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|注釈 =「{{補助漢字フォント|曌}}」は「照」の[[則天文字]]。
}}
'''武 則天'''(ぶ そくてん)は、[[中国]]史上唯一の[[女帝]]。[[唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]の[[皇后]]となり、後に唐に代わり[[武周]]朝を建てた。[[]]は'''照'''(しょう、'''{{補助漢字フォント|曌}}''')。則天は[[諡|諡号]]に由来した通称である('''則天'''大聖皇帝、または'''則天'''順聖皇后に由来)
 
日本では'''則天武后'''(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来「則天」と通称のみで姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている{{Efn2|一例として、台湾ドラマ『一代女皇』と大陸ドラマ『武則天』の題名の対比が挙げられる。}}{{Efn2|その他の名前としては、唐の第2代皇帝[[太宗 (唐)|太宗]]に「媚」と名付けられ、第3代皇帝高宗には「昭儀」と号された他、自ら尊号「天后」を受けた。武周建国以降は、聖母神皇、聖神皇帝、則天大聖皇帝、金輪聖神皇帝、越古金輪聖神皇帝、慈氏越古金輪聖神皇帝、天冊金輪聖神皇帝などがある。}}。
 
== 生涯 ==
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この時の朝廷の主な人物は、太宗の皇后[[長孫皇后|長孫氏]]の兄で高宗の伯父にあたる[[長孫無忌]]、太宗に信任されて常に直言をしていた[[褚遂良]]、[[李淵|高祖]]と同じ[[北周]]八柱国出身の[[于志寧]]、太宗の下で[[突厥]]討伐などに戦功を挙げた[[李勣]]の4人であった。下問に対して、長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した{{Efn2|李勣は他の朝臣が下問を受けた会議には欠席していた。後に高宗が皇后廃立について直々に下問したところ、李勣は「これは陛下の家庭のことです。なぜ余所の人間(である私)にお聞きになるのですか」と答えたという。}}{{Efn2|後世の史家は、この李勣の返答で武照の専横が止められなくなったと非難するが、後に長孫無忌と褚遂良が武則天によって死に追いやられ、沈黙した于志寧も左遷されたことを考えると、李勣が武照の計算高さと残忍さを見抜いて戦略的な判断を行った可能性もあり、一概に非難することは難しいであろう。}}。
 
[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]([[11月16日]])、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪{{Efn2|王皇后への嫌疑は武照の娘を毒殺したとの内容であったが、現在では、武照の娘は王皇后を陥れるために武照自身によって殺害されたのではないかと疑う者も多い。}}により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上[[嶺南 (中国)|嶺南]]への流罪に処すことを宣告した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を[[潭州]]都督へ左遷した。なお、節操がなく、前後して父子二人の皇帝の後宮に入るという世論を忌避して、詔書には「事同[[王政君|政君]]」という。太宗の妃になったのは事実だが、早くも皇太子に下賜られた、という解釈である
 
11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、惨殺した{{Efn2|このとき武照は2人が二度と生き返らないように、四肢を切断した上で「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込んだため、王氏と蕭氏は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後に絶命したという。}}{{Efn2|処刑後、遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「[[うわばみ|蟒]]」(ウワバミ、蛇の一種)と「[[フクロウ目|梟]]」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされていた)に改称させた。}}{{Efn2|蕭氏は死の間際に、武照が生まれ変わったら鼠になれ、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやる、と呪いながら死んだといわれ、後年の武照は祟りを恐れ、宮中で猫を飼うのを禁じたといわれる。}}。
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=== 即位後 ===
[[Image:Longmen lu she na.jpg|thumb|奉先寺大仏]]
帝室を[[老子]]の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は[[仏教]]を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、[[寄進]]を盛んに行った他、自らを[[弥勒菩薩]]の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『[[大雲経]]』を創り、これを納める「[[大雲経寺]]」を全国の各州に造らせた{{Efn2|これは後に日本の[[国分寺]]制度の元になった。また、洛陽郊外の[[龍門山]][[奉先寺]]にある高さ17[[メートル]]の[[盧舎那仏]]の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。}}。また、長安年間(701~704)に悲田養病坊を設置し、仏僧尼に運営を任せて貧窮孤老を救済させたが、これは[[光明皇后]]による[[悲田院]]・[[施薬院]]の設置にも影響を与えたとされる<ref>{{Cite journal|和書|author=岩本健寿 |date=2009-02 |url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/1271 |title=奈良時代施薬院の変遷 |journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要 : 第4分冊 |ISSN=1341-7541 |publisher=早稲田大学大学院文学研究科 |volume=54 |issue=4 |pages=87-100 |hdl=2065/32296 |CRID=1050282677443652224}}</ref>
 
