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{{出典の明記|date=2015年4月}}
{{言葉を濁さない|date=2015年4月}}
'''集団就職'''(しゅうだんしゅうしょく[[英語]]: Group employmentemployment)とは、かつて[[日本]]で行われていた[[雇用]]の一形態であり、地方の新規[[中等教育機関]]卒者([[中学校|中学]]・[[高等学校|高校]]卒)が大都市の[[企業]]や[[店舗]]などへ[[集団]]で[[就職]]すること<ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E5%B0%B1%E8%81%B7-527231#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 集団就職とは] - コトバンク</ref>。
 
当項目では[[戦後復興期]]の'''金の卵(きんのたまご)'''と呼ばれた'''若年中卒労働者'''についても記載する。
 
==概要==
集団就職は戦前から行われていたが、特に広く知られるのは、日本の[[高度経済成長]]期に盛んに行われた、[[農村]]から都市部への大規模な就職運動のことをさす場合が多い。
 
戦後期に工場生産システムが大量生産の時代に入り、製造業界では単純労働力を必要としていた<ref>時代の流れが図解でわかる。『{{sfn|早わかり昭和史』[[古川隆久]]|p=144 上段12行目 - 13行目</ref>}}
 
家族経営が多かった[[小売|小売業]]や[[飲食店|飲食業]]も家族以外に補助的な労働力を求めていた<ref>時代の流れが図解でわかる。『{{sfn|早わかり昭和史』[[古川隆久]]|p=144 上段14行目</ref>}}
 
[[賃金]]も農村部より都市部の方が高く、大量の中卒者が毎年地方の農村から大都市部に移動したことで、[[三大都市圏]]の転入超過人口の合計が40万人から60万人であった<ref>時代の流れが図解でわかる。『{{sfn|早わかり昭和史』[[古川隆久]]|p=144 下段4行目 - 8行目</ref>}}
 
義務教育のみしか卒業していない([[中等教育#後期中等教育を行う学校・教育施設|後期中等教育]]を受けていない)中卒者を送り出す側の事情として、特に[[1970年]](昭和45年)頃までの地方では、所得があまり高くなく高等学校などに進学させる余裕がない世帯が多かったので、子供が都会の企業に就職することで経済的にも自立することを期待して、都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが、保護者にも学校側にも存在した。こうした状況の下、中学校も企業の求人を生徒に斡旋して集団就職として送り出した。
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[[東京都特別区]]の工場街・商店街のある[[足立区]]・[[葛飾区]]・[[大田区]]・[[墨田区]]・[[新宿区]]・[[江東区]]などで「金の卵たる中卒者」が多く居住した地区がある。
 
[[1950年]](昭和25年)に都会では教育熱で学歴インフレが進んでいったので、中学卒業後に就職者が多かった東北や九州などの地方に求人募集の的を絞り、中卒者の求人倍率は、[[1952年]](昭和27年)に1倍を超えて、[[団塊の世代]]が中学校を卒業した[[1963年]](昭和38年)から[[1965年]](昭和40年)には、男子・女子とも求人倍率は3倍を超えていた。
 
==集団就職・低学歴労働者の歴史==
===戦前における集団就職===
1930年代、[[人身売買]]代わって学卒者の集団就職が行われるようになった。集団就職の最初の事例とされるのは1935年(昭和10年)3月、秋田県の事例である。これは前年、[[東北凶作#1934年の大凶作|凶作に見舞われた東北地方]]の救済策として大阪鉄工業組合大阪合金会が実施した当地の少年工の集団採用であった<ref>{{sfn|山口覚 「[https://hdl.handle.net/10236/00025784 戦時体制下の集団就職 : 一九三九年秋田発「日本最初」の就職列車を中心に]」 『関西学院史学』41号 関西学院大学史学会、|2014年3月、11‐12頁。</ref>|p=11-12}}。その後1939年(昭和14年)4月4日になって「就職列車」の言葉が初めて現れ、さらに4月8日には史上初の「専用臨時就職列車」が秋田発上野行きとして運行された。これらの集団就職は秋田県だけでなく東北6県の広域で企画されたものだった<ref>{{sfn|山口覚|2014年、13‐16頁。</ref>|p=13-16}}
 
