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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 竹崎 季長
| 画像 = Takezaki Suenaga.jpg
| 画像サイズ = 270px
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| 時代 = [[鎌倉時代]]中期
| 生誕 = [[寛元]]4年([[1246年]])
| 死没 = 不詳[[元亨]]4年([[1324年]])以降?
| 改名 = 季長、法喜(法名)
| 別名 = 五郎(通称)
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| 戒名 =
| 墓所 = [[熊本県]][[宇城市]]小川町北海東平原公園内
| 官位 = [[兵衛尉]]、[[贈従三位]]{{sfn|贈位功臣言行録|1916|pp=242–248}}
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]
| 主君 = [[惟康親王]]、[[久明親王]]
| 氏族 = 出自不詳[[菊池氏]]庶流[[竹崎氏]]
| 父母 =
| 兄弟 = 姉([[三井資長]]妻)、'''季長'''
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}
 
'''竹崎 季長'''(たけさき すえなが / たけざき すえなが、[[寛元]]4年〈[[1246年]]〉- [[元亨]]4年([[1324年]]以降?)は、[[鎌倉時代]]中期の[[武士]]。[[鎌倉幕府]][[御家人]]。[[元寇]]における自身の戦い描かた『[[蒙古襲来絵詞]]』で知られる。{{Wikisource|蒙古襲来絵詞}}
 
== 生涯 ==
[[肥後国]]竹崎郷(現[[熊本県]][[宇城市]]松橋町)の出身。[[菊池氏]]の一族<ref>以前は[[阿蘇神社]][[宮司|大宮司]]・[[阿蘇氏]]の一族とみなされていたが、竹崎氏が藤原姓を名乗る点から宇治姓の阿蘇氏庶流とするには矛盾がある。(参考:松本雅明 『熊本の美術工芸』 熊本日日新聞社、1978年、30-31P」「松本寿三郎、板楠和子、工藤敬一、猪飼隆明 『熊本県の歴史』 山川出版社、1999年、98P」</ref> であるが、同族内の所領争いに敗れて没落した。このため季長が持っていた所領は相当少なかったか、もしくは所領を失った「無足の御家人」であったと言われている
[[文永]]11年([[1274年]])、[[元 (王朝)|大モンゴル国]]の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、日本軍の総大将・[[少弐景資]]が陣を敷く息の浜に主従五騎のみで参陣した。即ち季長本人、姉婿の[[三井資長|三井三郎資長]]、旗指の三郎二郎資安、郎従の藤源太すけみつ、[[武家奉公人|中間]]一騎の計五騎である。総大将・景資は息の浜に陣を敷き、元軍が[[赤坂 (福岡市)|赤坂]]から博多に押し寄せてくれば、一斉に元軍に騎射を射かける計画であった。しかし、季長は景資に元軍に対して先駆けを行うことを申し出て、景資もそれを許可した。季長は5名手勢五騎で元軍の方に向かった。途中の赤坂では既に肥後国御家人・[[菊池武房]]率いる武士団が元軍を破り([[元寇#赤坂の戦い|赤坂の戦い]])、多くの元兵の首を打ち取っていた。季長は武房ら武士団が帰陣するところに遭遇する。季長は赤坂の戦いで敗走した元軍を追って、鳥飼潟まで進出した。麁原山に陣を敷く元軍も鳥飼潟に進出したため、季長は先駆けを行う。しかし、季長以下三騎が負傷し、危機的な状況に陥ったが、後続から肥前国御家人・[[白石通泰]]や同国御家人・[[福田兼重]]ら日本軍が到着して、元軍を破った([[元寇#鳥飼潟の戦い|鳥飼潟の戦い]])。破れた元軍は麁原山や[[百道|百道原]]へと敗走した。戦闘は日が暮れたのを機に終結し、後日の戦闘続行を困難と判断した元軍はその夜に[[博多湾]]から撤退し、文永の役は終結する。
 
