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| 英語名=Xuanzang
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'''玄奘'''(げんじょう、[[602年]] - [[664年]][[3月7日]])は、[[唐|唐代]]の[[中国]]の[[訳経僧]]。玄奘は[[戒名]]であり、俗名は{{読み仮名|'''陳褘'''|チンイちんい}}。[[諡]]は'''大遍覚'''<ref name="toumei">『[[全唐文]]』「[[s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)]]」</ref>で、尊称は[[法師]]、[[三蔵]]など。'''玄奘三蔵'''と呼ばれ、[[鳩摩羅什]]と共に二大訳聖、あるいは[[真諦]]と[[不空金剛]]を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
 
[[629年]]に[[シルクロード]]陸路で[[インド]]に向かい、[[ナーランダ僧院]]などへ巡礼や仏教研究を行って[[645年]]に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、[[法相宗]]の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『'''[[大唐西域記]]'''』として著した。
 
== 生涯 ==
=== 仏教への帰依 ===
陳褘は、[[隋]]朝の[[仁寿 (隋)|仁寿]]2年([[602年]])、[[洛陽市|洛陽]]にほど近い[[豫州|洛州]]緱氏県<ref name="gyoujou">{{Citation|title=『大正新修大蔵経』故三蔵玄奘法師行状|volume=50| year=1964 |publisher=大蔵出版株式会社|url=http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php}}</ref><ref name="zoku">{{Citation|title=『大正新修大蔵経』[[続高僧伝]] 卷第四|volume=50| year=1964 |publisher=大蔵出版株式会社|url=http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php}}</ref><ref name="jion">{{Citation|title=『大正新修大蔵経』大慈恩寺三蔵法師伝|volume=50| year=1964 |publisher=大蔵出版株式会社|url=http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php}}</ref>(現在の[[河南省]]洛陽市[[偃師区]]緱氏鎮)で陳慧(または陳恵)の四男<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="jion">< /ref>として生まれた。母の宋氏は洛州長吏を務めた[[宋欽 (隋)|宋欽]]の娘である<ref name="gyoujou">< /ref>。[[字]]は玄奘<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="jion">< /ref>で、戒名はこれを[[諱]]とした。生年は、上記の602年説の他に、[[598年]]説、[[600年]]説がある<ref name="mae">[[前嶋信次]]『玄奘三蔵 史実西遊記』[[岩波新書]]、1952年</ref>。
 
[[陳 (姓)|陳氏]]は、[[後漢]]の[[陳寔]]<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="zoku">< /ref><ref name="jion">< /ref>を祖にもつ[[陳留郡|陳留]]出身の[[士大夫]]の家柄で、地方官を歴任した。特に祖父の[[陳欽]](または陳山)は[[北魏]]の時代に[[上党郡]][[太守]]になっている<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="jion">< /ref>。その後、祖父である陳康は[[北斉]]に仕え、緱氏へと移住した<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="zoku">< /ref><ref name="jion">< /ref>。
 
8歳の時、『[[孝経]]』を父から習っていた陳褘は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「[[曾子]]ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳褘の神童ぶりが評判となった<ref name="jion">< /ref>。
 
10歳<ref name="mae">< /ref>で父を亡くした陳褘は、次兄<ref name="jion">< /ref>の長捷(俗名は陳素<ref name="zoku">< /ref>)が[[出家]]して洛陽の浄土寺に住むようになった<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="zoku">< /ref><ref name="jion">< /ref>のをきっかけに、自身も浄土寺に学び、11歳にして『[[維摩経]]』と『[[法華経]]』を誦すようになった<ref name="zoku">< /ref>。ほどなくして[[年分度者|度僧]]の募集があり、陳褘もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。これを知った隋の[[九寺|大理卿]]<!-- [[九卿]] -->である{{仮リンク|鄭善果|zh|鄭善果}}は、陳褘に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳褘は「遠くは[[如来]]を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた<ref name="jion">< /ref>。これに感じ入った鄭善果は、「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="jion">< /ref>陳褘は[[度牒]]を得て出家した。こうして兄と浄土寺に住み込むことになり、13歳で『[[大般涅槃経|涅槃経]]』と『[[摂大乗論]]』を学んだ<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="zoku">< /ref><ref name="jion">< /ref>。
 
[[武徳]]元年([[618年]])、[[隋]]が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄と[[長安]]の荘厳寺<ref name="zoku">< /ref>へと移った。しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="zoku">< /ref><ref name="jion">< /ref>。かつて[[煬帝]]が洛陽に集めた名僧らは主に[[益州]]に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、武徳2年([[619年]])に兄と共に[[成都]]へと至って『[[阿毘達磨|阿毘曇]]論』を学んだ。また益州各地に先人を尋ねて『涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究を進め、歴史や[[老荘思想]]<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="jion">< /ref>への見識を深めた。
 
