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{{参照方法|date=2024年1月}}
{{
| 名称=中島 キ44 二式戦闘機「鍾馗」
| 画像=File:Nakajima Ki-44-II Otsu at Clark 1945.jpg
| キャプション=[[1945年]]撮影の二式戦二型乙(キ44-II乙)
| 用途=[[戦闘機]]
| 分類=[[軍用機の設計思想#
| 設計者=[[小山悌]]、[[森重信]]、[[内田政太郎]]、[[糸川英夫]]
| 製造者=[[中島飛行機]]
| 運用者={{JPN1889}}([[大日本帝国陸軍|日本陸軍]])
| 初飛行年月日=[[1940年]]10月
| 生産数=1,225機<br/>(キ44試作1号機からキ44-III試作機まで)
| 生産開始年月日=
| 運用開始年月日={{Start date|1941
| 生産終了年月日={{ End date|1944
| 運用状況=退役
| ユニットコスト=
}}
'''二式戦闘機'''(にしきせんとうき)は、[[第二次世界大戦]]時の[[大日本帝国陸軍]]の[[戦闘機]]。[[キ番号]](試作名称)は'''キ44'''。[[軍用機の命名規則 (日本)#愛称|愛称]]は'''[[鍾馗]]'''(しょうき)。略称・呼称は'''二式戦'''、'''二式単戦'''、'''二戦'''、'''二単'''、'''ヨンヨン'''など。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の[[コードネーム]]は'''Tojo'''(トージョー)
== 概要 ==
従来の[[日本軍|陸海軍]]戦闘機とは異なり旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能をも備えた新時代の優秀機であったが、反面、(日本の戦闘機としては)旋回性能と[[航続距離]]には劣り、[[翼面荷重]]が大きい。これらは欧米の戦闘機と比べると標準的な値であったが、[[格闘戦]]に秀でて操縦も容易な従来機に慣れていた[[パイロット (航空)|操縦者]]には、離着陸の難しさ、航続距離の不足などを理由に嫌われる傾向にあった
設計に関わった[[糸川英夫]]技師は、「[[一式戦闘機|「隼」戦闘機]]は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である」と戦後の著書に記している。
=== 開発・計画 ===
[[File:Wagner Book (16149108508).jpg|thumb|right|
[[1937年]](昭和12年)12月に[[制式]]採用された中島製の
[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]が示した兵器研究方針によれば、1937年から[[1938年]](昭和13年)当時の陸軍は3種類の戦闘機を研究・開発しようとしていた
[[File:Wagner Book (16310754346).jpg|thumb|left|
九七戦の発展型として開発の進んだキ43に比べ、重戦というものの開発経験のない陸軍および各メーカーでは基本仕様をまとめるだけでも手間取り、開発スケジュールはキ43よりも後回しにされた。とりあえず中島では陸軍の要求性能が出るよりも先に、Bf 109を目標とし、当時国産で入手可能だった最大出力のエンジンである[[ハ41]](離昇 1,250
陸軍はノモンハン事件の戦訓のみならず、欧米機情勢の研究によって防弾装備に対し理解があったため、キ44には既存の防火タンク(防弾タンク・防漏燃料タンクとも。タンク被弾時に漏洩・発火を防ぐためタンク外装を積層ゴムなどで包んだ[[シーリング|セルフシーリング]]式。なお、陸軍はキ43試作1号機時点で中島に対し防火タンクの装備を命令している)だけでなく、操縦者保護のために座席後部に
開発指示段階では、武装として固定機関砲1門、固定機関銃2挺の装備が求められていた
=== 試作・審査 ===
[[File:Wagner Book (16335820882).jpg|thumb|right|
試作機は[[1940年]](昭和15年)10月に初飛行したが、エンジンの性能不足で不具合も多かったため、各所に改良を施し{{efn2 |エンジンカウル・カウルフラップ・エンジン吸気用カウル開口部の改良<ref>酣燈社 設計者の証言 下 pp. 109–112{{Full citation needed|date=2024年1月}}</ref>。}}
、最終的には高度 3700{{nbsp}}mにて最大速度 === 採用・改良 ===