季長の武功は負傷したのみであり、戦功とは認められなかったかあるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長は「先駆の功を認めてほしい」と、[[建治]]元年([[1275年]])6月に[[ウマ|馬]]などを処分して旅費を調達し、[[鎌倉]]へ赴いて幕府に直訴する。同年8月には[[恩賞奉行]]である[[安達泰盛]]との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷(現[[熊本県]][[宇城市]]海東地区)の[[地頭]]に任じられた。泰盛との対面がかなったのは、季長の[[烏帽子親]]である[[三井季成]]と幕府実力者との繋がりによるものと見られる。[[ファイル:Adachi yasumori & takezaki suenaga.jpg|thumb|250px|『蒙古襲来絵詞』より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)]]
[[文永]]11年([[1274年]])、[[元 (王朝)|大元大モンゴル国]]の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、日本軍の総大将・[[少弐景資]]が陣を敷く息の浜に参陣した。景資は息の浜に陣を敷き、元軍が[[赤坂 (福岡市)|赤坂]]から博多に押し寄せてくれば、一斉に元軍に騎射を射かける計画であった。しかし、季長は景資に元軍に対して、先駆けを行うことを申し出て、景資もそれを許可した。季長は5名で元軍の方に向かった。途中の赤坂では既に肥後国御家人・[[菊池武房]]率いる武士団が元軍を破り([[元寇#赤坂の戦い|赤坂の戦い]])、多くの元兵の首を打ち取っていた。季長は武房ら武士団が帰陣するところに遭遇する。季長は赤坂の戦いで敗走した元軍を追って、鳥飼潟まで進出した。麁原山に陣を敷く元軍も鳥飼潟に進出したため、季長は先駆けを行う。しかし、季長以下三騎が負傷し、危機的な状況に陥ったが、後続から肥前国御家人・[[白石通泰]]や同国御家人・[[福田兼重]]ら日本軍が到着して、元軍を破った([[元寇#鳥飼潟の戦い|鳥飼潟の戦い]])。破れた元軍は麁原山や[[百道|百道原]]へと敗走した。戦闘は日が暮れたのを機に終結し、後日の戦闘続行を困難と判断した元軍はその夜に[[博多湾]]から撤退し、文永の役は終結する。
 
[[弘安]]4年([[1281年]])、第二次侵攻である弘安の役では、肥後国守護代・[[安達盛宗]](泰盛の子)の指揮下において、[[元寇#志賀島の戦い|志賀島の戦い]]や[[元寇#御厨海上合戦|御厨海上合戦]]で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。戦後の永仁元年([[1293年]])には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、[[甲佐神社|甲佐大明神]]へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった泰盛や景資らは、弘安8年([[1285年]])の[[霜月騒動]]で滅びており、恩義のある彼らへの[[鎮魂]]の意味があると考えられている
季長の武功は負傷したのみであり、戦功とは認められなかったかあるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長は「先駆の功を認めてほしい」と、[[建治]]元年([[1275年]])6月に[[ウマ|馬]]などを処分して旅費を調達し、[[鎌倉]]へ赴いて幕府に直訴する。同年8月には[[恩賞奉行]]である[[安達泰盛]]との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷(現[[熊本県]][[宇城市]]海東地区)の[[地頭]]に任じられた。泰盛との対面がかなったのは、季長の[[烏帽子親]]である[[三井季成]]と幕府実力者との繋がりによるものと見られる。[[ファイル:Adachi yasumori & takezaki suenaga.jpg|thumb|250px|『蒙古襲来絵詞』より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)]]
 
[[弘安]]4年([[1281年]])、第二次侵攻である弘安の役では、肥後国守護代・[[安達盛宗]](泰盛の子)の指揮下において、[[元寇#志賀島の戦い|志賀島の戦い]]や[[元寇#御厨海上合戦|御厨海上合戦]]で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。戦後の永仁元年([[1293年]])には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、[[甲佐神社|甲佐大明神]]へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった泰盛や景資らは、弘安8年([[1285年]])の[[霜月騒動]]で滅びており、恩義のある彼らへの[[鎮魂]]の意味があると考えられている。
 
永仁元年(1293年)、[[菩提寺]]・[[塔福寺]]を建立して出家し、法喜と号する。同年、所領の郷社に対して祭田・修理田・[[出挙]]などに関する7か条の[[置文]]を定め、[[正和]]3年([[1314年]])には更に18か条の置文を改めて制定した。[[元亨]]4年([[1324年]])3月4日、[[海東神社]]に対して修理費用として銭162貫文、米67石、田1町を寄進した記録が残っているが、以降の消息は不明<ref>[[田中健夫]]、[[石井正敏]]編『対外関係史事典』(吉川弘文館、2009年)</ref>。
 
熊本県宇城市小川町東海東の塔福寺に葬られた。また、同市小川町北海東にも季長のものとされる墓があり、平原公園として整備されている。
 
[[大正時代]]、[[元寇]]において前線で命を張った指揮官にも栄誉を与えるべきではないかという議題が持ち上がり、大正3年(1914年)11月の[[大嘗会]]で、[[従三位]]という高位を追贈された{{sfn|贈位功臣言行録|1916|pp=242–248}}。したがって季長への敬称は「竹崎季長卿」である。
 