武徳5年([[622年]])、21歳の玄奘は成都で[[波羅提木叉|具足戒]]を受けた<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="jion">< /ref>。ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘は一人で旅立ち、商人らに混じって[[三峡]]を下り、[[荊州]]の天皇寺で学んだ<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="zoku">< /ref><ref name="jion">< /ref>。その後も先人を求めて[[相州]]へ行き、さらに[[趙州]]で『[[成実論]]』を、長安の大覚寺で『[[阿毘達磨倶舎論|倶舎論]]』を学んだ<ref name="gyoujou">< /ref><ref name="jion">< /ref>。
 
=== 西域の旅 ===
玄奘は、[[仏典]]の研究には原典に拠るべきであると考え、また、[[仏跡]]の巡礼を志し、[[貞観 (唐)|貞観]]3年([[629年]])、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながら[[河西回廊]]を経て[[高昌]]に至った。
 
高昌王である[[麹文泰|麴文泰]]は、熱心な仏教徒であったため、当初は高昌国の国師として留めおこうとしたが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助し、通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせた。玄奘は西域の商人らに混じって[[シルクロード#オアシスの道|天山南路]]の途中から峠を越えて[[シルクロード#オアシスの道|天山北路]]へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、[[ヒンドゥークシュ山脈]]を越えて[[インド]]に至った。
 
[[File:Nalanda University ruins.JPG|thumb|right|ナーランダ僧院]]
[[ナーランダ大学僧院]]では[[戒賢]](シーラバドラ)に師事して[[唯識]]を学び、また各地の仏跡を巡拝した。[[ヴァルダナ朝]]の王[[ハルシャ・ヴァルダナ]]の保護を受け、ハルシャ王へも進講している。
 
こうして学問を修めた後、[[シルクロード#オアシスの道|西域南道]]を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観19年1月([[645年]])に、657部の経典を[[長安]]に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・[[太宗 (唐)|太宗]]も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。
 
太宗が玄奘の密出国を咎めなかった別の理由として、玄奘が西域で学んできた情報を[[政治]]に利用したい太宗の思惑があったとする見方もある。事実、玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められたが、彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承した。その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じており、これに応ずる形で後に編纂された報告書が『[[大唐西域記]]』である。
 
=== 帰国後 ===
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== 訳経 ==
{{出典の明記|date=2012年7月|section=1}}
玄奘自身は亡くなるまでに国外から持ち帰った経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができなかったが、それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『[[大般若波羅蜜多経|大般若経]]』16部600巻(漢字にして約480万字)を含め76部1347巻<ref>『開元録』大正55巻552頁『貞元録』大正55巻852頁。もちろん他経録などの異説もある(『仏書解説大辞典』14巻146頁)</ref>(漢字にして約1100万字)に及ぶ。玄奘は[[サンスクリット|サンスクリット語]]の経典を[[中国語]]に翻訳する際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の[[鳩摩羅什]]らの漢訳仏典を{{読み仮名|'''旧訳'''| くやく }}、それ以後の漢訳仏典を{{読み仮名|'''新訳'''| しんやく }}と呼ぶ。
 
『[[般若心経]]』も玄奘が翻訳したものとされているが、この中で使われている[[観音菩薩|観自在菩薩]]は、[[鳩摩羅什]]による旧訳では『[[法華経|観音経]]』の趣意を意訳した[[観音菩薩|観世音菩薩]]となっている。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、[[サンスクリット|サンスクリット語]]「{{IAST|Avalokiteśvara}}(アヴァローキテーシュヴァラ)」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を批判している。
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[[日中戦争]]当時の、[[1942年]]([[昭和]]17年)に、[[南京市]]の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。それは、縦61cm横79cm高さ58cmの石槨で、中には縦49cm横49cm高さ31cmの石棺が納められていた。石棺の内部には、[[北宋]]代の[[1027年]]([[天聖]]5年)と[[明]]の[[1386年]]([[洪武]]19年)の葬誌が彫られていた。石棺内に納められていたのは、頭骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。
 
この玄奘の霊骨の扱いには関しては、{{要出典範囲|date=2021年11月|日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た}}。中国側は、[[北京市|北平]]の[[法源寺 (北京市)|法源寺]]内・大遍覚堂に安置された。その他、各地にも分骨され、南京の[[霊谷寺]]や[[成都市|成都]]の浄慈寺など、数ヶ寺に安置される他、[[南京博物院]]にも置かれている。
 
