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{{Infobox Buddhist
|名前=行基
|生没年=[[天智天皇]]7年 - [[天平]]21年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[旧暦]])
|画像=[[ファイル:Gyouki 1.jpg|260px]]
|説明文=行基菩薩坐像([[唐招提寺]]蔵・[[重要文化財]])
|法名=行基
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|[[僧綱]]位=大[[僧正]]
}}
'''行基'''(ぎょうき/ぎょうぎ、[[天智天皇]]7年[[668年]] - [[天平]]21年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]][[749年]][[2月23日]]<ref name="瓶記">『大僧正舎利瓶記』</ref>)は、[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]にかけて活動した[[日本の仏教]][[僧]]。[[朝廷#日本|朝廷]]が[[寺院#日本の寺院|寺]]や僧の行動を規定し、民衆へ[[仏教]]を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、[[畿内]](近畿)を中心に民衆や[[豪族]]など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や[[社会事業]]を指導した。[[布施屋]]9所、[[道場]]や[[寺院]]を49院、[[ため池|溜池]]15窪、[[溝]]と[[堀]]9筋、[[架橋]]6所を各地に整備した。当初、朝廷から度々[[弾圧]]や[[禁圧]]を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、[[僧正|大僧正]](最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として[[聖武天皇]]により[[東大寺盧舎那仏像|奈良の大仏]]([[東大寺]])造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により[[東大寺]]の「[[四聖]]」の一人に数えられている
 
[[朝廷#日本|朝廷]]が[[寺院#日本の寺院|寺]]や僧の行動を規定し、民衆へ[[仏教]]を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、[[畿内]](近畿)を中心に民衆や[[豪族]]など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や[[社会事業]]を指導した。[[布施屋]]9所、[[道場]]や[[寺院]]を49院、[[ため池|溜池]]15窪、[[溝]]と[[堀]]9筋、[[架橋]]6所を各地に整備した。
[[日本地図]]を作成したとの伝承もある([[行基図]])。
 
当初、朝廷から度々[[弾圧]]や[[禁圧]]を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、[[僧正|大僧正]](最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として[[聖武天皇]]により[[東大寺盧舎那仏像|奈良の大仏]]([[東大寺]])造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により[[東大寺]]の「[[四聖]]」の一人に数えられている<ref>[https://www.todaiji.or.jp/history/narajidai/ 東大寺の創建] 東大寺公式サイト</ref>。
 