===高度経済成長期における集団就職===
終戦後早い時期から集団就職は再開されており、1947年(昭和22年)2月、秋田県から群馬県への集団就職が行われた際の引率者による記録が残っている<ref>{{sfn|山口覚|2014年、21‐22頁。</ref>|p=21-22}}。集団就職列車の再開第1号は1951年(昭和26年)3月29日、長野発名古屋・三重・京都・大阪方面行きの「織女星」号である<ref>{{sfn|山口覚|2014年、|p=22-23頁。</ref>}}
 
====移動手段====
典型的な集団就職の形態として、[[農家]]の次以降の子が、[[中学校]]や[[高等学校|高校]]を卒業した直後に、主要都市の[[工場]]や[[商店]]などに就職するために、[[臨時列車]]に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。
 
一説には[[1955年]](昭和30年)から始まったとされ、東北からは[[上野駅]]までの就職列車が運行された<ref name="ae20110702">{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20130623085434/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122_02.html|newspaper=朝日新聞・夕刊|title=昭和史再訪 集団就職始まる 昭和30年3月 金の卵、上野駅に降り立った|author=畑川剛毅|date=2011-07-02|accessdate=2013-03-15}} - ウェブアーカイブ</ref>。ただし、これには異説もあり、当時の労働省の指導で「集団就職列車」の名称の列車が運行された時期の起点である[[1963年]](昭和38年)を起点と見ることもでき、逆に実態としては[[1954年]](昭和29年)以前からそうした列車が運行されていたとする説もある<ref name="kotobank"/><ref name="hashimoto11">{{sfn|橋本,2005,p.11.</ref>|2005|p=11}}。集団就職列車は[[1954年]](昭和29年)4月5日15時33分[[青森駅|青森]]発[[上野駅|上野]]行き[[臨時列車|臨時]][[夜行列車]]から運行開始され、[[1975年]](昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は[[東京]]が最も多く、中でも[[上野駅]]のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた[[井沢八郎]]の『[[あゝ上野駅]]』がその情景を表しているとして有名である。上野駅などでは、[[中小企業]][[経営者]]が駅に迎えに行き、就職者は就職先ごとにグループ分けされた。九州や[[沖縄県]]などの[[離島]]からは[[貨客船]](フェリー)が運行された。
 
集団就職は、地方公共団体などが深く関わって行われており、集団就職列車には、そうした組織の職員が同乗していることもよくあった。[[秋田県]]では県職業安定課や各地の職業安定所の職員が列車に同乗していた<ref name="hashimoto10-11">{{sfn|橋本,2005,pp.|2005|p=10-11.</ref>11}}。また[[1960年]](昭和35年)から[[1970年]](昭和45年)までは、毎年5月の連休前後に[[東京]]の[[日本青年館]]で関東地方に就職した集団就職者を対象とした激励大会を催し、県知事が出向いて挨拶するなどしていた<ref name{{sfn|橋本|2005|p="hashimoto11" />11}}
 
