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| School_background = <!-- 個人のみ -->[[東京音楽大学|東洋音楽学校]][[卒業]]
| Born = <!-- 個人のみ -->[[1924年]][[10月9日]]
| Died = <!-- 個人のみ -->{{死亡年月日と没年齢|1924|10|9|1991|10|22}}<br>{{JPN}} [[東京都]][[新宿区]]([[東京医科大学病院]])<ref name="ismedia">{{Cite web|和書|url=https://gendai.ismedia.jpmedia/mwimgs/0/f/-/img_0fd9f8ab813393dc05d2af0945e6b79e847910.jpg|title=史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか|publisher=現代ビジネス|date=2011-08-17|accessdate=2019-12-19}}</ref>
| Origin = {{JPN}} [[福島県]][[河沼郡]][[会津坂下町]]
| Occupation = [[歌手]]
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| Notable_instruments =
}}
'''春日 八郎'''(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたなべ みのる)、[[1924年]][[10月9日]] - [[1991年]][[10月22日]])は、[[福島県]][[河沼郡]][[会津坂下町]]塔寺出身の[[演歌歌手]]。『[[赤いランプの終列車]]』『[[お富さん]]』『[[別れの一本杉]]』などが有名である。
 
== 人物 ==
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[[6月]]にすでに貴重品であった[[ぼたもち|おはぎ]]を奢られに友人宅に徒歩で向かう途中、[[浅草六区]]を初めて通り、常磐座でクラシックの正統派・[[藤山一郎]]のステージを見ておはぎの味も記憶に残らないほどの衝撃を受け、音楽で身を立てようと思い決める。少年時代の田舎廻りの旅芸人への憧れが初めて見た歌謡ショーで目を覚まし、歌手になること以外に我が進むべき道はないと決めてしまった。この歌謡ショーの出演者は藤山のほか、ハットボンボンズ、[[田谷力三]]、[[笠置シヅ子]]等、指揮は[[服部良一]]という顔触れであった。このショーから受けた感動に加え、多くの人を集め、魅了する存在になることが「今の貧しさから抜け出す近道だ」と考えたのもあった。早速受けた[[東京音楽大学|東洋音楽学校]]の試験にも合格し、兄夫婦の反対を押し切って器楽科に入学。器楽科を選択したのは音楽教師の免状がとりやすいと聞き、「先生の資格があれば、将来、生活の安定はたやすい」と考えたためだが、ほどなく声楽科に移る。学ぶうちに歌の魅力に取り憑かれ始めるが、学徒徴用令により、暮からは[[三鷹市|三鷹]]の中島航空機製作所通いの身となる。流行歌の歌い方を身につけるべく、[[昭和音楽大学|東京声専音楽学校]]に転校。転入に際して受けた試験では、「いい声してますね、渡部くん」と褒められ、[[ムーランルージュ新宿座|ムーラン・ルージュ新宿座]]で初舞台を踏むが、[[洋楽]]は敵性音楽として禁じられ、僅かに歌えるのは[[軍歌]]ばかりの状況が続く。
 
秋頃にはかねてから恐れていた[[召集令状]]がついに届き、卒業後は[[会津若松市|会津若松]]陸軍第29連隊に入隊。半年の訓練の後に[[広島県|広島]]に移動し、[[宇品港]]から[[フィリピン]]へと向かう途中で座礁。[[台湾]]で足止めとなり、その地で敗戦を迎える。
 
[[1945年]][[11月]]に復員すると、終戦後の[[1946年]]春に一旦帰郷して会津の運送会社に当座の職を得るが、[[10月]]半ばに「何をするにも、やっぱり東京だ」との思いに駆り立てられて再上京。その後はムーラン・ルージュ新宿座に戻り、'''渡部勇助'''の名で本格的に歌手活動を開始。[[1947年]][[7月]]に[[キングレコード]]の第1回歌謡コンクールに応募し、[[細川潤一]]作曲の『涙の責任』を歌う。2000人を越す応募者の中から男性としては2人<ref group="注釈">3人との説も。女性は4人。</ref>のみの合格者に入り、準専属歌手となる。「澄んだ美しい高音」に注目したキング専属の[[作曲家]]である細川が指導を買って出、レッスン室に通う日々が続く。'''歌川俊'''の名で準専属歌手となり、これを機にムーラン・ルージュを退団。準専属歌手は無給待遇であったため、新人の登竜門といわれた[[新宿区|新宿]]の聚楽への月に2、3度の出演以外で収入の道はなく、衣食にも事欠く暮しが続く。少しでも早く稼ぐため、当時大流行の[[ジャズ]]を学ぼうと[[横浜市|横浜]]に行く。元ジャズシンガーの米軍将校夫人に渡りをつけ、下働き兼生徒とはなったものの、ジャズは「肌に合わない」と悟る結果に終わる。
 
