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{{参照方法|date=2024年1月}}
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{{ Infobox 航空機
| 名称=中島 キ44 二式戦闘機「鍾馗」
| 画像=File:Nakajima Ki-44-II Otsu at Clark 1945.jpg
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| 運用者={{JPN1889}}([[大日本帝国陸軍|日本陸軍]])
| 初飛行年月日=[[1940年]]10月
| 生産数=1,225機<br/>(キ44試作1号機からキ44-III試作機まで)
| 生産開始年月日=[[{{Start date|1942年]]| 1 }}<br/>(改修第1号機は[[{{Start date|1941年]]|6}}
| 運用開始年月日={{Start date|1941|11 }}<br/>(試作機9機による[[独立飛行第47中隊]]編成)
| 生産終了年月日={{ End date|1944|12 }}
| 運用状況=退役
| ユニットコスト=
}}
'''二式戦闘機'''(にしきせんとうき)は、[[第二次世界大戦]]時の[[大日本帝国陸軍]]の[[戦闘機]]。[[キ番号]](試作名称)は'''キ44'''。[[軍用機の命名規則 (日本)#愛称|愛称]]は'''[[鍾馗]]'''(しょうき)。略称・呼称は'''二式戦'''、'''二式単戦'''、'''二戦'''、'''二単'''、'''ヨンヨン'''など。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の[[コードネーム]]は'''Tojo'''(トージョー)<ref>「2式戦闘機(2型)取扱法」p.1。{{efn2 |当時の[[内閣総理大臣]][[東條英機]][[陸軍大将]]から{{Sfn|取扱法|p=1}}</ref>}}。開発・製造は[[中島飛行機]]である。'''制式名称は単に「二式戦闘機」である'''(昭和17年1月28日陸密第283号にて「二式戦闘機」として陸軍兵器として制式制定)が、「[[二式複座戦闘機]]」との混同を避けるため「二式単座戦闘機」と呼ばれることがある。
 
が、「[[二式複座戦闘機]]」との混同を避けるため便宜上「二式単座戦闘機」と呼ばれることがある。
== 概要 ==
従来の[[日本軍|陸海軍]]戦闘機とは異なり旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能をも備えた新時代の優秀機であったが、反面、(日本の戦闘機としては)旋回性能と[[航続距離]]には劣り、[[翼面荷重]]が大きい。これらは欧米の戦闘機と比べると標準的な値であったが、[[格闘戦]]に秀でて操縦も容易な従来機に慣れていた[[パイロット (航空)|操縦者]]には、離着陸の難しさ、航続距離の不足などを理由に嫌われる傾向にあった<ref>[[#{{Sfn|青木回想]]、p112</ref>|1999|p=112}}
 
設計に関わった[[糸川英夫]]技師は、「[[一式戦闘機|「隼」戦闘機]]は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である」と戦後の著書に記している。
 
=== 開発・計画 ===
[[File:Wagner Book (16149108508).jpg|thumb|right|200px250px|二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
[[1937年]](昭和12年)12月に[[制式]]採用された中島製の[[九七式戦闘機]](キ27)は、[[降着装置|主脚]]こそ保守的な固定脚を採用したものの、陸軍初の全金属製・低翼・単葉の意欲的設計であり、上昇力・旋回性に優れた格闘戦向けの優秀機であった。しかし九七戦登場時、すでに[[ヨーロッパ|欧州]]では引込脚の[[メッサーシュミット Bf109|Bf 109]]([[ドイツ]])と[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]]([[イギリス]])が出現しており、陸軍は新型戦闘機の開発を模索する<ref>[[#{{Sfn|青木回想]]|1999|p=104}}{{Sfn|青木|1999|p=107頁</ref>}}
 
[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]が示した兵器研究方針によれば、1937年から[[1938年]](昭和13年)当時の陸軍は3種類の戦闘機を研究・開発しようとしていた<ref>[[#{{Sfn|作戦上要望]]|pp.3-4</ref>=3–4}}。まず1機種は従来通り格闘性能を重視した「'''軽単座戦闘機'''」、次の1機種は重武装かつ対戦闘機戦にも対大型機戦にも対応できる速度重視の「'''重単座戦闘機'''」<ref>[[#{{Sfn|作戦上要望]]|p.=5</ref>}}、残る1機種は[[軍用機の設計思想#搭載方式|双発万能戦闘機]]に基づいた長距離複座戦闘機であった<ref group="注">これには[[キ45 (航空機)|キ45]]の名が与えられ[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎]]が開発、キ45改を経て[[二式複座戦闘機|二式複座戦闘機(「屠龍」)]]として制式化されている。</ref><ref>[[#{{Sfn|作戦上要望]]|pp.6-7</ref>=6–7}}。これに基づき、中島・川崎・[[三菱重工業|三菱]]の各社に軽戦と重戦の研究開発指示を出し、これに対する中島の回答が「軽戦」の[[一式戦闘機|キ43(一式戦闘機「隼」)]]と「重戦」のキ44(二式戦闘機「鍾馗」)であった(共に設計主務者は[[小山悌]]技師長)。ただしキ43設計チームの[[青木邦雄]]技師は、「隼(キ43)」も重戦(Bf 109)を目指したものの、重戦開発経験の浅さから結果として軽戦になってしまったと述べている<ref>[[#{{Sfn|青木回想]]、|1999|pp.107-108、p124</ref>=107–108}}{{Sfn|青木|1999|p=124}}。キ44に対して軽戦主導者からの不要論があったが、同時期の[[ノモンハン事件]](後期ノモンハン航空戦)において[[赤軍|ソ連赤色空軍]]戦闘機が[[一撃離脱戦法]]を駆使していた戦訓、そのため[[I-16 (航空機)|I-16]]などの高速機に対して一撃離脱攻撃や追撃の行える新鋭戦闘機の必要性が認められ、停滞していた開発を活発化した<ref>{{Sfn|大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 |1984年・|p=4頁</ref>}}
 
