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{{出典の明記|date=2024年4月}}
{{Expand English|date=2024年4月}}
{{Redirect|インカ|[[スペイン]]・[[バレアレス諸島州]]の[[ムニシピオ|ムニシピ]](基礎自治体)|インカ (スペイン)}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = インカ帝国
|日本語国名 = タワンティン・スウユ
|公式国名 = ''Tawantin SuyuTawantinsuyu''
|建国時期 = {{Start date and age|[[1438|}}年]]
|亡国時期 = {{Start date and age|[[1533|}}年]]
|先代1 = クスコ王国
|先旗1 =
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|次代2 = ビルカバンバ
|次旗2 =
|次代3 = ペルーの歴史#スペイン植民地時代(1542年-1824年){{!}}スペイン植民地時代
|次旗3 = Flag of New Spain.svg
|次代4 = ヌエバ・カスティーリャ
|次旗4 = Flag of New Spain.svg
|次代5 = ヌエバ・トレド
|次旗5 = Flag of NewCross of Burgundy.svg
|国旗画像 =
|国旗説明 =
|国旗幅 =
|国章リンク =
|国章幅 =
|標語 = {{lang|qu|Ama llulla. Ama suwa. Ama qella.}}<br />([[ケチュア語族|ケチュア語]]: 嘘をくな。盗むな。怠けるな。)
|標語追記 =
|国歌 =
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|国旗=|現在={{ECU}}<br/>{{PER}}<br/>{{CHI}}<br/>{{ARG}}<br/>{{BOL}}<br/></small>}}
 
'''インカ帝国'''(インカていこく、[[スペイン語]]:'''{{lang-es|Imperio Inca'''}}[[ケチュア語]]:'{{lang-qu|Tawantinsuyu}}(''タワンティン・スウユ'''(''Tawantinsuyo'', ''Tahuantinsuyo''))は、[[南アメリカ]]の[[ペルー]]、[[ボリビア]]([[チチカカ湖]]周辺)、[[エクアドル]]を中心に[[ケチュア|ケチュア族]]が築いた国。[[文字]]を持たない社会そして文明であった。首都は[[クスコ]]
 
首都は[[クスコ]]。[[世界遺産]]である[[15世紀]]のインカ帝国の[[遺跡]]「[[マチュ・ピチュ]]」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。[[1983年]]12月9日、クスコの市街地は[[世界遺産]]となった。
 
前身となる[[クスコ王国]]は[[13世紀]]に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、[[1533年]]に[[スペイン|スペイン人]]の[[コンキスタドール]]に滅ぼされるまで<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d36f710410dd6338fa23266b388d666101885a60|title=大航海の時代、日本では大地震が頻発する中、3英傑が天下統一を果たす|publisher=ヤフーニュース|date=2020-07-13|accessdate=2020-10-20}}</ref>約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在の[[チリ]]北部から中部、[[アルゼンチン]]北西部、[[コロンビア]]南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。
 
インカ帝国は、[[アンデス文明]]の系統における最後の先住民国家である。[[メキシコ]]・[[グアテマラ]]の[[アステカ文明]]、[[マヤ文明]]と対比する南米の原アメリカの文明として、'''インカ文明'''と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、[[土器]]や織物などの遺物、生業、{{仮リンク|[[インカ道路網|es|Red vial incaica|en|Inca road system}}]]を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、[[プレ・インカ]]と呼ばれている。
 
インカ帝国は、[[アンデス文明]]の系統における最後の先住民国家である。[[メキシコ]]・[[グアテマラ]]の[[アステカ文明]]、[[マヤ文明]]と対比する南米の原アメリカの文明として、'''インカ文明'''と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、[[土器]]や織物などの遺物、生業、{{仮リンク|インカ道路網|es|Red vial incaica|en|Inca road system}}を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、[[プレ・インカ]]と呼ばれている。
[[ファイル:Banner of the Inca Empire.svg|代替文=|サムネイル|インカ帝国の国旗。]]
インカ帝国は、被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の[[連邦制|連邦国家]]のような体をなしていた。
 
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=== 考古学期 ・ アンデス文明 ===
[[ファイル:LocMap of WH Tiwanaku.png|thumb|right|[[ティワナク|ティワナク文化]]の位置]]
{{See also|[[ワリ|ワリ文化]]|[[ティワナク|ティワナク文化]]|{{仮リンク|ワリ帝国|es|Imperio tiahuanaco-huariWari|en|Wari Empire}}}}
 