当座の勉学資金を稼ぐため、進駐軍のPX商品を歌謡関係者に売る闇商売に手を染める。重なる失意の中で秋に一旦帰郷はするが、暮に再び上京、再び聚楽の舞台に立つ。[[1949年]]春に[[高橋掬太郎]]作詞、[[上原げんと]]作曲の『燕来る頃』で初のテスト吹き込みをするが、新譜会議で不採用になる。オーディション合格組の男性がワンコーラスずつ歌う上原作曲の『ラッキーボーイ』もまたお蔵入りとなり、赤貧の日々はさらに続く。お蔵入りの理由としては、会津訛りが強くて低音が不十分、[[江口夜詩]]には「声がどうも華奢」と評された。他の専門家にも「唱歌みたい」「声に艶がない」と貶された。[[作詞家]]の[[矢野亮]]曰く、当時のキングでは[[岡晴夫]]・[[小畑実 (歌手)|小畑実]]・[[林伊佐緒]]等のベテラン勢に加え、[[津村謙]]・[[若原一郎]]と高音の美声が魅力の有望な若手も活躍中で、新人・渡部実にまでは手がまわらなかった。
 
また、この年の夏にはキングに内紛があり、師の細川が人員整理の対象となった。それに加えて、戦後の復興途上でレコード界は物資が不足し、レコード屋の多くも戦災から立ち直っていなかった。春日はその後、藤山一郎のレコードを買い込んで[[日本語]]の発音を自ら猛特訓したほか、雨の日も風の日も[[多摩川]]の河原で発声練習をした。改めて専属となり、毎日舞台に出るようになった聚楽で、ピンチヒッターとしてたまたま出演した江口の門下生である桧坂恵子<ref group="注釈">芸名松宮恵子、のちの春日夫人</ref>と知り合い、意気投合。細川の一身上の都合からレッスンを継続できなくなり、やがて恋仲となった恵子と細川の仲介により、江口に師事。江口の家に毎日のように通い、掃除をしたり肩を揉んだりしながら、曲を作ってもらえるよう願い続けた。家出を決行した恵子と、[[鍋]]一つない[[下宿]]で事実上の結婚生活をスタート。この頃、先輩歌手・[[三門順子]]の前座歌手となり、鞄持ち、写譜、時にはアレンジ係を兼ねての地方公演生活が続くが、心無い野次を飛ばされて一曲も歌えないことも少なくはなかった。
 
=== 演歌歌手の第一人者 ===
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[[1952年]]春に恵子の妊娠が判明し、家族のために歌の道をあきらめて新聞社に就職しようとするが、履歴書を見た恵子に「歌をやめたあなたなんて、魅力もなにもないわ」と猛反対されて撤回。8月に恵子の熱意と本人の努力に心を打たれた師、江口が、春日のために新曲『赤いランプの終列車』を作曲した。
 
自宅でテープに吹き込み、キングレコードに改めて春日を推薦する。闇屋の経歴、過去の女性関係が問題視されるなど、紆余曲折を経てなんとかレコード化、11月に発売。江口曰く、「キングレコードはこの曲を序列では10枚の一番最後としていた位であまり高く取ってはいなかった」。当時の春日の声、唱法は岡と相当に似ていたらしく、改名するにあたっての名付親は作詞家の[[藤間哲郎]]であった。たまたま岡宅に祀られている春日大明神の神棚を目にしたことから、「岡さん以上の歌手になれという意味を含めて」春日とし、末広がりの八の字を「運が開くよう」にと名に入れた。[[1953年]]に『赤いランプの終列車』が[[名古屋市|名古屋]]から売れ出し、やがて全国的な50万枚<ref>世相風俗観察会(編)『現代風俗史年表 昭和20年(1945)→昭和60年(1985)』[[河出書房新社]]、1986年、64頁。ISBN 4-309-24089-5。</ref>の大ヒットになる。三門の前座歌手を卒業し、秋からは当時大人気の先輩歌手であった岡の前座を務めるようになり、生活のメドがようやく立つ。この年の吹き込みは中ヒットとなった『街の燈台』『雨降る街角』を含む12曲で、[[青木光一]]・[[三浦洸一]]と並ぶ歌謡界の若手三羽烏として注目を集めはじめる。名古屋からヒットしたのは[[大須 (名古屋市)|大須]]のレコード屋の主人が、なかなか面白い歌手であると気に入って宣伝し出したのがきっかけで、この主人は女性で、手書きのポップまで作って宣伝してくれたとある。
 