====要因====
{{出典の明記|section=1|date=2017年1月}}
; 人口学的・経済学的要因
:戦後の[[高度経済成長]]で、[[大企業]]の[[サラリーマン]]や[[公務員]]は高卒者や大卒者を採用したが、その結果、都市部([[東京都]]、特に[[足立区]])などの町工場や個人商店は人手不足であった。日本の敗戦まで農村では農業は跡継ぎの長男のみが相続していて、田畑を相続できず食えない農家の次男・三男は戦前まで軍隊で養われていた<ref>『日本近現代史入門 {{sfn|黒い人脈と金脈 単行本』広瀬 隆 (著)|p=452頁 </ref>}}。次男など年少の男性は[[家督]]を[[相続]]した[[兄]]である[[長男]]の扶養家族となっていた。次男以下は[[農業]]の手伝いをするという社会だった。農村では農家の次男・三男について、就職などの雇用問題や、結婚して家庭生活を過ごせるかの家族問題があった。[[東北地方]]などの農村では一家の平均兄弟数が6人以上と多く人口が過剰であり、人手不足の都市部と人口爆発の農村部の利害が一致した。また、1960年前後には[[エネルギー革命]]が起こってエネルギー源が国内産の[[石炭]]から外国産の[[石油]]に変わったために国内の[[炭鉱]]の多くが閉山に追い込まれ、[[石炭産業]]という[[基幹産業]]を失った旧産炭地においても余剰人口が急増した。これらの旧産炭地の青少年層も都市部への新たな労働力供給源となった。安い給料で文句を言わず働いてくれる若い人間を[[京浜工業地帯]]・[[中京工業地帯]]の上野駅でノボリを立てて歓迎する雇い主が求めた結果、昭和30年1950代に15歳から24歳の働き盛りに東京都の人口が一挙に100万人近くも急増する人口の大移動が起きた<ref>『日本近現代史入門 {{sfn|黒い人脈と金脈 』広瀬 隆 (著)|p=453頁 </ref>}}
; 教育学的要因
:進学率の問題として、高度経済成長期の日本は中卒者および中卒見込者の高校進学率ですら半数程度であり、当時の大学進学率に至っては短期大学を含めても1割程度でしかなく、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層以上の通う上級学校」とみなされていた。このため高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。り、また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。
; 経済学的要因
:[[農業]][[林業]][[漁業]]の[[第一次産業]]が中心の社会で自営業が多かったこともある。全日制高校に進学して普通の環境で勉強したくても家庭の事情で進学できず、やむをえず定時制高校に進学する若者がたくさんいた。彼らは町工場や商店で働き、中卒労働者の若者が[[井沢八郎]]の『[[あゝ上野駅]]』の歌に共感したことに象徴されるように[[東北地方]]や[[九州地方]]から[[太平洋ベルト|4大工業地帯]]を目指して集団就職列車で都会に向かい、15歳で経済的に自立して社会人となり実質的に成人した。
 
====金の卵(きんのたまご)====
[[日本]]の[[高度経済成長]]を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。[[1948年]](昭和23年)に新制中学が誕生した際に[[小学校]]卒業までであった[[義務教育]]の期間が[[中学校]]卒業までの9年間に延長された。この[[学制改革]]を契機に、戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。
 
戦前の[[高等小学校]](基本は2年制)が[[1948年]]に新制中学として義務教育化されたことで、中学卒業後すぐに社会に出る若者が生まれ、彼らが'''金の卵'''と呼ばれた。後には、「[[ダイヤモンド]]」、「月の石」などとも言われたとされる<ref name="ae20110702" />。
 
高度経済成長を支えた「金の卵」であったが、学力が高いにもかかわらず家庭の経済的理由で[[全日制高校]]進学が困難となった若者も多く、[[公立中学校]]卒業後に企業で働きながら[[定時制高校]]・[[通信制高校]]に進学することも多かった。さらに大学の[[夜間学部]]・[[通信教育部]]に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であったことと、仕事と学業の両立が難しいことから、定時制高校のみならず、仕事も(15 - 22%22%の高確率で)やめるものもいた<ref>時代の流れが図解でわかる。『{{sfn|早わかり昭和史』[[古川隆久]]|p=144 下段14行目 - 145頁4行目</ref>}}。中卒・高卒の男女は大卒と比べ給与が低く、社宅など福利厚生の面でも大きな差があった。
 
[[1964年]](昭和39年)に「[[金の卵]]」の言葉が[[流行語]]となった。
 
====生活環境====
[[公共職業安定所]]からも農村や地方の中学校に求人を出していた。求人倍率も3.3倍前後の高倍率であり[[人手不足]]であった。企業側から出向いて勧誘を行い、賃金や厚生施設を充実させ<ref>時代の流れが図解でわかる。『{{sfn|早わかり昭和史』[[古川隆久]]|p=144 下段9行目 - 13行目</ref>}}、また高度な技術を習得させた。
 
職種としては[[ブルーカラー]](特に製造業)やサービス業(特に商店や飲食店)での単純労働が主体であり、男子の中卒労働者の統計結果は工員が過半数を占め、次に多いのは[[職人]]であり、次に多いのは[[店員]]の順番であり、女子の中卒労働者の統計は[[ブルーカラー|工員]]が4割で最多であり、次に多いのは店員であり、続いて[[事務員]]の順で多かった。男子とは異なり、女子はほとんどが25歳までに結婚退職する時代であったため、工場での補助作業や事務などといった補助的な職種に就く者が多かった。
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安い労働力を大量に供給する集団就職によって日本の[[高度経済成長]]が支えられたと言える。また、[[1967年]](昭和42年)の[[美濃部亮吉]][[東京都知事]]の誕生を皮切りに[[1970年代]]後半まで大都市を中心に見られた[[革新自治体|革新首長]]の支持基盤になったとも言われている。
 
