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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 大内盛見
| 画像 = Oouchi Moriharu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 大内盛見像([[常栄寺 (山口市)|常栄寺]]蔵)
| 時代 = [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] - {{snd}}[[室町時代]]
| 生誕 = [[天授 (日本)|天授]]3年/[[永和 (日本)|永和]]3年([[1377年]])
| 死没 = [[永享]]3年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[1431年]][[8月6日]])
| 改名 = 六郎([[幼名]])→盛見
| 別名 = 六郎、大内介、周防守、古覚、道雄(法名)
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 法名:国清寺殿大先徳雄<br />法号:崇月院殿二品大先徳鳳大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[山口県]][[山口市]][[水の上町]]の[[洞春寺|{{small|正宗山|}}洞春寺]]<br />[[福岡県]]糟屋郡[[粕屋町]]酒殿区の[[泉蔵寺(伝大内盛見墓)|{{small|徳鳳山崇月院|}}泉蔵寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位上]][[京職|左京大夫]] <ref name="statistics">{{Cite web|和書|url= https://clayon.sakura.ne.jp/sblo_files/y-densho/image/rekidai03.pdf |format=PDF|publisher=|title= 大内氏歴代当主と山口3 26 大内盛見|access-date=2022-01-08}}</ref>
| 幕府 = [[室町幕府]][[相伴衆]]、[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]・[[豊前国|豊前]][[守護]]
| 主君 = [[足利義満]]→[[足利義持|義持]]→[[足利義量|義量]]→[[足利義教|義教]]
| 藩 =
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| 妻 =
| 子 = [[大内教弘|教弘]]、[[大内教幸|教幸]]、[[大内盛持|盛持]]
| 特記事項 = 家督継承者は甥(義弘の子)の'''[[大内持世]]'''。子の教弘はその養子となる。
| 特記事項 =
}}
 
'''大内 盛見'''(おおうち もりあきら/もりはる{{Refnest|group="注釈"|[[享保]]2年(1717年)刊行の『[[陰徳太平記]]』では「モリハル」とフリガナが振られているが、大内家滅亡以前に[[吉田兼右]]が記した『神宝諸事根元行事壇図』([[天理大学附属天理図書館]]吉田文庫所蔵)に掲載された系図では、「見」の字に「アキラ」とフリガナが振られている<ref>トーマス・コンラン「[https://scholar.princeton.edu/sites/default/files/tconlan/files/shiryo_shokai.pdf 吉田兼右が写した大内系図]」(『山口県史研究』第21号、2013年)</ref>。}})は、[[室町時代]]前期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[室町幕府]][[相伴衆]]、[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]・[[豊前国|豊前]]守護。[[大内氏]]の第11代当主。[[大内弘世]]の子。兄に[[大内義弘|義弘]]、[[大内満弘|満弘]]、弟に[[大内弘茂|弘茂]]、[[大内道通|道通]](みちなお?/ひろみち?)など。子に[[大内教弘|教弘]]、[[大内教幸|教幸]]、[[大内盛持|盛持]](もりもち)など。
 
== 生涯 ==
天授3年/永和3年(1377年)、大内弘世の6男として[[山口市|山口]]に生まれる。[[応永6]]3年([[13991396年]])[[応永の乱九州探題]]を起こ[[渋川満頼]]に対た兄・義弘が幕府軍と戦っ敗死する。兄の命により周防の守備についていた盛見は、兄の遺志を継ぐべく3代[[征夷大将軍|将軍少弐貞頼]][[足利義満菊池武朝]]への抵抗と大内氏の家督相続が反乱画策起こる。一方、と次と共に応永乱に参加していた盛見の弟[[大内満弘|満茂は兄の敗死]]と共に幕府九州降伏出陣、義満に臣従することでその後ろ盾を得兄の跡を継ごうとしたため、ここに盛見と弘茂によ後継者争いが起こった
 