[[1954年]]8月には移籍した岡の代打で[[歌舞伎]]狂言『[[与話情浮名横櫛]]』に登場する、お富さんと切られの与三郎の掛け合いを歌にした『[[お富さん]]』を吹き込む。諸事情から練習時間は僅か1時間であったらしいが、発売3か月で30万枚<ref>読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、48頁。ISBN 4390116010</ref>、最終的には125万枚を売り上げる空前の大ヒットとなる<ref>『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』49頁。</ref>。同年末の[[第5回NHK紅白歌合戦]]に初出場を果たした、子供たちまでが意味も知らぬまま「いきなくろべえみこしのまつに」と口ずさむなど、社会現象化。一躍人気スターの仲間入りをする。当初は代打として[[若原一郎]]が想定されていた。
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=== 晩年 生涯最後のステージと死去 ===
晩年の[[1988年]]には[[静岡県]]・[[熱海市|熱海]]にて親交の深かった三橋、村田と共に「三人の会」を結成、三人揃っての[[チャリティー]]・[[コンサート]]を開催するなど、低迷した演歌の活性化に力を注いでいた。だがこの頃になると春日は体調を崩しがちとなり、段々と体が細くなっていく春日の兆候が見られた。それでも『[[昭和]]』から『[[平成]]』に[[元号]]が変わった[[1989年]]の末には、[[第40回NHK紅白歌合戦]](第1部)に[[1978年]]・[[第29回NHK紅白歌合戦|第29回]]以来、『お富さん』で11年ぶり21回目の紅白出演を果たしたが、これが自身生涯最後の紅白出場となった。さらに[[1990年]]頃、[[清水アキラ]]が顔中に沢山[[セロハンテープ]]を貼り付けて、春日八郎の[[物真似]]を披露した事でも話題となる。『[[ものまね珍坊]]』で清水と初共演した際、春日は「俺ってこんな顔してるのか?」と苦笑いしながら感想を述べていた。
 
[[1991年]][[6月]]、左大腿部[[腫瘍]]の摘出手術のため入院。「三人の会」のコンサート等に出演出来できず、三橋・村田に対して病床からメッセージを送ったことった。一旦は退院、死去1ヶ月前の同年[[9月6日]]に[[中野サンプラザ]]でのキングレコード60周年コンサートに出演し「長崎の女」を歌唱したが、これが生涯最後のステージとなった。当日は[[車椅子]]で会場入りしたがステージ登場から歌い終える最後まで、立って[[杖]]無しで自力で歩いてやりきった。テレビ東京系列で当日の映像も遺されており、追悼の際には放映されることもある。その後体調が悪化し再入院、「三人の会」結成から僅か3年後、そして生涯最後のステージから僅か1ヶ月後の1991年[[10月22日]]20時38分、[[肝硬変]]と心肺不全により[[東京都]][[新宿区]]の[[東京医科大学病院]]で死去<ref name="ismedia" />。{{没年齢|1924|10|9|1991|10|22}}、生涯現役であった。[[10月27日|同27日]]には[[香川県]][[高松市]]でリサイタルがある予定であったが、三橋が代役を買って出て、「赤いランプの終列車」を涙まじりに熱唱している<ref>[[スポーツニッポン]]1991年10月28日付朝刊「'''三橋美智也万感熱唱 故春日さんの代役…涙でにじんだ"終列車"'''」</ref>。
 
デビュー後に吹き込んだ楽曲は通算千数百曲、レコードの総売上は7000万枚を超す<ref>『[[読売新聞]]』1991年10月23日付東京夕刊、31頁。</ref>。
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* 風雲佐竹武士(1979年)
* あゝ中山城(1979年)
* [[別れた故郷|別れた故郷/港のみれん雨]](1980年)- 作詞:[[中山大三郎]]/作曲:船村徹 K07S-31
* 落城の舞(1980年)K07S-21
* 夜がつらいよ(1980年)
* あゝ霧ヶ城/佐渡ヶ島哀歌(1981年)K07S-166
* 加賀の舞/あゝ大楠公(1981年)
* ふたりの坂道/恋の長崎雨の街(1981年)K07S-211
* 瞼を合せて/津軽三号ひとり旅(1981年)
* 美濃の女(1982年)
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
 
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== 外部リンク ==
{{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}}
* [httphttps://www.kasugaomoidekantown.aizubange.fukushima.jp/soshiki/29/271.html 春日八郎記念公園 おもいで館]会津坂下町産業課商工観光班
* {{NHK人物録|D0009071873_00000}}
* [http://morikei.web.fc2.com/index.html 春日八郎アーカイヴ]
 
{{NHK紅白歌合戦 白組トリ}}
{{Normdaten}}