拠してしまう。残された祐清・祐吉兄弟は後ろ盾を失い、日向を退去し上洛しようとしたが、祐武を支持しない者達の制止を受けて思い留まり、[[高鍋町|財部]]に引き返して祐武方と対峙した。こうして家中を二つに分けた御家騒動となったが、[[荒武三省]]の活躍により祐武は自害し、祐清・祐吉方は都於郡城を奪回した。
 
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義祐は、飫肥を領する[[豊州家|島津豊州家]]と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返した。
 
[[永禄]]3年([[1560年]])、豊州家は島津宗家を介して[[室町幕府|幕府]]に飫肥役の調停を依頼、6月に[[足利義輝]]より和睦命令が出されるが、義祐はこれに従わなかった。そのため、[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]に幕府[[政所]][[執事]]である[[伊勢貞孝]]が日向国へ下向した。その際、義祐は貞孝へ飫肥侵攻の正当性を示すべく、6代当主・[[伊東祐堯]]が[[足利義政]]より賜ったという「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、[[渋谷氏|渋谷]]はこれを除く」という内容の[[御教書]]を提示する。これを見た貞孝は、当時の幕府が用いない言葉遣いが散見され[[偽書]]の疑いが強いと断じたものの、確証までは得られなかったものか為に、止むを得ず飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とした。しかし、義祐はこれを歯牙にも掛けず、翌永禄4年([[1561年]])4月には七度目の飫肥侵攻を開始した。
 
同年12月、豊州家を圧迫し、交渉により飫肥の一部を割譲させると、永禄5年([[1562年]])5月には完全なる領有に成功する。しかし、同年9月に豊州家に攻められると、ほんの4か月で撤退することとなった。
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勢い盛んな義祐は次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原(現[[宮崎県]][[宮崎市]][[佐土原町]])は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど発展していくが、義祐の武将としての覇気は失われていった。
 
=== 真幸院攻略木崎原の戦い ===
永禄元年([[1558年]])、長きに渡り姻戚関係を続けていた[[北原氏]]の家督継承問題に介入、[[北原兼守]]に嫁ぎ未亡人となった娘の麻生を、北原庶流の[[馬関田右衛門佐]]に娶せるとして、事実上の乗っ取りを画策した。翌永禄2年([[1559年]])[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]、義祐はその反対派を都於郡城へ呼び寄せて詰問し、その帰り道である六野原で取り囲んで粛清すると、右衛門佐と麻生の婚姻を敢行して北原氏の領地の全てを奪い取った。しかし永禄5年([[1562年]])、島津貴久と[[相良義陽]]、北郷時久が北原氏の旧領回復に協力したため奪い返される。これに義祐は、密かに[[相良氏]]と同盟、永禄6年([[1563年]])に共に[[大明神城]]を攻め落とし、永禄7年([[1564年]])には北原氏に従属する[[大河平氏]]の[[今城 (えびの市)|今城]]を攻め取った。その後、北原氏は離反者が相次いだために、[[真幸院]]の飯野地区以外は再び[[伊東氏]]の領地となる。
 
真幸院が肥沃な穀倉地帯であること、また日向の完全なる支配にはどうあっても飯野地区攻略が不可欠であったため、永禄9年([[1566年]])に飯野地区攻略の前線基地として小林村に三ツ山城(後の[[小林城]])を築城させる。だが、これを知った[[島津義久]]らが城の完成する前に攻撃を仕掛けてくる。[[須木城]]からの援軍もあり、城主の[[米良重方]]は苦戦しながらもこれを撃退する。
 
永禄11年([[1568年]])、飯野地区への攻略に乗り出し、[[菱刈氏]]攻略中で留守の[[島津義弘]]の[[飯野城]]を[[伊東祐安]]に攻めさせたが、義弘がこれに気付いたため睨み合いとなり、飯野・田原陣に[[桶平城]]を築城し[[佐土原遠江守]]を入れ駐屯させる。しかし、[[遠矢良賢]]らの[[釣り野伏せ]]に掛かるなど成果は上がらず、また家督を譲っていた次男・[[伊東義益|義益]]の急死もあり、やむなく桶平城に火を放ち軍勢を撤退させる。だが、桶平城は菱刈・相良両氏支援のための城でもあったにもかかわらず、相良氏に一切通告しないまま撤兵したことから相良氏の遺恨を買うことにもなった<ref>『壱岐加賀守年代覚書』の記述 (『忘却の日本史 vol.24』 p.15)</ref>
 
そして[[元亀]]3年([[1572年]])5月、島津貴久の死去と肝付氏の侵攻により動揺している島津氏の[[加久藤城]]を相良義陽と連携して攻めた際に、伊東側は3,000の軍勢がありながら、島津義弘率いるわずか300の寡兵軍勢れる([[木崎原の戦い]])。伊東祐安、[[伊東祐信]]ら五人の大将をはじめ、[[落合兼置]]、米良重方など伊東家の名だたる武将の多くが討死してしまった。これ以降、真幸院攻略の戦いは頓挫することとなる。
 