応永6年([[1399年]])、[[室町幕府]]に対して[[応永の乱]]を起こした長兄の[[大内義弘|義弘]]が幕府軍と戦って敗死。兄の命により周防の守備についていた盛見は、兄の遺志を継ぐべく3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]への抵抗と大内氏の家督相続を画策する。一方、兄と共に応永の乱に参加していた盛見の弟・[[大内弘茂|弘茂]]は兄の敗死と共に幕府に降伏し、義満に臣従することでその後ろ盾を得て兄の跡を継ごうとしたため、ここに盛見と弘茂による後継者争いが起こった。
応永8年([[1401年]])、盛見は長門にて弘茂を討ち取り、弘茂の跡を継いだもう1人の弟道通をも滅ぼして家督を掌握した。幕府も盛見に対抗できるような人物がいなくなったため、やむなくその家督相続を追認している。
 
応永7年([[1400年]])に弘茂が周防・長門に下向すると敗退し一旦豊後に引き下がる。弘茂は守護として国内の平定に乗り出すが、翌応永8年([[1401年]])に、弘茂の留守を突いて反撃に出て長門[[下山城]]で弘茂を討ち取り、弘茂の跡を継いだもう1人の弟、[[大内道通|道通]]をも滅ぼした上、[[安芸国|安芸]]・[[石見国|石見]]に進撃して道通を支援した[[国人]]衆も降伏させ、家督を掌握した。更に道通の補佐を期待した[[大内満世]](満弘の子)も盛見に降伏してしまった。足利義満は盛見に対抗できるような人物をすべて失い、[[少弐氏]]・[[菊池氏]]に攻められている[[九州探題]][[渋川満頼]]の支援に乗り出す必要性もあったため、やむなく応永11年(1404年)には家督相続を追認、周防・長門守護職を安堵している。だが、応永10年4月28日に「周防・長門凶徒」として治罰の[[御判御教書]]を発して追討の対象としてきた盛見の討伐に失敗したことは義満にとっては屈辱であり、盛見も義満の在世中には決して上洛しなかった。なお、応永13年([[1406年]])頃に出家して徳雄と号した{{sfn|藤井崇|2013|pp=111-118, 121}}。
以後は幕命により九州の経営に尽力し、[[九州探題]][[渋川満直]]を援助して九州における騒乱を平定して豊前の守護にも任じられ、永享元年([[1429年]])に[[筑前国|筑前]]が幕府の[[御料所]]となると筑前の代官に任命された。しかし、[[少弐満貞]]や[[大友持直]]と筑前の領有をめぐって敵対関係となり、九州に遠征して両氏と戦ったが、永享3年(1431年)に[[筑前深江駅|筑前深江]]にて戦死した。[[享年]]55。
 
以後は幕命により九州の経営に尽力し、応永15年([[1408年]])に豊後守護職にも任命される。なお、この年、足利義満が病死している。応永16年([[1409年]])、盛見は上洛して在京、相伴衆として幕政に参加するなど幕府に重用された。応永32年([[1425年]])、九州探題[[渋川義俊]]が[[少弐満貞]]・[[菊池兼朝]]らに敗れると帰国して九州に下向し反乱を平定、以後は義俊の従弟で新たな九州探題[[渋川満直]]を援助して九州の勢力拡大に取り組み、永享元年([[1429年]])に再度上洛して新将軍となった[[足利義教]]に拝謁、[[筑前国|筑前]]が幕府の[[御料所]]となると筑前の代官に任命された。しかし、少弐満貞や[[大友持直]]と筑前の領有をめぐって敵対関係となり、九州に遠征して両氏と戦ったが、永享3年(1431年)に筑前国[[怡土郡]]にて戦死した(戦没地としては怡土荘説と深江荘説がある)。[[享年]]55{{sfn|藤井崇|2013|pp=121-122}}。盛見の死後、甥の[[大内持世]]・[[大内持盛|持盛]]兄弟が後継ぎ争いを起こし、持世が家督を継いでいる。
死後、後継ぎ争いの末に甥の[[大内持世]]が継いでいる。また、大友持直らの反乱を重く見た6代将軍[[足利義教]]は[[安芸国|安芸]]など近隣の[[国人]]に九州への出兵命令を下し、[[武田信繁 (室町時代)|武田信繁]]・[[小早川則平]]・[[河野通久]]らが九州に向かい持直らと交戦した。
 