[[池田内閣]]は人づくり政策を発表して、教育に力を入れた。技術革新のため知識を備えた高卒以上の若い労働力が必要となり、1966年(昭和41年)度の[[中央教育審議会]]の答申では[[高等学校]]を少数のエリートコースと、技術労働者養成コースにふるい分けることが主張された<ref>世界と日本 (新版 ジュニア版・日本の歴史)329頁</ref>。
 
====退潮と終焉====
[[高度経済成長]]期が終わり[[安定成長期]]に移ると高校進学率の上昇や産業構造の変化により、集団就職は退潮するようになる。主な要因としては、以下のことが挙げられる。
; 進学率の上昇
:[[1960年代]]後半以降は経済が安定し、[[所得倍増計画]]により各家庭の所得が増加したことや[[1969年]](昭和44年)の[[第32回衆議院議員総選挙]]で高校の[[義務教育]]化を政治公約にした[[日本社会党]]<ref>[[1969年]](昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙の選挙公報(日本社会党の政治公約)</ref> や「15の春を泣かせない」をスローガンとする高校全入運動の取り組みもあり、低所得層には[[奨学金]]を給付することで高校進学率が上昇し、高卒労働者が中卒労働者を上回った。[[新人類]]世代が進学する頃には高校進学率が高くなったため、相対的かつ自然に中卒者の数が低下した。
:即戦力とされた技術職は、工業高校などの高卒労働者や[[外国人労働者]]が担うようになった。[[鉄道空白地帯]]の解消など、[[公共交通機関]]の整備も高校進学率の上昇に拍車をかけた。例として[[岩手県]][[大船渡市]]旧[[三陸町]]域では1960年代まで公共の交通機関は路線バスしかなく、町内に高等学校のない同町の1969年(昭和44年)の高校進学者は約5割に留まっていたが、[[1970年]](昭和45年)には[[日本国有鉄道]](国鉄)盛線(現・[[三陸鉄道リアス線]])が開業した。盛線は[[特定地方交通線]]に指定されるほどの赤字路線であったが、大量輸送と速達性・定時性で優位となる鉄道路線の開業効果もあり、[[1974年]](昭和49年)には約7割に上昇した<ref>鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル別冊No.34 懐かしの国鉄列車PART I 1980?1983』p.132-133</ref>。なお、盛線は1984年(昭和59年)に国鉄から[[三陸鉄道]]へ経営転換されている。
; [[近代化]]・[[工業化]]による[[リストラ|合理化]]による単純労働者の減少
:製造業では合理化の一環として工場の[[オートメーション]]化を推進させた。その結果、単純労働者の需要が減少し、それまで単純労働者としてもてはやされていた中卒者の需要が減少した。オートメーション化のため導入された機器は[[工業高校]]卒業以上の知識が必要で中卒者には手に余るものとなり、製造業界は高卒者優遇の時代に突入した<ref>時代の流れが図解でわかる。『{{sfn|早わかり昭和史』[[古川隆久]]|p=145 8行目 - 13行目</ref>}}
; 年少者に対する労働条件・資格取得などの制約
:18歳未満の労働者は年少者として扱われるため、国家資格や免許の取得が制限されたり、[[労働基準法]]の規定で18歳未満の女子と16歳未満の男子は深夜労働や時間外労働ができなかったり危険有害作業が制限されたりするなどの制約が多く、中卒者(正確には15歳 - 以上18歳未満までの者)の採用を控え、中小企業でも高卒以上を採用することが多くなった。
; 経済の低迷
:[[1964年]](昭和39年)後半から[[1965年]](昭和40年)には証券不況により、経済が低迷しはじめた。[[1974年]](昭和49年)には[[オイルショック]]で経済がさらに低迷したこともあり、労働に際して制約が多い中卒者の新卒採用を控える企業が増加した。
以上のように中卒者の90%以上が高等学校([[中等教育#後期中等教育を行う学校・教育施設|後期中等教育機関]])または[[高等専門学校]]に進学することで、相対的に中卒の就職者は1割未満となり、またかなりの企業でもが入社条件として「'''高卒以上'''」と言う学歴制限を課すようになった。そのため、特に中卒者を対象に行っていた集団就職は成り立たなくなり、[[1970年代]]以降廃止する地域が現れた。[[1975年]](昭和50年)に最後の集団就職列車が運行され、[[1976年]](昭和51年)には集団就職は[[沖縄県]]のみとなったため、[[1977年]](昭和52年)に[[労働省]](当時)は集団就職を完全に廃止した<ref name="kotobank"/>。金の卵たる中卒者の集団就職の時代は終焉する<ref name="ae20110702" />。
 