== 生涯 ==
[[天平]]21年([[749年]])に弟子・真成が、行基の骨をおさめた銅製骨臓器瓶に師の伝記を刻んだ『[[大僧上舎利瓶記]]』に、「俗性は高志氏にして、その考(ちち)の[[諱]]は[[高志才智|才智]]、字は知法君の長子なり。もと[[百済|百済国]]の王子・[[王仁|王爾]]のすえなり。その妣(はは)は、[[蜂田古爾比売|蜂田氏]]にして、諱は古爾比売、河内国大鳥郡の蜂田首虎身の長女なり」とあり、父母の出自、名前が記されており{{Sfn|奈良県|2016|p=8}}、[[中国|中国系]][[帰化人]](百済に帰化していた[[中国人]])の氏族である<ref>{{Kotobank|行基|[[朝日日本歴史人物事典]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=[[丸山雍成]]・[[小風秀雅]]・[[中村尚史 (歴史学者)|中村尚史]]|title=日本交通史辞典|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|date=2003-08-01|ISBN=4642013393|page=267}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[陳水逢]]|date=1993|title=日本文明開化史略|ISBN=9570507101|series=|publisher={{仮リンク|台湾商務印書館|zh|臺灣商務印書館}}|url=https://www.google.co.jp/books/edition/日本文明開化史略/XkEV63ouB4gC?hl=ja&gbpv=1&pg=PA69&printsec=frontcover|page=69}}</ref>。一方、百済後裔というのは、系譜を飾るための装飾であって、『[[日本国現報善悪霊異記|日本現報善悪霊異記]]』にあるように[[越後国]][[頸城郡]]出身とする意見もある<ref>{{Cite book|和書|author=[[太田亮]]|title=姓氏家系大辞典|series=第3巻|publisher=[[国民社]]|date=1942|page=2292}}</ref>。
[[天智天皇]]7年([[668年]])、[[河内国]][[大鳥郡]]([[天平宝字]]元年([[757年]])に[[和泉国]]へ分立、現在の[[大阪府]][[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]家原寺町)で父・[[高志才智]]、母・[[蜂田古爾比売]]の長子として生まれる<ref name="瓶記" />。[[天武天皇]]11年([[682年]])に<ref name="瓶記" />15歳で大官大寺で<ref>吉田靖雄『行基と律令国家』([[吉川弘文館]]、1987年)での推定。</ref>、[[得度]]を受け[[出家]]し、法行と称した<ref name=堺市史7-1>『[[堺市史]]』第七巻[https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2714005100/2714005100100070/?hid=ht000040&word=%E5%A0%BA%E9%91%91 第一編 人物誌 第一章 黎明期]([[堺市立中央図書館]])2021年5月23日閲覧</ref>。[[持統天皇]]5年([[691年]])、24歳で戒師の高宮寺徳光[[禅師]]のもと[[受戒]]する。[[飛鳥寺]]、次に[[薬師寺]]で[[法相宗]]を主として教学を学び{{sfn |千田稔|1994| pp=50-71}}名を行基と改めた<ref name=堺市史7-1/>。教えを受けたとされる[[道昭]]は、入[[唐]]して[[玄奘]]の教えを受けたことで有名であり、それとともに[[井戸]]を掘り、[[渡し船|渡し]]や港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている{{sfn |千田稔|1994| pp=71-75}}。[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])、生家を[[家原寺]]に改め、母と[[大和国]]の佐紀堂で暮らす<ref name="年譜">「行基年譜」/吉田靖雄『行基と律令国家』83頁</ref>。40歳で[[生駒山]]の草野仙房に母親と移り修行する。43歳で母を亡くし3年間[[喪]]に服す。
 
[[天智天皇]]7年([[668年]])、[[河内国]][[大鳥郡]]([[天平宝字]]元年([[757年]])に[[和泉国]]へ分立、現在の[[大阪府]][[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]家原寺町)で父・[[高志才智]]、母・[[蜂田古爾比売]]の長子として生まれる<ref name="瓶記" />。『大僧正舎利瓶記』に「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」とあり{{Sfn|奈良県|2016|p=12}}、[[天武天皇]]11年([[682年]])に<ref name="瓶記" />15歳で大官大寺で<ref>吉田靖雄『行基と律令国家』([[吉川弘文館]]、1987年)での推定。</ref>、[[得度]]を受け[[出家]]し、法行と称した<ref name="堺市史7-1">『[[堺市史]]』第七巻[https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0sakai-lib/WJJS06Utext-list/2714005100d100070/2714005100100070/?hid=ht000040&word=%E5%A0%BA%E9%91%91 第一編 人物誌 第一章 黎明期]([[堺市立中央図書館]])2021202351239日閲覧</ref>。[[持統天皇]]5年([[691年]])、24歳で戒師の葛城山高宮寺徳光[[禅師]]のもと[[受戒]]する。[[飛鳥寺]]、次に[[薬師寺]]で[[法相宗]]を主として教学を学び{{sfn |千田稔|1994| pp=50-71}}名を行基と改めた<ref name="堺市史7-1" />。教えを受けたとされる[[道昭]]は、入[[唐]]して[[玄奘]]の教えを受けたことで有名であり、それとともに[[井戸]]を掘り、[[渡し船|渡し]]や港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている{{sfn |千田稔|1994| pp=71-75}}。ただし、行基が[[道昭]]に師事したという伝承もあるが、行基の[[遺骨]]を納めた瓶『舎利瓶記』、『[[日本国現報善悪霊異記|日本現報善悪霊異記]]』には記されておらず、疑問視する意見もある<ref>{{Cite book|和書|author=[[大西龍峯]]|date=1987-03|title=元興寺智光の出自及び本質|series=駒澤大學佛教學部研究紀要 45|publisher=[[駒澤大学]]|page=303-304}}</ref>。[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])、生家を[[家原寺]]に改め、母と[[大和国]]の佐紀堂で暮らす<ref name="年譜">「行基年譜」/{{Cite book|和書|author=[[吉田靖雄]]|date=1987|title=行基と律令国家|page=83|publisher=[[吉川弘文館]]}}</ref>。40歳で[[生駒山]]の草野仙房に母親と移り修行する。43歳で母を亡くし3年間[[喪]]に服す。
 