なお、大友持直らの反乱を重く見た6代将軍足利義教は[[安芸国|安芸]]など近隣の国人に九州への出兵命令を下し、[[武田信繁 (安芸武田氏)|武田信繁]]・[[小早川則平]]([[小早川氏]])・[[河野通久]]らが九州に向かい持直らと交戦した。もっとも、足利義教も大内氏の力が強くなりすぎることを警戒して大友持直との和議も検討しており、これに対して盛見から異議が出されている<ref>『満済准后日記』永享3年6月8・9日条</ref>。だが、盛見の突然の戦没によって大友氏との和議の件はうやむやとなり、問題は次代の持世以降に引き継がれることになった{{sfn|藤井崇|2013|pp=137-138}}。
文人としても優れ、[[李氏朝鮮]]と通交して大きな利益を得ている。
 
文人としても優れ、[[京都五山]]の僧達と交わって[[禅]]を修め、応永25年([[1418年]])から永享3年に及ぶ[[宇佐神宮]]の造営を手がけ、[[興隆寺 (山口市)|氷上山興隆寺]]に供養会を開くなど文化的業績を挙げた。また、[[李氏朝鮮]]と通交して[[大蔵経]]を印行させ、大きな利益を得ている。
== 参考資料 ==
『名族大内氏の盛衰』 利重忠著
== 関連項目 ==
*[[応永の乱]]
{{先代次代|[[大内氏|周防大内氏歴代当主]]|1401 - 1431|[[大内義弘]]|[[大内持世]]}}
 
== 偏諱を与えた人物 ==
{{DEFAULTSORT:おおうち もりはる}}
*[[大内盛清|大内'''盛'''清]](甥(庶兄・[[大内弘正|弘正]]の子)、子孫は[[冷泉氏]]となる)
[[Category:大内氏|もりはる]]
*[[小早川盛景|小早川'''盛'''景]]
 
==脚注==
===注釈===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|group="註"}}
{{Notelist}}
===出典===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考資料 文献==
*{{Cite book|和書||author=佐藤和彦|authorlink=佐藤和彦|author2=錦昭江|authorlink2=錦昭江|author3=松井吉昭|authorlink3=松井吉昭|author4=櫻井彦|authorlink4=櫻井彦|coauthors=[[鈴木彰]]、[[樋口州男]]共編|title=日本中世内乱史人名事典|date=2007-5|publisher=[[新人物往来社]]|id=|isbn=|ncid=BA81884925|volume=|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=利重忠|authorlink=利重忠|date=1993-3|title=名族大内氏の盛衰|publisher=新人物往来社|id={{全国書誌番号|93034120}}|isbn=440401984X|ncid=BN09348774|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=平野邦雄|authorlink1=平野邦雄|author2=瀬野精一郎|authorlink2=瀬野精一郎|date=2006-11|title=日本古代中世人名辞典|publisher=[[同成社]]|id={{全国書誌番号|21131689}}|isbn=4642014349|ncid=BA78991053|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=藤井崇|date=2006|title=盛見期の大内氏分国支配システム|journal=ヒストリア|volume=201号|publisher=|naid=|ref=harv}}
**''改題・改稿'' {{Cite book|和書|author=藤井崇|year=2013|title=室町期大名権力論|chapter=足利義満と大内盛見」「盛見期の分国支配|publisher=[[吉川弘文館]]|id={{全国書誌番号|22348379}}|isbn=9784886216502|series=同成社中世史選書(14)|ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
*[[瑠璃光寺]]
*[[益富城]]
*[[宇佐神宮]]
*[[馬ヶ岳城]]
*[[大蔵経]]
*[[大正新修大蔵経]]
*[[金閣寺]]
{{周防大内氏当主||1401年 - 1431年}}
{{DEFAULTSORT:おおうち もりはるあきら}}
[[Category:大内氏|もりはるあきら]]
[[Category:室町時代の人物]]
[[Category:室町時代に戦死した人物]]
[[Category:守護大名]]
[[Category:1377年生]]