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[[九九式艦上爆撃機|九九式艦爆]]18機=指揮官:飛行隊長[[江草隆繁]][[少佐]]、零戦9機=指揮官:分隊長[[飯田房太]]大尉
 
真珠湾攻撃は戦艦多数を撃沈する大戦果を挙げた。森拾三(雷撃隊2番機操縦士)によれば、事前に目標ではないと説明があったにもかかわらず、艦攻3-4機が[[フォード島]]北岸に停泊していた標的艦[[ユタ (戦艦)|ユタ]]を雷撃している<ref>[[#奇蹟の雷撃隊]]166頁</ref>。蒼龍は第二波攻撃隊から零戦3機<ref>[[#蒼龍飛行機隊調書(1)]]p.7</ref>、九九艦爆2機が未帰還となった<ref>[[#蒼龍飛行機隊調書(1)]]p.9</ref>。南雲機動部隊は所在不明の米空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]や[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]を捜索しながら日本への帰途についた<ref>[[#蒼龍飛行機隊調書(1)]]p.15</ref>。蒼龍飛行隊長[[江草隆繁]]少佐が[[山口多聞]]少将や柳本艦長を通じて米空母の徹底捜索と撃滅を進言し、一航艦の長官南雲中将や参謀長草鹿少将が艦隊の保全を優先したとする主張もある<ref>[[#天空からの拳]]196-197頁</ref>。
 
{{main|ウェーク島の戦い}}
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柳本艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死<ref>[[#1航艦戦闘詳報(4)]]p.47</ref>、その中には艦内の火災で脱出不可能となった機関部員が多く含まれていた。機関科の脱出者は定員300名中、30名弱でしかなく、弾薬運びなどの応援作業に派遣されて機関室にいなかった新兵が中心だった<ref>[[#証言(文庫)]]133頁</ref>。搭乗員戦死者は機上6名、艦上4名の合わせて10名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻5名)で<ref>澤地『記録 ミッドウェー海戦』、[[#天空からの拳]]255頁</ref>、[[江草隆繁]]飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。直衛隊の零戦数機が飛龍に着艦して戦闘を続けたが、同艦沈没と共に全機が失われた<ref>[[#MI海戦日誌(2)]]pp.44-45</ref>。[[戦闘詳報]]による蒼龍の沈没位置は{{coord|30|42|5|N|178|37|5|W|name=沈没地点}}<ref>[[#天空からの拳]]254頁、[[#1航艦戦闘詳報(4)]]p.46</ref>。のちに生存者は磯風から水上機母艦[[千代田 (空母)|千代田]]等に移り、日本本土へ戻った<ref>[[#証言(文庫)]]134、323頁</ref>。
 
なおアメリカ海軍省は潜水艦[[ノーチラス (潜水艦)|ノーチラス]]の報告から、ノーチラスが蒼龍を撃沈したと長く信じていた<ref name="ロード逆転264">[[#ロード、逆転]]264-266頁『米潜水艦攻撃の謎』</ref>。戦後、日本軍側将兵の多数の証言からノーチラスは艦型が似ていた蒼龍と加賀を間違えて報告した事が判明した<ref name="ロード逆転264"/>。
 
== 年表 ==
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== 艦長 ==
;艤装員長
# [[大野一郎]] 大佐:1935年12月23日<ref name="kanpou2694"/> - 1936年4月1日<ref name="kanpou2773"/>
# 奥本武夫 大佐:1936年4月1日<ref name="kanpou2773"/> - 12月1日<ref name="kanpou2976"/>
# 別府明朋 大佐:1936年12月1日<ref name="kanpou2976"/> - 1937年8月16日<ref name="jirei28"/>