来るべき対英米戦のため、増加試作機によって1941年11月に[[独立飛行第47中隊]]<ref group="注">部隊名は[[赤穂浪士|赤穂四十七士]]にちなむ。</ref>([[飛行中隊|中隊長]][[坂川敏雄]])が編成、英米軍新鋭機への対抗に実用試験を兼ねて同年12月の[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦と共に[[南方作戦]]に実戦投入された。初出撃は12月25日であり、時にはキ44の本領を発揮する高速追撃や一撃離脱戦法を駆使するなど特性を生かし、[[黒江保彦]][[大尉]]や[[神保進]]大尉ら陸軍の[[エース・パイロット]]が[[F2A (航空機)|バッファロー]]や[[ホーカー ハリケーン|ハリケーン]]を撃墜するなど戦果を挙げ、実戦では航続距離を除いて運動性は問題とされなくなった。そして1942年2月に'''二式戦闘機'''として制式採用された。
開発が難航したことから、試作機テスト中に性能向上のための改修案が検討された。第一次の性能向上策として、搭載エンジンをハ41からこれの改良型である[[ハ5 (エンジン)|ハ109]](離昇1,500[[英馬力|馬力]])に換装することが試みられた。この改修により速度性能が向上したため、1942年12月に'''二式戦闘機二型'''('''キ44-II''')として制式採用された。このためそれまでの生産型は'''二式戦闘機一型'''('''キ44-I''')と称される。なお、一型(キ44-I)の生産機数は40機のみで、残り大半機は二型(キ44-II)である。
[[1943年]](昭和18年)には、第二次性能向上型として2,000馬力級エンジンである[[ハ145]]を搭載した'''キ44-III'''の開発がなされるが、この試作機が完成した頃には新型の高性能万能戦闘機であるキ84(のちの[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]])の開発が進んでおり、キ44-IIIは実用化されず、また二式戦の生産自体も1944年末に終了した。総生産機数は各型合計1,225機である。
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== 技術的特徴 ==
[[File:Ki-44 skeleton.jpg|
速度・上昇力優先の設計思想に基づき、大径大出力のエンジンに軽い胴体、小さい主翼を備えているが、胴体はエンジン直後から急に細く絞り込んである。この点、同じく大径大出力エンジンを装備しながらさらに太い[[紡錘]]形胴体に設計された三菱の[[雷電 (航空機)|雷電]]とは対照的である。雷電では表面積や重量
設計者の一人糸川技師はブランコに乗る二人の子供を見て、縦と横の運動が互いに連動せずに切り離された操縦系をもつ機体(操縦者が縦の操作や横の操作を行った時、機体は余分な動きをせずその操作のみに反応する)を発想し
背の低い垂直尾翼は下膨れ型<ref name=":0">内藤子生 『飛行力学の実際』 日本航空技術協会 1977年、 p. 65</ref>と言われ、プロペラ後流の悪影響を軽減する手法のひとつである。プロペラ後流は螺旋状に回転しており垂直尾翼を横から叩いて機首を偏向させるが、これは外周側ほど強力であり、垂直尾翼の面積重心をプロペラ軸に寄せる事でその影響を小さくできる<ref name=":0" />。欧米の単発戦闘機の垂直尾翼は背が高いがプロペラ軸を数度下向き<ref group="注">ダウンスラスト。高迎角時など、斜め風を受けるプロペラの左右面推力差の軽減にも有効。</ref>にして同様の効果を得ている<ref name=":0" />。また、離陸滑走から浮揚への迎角変化の際、垂直尾翼へのペラ後流の当たり方が急変し、逆の当舵で修正が必要な瞬間があるが、操作が遅れると機首を急激に振られやすい。この現象はヒッカケラレと呼び、これの軽減にも上記対策が有効である<ref>内藤子生 『飛行力学の実際』 日本航空技術協会 1977年、 p. 66</ref>。
主翼は二本桁のボックス構造で、内側は波板で補強されており「850km/h以上の急降下でもびくともしない」と評される。当時の陸軍に重戦の明確な思想がなかったため急降下制限速度は一式戦とほとんど変らない余裕を持たせた650km/hに設定されているが<ref>「2式戦闘機(2型)取扱法」p.67</ref>、実際にはBf 109の荷重倍数10.8Gを上回る12.6Gの強度試験をクリアしている。実戦では800km/hの速度で引き起こしを行っても主翼にシワがよることはなかった<ref>大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 1984年・26頁</ref>。平面形はスパンこそ短いものの、九七戦から採用している翼端失速に強い直線翼を用いており、[[高揚力装置#フラップ|フラップ]]は中島独自の蝶型フラップ(ファウラーフラップの一種)を装備している。蝶型フラップは高速戦闘機の旋回性能を高める効果が期待されたが、実戦では出し入れがわずらわしく使用されることはなかった(後廃止)。また、日本軍視点では劣るものとされていた旋回性能は実際は連合軍戦闘機よりも優れており、実戦では全く問題にならなかった。▼