知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して、[[近畿地方]]を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業に活動した{{sfn|根本誠二|2005|pp=22-26}}。行基が開基したとされる寺院は、『[[続日本紀]]』で40余処、興融寺の[[鎌倉時代]]中期の顕彰碑では49院といわれる多くが不明であり、小規模な修行と布教の為の拠点だったと見られる{{sfn |千田稔|1994| pp=99-173}}。だが、[[養老]]元年(717年)[[4月23日_(旧暦)|4月23日]]、[[詔]]をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、これら新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた[[僧尼令]]に違反するとされ、糾弾されて弾圧を受けた{{sfn |千田稔|1994| pp=88-92}}{{sfn|根本誠二|2005||pp=22-26}}。行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみである。
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その後も、天平2年(730年)9月、[[平城京]]の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き、数千人から多い時には1万人を集めて説教し、民衆を惑わしているとされた(『続日本紀』){{sfn |千田稔|1994| pp=88-98}}。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により[[墾田]]開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断された。朝廷は天平3年([[731年]])に弾圧を緩め、翌年には河内国の[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年([[736年]])に、[[インド]]出身の僧・[[菩提僊那]]が[[チャンパ王国]]出身の僧・[[仏哲]]、唐の僧・[[道璿]]とともに来日した。彼らは[[九州]]の[[大宰府]]に赴き、行基に迎えられた後に平城京に入って[[大安寺]]に住し、時服を与えられている。天平10年([[738年]])に朝廷より'''「行基大徳」'''の諡号が授けられた(日本で最初の[[律令]]法典『[[大宝律令]]』の注釈書などに記されている)。
 
[[三世一身法]]が施行されると[[灌漑]]事業などをはじめ、多くの行基の事業は権力側にとっても好ましいものとなる。やがて[[聖武天皇]]の方から接近して、行基は[[740年]](天平12年)から聖武天皇に依頼され[[東大寺盧舎那仏像]]([[大仏]])建立に協力する。天平13年([[741年]])3月に聖武天皇が[[恭仁京]]郊外の[[泉橋院]]で行基と会見し、同15年([[743年]])[[東大寺]]の大仏像造営の[[勧進]]に起用されている。勧進の効果は大きく、天平17年([[745年]])に朝廷より仏教界における最高位である'''「[[大僧正]]」'''の位を日本で最初に贈られた(『続日本紀』)。「行基[[転向]]論」として民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説があるが、既に権力側の政策からも許容されるものになっており、さらに行基の民衆に対する影響力を利用したと考えられている。また、行基に対して好意的な聖武天皇と否定的な[[光明皇后]]の間にずれがあり、それがその後の政治対立にも影響を与えたとする説もある<ref>{{Cite book|和書|author=[[飯沼賢治「信仰の広がり」]]|editor=[[館野和己]][[出田和久 編『]]|date=2016|title=信仰の広がり|series=日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(|publisher=[[吉川弘文館、2016年 ]]|page=158-166|ISBN =978-4-642-01729-9)pp.158-1669}}</ref>。
 