===(参考)現代における低学歴労働者===
{{see also|就職活動#中学生の就職活動}}
高校への全入運動が定着し、低学力・非行・貧困・不登校・病弱・障害など特殊な事情で高校進学が困難な場合を除いてほとんどの中学生が高校へ進学し、高校への進学率が90%を超えたことで「高校も(事実上の)義務教育」と化するようになった。
 
それに加え[[バブル時代]]以降は、[[円高]]に伴い[[製造業]]が生産拠点を次々と日本国外に移転するようになり、中卒者向けの仕事はますます減少した。さらに、平成初期までは中卒でも[[理容師]]や[[美容師]]になることができたが、現在ではほとんどで中卒で美容師・理容師になることはできなくなり、高校を卒業して美容学校に入学する方法に変更されたほか、パートやアルバイトなどの[[非正規雇用]]ですら高卒以上の学歴条件を課す企業もあり、中卒者にとっての就職はハードルが高くなった。
 
その後[[大学全入時代]]が到来し、大学の進学率も[[2009年]](平成21年)には50%を超え、高学歴化が進行し、中卒者が[[社会的少数者]]となった現在の日本では中卒で就職することは一般的ではなくなった。
 
一方で、[[調理師]]や伝統工芸、[[鳶職]]などの[[職人]]、[[相撲]]の[[力士]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]・[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、[[伝統芸能]]の役者や[[舞妓]]などは現在でも実力主義が根付いており、個人の技量や意欲に依存しやすいため若年者の起用が優遇され、高い学力を要求されないことから現在でも中卒後に仕事を始める人もいる<ref>[[藤井聡太]]に至っては、卒業を目前に高校を中退した</ref>。また、[[競馬]]の[[騎手]]などでも年齢的および身体の成長面などから、高卒以上が不利な職業も存在する。
 
[[トヨタ自動車]]に中卒後に採用される[[トヨタ工業学園]]([[認定職業訓練]]を実施する[[職業能力開発校]])をはじめとする[[企業内学校]]の社員兼生徒や、[[自衛隊]]に中卒後に採用される[[陸上自衛隊少年工科学校]]([[陸上自衛隊生徒]])など、満15歳の中学校卒業後、高校には進学せず就職する者もいて、これらの労働者はかつての「金の卵」と同じような雇用形態である。
 
== 日本国外における同種の労働者の事例 ==
複線型教育の[[ドイツ]]では4年間の[[初等教育]]の後、[[中等教育]]では進路が職業人向け学校([[基幹学校]]、[[実科学校]])と[[高等教育]]向けの学校である[[ギムナジウム]](日本の中高一貫校に相当)に分けられている。このような教育課程は「[[マイスター制]]」と呼ばれていて、中等教育機関への進学率はギムナジウムが約20%20%、実科学校が約33%33%、基幹学校が約47%47%である。基幹学校卒業生の多くは就職し、工員や職人などになる者もおり嘗ての日本のような「金の卵」に近い雇用形態が未だに根付いている。
{{Main|ドイツの教育}}
 
== 関連する作品 ==
* [[あゝ上野駅]]
* [[どっこい大作]]
* [[梅ちゃん先生]]
* [[ひよっこ (テレビドラマ)|ひよっこ]]
* [[深川通り魔殺人事件]]
* [[サザエさん]]
* [[いのち (NHK大河ドラマ)|いのち]]
以下は映画
* [[風と樹と空と]] - 翌1965年から連続TVドラマも
* [[ALWAYS 三丁目の夕日]]
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|230em}}
 