しかし最大の難点は着陸速度の速さと頭デッカチによる視界の悪さであり、[[明野陸軍飛行学校]]の実用試験では「若い者は乗せられない」「暴れ馬」「殺人機」との悪評を下された{{Sfn|大木|1984|p=27}}。
▲主翼は二本桁のボックス構造で、内側は波板で補強されており「
一型(キ44-I)が搭載していたハ41は出力が不足気味で予定性能に達し得なかったため、性能が向上したハ109が二型(キ44-II)に装備され二式戦の主力生産モデルとなった。しかし、ハ109も稼働率の点から整備の難しいエンジンであることには変わりなく、[[飛行第47戦隊]]<ref group="注">1943年10月より改編された独立飛行第47中隊の後身。</ref>で整備指揮隊長を務めた[[刈谷正意]]大尉はハ109について、「こまごまとした点では手の掛かる奴だった」と述懐している。
エンジン直後の胴体のくびれについて設計者の[[小山悌]]は「胴体と主翼との悪い空気干渉を避けるため、ここで胴体をいくらか絞って空気が流れやすくする」<ref>碇義朗 『疾風 航空技術の戦い』 p. 78 {{Full citation needed|date=2024年1月}}</ref>との考えだったと伝えられる<ref group="注">これは主翼上面を登り、左右から盛り上がる流れが胴体上半の流れと押し合って干渉するのを幾分でも吸収し流れをスムーズにする意図だと言える。</ref>。一方、[[内藤子生]]は「[[中島飛行機]]ではプロペラ後流が収縮流<ref group="注">プロペラ面を通る空気は加速され外気より静圧が低くなって周囲から押されるためプロペラ径より小さい収縮流になる。</ref><ref>山名正夫, 中口博 『飛行機設計論』 養賢堂、1968年 p. 182</ref>になることに早くから着目し、陸軍の[[九七式戦闘機]]では、この着想のもとに胴体の平面形をおたまじゃくし形にしぼって効果をあげていた。」<ref>軍用機メカシリーズ③ 光人社 p. 101{{Full citation needed|date=2024年1月}}</ref>と書いている。当然ながら[[エリアルール]]を先取りしたものではない。なお、絞り具合は図面(書籍)によってかなり異なる。また、この絞り胴体は近藤技士の反対により疾風には採用されなかった。
{{-}}
== 実戦 ==
[[File:Wagner Book (16310751266).jpg|thumb|right|
最初の二式戦の実戦部隊は上述の通り、増加試作機を主に装備した独立飛行47中隊(愛称は[[カワセミ|かわせみ]]部隊、[[新撰組]])。太平洋戦争緒戦の南方作戦に従軍し、[[インドシナ]]、[[マレー]]、[[ビルマ]]と転戦したが、補助タンクを装備しても航続距離が短く、敵地深くへの侵攻ができなかった。そのため、
1942年12月には性能向上した二型(キ44-II)が量産に入り、1943年に入ってから少数の部隊が二式戦に機種改変、主に[[日中戦争|中国戦線]]に投入され、中でも[[飛行第85戦隊]]の[[若松幸禧]]大尉は「赤鼻のエース」として名を上げた。
[[File:Wagner Book (16149317510).jpg|thumb|left|
1944年末より、日本本土に[[B-29 (航空機)|B-29]]が飛来するようになると、外地にあったいくつかの部隊は本土防空に呼び戻され各地に展開し、飛行第47戦隊(1945年前後には四式戦へ機種改変)や[[飛行第70戦隊]]などが戦果を挙げ、第70戦隊は[[吉田好雄]]大尉や[[小川誠]][[准尉]]ら二式戦乗りのエースを輩出し、本土決戦用の兵力温存の処置がなされるまでは邀撃部隊として活動を行った。イギリスのケネス・マンソンの著作<ref>[[湯浅謙三]]訳・[[野沢正]]監修『第2次大戦戦闘機』鶴書房刊、1970年{{要ページ番号|date=2024年1月}}</ref>によれば、
