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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 島津 重年
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]
| 生誕 = [[1729年]][[3月10日]]([[享保]]14年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1729年]][[3月10日]])
| 死没 = [[1755年]][[7月24日]]([[宝暦]]5年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[1755年]][[7月24日]])
| 改名 = 善次郎([[幼名]])→久門(初名)、)→重年
| 別名 = 善次郎(幼名)、兵庫([[仮名 (通称)、久門(初名)|通称]]
| 諡号 =
| 神号 = 栄国本事主命
| 戒名 = 円徳院殿覚満良義大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[鹿児島県]][[鹿児島市]][[池之上町]]島津家墓地([[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺跡島津家墓地]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]][[薩摩国司#薩摩守|薩摩守]][[近衛府|左近衛少将]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家重]]
| 藩 = [[薩摩国|薩摩]] [[薩摩|鹿児島藩]]
| 氏族 = [[島津氏]]
| 父母 = [[]]:[[島津継豊]]、[[]]:[[島津久房 (求馬)|島津久房]]の娘・登免
| 兄弟 = [[島津宗信|宗信]]、'''重年'''、[[島津久|久峰]]、鐘、鉄、[[眞含院]]、[[入来院定勝]]、[[樺山久倫]]室
| 妻 = 正室:[[島津貴儔正室]]の娘・'''[[島津都美|都美]]'''<br />[[継室]][[島津久尚]]の娘・'''村'''
| 子 = '''[[島津重豪|重豪]]'''、養女・梅([[島津久柄]]室)
| 特記事項 =
}}
'''島津 重年'''(しまづ しげとし)は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[島津氏]]第24代当主。[[薩摩藩]]の第7代[[藩主]]。初名は'''久門'''(ひさかど)
 
'''島津 重年'''(しまづ しげとし)は、[[江戸時代]]の[[島津氏]]第24代当主。[[薩摩藩]]の第7代藩主。初名は'''久門'''。
 
== 経歴 ==
=== 加治木島津家時代 ===
[[享保]]14年(1729([[1729)2]])[[2 (旧暦)|2月]][[島津継豊]]の次男として[[鹿児島城]]で生まれ、同年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]に分家筆頭で[[島津綱久]]の次男でもある[[加治木島津家]]当主・[[島津久季]]の養子となった。[[幼名]]'''善次郎'''。なお、母の登免([[島津久房 (求馬)|島津久房]]の娘)は[[天明]]年間まで生存していたが、継豊と登免との子は善次郎1人であった。
 
享保17年([[1732年]])に加治木島津家4代当主となり、[[元文]]2年([[1737年]])に[[元服]]して、島津兵庫'''久門'''と称す。元文3年([[1738年]])に[[島津貴儔]]とともに、家格を一所持から、新設された一門家に改められる。その年のうちに、貴儔の異母弟の[[島津忠紀 (重富家)|島津忠紀]]が[[越前島津氏|重富島津家]]を興すと、この家も一門家に列せられ、一門家筆頭格となる<ref group="注釈">ただし、垂水家の島津貴儔の生存[[垂水島津家]]当主在任は実質限定で筆頭ではなかった</ref>。加治木島津家は一門家の席次は2番目であったが、3番目とされた垂水家が貴儔の代に限り一門家筆頭であったので、実質的には久門は3番目の席次であった<ref group="注釈">ちなみに[[延享]]年間に[[島津忠郷]]が[[今和泉島津家]]を興すと、この家が一門家最下位となる。</ref>。しかし、久門は一門家の中では血統上、継豊や宗信に最も近い存在であり、宗信の[[仮養子]]になっていた。
しかしながら、久門は一門家の中では血統上、継豊や宗信に最も近い存在であった。
 
=== 藩主時代 ===
[[寛延]]2年([[1749年]])7)[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]、兄の[[島津宗信|宗信]]が死去したため、[[江戸幕府|幕府]]の許可をもらって本家に復帰し、そのを継いで藩主になった。なお、加治木家は長男の島津久方(のちの[[島津重豪]])が継いだ。同年[[11月 (旧暦)|11月]][[従四位|従四位下]]、[[侍従]]に叙任され、薩摩守を称した。また、9代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家重]]より[[偏諱]]を授かり、久門から'''重年'''に改名している
 