== 参考文献 ==
* {{cite journalbook|和書|author=橋本紀子|year=2005 |title=「青年の社会的自立と教育」に関する社会史的研究 : 昭和30年代([[1950(1950年代]]後半から[[1960年代]]前半)の[[秋田県]]における集団就職に関する資料調査|author=橋本紀子 |journal= 教育学研究室紀要「教育とジェンダー」研究 |issue=6 |pages = 8-19 |yearurl = https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000155repository_KJ-9864|naid = 110007129877|ref =2005}} {{NAIDharvid|110007129877橋本|2005}}}}
{{参照方法|date=2014年11月}}
* {{cite book|和書|author=古川隆久 |year=2006 |author-link=古川隆久 |title=早わかり昭和史 : 時代の流れが図解でわかる! |publisher=日本実業出版社 |NCID=BA78410208 |ISBN=4534040989 |url=http://id.ndl.go.jp/bib/000008247513 |ref={{harvid|早わかり昭和史}}}}
* [[加瀬和俊]]、『集団就職の時代-高度成長のにない手たち』、[[青木書店]]、1997、ISBN 4-250-97022-1
* {{cite book|和書|author=広瀬隆 |title=日本近現代史入門 : 黒い人脈と金脈 |publisher=集英社 |year=2020 |series=集英社文庫 |NCID=BC0346684X |ISBN=9784087440812 |url=http://id.ndl.go.jp/bib/030224491 |ref={{harvid|黒い人脈と金脈}}}}
*青少年問題研究会編 「流入青少年実態調査報告書 -東京都における青少年の流入状況とその後の生活環境・勤務条件について-」[[1964年]](昭和39年)
* {{cite journal|和書|author=山口覚 |date=2014-03 |title=戦時体制下の集団就職 : 一九三九年秋田発「日本最初」の就職列車を中心に |url=https://hdl.handle.net/10236/00025784 |journal=関西学院史学 |ISSN=0451-1263 |publisher=関西学院大学史学会 |volume=41 |pages=1-27 |hdl=10236/00025784 |naid=120006306029 |ref=harv}}
*昭和史戦後編、(著作)[[半藤一利]]
*早分かり昭和史、時代の流れが図解でわかる、(著者)[[古川隆久]][[日本大学]][[文理学部]]史学科教授
*{{cite journal|和書|title=「青年の社会的自立と教育」に関する社会史的研究 : 昭和30年代([[1950年代]]後半から[[1960年代]]前半)の[[秋田県]]における集団就職に関する資料調査|author=橋本紀子|journal=教育学研究室紀要「教育とジェンダー」研究|issue=6|pages=8-19|year=2005}} {{NAID|110007129877}}
 
 
==脚注==
===出典の明記がない文献===
{{Reflist|2}}
* {{Cite book |和書|title=集団就職の時代 : 高度成長のにない手たち | publisher=青木書店 | author=加瀬和俊 | year=1997 | isbn=9784250970221 | ref={{SfnRef|加瀬|1997}} }}
* [[半藤一利]]『昭和史戦後編』
*青少年問題研究会編  「流入青少年実態調査報告書  -東京都における青少年の流入状況とその後の生活環境・勤務条件について-」[[1964年]](昭和39年)
 
==関連文献==
===書籍===
* {{Cite book |和書|title=集団就職 : 高度経済成長を支えた金の卵たち |publisher=弦書房 |author=澤宮優 |year=2017 |isbn=9784863291515 |ref={{SfnRef|澤宮|2017}} }}
* {{Cite book |和書|title=現場へようこそ : 出稼ぎ・集団就職・雇用と就職の近現代史 |publisher= 葛飾区郷土と天文の博物館|editor = 葛飾区郷土と天文の博物館 |year=2010 |ncid = BB04425771 |ref={{SfnRef|葛飾区郷土と天文の博物館編|2010}} }}
* {{Cite book |和書|title=集団就職とは何であったか : 「金の卵」の時空間 |publisher=ミネルヴァ書房 |author=山口覚 |year=2016 |isbn=9784623074570 |ref={{SfnRef|山口|2016}} }}
 