[[File:Wagner Book (16310754346).jpg|thumb|left|200px250px|二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
九七戦の発展型として開発の進んだキ43に比べ、重戦というものの開発経験のない陸軍および各メーカーでは基本仕様をまとめるだけでも手間取り、開発スケジュールはキ43よりも後回しにされた。とりあえず中島では陸軍の要求性能が出るよりも先に、Bf 109を目標とし、当時国産で入手可能だった最大出力のエンジンである[[ハ41]](離昇 1,250 [[英馬力|馬力]])を装備し主翼面積は15m15{{nbsp}}[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]、武装に20mm20{{nbsp}}mm[[航空機関砲|機関砲]]を装備する予定で開発を進めることになった。青木によれば「鍾馗」は隼が採用されなかった場合の保険機であり、研究機的な側面が強いという<ref name="{{Sfn|青木回想111">[[#青木回想]]、|1999|pp.111-112</ref>=111–112}}。それ故に、中島は「鍾馗」に新技術や新構想を盛り込むことが出来た<ref name="{{Sfn|青木回想111"/>|1999|pp=111–112}}。陸軍側の要求性能は遅れて[[1939年]](昭和14年)に出され、最大速度600km 600{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]以上、上昇時間5000m 5000{{nbsp}}m まで5分以内、行動半径600km600{{nbsp}}km等とされた。
 
陸軍はノモンハン事件の戦訓のみならず、欧米機情勢の研究によって防弾装備に対し理解があったため、キ44には既存の防火タンク(防弾タンク・防漏燃料タンクとも。タンク被弾時に漏洩・発火を防ぐためタンク外装を積層ゴムなどで包んだ[[シーリング|セルフシーリング]]式。なお、陸軍はキ43試作1号機時点で中島に対し防火タンクの装備を命令している)だけでなく、操縦者保護のために座席後部に13mm13{{nbsp}}mm厚の[[装甲|防弾鋼板]](防楯鋼板)を日本の戦闘機としては初めて装備している<ref group="注">機体重量の低減が求められていた一式戦は1943年6月から生産の二型(キ43-II)途中より13mm13{{nbsp}}mm防弾鋼板を装備。なお、戦闘機以外では[[九九式襲撃機]](キ51)が1939年ないし1940年の試作機時点で防弾鋼板を防火タンクとともに装備済みであった。</ref>。防弾鋼板は頭当てと背当てに装備され、総重量は60kg60{{nbsp}}[[キログラム|kg]]であった。
 
開発指示段階では、武装として固定機関砲1門、固定機関銃2挺の装備が求められていた<ref>[[#{{Sfn|作戦上要望]]|p.=6</ref>}}。翼内には同時期に新開発された[[榴弾]]を有する12.7mm7{{nbsp}}mm機関砲2門([[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103 一式十二・七粍固定機関砲]])、機首には従来の7.7mm7{{nbsp}}mm機関銃2挺([[八九式固定機関銃]])となっている。陸軍機には少ない引込式尾輪を採用している。
 
=== 試作・審査 ===
[[File:Wagner Book (16335820882).jpg|thumb|right|200px250px|二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
試作機は[[1940年]](昭和15年)10月に初飛行したが、エンジンの性能不足で不具合も多かったため、各所に改良を施し<ref>{{efn2 |エンジンカウルカウルフラップエンジン吸気用カウル開口部の改良<ref>酣燈社 設計者の証言 下 pp. 109–112{{Full citation needed|date=2024年1月}}</ref>}}
 