末期の外地における戦闘としては、1945年1月24日・29日に[[スマトラ島]][[パレンバン]]に来襲した[[イギリス海軍]]第63空母機動部隊艦載機との防空戦がある([[メリディアン作戦]])。パレンバンには大[[油田]]・製油所・飛行場が存在し、かつての[[蘭印作戦]]下[[パレンバン空挺作戦]]において太平洋戦争の最重要攻略目標として日本陸軍が制圧占領した最重要地であった。同地には二式戦を装備する[[飛行第87戦隊]]を主力とし、このほか[[飛行第26戦隊]]・第33戦隊(一式戦装備、第33戦隊は装備2機のみ)、第21戦隊(二式複戦装備)が防空飛行部隊として配置されていた。日英双方の記録を照らし合わせた実損害・実戦果として、2日間の空戦で日本陸軍は20機喪失、イギリス海軍は16機喪失(ほか帰途不時着水11機・着艦事故14機は除く)であった<ref>梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p. 116</ref>。
陸軍上層部はハ109の低稼働率の問題と、四式戦の実用化に目処がついたことを理由として途中で二式戦の生産を打ち切っており、このため改善も停まっている。そのため、大戦末期になっても旧式の眼鏡式照準器を装備した機体があったり、当時の国産戦闘機では当たり前になっていた推力式単排気管への改修も行なわなかった(この簡単な改造を施すだけで速度は10〜
一部の古参操縦者には海軍の雷電と同様に扱いが難しい機体であると敬遠され、当初、[[飛行時間]]800時間に満たない操縦者による操縦は危険であるとされたが、若年操縦者を乗せても何ら問題はなかった。また、従来1,000時間以上の者でないと乗りこなせないとされたが、200時間程度の者でも戦果をあげるなどしている。四式戦が登場するまで、優秀な上昇力や急降下性能、最高速度、武装、防弾装備、頑丈な機体に魅力を感じた操縦者も多かった。
二式戦は現在、一機も現存していない。
== アメリカ軍による評価 ==
[[File:Captured Nakajima Ki-44 in flight.jpeg|thumb|right|
TAIC(米海軍航空情報部)では、[[鹵獲]]した二式戦二型(キ44-II)の1機を使用し実際に飛行テストと性能調査を行っている。報告書によれば「急降下性能と上昇力が傑出(Excellent)しインターセプターとしてもっとも適切 (
{{-}}
== 諸元 ==
[[File:Nakajima_Ki-44-II.svg|thumb|right|250px|二型丙三面図]]▼
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! 制式名称
|-
! 試作名称
|-
! 全幅
| colspan="5" | 9.
|-
! 全長
| colspan="3" | 8.
|-
! 全高
| colspan="4" | 3.
|-
! 翼面積
| colspan="5" |
|-
! [[翼面荷重]]
| colspan="5" | 184.67 kg/m<sup>2</sup>
|-
! [[空虚重量|自重]]
| colspan="3" | 2,
|-
! 正規全備重量
| colspan="3" | 2,
|-
! [[発動機]]
| colspan="2" | [[ハ41]](離昇 1,250[[英馬力|馬力]])1基
| colspan="3" |[[ハ5 (エンジン)|ハ109]](離昇 1,450馬力)1基
|-
! 最高速度
| colspan="3" |
|-
! 上昇力
| colspan="3" | 5,
|-
! [[航続距離]]
| colspan="3" | 1,
| colspan="2" | 1,
|-
! 武装
| style="align:top; text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首上面
*: 7.7{{nbsp}}mm 機銃
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首上面
*: 7.7{{nbsp}}mm 機銃
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ301|40{{nbsp}}mm 自動噴進弾機関砲]]
*: 搭載可能
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
|-
! 爆装
| colspan="5" |
|-
! 生産機数
| (数量不明) |
|}
{{-}}
== 各種形式 ==
; 一型甲(キ44-I甲)
: ハ
; 一型乙(キ44-I乙)
: 12.
; 一型丙(キ44-I丙)
156 ⟶ 195行目:
; 二型甲(キ44-II甲)
[[File:Wagner Book (16149107188).jpg|thumb|right|250px|[[常陸教導飛行師団]]所属の二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
: ハ
; 二型乙(キ44-II乙)
: 12.
; 二型丙(キ44-II丙)
[[Image:Ki-44 (1).jpg|thumb|
: 12.