=== 伊東崩れ ===
木崎原での大敗を契機として、義祐の勢力は次第に衰退してゆく。まず、木崎原の戦いから4年後の天正4年([[1576年]])には、伊東四十八城の一つである[[長倉祐政]]が治める[[高原城]]が島津義久の3万の兵に攻められる。義祐は援軍を出すも圧倒的な兵数差のため一戦も交えず、高原城は水の手を断たれやむなく降伏する。その翌日には小林城と[[須木城]]を治める[[米良矩重]]が義祐への遺恨から島津に寝返り、後難を恐れた近隣の[[三ツ山城]]、[[野首城]]、更に三ツ山と[[野尻町|野尻]]の堺にある[[岩牟礼城]]までも島津に帰する。これによって島津氏領との境界線である野尻と青井岳が逼迫の事態に陥った。[[野尻城 (日向国)|野尻城]]主・[[福永祐友]]は何度も義祐に事態打開を訴え出たものの、直参家臣によって訴えは握り潰されてしまった。義祐の家臣団は、境界の実情を知っていながらも、義祐の栄華驕慢の日々を諫止することが出来なかった。これは義祐が諫言をする家臣を遠ざけ、自分に都合のいい家臣だけを側近にしていたためであったとされる。
 
翌天正5年([[1577年]])に入り情勢はますます悪化する。6月には、南の守りの要である[[櫛間城]]が[[島津忠長 (宮之城家)|島津忠長]]によって攻め落とされた。義祐は飫肥城主である三男・[[伊東祐兵|祐兵]]に櫛間への出兵を命じたものの、逆に忠長に反撃され、飫肥本城に敗走。敵に飫肥城を包囲されてしまった。また同じ頃、日向北部の国人・[[土持氏]]が突如[[門川町|門川]]領への攻撃を開始したため、伊東家は北は土持、南と北西からは島津氏の侵攻を受けることになったのである。義祐は窮する事態に人心一新を図ったものか、次男・義益の嫡男で嫡孫の[[伊東義賢|義賢]]に家督を譲る。
 
同年12月、野尻城主・福永祐友が、島津方である高原城主・[[上原尚近]]の説得を受け入れ、島津方に寝返ってしまった。福永氏は伊東氏とは姻戚関係にあった為、この謀反は義祐は勿論、他氏族への大きな衝撃になった。これを知った[[高岡町内山城 (宮崎県日向国)|内山城]]主の[[野村文綱|野村刑部少輔文綱]]([[野村松綱]]の子)、[[紙屋城]]主・[[米良主税助]]も島津方に寝返った為、佐土原の西の守りは完全に島津氏の手中に収められてしまったのである。さすがの義祐も事態の深刻さを受け止め、12月8日、領内諸将を動員してまず紙屋城奪回の兵を出した。ところが、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知。即座に反転して佐土原に帰城した。
 
翌12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。南の島津方は飫肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至な状況で、籠城して島津軍を迎撃する声はなかった。同日、城を包囲されて逃亡してきた祐兵も佐土原城に帰着。もはや義祐には残された選択肢はなかった。同日正午過ぎ、義祐は日向を捨て、次男・義益正室の阿喜多の叔父・[[豊後国]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]を頼る決断を下したのであった。
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豊後に到着した義祐は大友宗麟と会見し、日向攻めの助力を請うた。宗麟はその願いを受け、また自身も日向を[[キリスト教]]国にする野望を抱き、天正6年([[1578年]])に門川の土持氏を攻め滅ぼし、耳川以南で島津氏と激突([[耳川の戦い]])。しかし大友氏は島津氏に大敗を喫してしまう。大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、また宗麟の息子・[[大友義統|義統]]が祐兵夫人・阿虎の方を奪おうとしているとの噂があったため、義祐は子の祐兵ら20余人を連れ(義賢は大友に残される)[[伊予国]]に渡って[[河野氏]]を頼り、[[河野通直 (伊予守)|河野通直]]の一族・[[大内栄運]]の知行地に匿われた。
 
その後、天正10年([[1582年]])に義祐らは伊予から[[播磨国]]に渡る。ここで祐兵は[[織田信長]]の家臣・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えていた同族の[[伊東長実]]の縁を得て、その斡旋で秀吉の扶持を受けるようになった。この時、義祐は秀吉への謁見を勧められたが「流浪の身たりとも、藤原三位入道が何ぞ羽柴氏に追従せむ」と答え、頑なに謁見を固辞したという
 
=== 最期 ===
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その後は黒木を撒いて独りで旅をしていたが、病に侵され祐兵の屋敷のある[[堺市|堺]]へ向かった。しかし便船の中で病衰し、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれた。偶然にもそれを知った祐兵の従者(祐兵夫人らとの説も)に発見され、堺の屋敷で7日余り看病を受けたものの、甲斐無く死去した。享年73。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 人物 ==
* 奢侈に国を追われた事で知られるが、中でも仏事への傾倒が最も深刻な問題であった。天文20年(1551年)には[[大和国]]から仏師を招聘して[[大仏]]を造立し、また[[金閣寺]]を模して金柏寺(きんぱくじ)なる寺を建て、日夜念仏や法談に励んだという。
 
==小説==
*[[松本清張]]『三位入道』([[講談社文庫]]・『奥羽の二人』収録)
 
== 脚注 ==
<references />
 
{{日向伊東氏当主}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いとう よしすけ}}
[[Category:日向伊東氏|よしすけ]]
[[Category:戦国大名]]
[[Category:還俗日向伊東氏|よた人物すけ]]
[[Category:日向国の人物]]
[[Category:還俗した僧]]
[[Category:1512年生]]
[[Category:1585年没]]