酣燈社 設計者の証言 下 P.109~P.112</ref>、最終的には高度 3700{{nbsp}}mにて最大速度580km 580{{nbsp}}km/h/3700m、外板の継ぎ目を目張りした状態では626km 626{{nbsp}}km/hを記録した。しかし、従来の戦闘機に比べて旋回性能で劣り、大直径エンジンのために3点姿勢での前方視界が悪く<ref group="注">ただし空中で重要な前下方の視界はその絞り込んだ機体設計により極めて良好。</ref>、[[失速]]速度が高いため高速での着陸が求められた。反面、射撃テストでは優秀な命中率を示し、[[1941年]](昭和16年)夏にドイツから輸入した[[メッサーシュミットBf109#主な型式|Bf 109 E-7]]との模擬空戦にてキ44の総合性能はBf 109 Eを上回った<ref>[[#{{Sfn|青木回想]]123-124頁</ref>|1999|pp=123–124}}。そのため、欧米新鋭戦闘機に対抗可能な戦闘機として有用と位置づけられたが、軽快な格闘戦能力を理想とする多くの古参操縦者からは相変わらずの不評が多かった。
 
=== 採用・改良 ===
来るべき対英米戦のため、増加試作機によって1941年11月に[[独立飛行第47中隊]]<ref group="注">部隊名は[[赤穂浪士|赤穂四十七士]]にちなむ。</ref>([[飛行中隊|中隊長]][[坂川敏雄]])が編成、英米軍新鋭機への対抗に実用試験を兼ねて同年12月の[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦と共に[[南方作戦]]に実戦投入された。初出撃は12月25日であり、時にはキ44の本領を発揮する高速追撃や一撃離脱戦法を駆使するなど特性を生かし、[[黒江保彦]][[大尉]]や[[神保進]]大尉ら陸軍の[[エース・パイロット]]が[[F2A (航空機)|バッファロー]]や[[ホーカー ハリケーン|ハリケーン]]を撃墜するなど戦果を挙げ、実戦では航続距離を除いて運動性は問題とされなくなった。そして1942年2月に'''二式戦闘機'''として制式採用された。
 
開発が難航したことから、試作機テスト中に性能向上のための改修案が検討された。第一次の性能向上策として、搭載エンジンをハ41からこれの改良型である[[ハ5 (エンジン)|ハ109]](離昇1,500[[英馬力|馬力]])に換装することが試みられた。この改修により速度性能が向上したため、1942年12月に'''二式戦闘機二型'''('''キ44-II''')として制式採用された。このためそれまでの生産型は'''二式戦闘機一型'''('''キ44-I''')と称される。なお、一型(キ44-I)の生産機数は40機のみで、残り大半機は二型(キ44-II)である。
 
[[1943年]](昭和18年)には、第二次性能向上型として2,000馬力級エンジンである[[ハ145]]を搭載した'''キ44-III'''の開発がなされるが、この試作機が完成した頃には新型の高性能万能戦闘機であるキ84(のちの[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]])の開発が進んでおり、キ44-IIIは実用化されず、また二式戦の生産自体も1944年末に終了した。総生産機数は各型合計1,225機である。
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== 技術的特徴 ==
[[File:Ki-44 skeleton.jpg|200px250px|thumb|right|[[陸軍航空整備学校|所沢陸軍航空整備学校]]にて講習に使用されている二式戦二型(キ44-II)]]
速度・上昇力優先の設計思想に基づき、大径大出力のエンジンに軽い胴体、小さい主翼を備えているが、胴体はエンジン直後から急に細く絞り込んである。この点、同じく大径大出力エンジンを装備しながらさらに太い[[紡錘]]形胴体に設計された三菱の[[雷電 (航空機)|雷電]]とは対照的である。雷電では表面積や重量増、視界悪化がデメリット、プロペラ推力有効面積が増えることがメリットであり、本機ではその逆となる。
 
設計者の一人糸川技師はブランコに乗る二人の子供を見て、縦と横の運動が互いに連動せずに切り離された操縦系をもつ機体(操縦者が縦の操作や横の操作を行った時、機体は余分な動きをせずその操作のみに反応する)を発想し<ref{{efn2 group="注">「|糸川は著書にて次のように述べている――『この飛行機のデザインは、妙な動機から生まれた。公園に行って、ぼんやりベンチにすわっていたとき、男の子と女の子がブランコをしていた。同じ鉄棒にブランコが二つぶら下がって、一つに女の子が、もう一つに男の子がのっていたわけである。そのブランコは、長さが全く同じだった。振り方の周期は、だから、女の子も男の子も、両方が同じはずなのだが、見ていると、男の子と女の子のブランコは実際、周期が違う。そこで、私はハッとなった。じつは、隼戦闘機の設計でもさんざん苦労したことなのだが、方向舵を踏んで方向を変えようとすると、かならずローリングといって横の運動が起こる。飛行機は、横の運動と縦の運動がカップルする。その神経を断つことができれば、画期的な戦闘機になると、そのとき、チラッと頭にひらめいたのである。この次の戦闘機は、方向舵の操縦、補助翼の操縦などあらゆる操縦、それらが全部カップルしないような、神経が全部断ち切られたようなものであれば、これはものすごいスピードが出るはずである。同時にまた、ものすごい命中精度と上昇力が出るはずである。というようなことがヒントになり、私は、全知全能をつくして鍾馗戦闘機を設計した」[[。 』――{{Sfn|糸川英夫]]『前例がないからやってみよう』光文社 1979|1980}}{{要ページ番号|date=2024</ref>1月}} }}、この構想から本機は水平尾翼のかなり後方に位置する特徴的な[[垂直尾翼]]をもち、機動から射撃の体勢に移ったときの安定性を高めている。このため射撃時の据わりがよく、機関銃砲の命中率が高いと好評であった。この構造は後の四式戦にも受け継がれた。
 