===論文===
* {{Citation |和書|first = 高志 |last = 中澤 |title = 高度成長期の地方織物産地における「集団就職」の導入とその経緯——福井県勝山市の事例から—— |url = https://doi.org/10.4157/grj.88.49 |journal = 地理学評論 Series A |volume = 88 |issue = 1|pages = 49-70 |year=2015 |doi = 10.4157/grj.88.49 |ref = harv}}
* {{Citation |和書|first = 覚 |last = 山口 |title = 就職列車と就職船─戦後大分県の集団就職に見る集団赴任の展開─ |journal = 関西学院史学 |volume = 45 |pages = 1-31 |year=2019 |url = https://hdl.handle.net/10236/00027641 |ref = harv}}
* {{Citation |和書|first = 覚 |last = 山口 |title = 大手企業と集団就職─小泉製麻における若年女性労働者の赴任と生活─ |journal = 人文論究 |issue = 1 |volume = 69 |pages = 41-69 |year=2019 |url = https://hdl.handle.net/10236/00027898 |ref = harv}}
* {{Citation |和書|first = 覚 |last = 山口 |title = 大手企業と集団就職─小泉製麻における若年女性労働者の赴任と生活(その2)─ |journal = 人文論究 |issue = 1 |volume = 70 |pages = 47-75 |year=2020 |url = https://hdl.handle.net/10236/00028732 |ref = harv}}
* {{Citation |和書|first = 覚 |last = 山口 |title = 陶都瀬戸市への集団就職─遠隔地での求人の制度化と若年労働者の転職現象を中心に─ |journal = 人文論究 |issue = 3 |volume = 70 |pages = 47-75 |year=2020 |url = https://hdl.handle.net/10236/00029152 |ref = harv}}
 
== 関連人物 ==
* [[森進一]] - [[歌手]]。中学卒業後、集団就職で鹿児島から大阪に移る。のち芸能界入り。
* [[菅義偉]] - [[政治家]]、第99代[[内閣総理大臣]]。高校卒業後、集団就職で都内の工場に勤務。その後[[法政大学]]に入学。
* [[三重ノ海剛司]] - 第57代[[横綱]]、元[[日本相撲協会]]理事長。中学卒業後、集団就職で上京一度帰郷した後に相撲界に入門。
* [[大地康雄]] - [[俳優]]。高校卒業後、集団就職で沖縄から上京。のち芸能界入り。
* [[ムキムキマン]] - [[タレント]]。高校卒業後、集団就職で青森から上京。のち芸能界入り。
* [[永野一男]] - [[豊田商事]]会長。中学卒業後、集団就職で[[島根県]]から日本電装(現・[[デンソー]])に入社。のち豊田商事を創業し、詐欺事件を起こして、刺殺される([[豊田商事会長刺殺事件]])。
 
== 関連項目 ==
* [[就職活動]] - [[新卒一括採用]]
* [[子どもの貧困]]
* [[出世払い]]
* [[夜学]] - [[夜間中学]] - [[夜間学部]] - [[企業内学校]]
* [[東京一極集中]] - [[過疎]]
* [[あけぼの (列車)#急行「津軽」|急行「津軽」]] - いわゆる出世列車の代表格
* [[若者就職支援協会]] - 低学歴者向けの就職支援機関
* [[森進一]] -
* [[菅義偉]] -
* [[三重ノ海剛司]] - 中学卒業後、集団就職で上京、一度帰郷した後に相撲界に入門。
 
== 外部リンク ==
* 昭和史再訪セレクションVol.71「集団就職始まる 金の卵、上野駅に降り立った 昭和30年3月」(朝日新聞『どらく?地球発』;全2頁)
: [https://web.archive.org/web/20121214232551/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122.html 1ページ目]    [https://web.archive.org/web/20130623085434/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122_02.html 2ページ目]  ※何れも現在は[[インターネットアーカイブ]]に残存
* [http://www.mutusinpou.co.jp/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%B4%A5%E8%BB%BD/2009/02/5440.html 「金の卵」が集団就職] - 陸奥新報
 
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