武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣の狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた{{Efn2|武則天は狄仁傑のことを国老と呼んで敬意を払い、彼が[[700年]]に死去した際は、「なぜ天は私から国老を奪ったのか」と嘆き悲しんだという。}}。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に[[開元の治]]を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。
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=== 皇族・親族に対する粛清===
則天武后は、自分の地位の脅威となる人物を殺害している。ライバルである[[王皇后 (唐高宗)|王皇后]]と[https://zh.m.wikipedia.org/wiki/{{仮リンク|蕭淑妃 |zh|蕭淑妃]}}を初めとする、多くの李唐の皇族およびその末裔(関連する人物は高祖の子十一男の韓王[[李元嘉]] ・十四男の霍王[[李元軌]]・十八男の譙王[[李元名]]・十九男の魯王[[李霊夔]] ・七女の常楽公主、太宗の子四男の魏王[[李泰]]・六男の蜀王[[李愔]]・七男の蒋王[[李惲]]・八男の越王[[李貞]]・十男の紀王[[李慎]]・十四男の曹王[[李明 (唐) |李明]]、高宗の子長男の燕王[[李忠 (唐)|李忠]]・三男の沢王[[李上金]]・四男の許王[[李素節]])は相次いで殺された。また大臣の[[長孫無忌]]・[[褚遂良]]・[[裴炎]]・[[上官儀]]・程務挺らを殺害した。
 
自分の親族に対しても、個人の好き嫌いで男女問わず殺害も行われた。その中には長男の[[李弘]]、次男の[[李賢 (唐)|李賢]]、三男の李顕([[中宗 (唐)|中宗]])の元妻[[和思趙皇后|趙氏]]、四男の李旦([[睿宗 (唐)|睿宗]])の妻劉氏・[[竇徳妃|竇氏]]([[玄宗 (唐)|玄宗]]の母)、次女の[[太平公主]]の元夫薛紹、孫の[[李重潤]]と李光順、孫娘の[[永泰公主]]、姪の魏国夫人賀蘭氏が含まれている。実家がある武氏の一族の中にも武元慶・[[武元爽]]・武惟良・武懐運・武延基・武攸曁の元妻も殺害された。
 
また、長男の[[李弘 (唐)|李弘]]と長女の[[安定思公主|安定公主]]も殺害されたという説もある。
 
== 子女 ==
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== 後世の評価 ==
開元4年(716([[716]])に武則天の子であった[[太上皇]]の[[睿宗 (唐)|睿宗]]が没すると、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は武則天の[[諡号]]から「皇帝」を除き、武則天の政策の否定や、彼女や武氏に粛清された人々の名誉回復に動き始めた<ref>金子修一「玄宗の祭祀と則天武后」古瀬奈津子 編『東アジアの礼・儀式と支配構造』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-04628-2</ref>。
 
後世の中国社会や[[文人]]界においては、女性でありながら君権の上に君臨し、唐室の帝位を簒奪した武則天の政治的遍歴に対する評価はおおむね否定的であり続け、簒奪に失敗した韋后の行実と併せて'''[[武韋の禍]]'''と呼ばれるなど、負のイメージで語られることが多かった。治世中の事績に関しても、彼女が施政した時代に[[浮戸]]や[[逃戸]]が増大したこと、[[田籍]]の把握が等閑になって[[隠田]]の増加と[[均田制]]の実施困難を招いたこと、自身の氏族を要職に就けて政治をほしいままにしたことなどについて、現在も厳しい評価を受けている。
 