背の低い垂直尾翼は下膨れ型<ref name=":0">内藤子生 飛行力学の実際 日本航空技術協会  P1977年、 p. 65</ref>と言われ、プロペラ後流の悪影響を軽減する手法のひとつである。プロペラ後流は螺旋状に回転しており垂直尾翼を横から叩いて機首を偏向させるが、これは外周側ほど強力であり、垂直尾翼の面積重心をプロペラ軸に寄せる事でその影響を小さくできる<ref name=":0" />。欧米の単発戦闘機の垂直尾翼は背が高いがプロペラ軸を数度下向き<ref group="注">ダウンスラスト。高迎角時など、斜め風を受けるプロペラの左右面推力差の軽減にも有効。</ref>にして同様の効果を得ている<ref name=":0" />。また、離陸滑走から浮揚への迎角変化の際、垂直尾翼へのペラ後流の当たり方が急変し、逆の当舵で修正が必要な瞬間があるが、操作が遅れると機首を急激に振られやすい。この現象はヒッカケラレと呼び、これの軽減にも上記対策が有効である<ref>内藤子生 飛行力学の実際 日本航空技術協会  P1977年、 p. 66</ref>。
 
しかし最大の難点は着陸速度の速さと頭デッカチによる視界の悪さであり、[[明野陸軍飛行学校]]の実用試験では「若い者は乗せられない」「暴れ馬」「殺人機」との悪評を下された<ref>{{Sfn|大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 |1984年・|p=27頁</ref>}}
 
主翼は二本桁のボックス構造で、内側は波板で補強されており「850km850{{nbsp}}km/h以上の急降下でもびくともしない」と評される。当時の陸軍に重戦の明確な思想がなかったため急降下制限速度は一式戦とほとんど変らない余裕を持たせた650km650{{nbsp}}km/hに設定されているが<ref>「2式戦闘機(2型){{Sfn|取扱法|p.=67</ref>}}、実際にはBf 109の荷重倍数 10.8G8[[重力加速度|G]]を上回る 12.6G6{{nbsp}}Gの強度試験をクリアしている。実戦では800km800{{nbsp}}km/hの速度で引き起こしを行っても主翼にシワがよることはなかった<ref>{{Sfn|大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 |1984年・|p=26頁</ref>}}。平面形はスパンこそ短いものの、九七戦から採用している翼端失速に強い直線翼を用いており、[[高揚力装置#フラップ|フラップ]]は中島独自の蝶型フラップ(ファウラーフラップの一種)を装備している。蝶型フラップは高速戦闘機の旋回性能を高める効果が期待されたが、実戦では出し入れがわずらわしく使用されることはなかった(後廃止)。また、日本軍視点では劣るものとされていた旋回性能は実際は連合軍戦闘機よりも優れており、実戦では全く問題にならなかった。
 
一型(キ44-I)が搭載していたハ41は出力が不足気味で予定性能に達し得なかったため、性能が向上したハ109が二型(キ44-II)に装備され二式戦の主力生産モデルとなった。しかし、ハ109も稼働率の点から整備の難しいエンジンであることには変わりなく、[[飛行第47戦隊]]<ref group="注">1943年10月より改編された独立飛行第47中隊の後身。</ref>で整備指揮隊長を務めた[[刈谷正意]]大尉はハ109について、「こまごまとした点では手の掛かる奴だった」と述懐している。
 
エンジン直後の胴体のくびれについて設計者の[[小山悌]]は「胴体と主翼との悪い空気干渉を避けるため、ここで胴体をいくらか絞って空気が流れやすくする」<ref>碇義朗 『疾風 航空技術の戦い Pp. 78 碇義朗{{Full citation needed|date=2024年1月}}</ref>との考えだったと伝えられる<ref group="注">これは主翼上面を登り、左右から盛り上がる流れが胴体上半の流れと押し合って干渉するのを幾分でも吸収し流れをスムーズにする意図だと言える。</ref>。一方、[[内藤子生]]は「[[中島飛行機]]ではプロペラ後流が収縮流<ref group="注">プロペラ面を通る空気は加速され外気より静圧が低くなって周囲から押されるためプロペラ径より小さい収縮流になる。</ref><ref>山名正夫, 中口博 『飛行機設計論 養賢堂、1968年 Pp. 182</ref>になることに早くから着目し、陸軍の[[九七式戦闘機]]では、この着想のもとに胴体の平面形をおたまじゃくし形にしぼって効果をあげていた。」<ref>軍用機メカシリーズ③ 光人社  Pp. 101{{Full citation needed|date=2024年1月}}</ref>と書いている。当然ながら[[エリアルール]]を先取りしたものではない。なお、絞り具合は図面(書籍)によってかなり異なる。また、この絞り胴体は近藤技士の反対により疾風には採用されなかった。
{{-}}
 
