削除された内容 追加された内容
m 58.95.181.100 (会話) による版を Oppa08 による版へ巻き戻し
タグ: 巻き戻し
Urusine (会話 | 投稿記録)
m テンプレートを追加。
 
(14人の利用者による、間の18版が非表示)
2行目:
|名前=行基
|生没年=[[天智天皇]]7年 - [[天平]]21年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[旧暦]])
|画像=[[ファイル:Gyouki 1.jpg|200px260px]]
|説明文=行基菩薩坐像([[唐招提寺]]蔵・[[重要文化財]])
|法名=行基
16行目:
|[[僧綱]]位=大[[僧正]]
}}
'''行基'''(ぎょうき/ぎょうぎ、[[天智天皇]]7年[[668年]] - [[天平]]21年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]][[749年]][[2月23日]]<ref name="瓶記">『大僧正舎利瓶記』</ref>)は、[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]にかけて活動した[[日本の仏教]][[僧]]。

[[朝廷#日本|朝廷]]が[[寺院#日本の寺院|寺]]や僧の行動を規定し、民衆へ[[仏教]]を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、[[畿内]](近畿)を中心に民衆や[[豪族]]など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や[[社会事業]]を指導した。[[布施屋]]9所、[[道場]]や[[寺院]]を49院、[[ため池|溜池]]15窪、[[溝]]と[[堀]]9筋、[[架橋]]6所を各地に整備した。

当初、朝廷から度々[[弾圧]]や[[禁圧]]を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、[[僧正|大僧正]](最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として[[聖武天皇]]により[[東大寺盧舎那仏像|奈良の大仏]]([[東大寺]])造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により[[東大寺]]の「[[四聖]]」の一人に数えられている<ref>[https://www.todaiji.or.jp/history/narajidai/ 東大寺の創建] 東大寺公式サイト</ref>
 
== 生涯 ==
[[天平]]21年([[749年]])に行基の弟子・真成が、行基の骨をおさめた銅製骨臓器瓶に師の伝記を刻んだ『[[大僧上舎利瓶記]]』に、「俗性は高志氏にして、その考(ちち)の[[諱]]は[[高志才智|才智]]、字は知法君の長子なり。もと[[百済|百済国]]の王子・[[王仁|王爾]]のすえなり。その妣(はは)は、[[蜂田古爾比売|蜂田氏]]にして、諱は古爾比売、河内国大鳥郡の蜂田首虎身の長女なり」とあり、父母の出自、名前が記されており{{Sfn|奈良県|2016|p=8}}、[[中国|中国系]][[帰化人]](百済に帰化していた[[中国人]])の氏族である<ref>{{Kotobank|行基|[[朝日日本歴史人物事典]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=[[丸山雍成]]・[[小風秀雅]]・[[中村尚史 (歴史学者)|中村尚史]]|title=日本交通史辞典|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|date=2003-08-01|ISBN=4642013393|page=267}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[陳水逢]]|date=1993|title=日本文明開化史略|ISBN=9570507101|series=|publisher={{仮リンク|台湾商務印書館|zh|臺灣商務印書館}}|url=https://www.google.co.jp/books/edition/日本文明開化史略/XkEV63ouB4gC?hl=ja&gbpv=1&pg=PA69&printsec=frontcover|page=69}}</ref>。一方、百済後裔というのは、系譜を飾るための装飾であって、『[[日本国現報善悪霊異記|日本現報善悪霊異記]]』にあるように[[越後国]][[頸城郡]]出身とする意見もある<ref>{{Cite book|和書|author=[[太田亮]]|title=姓氏家系大辞典|series=第3巻|publisher=[[国民社]]|date=1942|page=2292}}</ref>。
 