大仏造営中の天平21年([[749年]])、[[喜光寺]](菅原寺)で81歳で入滅。現在の[[奈良県]][[生駒市]]にある往生院で[[火葬]]後、[[竹林寺 (生駒市)|竹林寺]]に遺骨が納められ、[[多宝塔]]を建て墓所とした<ref name="瓶記" />。また、喜光寺から往生院までの道則を行基の弟子が彼の[[輿]]をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名「輿山」とも呼ばれている。また、朝廷より[[菩薩]]の諡号を授けられ、「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「[[文殊菩薩]]の化身」とも言われている。
 
行基が近畿地方に建立した寺(四十九院)の一つ、長岡院の候補とされる菅原遺跡(奈良市)では奈良時代の日本では類例のない円形構造の建物跡と回廊跡と塀跡が発掘されておりた。柱穴15カ所による直径は約15メートルで円堂(他では八角堂)や[[多宝塔]]と推定し、[[元興寺文化財研究所]]は、行基を供養した建物跡の可能性があるとしている<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14911270.html{{Cite news|author=|date=2021-05-20|title=高僧・行基供養堂? 類例ない円形建物跡を発見 奈良・菅原遺跡奈良時代では初」]『|publisher=|newspaper=[[朝日新聞]]』朝刊|url=https://www.asahi.com/articles/ASP5N5HX3P3BPOMB00B.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210619053320/https://www.asahi.com/articles/ASP5N5HX3P3BPOMB00B.html|archivedate=2021年5月21日(社会面)2021年5月23日閲覧-06-19}}</ref>。
 
行基が迎えた菩提僊那は後の[[天平勝宝]]4年([[752年]])、聖武上皇の命により、東大寺大仏[[開眼供養]]の導師を勤めた。
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行基は[[畿内]]を中心とした各地で布教活動と事業を行っていたことから、[[近畿地方]]を中心として各地に関連や有縁の地とされる土地が存在している。
* 生家跡は知恵の[[文殊菩薩]]を[[本尊]]とすることから合格祈願で有名な[[家原寺]]となっている<ref name="年譜" />。
* [[近鉄奈良駅]]前には、[[昭和]]44年([[1969年]])の同駅地下化の際に広場が作られ、[[大塩正人]]窯元7代目作の[[赤膚焼]]の行基像が[[噴水]]に設置する形で建立された<ref name="行基広場像">[http://www.nikkei.com/article/DGXLASIH08H0C_Z00C16A6AA2P00/{{Cite news|author=|date=2016-06-18|title=近鉄奈良駅前の行基像に「クローン」 元市長が心酔 予備を寺に」]『|publisher=|newspaper=[[日本経済新聞]]』関西発|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH08H0C_Z00C16A6AA2P00/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160619161202/https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH08H0C_Z00C16A6AA2P00/|archivedate=2016年6月18日(2016年10月7日閲覧)-06-19}}</ref>。広場は「行基広場」と呼ばれ、[[奈良市|奈良]]ではよく知られた待ち合わせ場所として定着している。この赤膚焼の行基像は後に心ない者の手によって破壊され一時スペアの同型像が立てられた後に7代目が再焼し再建されたがその像も自然劣化し、現在は平成7年([[1995年]])に奈良市内の彫刻家の中西重久が製作した[[ブロンズ像]]が建っている。なお、奈良市が所有していた同型像は[[霊山寺 (奈良市)|霊山寺]]と[[九品寺 (御所市)|九品寺]]に寄贈された<ref name="行基広場像" /><ref>『[[毎日新聞]]』{{Cite news|author=|date=2020-11-29日「|title=〈行基さん〉近鉄奈良駅前に半世紀  実は初代の“生き写し”が2体、会いに行った|publisher=|newspaper=[[毎日新聞]]}}</ref>。
* [[大阪府]][[岸和田市]]の[[岸和田十月祭礼#八木|八木だんじり祭]]では、[[久米田寺]]開山堂(行基堂)前に周辺地区の[[地車|だんじり]]が集結する。これは、久米田寺の前に位置する[[久米田池]]を行基が掘削指導し、田畑の開墾や周辺住民の生活向上へ寄与し、その他の遺徳を顕彰する「行基参り」と呼ばれている。
* [[兵庫県]][[伊丹市]]の[[昆陽池公園]]の園内施設には行基の胸像と顕彰碑が設置されており、昆陽池の南南東1キロメートルほどの場所に行基の開基した[[昆陽寺]]がある。市内には[[行基町]](ぎょうぎちょう)という地名がある<ref>[http://www.city.itami.lg.jp/_8014/_8210/_8439/_8440.html 伊丹市ウェブサイト 名僧・行基]</ref>。
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=== 行基開基の寺院 ===
下記は史料によるもので、近畿地方に所在する。全国には、[[青森県]]から[[宮崎県]]まで約600寺の行基が開基したとの伝承の寺院があり、これらは史料にない追慕による伝承である{{sfn|根本誠二|2005||pp=8、169}}。
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* 大修恵院高蔵([[大阪府]][[堺市]][[南区 (堺市)|南区]][[高倉台 (堺市)|高倉台]])
* 枚方院(大阪府[[枚方市]]伊加賀)
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* 難波度院、枚松院、作蓋部院(大阪府大阪市西成区)
* 沙田院(大阪府大阪市[[住吉区]])
* 呉坂院(大阪府大阪市住吉区長町)
* 高瀬橋院、高瀬橋尼院(大阪府大阪市[[東淀川区]])
* 大福院御津、大福尼院(大阪府大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]御津寺町)
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* 山崎院(大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]])
* [[久米田寺]] (大阪府[[岸和田市]]池尻町)
* 恩光寺([[奈良県]][[生駒市]]有里町
* 生馬仙房(奈良県[[生駒市]][[有里町]])
* 隆福院、隆福尼院(奈良県[[奈良市]]大和田町)
100 ⟶ 106行目:
* 常照寺(奈良県[[高取町]])
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* 法多山尊永寺(静岡県袋井市、法多山尊永寺、別格本山)「聖武天皇の勅命により行基が開祖、聖観音菩薩を祀る、のちに空海が不動明王を祀る」
 