== 実戦 ==
[[File:Wagner Book (16310751266).jpg|thumb|right|200px250px|飛行第85戦隊の二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
最初の二式戦の実戦部隊は上述の通り、増加試作機を主に装備した独立飛行47中隊(愛称は[[カワセミ|かわせみ]]部隊、[[新撰組]])。太平洋戦争緒戦の南方作戦に従軍し、[[インドシナ]]、[[マレー]]、[[ビルマ]]と転戦したが、補助タンクを装備しても航続距離が短く、敵地深くへの侵攻ができなかった。そのため、各方面に投入されて数々の戦果を挙げた[[飛行第64戦隊]]・[[飛行第59戦隊]]の一式戦(隼)にくらべて戦闘の機会に恵まれず、あまり目立った活躍ができなかった。1942年5月には内地に呼び戻され、のちに[[飛行戦隊]](飛行第47戦隊)に増強改編された。なお、独飛47中隊が内地に呼び戻された理由は九七戦では[[ドーリットル空襲]]を阻止できず、本土の防空力強化の為の移動<ref>{{Sfn|大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 1084年・|1984|p=29頁</ref>}}とされている。あくまで二式戦は対戦闘機戦にも対大型機戦にも両用し、侵攻作戦にも積極的に用いる汎用的な戦闘機として開発されているが(この点で海軍の局地戦闘機中の乙戦とは運用思想が明確に異なる)、このことが起因となり日本初の邀撃戦闘機ともなった。
 
1942年12月には性能向上した二型(キ44-II)が量産に入り、1943年に入ってから少数の部隊が二式戦に機種改変、主に[[日中戦争|中国戦線]]に投入され、中でも[[飛行第85戦隊]]の[[若松幸禧]]大尉は「赤鼻のエース」として名を上げた。
 
[[File:Wagner Book (16149317510).jpg|thumb|left|200px250px|飛行第47戦隊の二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
1944年末より、日本本土に[[B-29 (航空機)|B-29]]が飛来するようになると、外地にあったいくつかの部隊は本土防空に呼び戻され各地に展開し、飛行第47戦隊(1945年前後には四式戦へ機種改変)や[[飛行第70戦隊]]などが戦果を挙げ、第70戦隊は[[吉田好雄]]大尉や[[小川誠]][[准尉]]ら二式戦乗りのエースを輩出し、本土決戦用の兵力温存の処置がなされるまでは邀撃部隊として活動を行った。イギリスのケネス・マンソンの著作<ref>[[湯浅謙三]]訳・[[野沢正]]監修『第2次大戦戦闘機』鶴書房刊、1970年{{要ページ番号|date=2024年1月}}</ref>によれば、37mm37{{nbsp}}mm砲装備の二型丙(40mm(40{{nbsp}}mm砲装備の乙型特別装備機との誤認とされる)が高高度で編隊を組んで飛来した爆撃機に対してよく戦ったとの記述も見られるが、日本側の記録では高高度で飛来するB-29に対しては、高空性能が著しく劣って攻撃ができず、防弾鋼板、機関砲まで降ろし200kg200{{nbsp}}kgの軽量化を行って、体当たりでB-29撃墜をする[[震天制空隊]]が第47戦隊や第70戦隊などで編成されるほどだった。南方の[[第一野戦補充飛行隊]]所属の陸軍トップ・エース、[[上坊良太郎]]大尉がホ301装備の二型乙(キ44-II乙)でB-29撃墜の戦果を記録したが、高度な技術を持つエースの稀な例でしかなかった。しかし、四式戦が出揃うまでは[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]とともにB-29には比較的有力な機体であったのは変わりなく、残存機は迎撃戦闘機として本土防空の任務に就き[[日本の敗戦|敗戦]]まで活躍した。
 
末期の外地における戦闘としては、1945年1月24日・29日に[[スマトラ島]][[パレンバン]]に来襲した[[イギリス海軍]]第63空母機動部隊艦載機との防空戦がある([[メリディアン作戦]])。パレンバンには大[[油田]]・製油所・飛行場が存在し、かつての[[蘭印作戦]]下[[パレンバン空挺作戦]]において太平洋戦争の最重要攻略目標として日本陸軍が制圧占領した最重要地であった。同地には二式戦を装備する[[飛行第87戦隊]]を主力とし、このほか[[飛行第26戦隊]]・第33戦隊(一式戦装備、第33戦隊は装備2機のみ)、第21戦隊(二式複戦装備)が防空飛行部隊として配置されていた。日英双方の記録を照らし合わせた実損害・実戦果として、2日間の空戦で日本陸軍は20機喪失、イギリス海軍は16機喪失(ほか帰途不時着水11機・着艦事故14機は除く)であった<ref>梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p. 116</ref>。
 