== 竹崎季長の墓 ==
[[明治]]27年(1894年)、竹崎季長のものとされる墓が熊本県宇城市小川町北海東に確認された<ref>小川町史編纂委員会編纂『小川町史』[[小川町 (熊本県)|小川町]]役場(熊本県)、1979年、982頁</ref>。墓の周辺は、「平原公園(ひらばるこうえん)」として植樹・整備され、[[大正]]5年(1916年)に、[[下益城郡]]教育会により記念碑が建立された。記念碑には、熊本県出身の[[清浦奎吾]][[内閣総理大臣]]による碑文や、[[東郷平八郎]]海軍元帥の筆により「弓せんのみちすすむをもてしやうとす」とある<ref>{{Cite web |和書|url=http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/suenaga.html |title=竹崎季長の墓( |date=2010-02-11 |publisher=熊本県HP) |archiveurl=https://archive.vn/45IgN |archivedate=2013-05-01 |accessdate=20142021-0804-3024}}</ref>。
* 住所 - 熊本県宇城市小川町北海東平原
* 駐車場 - 無料、約10台
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== 竹崎神社跡 ==
[[File:Takezaki-shrine.jpg|thumb|竹崎神社社殿(昭和20年代)]]
竹崎季長を主祭神とする'''竹崎神社'''が、熊本県宇城市小川町東海東弦巻にあった。[[昭和]]5年([[1930年]])に創設発起、昭和14年([[1939年]])に認可、昭和20年([[1945年]])に起工<ref>海東村史編纂委員会編纂『海東村史』[[海東村]]役場、1952年、5頁</ref>、昭和26年([[1951年]])に竣工、創建された<ref>小川町史編纂委員会編纂『小川町史』[[小川町 (熊本県)|小川町]]役場(熊本県)、1979年、221頁</ref>。宮司は広田哲堂<ref>{{Cite web |url=http://soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/5825 |title=徳富蘇峰記念館 |accessdate=2024年4月6日(JST)}}</ref><ref>[https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1177923 『肥後の学統と熊本の人物』]の著者、郷土史家。</ref>。
 
しかし、昭和40年([[1965年]])の大型の台風により社殿等が倒壊し衰退、廃社となった。現在は旧境内の入り口付近にある社名を冠した鳥居や、小さな祠等がのみとなっている<ref>小川町史編纂委員会編纂『小川町史』[[小川町 (熊本県)|小川町]]役場(熊本県)、1979年、222頁</ref>。
 
== 竹崎城跡 ==
竹崎季長の出自については、菊池氏の一族である竹崎氏であるという説が有力である<ref>{{Cite web |和書|url=http://www.city.uki.kumamoto.jp/q/aview/244/484.html |title=竹崎城跡(宇城市HP) |accessdate=2014-08-31}}</ref>。季長の生誕地であると伝わる熊本県宇城市[[松橋町]]竹崎には、季長の居城跡と伝えられる竹崎城跡が所在する<ref>{{Cite web |url=http://kumamoto-uki.kankou.tv/kanko_view.php?id=84&target=1&area=0|title=竹崎城跡(ぐるっと宇城) |accessdate=2014-08-31}}</ref>
* 所在地 - 熊本県宇城市松橋町竹崎
* 駐車場 - 無料、数台
 
== 登場関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]』(2001年) (演:[[うじきつよし]])
* 映画『[[国難 (映画)|国難]]』(1920年)(演:[[市川七蔵]])
* 映画『[[日蓮と蒙古大襲来]]』(1958年)(演:[[伊達三郎]])
* [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]』(2001年) ()(演:[[うじきつよし]])
* 小説『蒙古合戦の勇将 竹崎季長』[[奥田瓶人]]([[文芸社]])(2013年)
* 小説『[[異国合戦 蒙古襲来異聞]]』[[岩井三四二]](講談社)(2014年)
* 小説『[[白狐魔記]] 蒙古の波』[[斎藤洋]]
* 漫画『[[アンゴルモア 元寇合戦記|アンゴルモア 元寇合戦記 博多編]]』(2013年〜連載中)[[たかぎ七彦]]
 
== 脚注 ==
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-->
== 関連図書 ==
* {{ Citation | 和書
| title=贈位功臣言行録
| publisher=[[国民書院]]
| year=1916
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955104
| doi=10.11501/955104
| id={{NDLJP|955104}}
| ref = {{harvid|贈位功臣言行録|1916}}
}}
* 林田憲義編『松橋町史』[[松橋町]]役場、1964年
* 林田憲義編『松橋人物誌』松橋町役場、1969年
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== 外部リンク ==
* [http://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/1192 竹崎季長の墓 | 熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト]
{{commonscat|Takezaki Suenaga}}
* {{Commonscat-inline}}
* [http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/suenaga.html 竹崎季長の墓(熊本県HP)]
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たけさき すえなか}}
[[Category:鎌倉幕府御家人竹崎季長|*]]
[[Category:菊池氏|*]]
[[Category:肥後国日本神 (人物神)]]
[[Category:1246年生鎌倉幕府御家人]]
[[Category:没年不明13世紀の軍人]]
[[Category:消息不明となった人物]]
[[Category:蒙古襲来絵詞]]
[[Category:元寇の人物]]
[[Category:従三位受位者]]
[[Category:消息不明となった肥後国の人物]]
[[Category:1246年生]]
[[Category:14世紀没]]