=== 行基が掘削指導した貯水池 ===
* [[昆陽池]]([[昆陽池公園]]内、兵庫県[[伊丹市]])
* [[久米田池]](大阪府[[岸和田市]]) - [[久米田寺]]と隣接する。
* [[狭山池 (大阪府)|狭山池]]([[大阪狭山市]]) - 日本最古のダム式貯水池(溜池)を改修した。
 
=== 行基が架橋指揮した橋 ===
* 泉橋([[木津川 (京都府)|木津川]])
* 山崎橋([[淀川]])
* [[難波橋]]
 
=== 摂播五泊 ===
[[摂津国|摂津]]から[[播磨国|播磨]]にかけて、現在の兵庫県内に五つの[[港]]([[摂播五泊]])を整備した。
* 河尻泊 - [[尼崎市]][[神崎 (尼崎市)|神崎町]]
* [[大輪田泊]] - [[神戸市]][[兵庫区]]([[神戸港]])
* [[魚住泊]] - [[明石市]]大久保町
* 韓泊 - [[姫路市]]的形町
* 室生泊 - [[たつの市]][[御津町 (兵庫県)|御津町]][[室津]]
 
== 伝承 ==
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* [[仁比山地蔵院]]([[佐賀県]][[神埼市]]神埼町的1688)
* 補陀落山那古寺(千葉県館山市)
* [[千葉寺]](千葉県千葉市)
* [[大善寺]](山梨県甲州市勝沼町)
* [[高尾山薬王院]]([[東京都]][[八王子市]])
143 ⟶ 151行目:
* 桂木観音(埼玉県、毛呂山町)
* [[満明寺]]([[長崎県]][[雲仙温泉]])
* 雲峰寺(山梨県山梨甲州市){{div col end}}
 