陸軍上層部はハ109の低稼働率の問題と、四式戦の実用化に目処がついたことを理由として途中で二式戦の生産を打ち切っており、このため改善も停まっている。そのため、大戦末期になっても旧式の眼鏡式照準器を装備した機体があったり、当時の国産戦闘機では当たり前になっていた推力式単排気管への改修も行なわなかった(この簡単な改造を施すだけで速度は10〜20km20{{nbsp}}km/h向上したとみられ、第47戦隊長機および[[第2航空軍 (日本軍)|第2航空軍]]で試験的に現地改造を行った例がある)。
 
一部の古参操縦者には海軍の雷電と同様に扱いが難しい機体であると敬遠され、当初[[飛行時間]]800時間に満たない操縦者による操縦は危険であるとされたが、若年操縦者を乗せても何ら問題はなかった。また、従来1,000時間以上の者でないと乗りこなせないとされたが、200時間程度の者でも戦果をあげるなどしている。四式戦が登場するまで、優秀な上昇力や急降下性能、最高速度、武装、防弾装備、頑丈な機体に魅力を感じた操縦者も多かった。
 
二式戦は現在、一機も現存していない。
 
== アメリカ軍による評価 ==
[[File:Captured Nakajima Ki-44 in flight.jpeg|thumb|right|200px250px|アメリカ軍に鹵獲され同国軍の[[国籍標識]]を描きテスト飛行中の二式戦二型(キ44-II)]]
TAIC(米海軍航空情報部)では、[[鹵獲]]した二式戦二型(キ44-II)の1機を使用し実際に飛行テストと性能調査を行っている。報告書によれば「急降下性能と上昇力が傑出(Excellent)しインターセプターとしてもっとも適切 (Suitablesuitable) な機体」と論じている。同機関では他にも、三式戦・四式戦・雷電二一型・[[紫電改|紫電一一型]]などの鹵獲機を調査しているが、二式戦はこれらの中で迎撃戦闘機(インターセプター)として最高の評価を得ている<ref>文林堂編 『世界の傑作機  No.147  特集・陸軍二式戦闘機  鍾馗』 文林堂、1985年{{要ページ番号|date=2024年1月}}</ref>。
{{-}}
 
== 諸元 ==
[[File:Nakajima_Ki-44-II.svg|thumb|right|250px|二型丙三面図]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! 制式名称|| !! 二式戦闘機一型甲|| !! 二式戦闘機一型乙・丙|| !! 二式戦闘機二型甲|| !! 二式戦闘機二型乙|| !! 二式戦闘機二型丙
|-
! 試作名称|| !! キ44-I甲|| !! キ44-I乙・丙|| !! キ44-II甲|| !! キ44-II乙|| !! キ44-II丙
|-
! 全幅
| colspan="5" | 9.45m45 m
|-
! 全長
| colspan="3" | 8.9m9 m || 8.84 m || 8.85 m
||8.84m||8.85m
|-
! 全高
| colspan="4" | 3.24m24 m || 3.25 m
||3.25m
|-
! 翼面積
| colspan="5" |15m15 m<sup>2</sup>
|-
! [[翼面荷重]]
| colspan="5" | 184.67 kg/m<sup>2</sup>
|-
! [[空虚重量|自重]]
| colspan="3" | 2,095kg095 kg || 2,106 kg || 2,109 kg
||2,106kg||2,109kg
|-
! 正規全備重量
| colspan="3" | 2,769kg769 kg || colspan="2" | 2,764 kg
|colspan="2"|2,764kg
|-
! [[発動機]]
| colspan="2" | [[ハ41]](離昇 1,250[[英馬力|馬力]])1基
| colspan="3" |[[ハ5 (エンジン)|ハ109]](離昇 1,450馬力)1基
|-
! 最高速度
| colspan="3" |605km 605{{nbsp}}km/h(h (高度 5,200m)200{{nbsp}}m)||615km( 615{{nbsp}}km/h (高度 5,200m)200{{nbsp}}m)||605km 605{{nbsp}}km/h(h (高度 5,200m)200{{nbsp}}m)
|-
! 上昇力
| colspan="3" | 5,000m000{{nbsp}}m まで 4分15秒 || colspan="2" | 5,000{{nbsp}}m まで 4分26
|colspan="2"|5,000mまで4分26秒
|-
! [[航続距離]]
| colspan="3" | 1,296km(296 km([[増槽|落下式増槽]]装備時)
| colspan="2" | 1,600km(600 km([[増槽|落下式増槽]]装備時)
|-
! 武装
| style="align:top; text-align:left;" | {{Plainlist |
||胴体 7.7mm機銃2挺(携行弾数各250発)<br />翼内 [[ホ103]] 12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)
* 機首上面
||胴体 ホ103 12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)<br />翼内ホ103 12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)
*: 7.7{{nbsp}}mm 機銃
||胴体 7.7mm機銃2挺(携行弾数各250発)<br />翼内 [[ホ103]] 12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)
*: × 2(各 250発)
||胴体 [[ホ103]] 12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)<br />翼内 [[ホ301]] 40mm自動噴進砲を搭載可能
* 翼内
||胴体 ホ103 12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)<br />翼内ホ103 12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首上面
*: 7.7{{nbsp}}mm 機銃
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ301|40{{nbsp}}mm 自動噴進弾機関砲]]
*: 搭載可能
}}
| style="text-align:left;" | {{Plainlist |
* 機首
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
* 翼内
*: [[ホ103|12.7{{nbsp}}mm 機銃]]
*: × 2(各 250発)
}}
|-
! 爆装
| colspan="5" |30kg 30{{nbsp}}kg100kg100{{nbsp}}kg爆弾 2発 <br/>または250kg 250{{nbsp}}kg爆弾 1発
|-
! 生産
| (数量不明) |?機| (数量不明) || 353||<br/>(製造番号1001-1353 1001–1353) || 394機<br/>353機||製造番号1356-1749 1356–1749) || 426機<br/>394機||製造番号 1750以降<br/>426機
|}
[[File:Nakajima_Ki-44-II.svg|thumb|rightleft|250px400px|二型丙三面図]]
{{-}}
 