日本へ渡った遺骨は、当初[[全日本仏教会|日本仏教連合会]]があった[[増上寺]]に安置されたが、[[第二次世界大戦]]中で空襲の拡大から、一時的に[[三学院]]([[埼玉県]][[蕨市]])<ref group="注釈">当時の日本仏教連合会の倉持秀峰副会長の自坊。中国での慰霊法要に参列し、遺骨を日本へ持ち帰っている。</ref>に移され、後に[[慈恩寺 (さいたま市)|慈恩寺]]([[さいたま市]][[岩槻区]])に疎開させた。戦後正式に慈恩寺に奉安され、[[1953年]](昭和28年)5月には「玄奘塔」が落慶した。[[1955年]](昭和30年)には[[台湾]]・[[玄奘寺]]、[[1981年]](昭和56年)には[[薬師寺]]([[奈良市]])の「玄奘三蔵院」へ分骨されている。
この時、日本で奉安されたのが、現[[さいたま市]][[岩槻区]]の[[慈恩寺 (さいたま市)|慈恩寺]]である。後に奈良市の[[薬師寺]]「玄奘三蔵院」に一部分骨された。[[第二次世界大戦]]後、慈恩寺の分骨は[[台湾]]・[[玄奘寺]]へ分骨された。
 
ただ、南京で発見されたものが頭骨だけであったため、他の骨は散逸したとも、そもそも興教寺から持ち去られたのは頭骨だけであるともされるが、詳細は不明である。
 
また、[[1957年]]には[[中華人民共和国]]の[[周恩来]][[国務院総理|総理]]によるインドの[[ジャワハルラール・ネルー]][[インドの首相|首相]]への提案で[[ナーランダ大学僧院]]に玄奘の舎利が分骨された<ref>{{cite web|url=http://www.tjwh.gov.cn/shwh/lywh/tjly/lssj/xzlg.htm|title=玄奘灵骨移供印度那烂陀寺|publisher=天津市文化メディア局|accessdate=2018-03-13}}</ref>。
 
== 著作・伝記 ==
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=== 大慈恩寺三蔵法師伝 ===
慧立と彦悰により伝記が編まれ、玄奘の死から24年後にあたる[[垂拱]]4年3月15日([[688年]])に『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が完成した。略称は『慈恩伝』<ref>訳書新版は『玄奘三蔵 西域・インド紀行』([[長澤和俊]]訳、[[講談社学術文庫]]、1998年)、前半部のみ収録</ref>
 
[[大正新脩大蔵経]]では、『大唐大慈恩寺三藏法師傳』としてNo.2053に収録されている(T50_220c)。また、[[興福寺]]と[[法隆寺]]の所蔵する[[院政|院政期]]の写本は共に国の[[重要文化財]]である。
====日本語訳====
*慧立、彦悰『玄奘三蔵 : 大唐大慈恩寺三蔵法師伝』、長澤和俊訳、光風社出版, 1985、光風社選書, 1988.10 
*『玄奘三蔵 西域・インド紀行』、[[長澤和俊]]訳、[[講談社学術文庫]], 1998 - 前半部のみを改訳
 
=== 続高僧伝 ===
{{Main|続高僧伝}}
『続高僧伝』は、[[道宣]]の編纂した中国僧の伝記集。ただし、『続高僧伝』が完成した[[645年]]は玄奘の帰国直後であるのに対し、玄奘の項には[[664年]]の死までが記されている。
 
== 派生したフィクション作品 ==
* 中国映画『三蔵法師・玄奘の旅路』(2016年)
 
=== 西遊記 ===
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
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{{Portal 仏教}}
* [[三蔵法師]]
* [[ナーランダ大学僧院]]
* [[瑜伽行唯識学派]]
* [[成唯識論]]
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{{commons&cat|Xuanzang|Xuanzang}}
* [http://sanzouhousi.com/ 三蔵法師~苦難の西域への旅]
* [httphttps://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ SAT大正新脩大藏經テキストデータベース]
* [https://www.youtube.com/playlist?list=PLmwYOQLkF8YgbfZR6Qf4UwzUC3vScyeis 佐々木閑「仏教再発見の旅」(動画)] - 第36~57回で玄奘三蔵法師の西域の旅を解説。
* [http://www.jionji.com/ 慈恩寺 板東三十三観音札所] - 「三蔵法師」の項目に遺骨の発見から玄奘塔に奉安されるまでの経緯が記載されている。
 
 
{{Buddhism2}}
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{{DEFAULTSORT:けんしようさんそう}}
[[Category:玄奘三蔵|*]]
[[Category:7世紀中国の翻訳家]]
[[Category:7世紀中国の僧]]
[[Category:中国の僧]]
[[Category:法相宗]]
[[Category:唐代の人物]]