寛延3年([[1750年]])に藩政批判や人物批判をしていた実学派に対して「実学崩れ」という薩摩藩最初の学派弾圧事件がおこり、[[用人]]の皆吉続安ら遠島者10人を出す。
 
[[宝暦]]3年([[1753年]])に幕命により、[[木曽三川分流工事|木曾三川の治水工事]]([[宝暦治水事件|宝暦治水]])を命じられ、家老の[[平田靱負]]を総責任者とし多数の藩士が工事に従事したが、莫大な費用と殉職者80数名を出した。平田も完成を見届け、宝暦5年5月([[1755年]])に責めを負い切腹、翌月に重年も病弱の上に心労が重なり、27歳の若さで兄と同様に父に先立ち没した。
 
この前の宝暦4年([[1754年]])8月に長男・久方が(島津宗家としての)父の跡を継ぐため本家に入り<ref group="注釈">重年には久方(重豪)の他に子供がいなかったため、加治木家に関しては、これを継ぐ者がいなくなり、[[島津久徴 (加治木家)|島津久徴]]が継ぐまで当主不在となった。</ref>忠洪と改名していたが藩主を重年の死後10歳で継ぎ藩主に就任したが、元服同じく将軍家重より偏諱を授かって重豪と改名した。
 
== 家族人物 ==
* 父同様に病弱な人物として知られるが、救仁郷善兵衛より[[剣術]][[示現流]]を学ぶ<ref>「示現流聞書喫緊録附録系図」参照</ref>。同史料では薩摩藩主としては久しぶりに登場する人物である。
*外祖父:[[島津久房]]([[島津光久]]17男、通称は主馬、求馬)
*久門時代の正室:[[島津都美|都美]](島津貴儔の娘、[[延享]]2年11月7日に、善次郎を産んだ後、死去。法号は正覚院貞範妙雅大姉)
**長男:島津重豪(善次郎、島津久方、嗣子になってから忠洪)
*継室:村(島津久尚の娘、宝暦4年2月2日死去。)
 
== 人物系譜 ==
*なお[[佐土原藩]]主[[島津久柄]]室・梅(先妻・都美の妹)は重豪の養妹であるが、重年の死後に養妹になったために重年の養子というわけではない。ちなみに尚古集成館の『島津氏正統系図』では重豪の養妹であったことすら省略されている。
*父:[[島津継豊]](1702-1760)
 
*母:登免 - [[島津久房 (求馬)|島津久房]]の娘
== 人物 ==
*外祖父:[[島津久房 (求馬)|島津久房]]([[島津光久]]17十七男、通称は主馬、求馬)
*父同様に病弱な人物として知られるが、救仁郷善兵衛より[[剣術]][[示現流]]を学ぶ<ref>「示現流聞書喫緊録附録系図」参照</ref>。同史料では薩摩藩主としては久しぶりに登場する人物である。
*久門時代の正室:[[島津都美|都美]](1727-1745) - 叔父[[島津貴儔]]の娘、[[延享]]2年11月7日に、善次郎を産んだ後、死去。法号は正覚院貞範妙雅大姉
**長男:[[島津重豪]](1745-1833) - 善次郎、島津久方、島津宗家の嗣子になってから忠洪
*継室:村(?-1754) - 島津久尚の娘 - 宝暦4年2月2日死去。)
*なお[[佐土原藩]]主[[島津久柄]]室・梅(先妻・都美の妹)は重豪の養妹であるが、重年の死後に養妹になったために重年の養子というわけではない。ちなみに尚古集成館の『島津氏正統系図』では重豪の養妹であったことすら省略されている。
 
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献==
* 「加治木町郷土史」
* 「示現流聞書喫緊録附録系図」
* 「島津氏正統系図」
 
{{島津氏歴代当主|加治木島津家|4代当主(1749年 - 1755年)/島津氏24代}}
{{薩摩藩主|7代|1749- 1755}}
 
{{DEFAULTSORT:しまつ しけとし}}
[[Category:薩摩島津|しけとし]]
[[Category:江戸の大名加治木島津家|しけとし]]
[[Category:外様大名薩摩藩主|しけとし]]
[[Category:18世紀アジアの統治者]]
[[Category:18世紀日本の人物]]
[[Category:1729年生]]
[[Category:1755年没]]