「ベネデット・クローチェ」の版間の差分

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1901年、出版人[[ジョヴァンニ・ラテルツァ]]と出会い、以後、主要著作はラテルツァ出版社から刊行される。1903年、[[ジョヴァンニ・ジェンティーレ]]とともに『クリティカ』誌を創刊し、反アカデミズム・反実証主義の立場をとり、精神哲学体系諸著作を次々と発表した。1913年、[[ジュゼッペ・プレッツォリーニ]]の雑誌『ヴォーチェ』でジェンティーレと哲学論争をおこなう。政治活動としては、1910年に[[元老院 (イタリア)|上院]]議員に選出され、戦間期においては、[[ジョヴァンニ・ジョリッティ]]内閣の文部大臣をつとめた。[[ファシズム]]が台頭するに及んで、これを支持する姿勢もみせ、1924年、統一社会党の[[ジャコモ・マッテオッティ]]が暗殺されたときも、クローチェは上院における信任投票で[[ベニート・ムッソリーニ]]の政府に信任票を投じている。1925年ころより、クローチェは反[[ファシスト]]の立場に転じ、同年5月1日には『知識人の反ファシズム宣言』を起草し、その後は一貫してファシズム批判を続けた。ムッソリーニ政権下でも『クリティカ』誌を発刊し続け、ファシズムを攻撃した。1929年にムッソリーニとローマ[[教皇]]が結んだ政教和約([[ラテラノ条約]])に反対し、議員を辞職した。
 
主著は『表現の学および一般言語学としての美学(''L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale'')』(1902年)、『歴史叙述の理論と歴史(''Teoria e storia della storiografia'')』(1917年)。「すべての歴史は現代史である。」という言葉で知られる。
 
== 著作 ==
* ''Materialismo storico ed economia marxista'', [[1900年]]
*『表現の学および一般言語学としての美学』''L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale'', [[1902年]]
*『純粋概念としての論理学綱要』 ''Lineamenti di una logica come sienza del concetto puro'', [[1905年]]
*『実践の哲学 経済学と倫理学』''Filosofia della Pratica'',[[1909年]]
*『純粋概念の学としての論理学』''Logica come scienza del concetto puro'', [[1909年]]
*『[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]の哲学』''La filosofia di Giambattista Vico'', [[1911年]]
**『ヴィコの哲学』 青木巌訳 東京堂、1942