一方で、長年の課題であった高句麗を滅ぼし、唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績であるが、それは高宗がまだ重篤に陥っていなかった668年のことである。また、彼女が権力を握っている間には[[農民反乱]]は一度も起きておらず、[[貞観 (唐)|貞観]]の末より戸数が減らなかったことから、民衆の生活はそれなりに安定していたと見る向きもある。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに飛びけていたことは事実であり、彼女の登用した数々の人材が玄宗時代の[[開元の治]]を導いたことも特筆に値する。歴史上にもわずかながら、彼女について「不明というべからず」と評した[[南宋]]の[[洪邁]]([[毛沢東]]が愛読)や「女中英主」と評価した[[清]]代の[[趙翼]](現有制度の打破を叫んだ)のように、武則天に対して肯定的な評価を下した者も存在した。[[毛沢東]]夫人で[[文化大革命]]を指揮した[[江青]]に至っては、毛沢東の死後に後継者にならんとする野望を持っていたため、名実ともに中国の国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興した。江青と文革は共産党に否定されたが、武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作された([[#テレビドラマ|参照]])。
 
== 参考文献 ==
*『則天武后:女性と権力』([[外山軍治]]著、[[中公新書]]、初版[[1966年]]〈[[昭和]]41年〉)ISBN 4121000994
*『武則天』([[原百代]]著、[[毎日新聞社]] 新版上中下、[[1998年]]〈[[平成]]10年〉)
*『敦煌吐魯番文書与唐史研究』(李錦繍著、[[2006年]])
*『則天武后』(氣賀澤保規著、講談社学術文庫、2016年。原本は白帝社、1995年刊行)
* 『[http://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK173 キュロテ 世界の偉大な15人の女性たち]』訳:関澄かおる、[[DU BOOKS]]、2017年10月、ISBN 978-4-86647-018-4
 
== 登場作品 ==
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*[[津本陽]]『則天武后』(上・下、[[幻冬舎]]のち幻冬舎文庫)
*[[森福都]]『双子幻綺行』(2001年2月 祥伝社)
*[[山颯]](シャン・サ)著『女帝 わが名は則天武后』([[吉田良子]]訳 [[草思社]]、[[2006年]]〈平成18年〉 ISBN 4794215037)
*[[塚本靑史]]『則天武后』上下([[日本経済新聞出版社]]、[[2018年]][[12月20日]] ISBN 978-4532171506 / ISBN 978-4532171513)
 
=== 戯曲 ===
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*『[[謀りの後宮]]』(原題「唐宮燕」、2013年)演:[[恵英紅|クララ・ワイ]]
*『[[武則天 -The Empress-]]』(原題「武媚娘傳奇」、2015年)演:[[范冰冰|ファン・ビンビン]]
*『{{仮リンク|風起花抄宮廷に咲く琉璃色の恋〜|zh|風起霓裳}}』(原題「風起霓裳」、2021年)演:[[施詩|シー・シー]]
 
=== 漫画 ===
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{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2024年5月|section=1}}
*『則天武后:女性と権力』([[外山軍治]]著、[[中公新書]]、初版[[1966年]][[昭和]]41年〉)ISBN 4121000994
*『武則天』([[原百代]]著、[[毎日新聞社]] 新版上中下、[[1998年]][[平成]]10年〉)
*『敦煌吐魯番文書与唐史研究』(李錦繍著、[[2006年]]
*『則天武后』(氣賀澤保規著、講談社学術文庫、2016年。原本は白帝社、1995年刊行)
* 『[http://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK173 キュロテ 世界の偉大な15人の女性たち]』訳:関澄かおる、[[DU BOOKS]]、2017年10月、ISBN 978-4-86647-018-4
 
== 外部リンク ==