; 三型甲(キ44-III甲)
: ハ
; 三型乙(キ44-III乙)
: 三型甲の武装をさらに
; キ63
: 1940年(昭和15年)に構想された重戦闘機。当初は新規設計機として計画されていたが開発が進まず、1941年秋頃にキ44-IIIが実質的にキ63であると解釈する形で計画が立ち消えになった。エンジンは[[誉 (エンジン)|ハ45]]搭載が検討されていたが、確定には至らず終わっている<ref>{{Cite Book |和書 |
== 現存する機体 ==
完全な状態の機体は無いが、中国に機体中翼部が零戦の機体と称して展示されており、国内にはエンジン周辺が現存する。
{|class="wikitable" style="font-size: 90%; bacground-color: #fff;text-align:left;"▼
▲{|class="wikitable" style="font-size: 90%; bacground-color: #fff;"
▲!型名 !!機体写真 !!所在地 !!保存施設/管理者 !!公開状況 !!状態 !!機体番号 !!備考
|-
|二式戦闘機
||[
||[[中華人民共和国|中国]]
[[陝西省]][[西安市]]
195 ⟶ 233行目:
[[埼玉県]][[狭山市]]稲荷山2-3
||[[入間基地|航空自衛隊入間基地]]修武台記念館
||不定期に公開<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170830/ddl/k11/040/413000c 空自入間基地修武台記念館:特攻機「桜花」実機など公開
||[[ハ5 (エンジン)|ハ5エンジン]]周辺のみ
||不明
214 ⟶ 252行目:
; 『[[戦場まんがシリーズ]]』
: シリーズの一編「成層圏戦闘機」にて、[[B-29 (航空機)|B-29]]迎撃[[部隊]]「新撰組」の装備機として本機が登場する。
; 『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』
: 二型乙が六車宮古の乗機として登場<ref name="sr_hw">[https://sigururi.com/hero-wings/ 「戦翼のシグルドリーヴァ」公式サイト>HERO WINGS] ※2020年10月4日閲覧</ref>。オリジナルの状態からは照準器や機首機銃が交換されており、翼下左右に“勇者砲”と呼称される<ref group="注">なお、翼内装備の[[ホ301]]は“小粒勇者砲”と呼称されている。</ref>計2門の長砲身の[[無反動砲]]が装備されている、という設定である<ref name="sr_hw" /><ref>[https://sigururi.com/assets/img/special/booklet/vol02.pdf 「戦翼のシグルドリーヴァ」公式サイト>戦翼通信 vol.02 世界観設定・設定考証 鈴木貴昭氏によるスペシャルコラム 第2回 キ-44II乙 & He100D-1] ※2020年10月4日閲覧</ref><ref group="注">作中に登場するものの形状はアメリカの[[M20 75mm無反動砲]]に近似しているが、具体的な機種名は不明。</ref>。
; 『四次元世界シリーズ』
: シリーズの一編「緑の環」にて、主人公の乗る機体として[[ホ401]]装備機が登場。[[夜戦|夜間戦闘]]で[[東京都|東京]]上空のB-29や[[P-61 (航空機)|P-61]]を40ミリ砲で[[撃墜]]するが本機も墜ちる。タイトルの「緑の環」とは[[照準器]]のレティクルのこと。
222 ⟶ 262行目:
; 『鐘馗呑龍新司偵』
: [[1944年]]4月に発表された[[キングレコード]]の[[軍歌|戦時歌謡(軍歌)]]([[時雨音羽]]作詞・[[細川潤一]]作曲・[[鬼俊英]]歌唱)。[[一〇〇式重爆撃機|一〇〇式重爆撃機 呑龍]]・[[一〇〇式司令部偵察機|一〇〇式司令部偵察機 新司偵]]とともに二式戦を謳う。
== 注釈 ==▼
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
▲=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
** {{Cite book|和書 |editor=内閣情報局 |title=写真週報 291号 |date=1943-09-29 |publisher=国立公文書館 |id=JACAR(アジア歴史資料センター) Ref. A06031088600 }}
** {{Cite book|和書 |author=陸軍航空本部 |title=二式戦闘機(二型)取扱法 |date=1944年2月 |publisher=国立公文書館 |ref={{Sfnref|取扱法}} |id=JACAR(アジア歴史資料センター) Ref. A03032181800 }}
**
* {{Cite book|和書 |author=糸川英夫
* {{Cite magazine|和書 |author=大木主計
* {{Cite book|和書 |author=鈴木五郎
* {{Cite book|和書 |author=碇義朗
* {{Cite book|和書 |author=秋本実
* {{Cite magazine|和書 |editor=文林堂 編
* {{Cite book|和書 |author=[[青木邦弘]]{{
* {{cite web2|df=ja |language=ja |author=宮田豊昭
* {{Cite book|和書 |author=刈谷正意
* {{Cite book|和書 |author=[[梅本弘]]
=== 参考文献注釈 ===
<references group="注釈"/>
== 関連項目 ==
* [[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]
251 ⟶ 295行目:
== 外部リンク ==
*
{{大日本帝国陸軍}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にしきたんさせんとうき}}
[[Category:日本の戦闘機]]
[[Category:大日本帝国陸軍の航空機]]
[[Category:中島飛行機の航空機]]
[[Category:第二次世界大
|