== 各種形式 ==
; 一型甲(キ44-I甲)
: ハ41(141 (1,250{{nbsp}}[[英馬力|hp]]) hp)搭載。12.7mm7{{nbsp}}mm 機関砲 2門、7.7mm7{{nbsp}}mm 機関銃 2挺 装備。
 
; 一型乙(キ44-I乙)
: 12.7mm7{{nbsp}}mm 機関砲 4門 装備。
 
; 一型丙(キ44-I丙)
164 ⟶ 195行目:
; 二型甲(キ44-II甲)
[[File:Wagner Book (16149107188).jpg|thumb|right|250px|[[常陸教導飛行師団]]所属の二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
: ハ109(1109 (1,450{{nbsp}}hp) hp)搭載。翼内に12.7mm7{{nbsp}}mm 機関2門、機首部分に7.7mm7{{nbsp}}mm 機関銃 2挺 装備。
 
; 二型乙(キ44-II乙)
: 12.7mm7{{nbsp}}mm 機関砲 2門、一部の機は[[ホ301]] 40mm40{{nbsp}}mm 機関砲を 2門 特別装備可能。
 
; 二型丙(キ44-II丙)
[[Image:Ki-44 (1).jpg|thumb|300px250px|right|二式戦二型丙(キ44-II丙)]]
: 12.7mm7{{nbsp}}mm 機関4門。光像式[[照準器]](一〇〇式射撃照準器/ひとまるまるしきしゃげきしょうじゅんき)採用。
 
; 三型甲(キ44-III甲)
: ハ145(2145 (2,000hp)000{{nbsp}}hp) 搭載。 単排気管、四式戦闘機と同じ主翼(ただこれは試作一号機と同じく19{{nbsp}}m<sup>2</sup>)プロペラを採用している。武装も20mm 20{{nbsp}}mm 機関砲×4に強化。試験飛行を担当した吉沢鶴寿によればだいぶ良くなりました。とのこと{{要出典|date=2020-07}}。しかし、すでに四式戦闘機の採用が決まっていたためこちらは採用はされなかった。1943年(昭和18年6)6月に1号機が完成、12月実用審査完了、全備重量 2,886kg886{{nbsp}}kgというデータあり。製造されたのは1機のみとのこと。
 
; 三型乙(キ44-III乙)
: 三型甲の武装をさらに37mm 37{{nbsp}}mm 機関砲×2、20mm20{{nbsp}}mm 機関砲に強化したバージョン。甲型から改造されてテストされたと考えられている。
 
; キ63
: 1940年(昭和15年)に構想された重戦闘機。当初は新規設計機として計画されていたが開発が進まず、1941年秋頃にキ44-IIIが実質的にキ63であると解釈する形で計画が立ち消えになった。エンジンは[[誉 (エンジン)|ハ45]]搭載が検討されていたが、確定には至らず終わっている<ref>{{Cite Book |和書 |editor=歴史群像編集部|editor-link=歴史群像 |title = 決定版 日本の陸軍機 |publisher = [[学研プラス|学研パブリッシング]] |year = 2011 |page = 54 |isbn = 978-4-05-606220-5}}</ref>。
 
== 現存する機体 ==
完全な状態の機体は無いが、中国に機体中翼部が零戦の機体と称して展示されており、国内にはエンジン周辺が現存する。
{|class="wikitable" style="font-size: 90%; bacground-color: #fff;text-align:left;"
 