[[天智天皇]]7年([[668年]])、[[河内国]][[大鳥郡]]([[天平宝字]]元年([[757年]])に[[和泉国]]へ分立、現在の[[大阪府]][[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]家原寺町)で父・[[高志才智]]、母・[[蜂田古爾比売]]の長子として生まれる<ref name="瓶記" />。『大僧正舎利瓶記』に「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」とあり{{Sfn|奈良県|2016|p=12}}、[[天武天皇]]11年([[682年]])に<ref name="瓶記" />15歳で大官大寺で<ref>吉田靖雄『行基と律令国家』([[吉川弘文館]]、1987年)での推定。</ref>、[[得度]]を受け[[出家]]し、法行と称した<ref name="堺市史7-1">『[[堺市史]]』第七巻[https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0sakai-lib/WJJS06U/2714005100text-list/2714005100100070d100070/?hid=ht000040&word=%E5%A0%BA%E9%91%91 第一編 人物誌 第一章 黎明期]([[堺市立中央図書館]])2021202351239日閲覧</ref>。[[持統天皇]]5年([[691年]])、24歳で戒師の葛城山高宮寺徳光[[禅師]]のもと[[受戒]]する。[[飛鳥寺]]、次に[[薬師寺]]で[[法相宗]]を主として教学を学び{{sfn |千田稔|1994| pp=50-71}}名を行基と改めた<ref name="堺市史7-1" />。教えを受けたとされる[[道昭]]は、入[[唐]]して[[玄奘]]の教えを受けたことで有名であり、それとともに[[井戸]]を掘り、[[渡し船|渡し]]や港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている{{sfn |千田稔|1994| pp=71-75}}。ただし、行基が[[道昭]]に師事したという伝承もあるが、行基の[[遺骨]]を納めた瓶『舎利瓶記』、『[[日本国現報善悪霊異記|日本現報善悪霊異記]]』には記されておらず、疑問視する意見もある<ref>{{Cite book|和書|author=[[大西龍峯]]|date=1987-03|title=元興寺智光の出自及び本質|series=駒澤大學佛教學部研究紀要 45|publisher=[[駒澤大学]]|page=303-304}}</ref>。[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])、生家を[[家原寺]]に改め、母と[[大和国]]の佐紀堂で暮らす<ref name="年譜">{{Cite book|和書|author=[[吉田靖雄]]|date=1987|title=行基と律令国家|page=83|publisher=[[吉川弘文館]]}}</ref>。40歳で[[生駒山]]の草野仙房に母親と移り修行する。43歳で母を亡くし3年間[[喪]]に服す。
 
知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して、[[近畿地方]]を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業に活動した{{sfn|根本誠二|2005|pp=22-26}}。行基が開基したとされる寺院は、『[[続日本紀]]』で40余処、興融寺の[[鎌倉時代]]中期の顕彰碑では49院といわれる多くが不明であり、小規模な修行と布教の為の拠点だったと見られる{{sfn |千田稔|1994| pp=99-173}}。だが、[[養老]]元年(717年)[[4月23日_(旧暦)|4月23日]]、[[詔]]をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、これら新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた[[僧尼令]]に違反するとされ、糾弾されて弾圧を受けた{{sfn |千田稔|1994| pp=88-92}}{{sfn|根本誠二|2005||pp=22-26}}。行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみである。
102 ⟶ 106行目:
* 常照寺(奈良県[[高取町]])
{{div col end}}
* 法多山尊永寺(静岡県袋井市、法多山尊永寺、別格本山)「聖武天皇の勅命により行基が開祖、聖観音菩薩を祀る、のちに空海が不動明王を祀る」
 
=== 行基が掘削指導した貯水池 ===
140 ⟶ 145行目:
* [[仁比山地蔵院]]([[佐賀県]][[神埼市]]神埼町的1688)
* 補陀落山那古寺(千葉県館山市)
* [[千葉寺]](千葉県千葉市)
* [[大善寺]](山梨県甲州市勝沼町)
* [[高尾山薬王院]]([[東京都]][[八王子市]])
145 ⟶ 151行目:
* 桂木観音(埼玉県、毛呂山町)
* [[満明寺]]([[長崎県]][[雲仙温泉]])
* 雲峰寺(山梨県山梨甲州市){{div col end}}
 
=== 行基が架橋した伝承のある橋 ===
191 ⟶ 197行目:
 
== 行基を扱った関連作品 ==
; 映画
: 『[[大佛開眼]]』(1952年、演:[[大河内傳次郎]])
; 漫画
: 『[[ねこねこ日本史]]』([[そにしけんじ]]、[[実業之日本社]])
198 ⟶ 206行目:
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|230em}}
 
== 参考文献 ==
267 ⟶ 275行目:
* {{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/ebaraji/ |title=家原寺 - 行基の元生家(誕生地) |date=20010413115117}}
* {{Wayback|url=http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/gyouki.htm |title=僧行基 - 北河内古代人物誌 |date=20080310062457}}
* [https://www.todaiji.or.jp/history/narajidai/ 東大寺の創建] - 華厳宗大本山 東大寺
 
{{唯識}}
272 ⟶ 281行目:
{{観音寺住職||開基}}
{{Normdaten}}
{{南都六宗}}
 
{{DEFAULTSORT:きようき}}
[[Category:行基|!]]
[[Category:7世紀日本の学者]]
[[Category:8世紀日本の学者]]
[[Category:7世紀日本の僧]]
[[Category:8世紀日本の僧]]
284 ⟶ 292行目:
[[Category:奈良時代の僧]]
[[Category:日本の地図製作者]]
[[Category:7世紀日本の土木技術者]]
[[Category:渡来人]]
[[Category:前近代の朝鮮系日本人]]