=== 行基が架橋した伝承のある橋 ===
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{{div col}}
* [[有馬温泉]]
* [[阿部倉温泉]]
* [[湯河原温泉]]
* [[作並温泉]]
188 ⟶ 197行目:
 
== 行基を扱った関連作品 ==
; 映画
: 『[[大佛開眼]]』(1952年、演:[[大河内傳次郎]])
; 漫画
: 『[[ねこねこ日本史]]』([[そにしけんじ]]、[[実業之日本社]])
195 ⟶ 206行目:
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|230em}}
 
== 参考文献 ==
* [[真成]]『大僧正舎利瓶記』 - 天平21年([[749年]])行基墓誌 舎利容器を納めた銅筒に刻んだ銘文。[[文暦]]2年(1235年)8月25日の墓所発掘時に発見された。現物は10cm×6cmの三角状の残片のみ[[奈良国立博物館]]が所蔵。[[唐招提寺]]報告『注進』に全文が残る。
* {{Cite book|和書|author=[[井上薫 (歴史学者)|井上薫]]|date=1959|title=行基』(|series=|publisher=[[吉川弘文館 第10版、1981年)]]}}
* {{Cite book|和書|author=[[吉田靖雄]]|date=1987|title=行基と律令国家 古代史研究選書』(|page=|publisher=[[吉川弘文館、1987年)]]}}
* {{Cite book|和書|author=千田稔|authorlink=千田稔 (歴史地理学者)|year=1994|title=天平の僧 行基 異能僧をめぐる土地と人々|publisher=中央公論社|series=中公新書|isbn=978-4121011787|ref={{SfnRef|千田稔|1994}}}}
* [[速水侑]]『民衆の導者行基(日本の名僧)』(吉川弘文館、2004年)
251 ⟶ 262行目:
* [[根本誠二]]『説話の森の仏教者』(そうよう、2000年)
* [[井上薫 (歴史学者)|井上薫]]『行基』212頁、吉田靖雄『行基と律令国家』17-18頁注1に収録
* {{Cite book|和書|title=古代を創った人びと 行基|date=|year=2016|publisher=奈良県 地域振興部 文化資源活用課|author=奈良県 地域振興部 文化資源活用課|ref={{SfnRef|奈良県|2016}}}}
 
== 関連項目 ==
[[File:Part of the epitaph of Gyoki.jpg|thumb|銅製行基舎利瓶残片(重要美術品、奈良国立博物館所蔵)]]
* [[行基図]]
* [[行基寺]]
* [[続日本紀]]
* [[竹林寺 (生駒市)]]の[[行基墓]](国の史跡)
 
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
* {{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/ebaraji/ |title=家原寺 - 行基の元生家(誕生地) |date=20010413115117}}
* {{Wayback|url=http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/gyouki.htm |title=僧行基 - 北河内古代人物誌 |date=20080310062457}}
* [https://www.todaiji.or.jp/history/narajidai/ 東大寺の創建] - 華厳宗大本山 東大寺
 
{{唯識}}
268 ⟶ 281行目:
{{観音寺住職||開基}}
{{Normdaten}}
{{南都六宗}}
 
{{DEFAULTSORT:きようき}}
[[Category:行基|!]]
[[Category:7世紀日本の学者]]
[[Category:8世紀日本の学者]]
[[Category:7世紀日本の僧]]
[[Category:8世紀日本の僧]]
280 ⟶ 292行目:
[[Category:奈良時代の僧]]
[[Category:日本の地図製作者]]
[[Category:7世紀日本の土木技術者]]
[[Category:渡来人]]
[[Category:前近代の朝鮮系日本人]]
[[Category:前近代の中国系朝鮮人]]
[[Category:東大寺]]
[[Category:堺市西区の歴史]]