! 型名      !! 機体写真      !! 所在地           !! 保存施設 / 管理者    !! 公開状況   !! 状態     !! 機体番号          !! 備考          
{|class="wikitable" style="font-size: 90%; bacground-color: #fff;"
!型名      !!機体写真      !!所在地          !!保存施設/管理者    !!公開状況   !!状態     !!機体番号          !!備考          
|-
|二式戦闘機
203 ⟶ 233行目:
[[埼玉県]][[狭山市]]稲荷山2-3
||[[入間基地|航空自衛隊入間基地]]修武台記念館
||不定期に公開<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170830/ddl/k11/040/413000c 空自入間基地修武台記念館:特攻機「桜花」実機など公開 /埼玉 - 毎日新聞]</ref>
||[[ハ5 (エンジン)|ハ5エンジン]]周辺のみ
||不明
237 ⟶ 267行目:
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
242 ⟶ 273行目:
== 参考文献 ==
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
** {{Cite book|和書 |editor=内閣情報局 |title=写真週報 291号 |date=1943-09-29 |publisher=国立公文書館 |id=JACAR(アジア歴史資料センター) Ref. A06031088600 }}
** Ref.A06031088600「写真週報 291号」(昭和18年9月29日号)
** {{Cite book|和書 |author=陸軍航空本部 |title=二式戦闘機(二型)取扱法 |date=1944年2月 |publisher=国立公文書館 |ref={{Sfnref|取扱法}} |id=JACAR(アジア歴史資料センター) Ref. A03032181800 }}
** Ref.A03032181800「2式戦闘機(2型)取扱法」
** Ref.{{Cite bookreport|和書 |author=C01004421000參謀總長載仁親王 |date=1938-01-06 |work=密大日記 |volume=第3冊 |title=次期飛行機の性能等に関する作戦上要望の件 |ref={{Sfnref|作戦上要望}} |publisher=防衛省防衛研究所 |id=JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C01004421000 }}
* {{Cite book|和書 |author=糸川英夫 |book=前例がないからやってみよう - 不可能からの脱出 |publisher=光文社 1979年 |series=カッパ・ブックス |year=1980 |isbn=978-4334003708 |ref={{Sfnref|糸川|1980}} }}
* {{Cite magazine|和書 |author=大木主計編集『 |magazine=丸メカニック  |chapter=二式単闘機 鍾馗」』 |publisher=[[潮書房 ]] |date=1984-01-10 |volume=44 |ref={{Sfnref|大木|1984}} }}
* {{Cite book|和書 |author=鈴木五郎 『「|title=疾風 - 日本陸軍最強の戦闘機 |publisher=サンケイ新聞社出版 局 |year=1975 }}
* {{Cite book|和書 |author=碇義朗 |title=戦闘機 疾風 |publisher=[[廣済堂]] |series=Kosaido Books〉、 |year=1977 |ref={{Sfnref|碇|1977}} }}
* {{Cite book|和書 |author=秋本実 |title=日本の戦闘機 陸軍篇 |publisher=出版共同社 |year=1961 }}
* {{Cite magazine|和書 |editor=文林堂 |magazine=世界の傑作機 No. |volume=1985年1月号 |issue=147  |date=1985年1月 |title=特集・陸軍二式戦闘機 鍾馗 |publisher=文林堂、1985年 }}
* {{Cite book|和書 |author1author=[[青木邦弘]]{{smallefn |中島飛行機陸軍機設計技師 /| キ-115「剣」主任設計者}}|authorlink1=青木邦弘|coauthors= |year=1999|title=中島戦闘機設計者の回想 {{small| - 戦闘機から「剣」へ-航空技術の闘い}} |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0888-7 |ref={{Sfnref|青木回想|1999}} }}
* {{cite web2|df=ja |language=ja |author=宮田豊昭 「[|url=http://www.skynet-1.com/kuni/kuni00.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20080807164352/http://www.skynet-1.com/kuni/kuni00.html |archive-date=2010-04-20 |title=翼烈伝  国破れて戦闘機]」 |publisher=スカイネット・ワン事務局 <!-- [https://web.archive.org/web/20100420114453/http://skynet-1.com/ スカイネット・ワン事務局] --> |date=2002年7月9日-07-09 |access-date=2024-01-02 }}
* {{Cite book|和書 |author=刈谷正意 |title=日本陸軍試作機物語 |publisher=光人社、2007年 ISBN|year=2007 |isbn=978-4-7698-1344-6 C0095}}
* {{Cite book|和書 |author=[[梅本弘]] |title=陸軍戦闘隊撃墜戦記 2 中国大陸の鍾馗と疾風1943‐45 - 1943–45 飛行第9戦隊と85戦隊 |publisher=大日本絵画 |year=2007年 ISBN |isbn=4499229529 }}
 
=== 参考文献注釈 ===
<references group="注釈"/>
== 関連項目 ==
* [[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]
262 ⟶ 295行目:
 
== 外部リンク ==
*[ {{cite web|和書 |url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=jaw905-Ki44_428&d=d4_mili |title=二式戦闘機「鍾馗」:日本の陸軍機  写真特集] - |publisher=[[時事通信社]] |access-date=2024-01-02 }}
 
{{大日本帝国陸軍}}
269 ⟶ 302行目:
{{DEFAULTSORT:にしきたんさせんとうき}}
[[Category:日本の戦闘機]]
[[Category:大日本帝国陸軍の航空機]]
[[Category:中島飛行機の航空機]]
[[Category:第二次世界日本帝国陸軍戦時兵器航空機]]