[[アンデス文明]]はおそらく[[BP (年代測定)|BP]]約9,500年(約[[紀元前7500年]])ころまでに始まったと考えられている。インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上であったことが遺体から推測されている。
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[[ファイル:Location of the city of Cusco in Peru.png|thumb|right|[[クスコ]]の位置]]
{{Main|インカ神話|クスコ王国}}
[[ケチュア|ケチュア族]]は、[[12世紀]]頃に[[クスコ]]へ移住し、インカ族として成立した。これを始めとして、以降インカは中央アンデスだけでなく、コロンビア南部からチリ中部に至るまで南北4000㎞に達する大帝国となるのである。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ([[ケチュア|ケチュア語]]:''Qusqu'Qosqo'')に小規模の都市国家を築いた。彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、[[1250年]]から[[1438年]]頃までと想定されている。インカ帝国が成立する前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。彼らは先行する文化({{仮リンク|ワリ帝国|es|Imperio tiahuanaco-huariWari|en|Wari Empire}}、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。
 
=== タワンティンスウユ(1438年-1527年) ===
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==== 国家の再編とその構成・四つの邦 ====
[[Image:80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.jpg|thumb|right|『インカの失われた都』[[マチュ・ピチュ]]の風景]]
パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西の{{仮リンク|チンチャイ・スウユ|es|Chinchaysuyo|en|Chinchay Suyu}}、北東の{{仮リンク|アンティ・スウユ|es|Antisuyo|en|Antisuyu}}、南西の{{仮リンク|クンティ・スウユ|es|Contisuyo|en|Kuntisuyu}}、南東の{{仮リンク|コジャ・スウユ|es|Collasuyo|en|Qullasuyu}})とから成り立つ[[連邦|連邦制]]であった<ref name="FRT87-8">[[# ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.87-88]].</ref>。
 
パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地として[[マチュ・ピチュ]]を建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。
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{{Main|{{仮リンク|スペインによるインカ帝国の征服|es|Conquista del Perú|en|Spanish conquest of the Inca Empire|label=スペインによる征服}}}}
 
[[1532年]]にスペインのコンキスタドール(征服者)がペルーに戻ってきたとき、インカ帝国はかなり弱体化していた。その原因としては、インカ帝国内戦が勃発したことや新たに征服された領土内に不安が広がったことが挙げられるが、それ以上に[[中央アメリカ]]から広まった[[天然痘]]の影響が大きかったと考えられる。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に順応しているという利点があった。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭と決して抜きんでたものではなかった。そのため、万一、自隊を簡単に壊滅できそうな敵に遭遇したら、その場をどのように切り抜けるかをピサロはいつも説いていた。完全に武装されたピサロの騎兵は、技術面ではインカ軍に大きく勝るものであった。アンデス山脈では、敵を圧倒するために大人数の兵士を敵地に送り込む[[攻城戦]]のような戦闘が伝統的な戦法であったが、兵士の多くは士気の低い徴集兵であった。一方、スペイン人はすでに近代以前に「[[鉄砲]]」([[:es:Arcabuz|Arcabuzアーキバス]])などの優れた兵器を開発しており、[[イベリア半島]]で何世紀にもわたる[[ムーア人]]との戦いを経験し、さまざまな戦術を身につけていた。このようにスペイン人は戦術的にも物質的にも優位であったうえに、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの同盟者を現地で獲得していた。
 
最初の交戦は、現代の[[エクアドル]]、[[グアヤキル]]近郊の島で[[1531年]]4月に始まった{{仮リンク|プナの戦い|en|Battle of Puná}}であった。その後ピサロは、[[1532年]]7月に[[ピウラ]]を建設した。[[エルナンド・デ・ソト]]は内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともに[[カハマルカ]]で休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。
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ピサロと{{仮リンク|ビセンテ・デ・バルベルデ|es|Vicente de Valverde|en|Vicente de Valverde}}神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]への服従と[[キリスト教]]への改宗とを要求した投降勧告状(requerimiento)を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた({{仮リンク|アタワルパの捕縛|es|Captura de Atahualpa|en|Battle of Cajamarca}}、[[1532年]][[11月16日]])。
 
人質として捕らえられた皇帝アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中に先の内戦でアタワルパに捕らえられていた兄のワスカルという者は余が他の場所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、[[1533年]]7月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。
 
=== 最後のインカたち ===
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=== 後世への影響 ===
[[ファイル:Acta Independencia argentina quechua.jpg|thumb|1816年7月9日に公布された{{仮リンク|[[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|en|United Provinces of the Río de la Plata|label=南アメリカ連合州}}]]([[アルゼンチン]])の独立宣言は、[[スペイン語]]と[[ケチュア語]]で記されている。]]
{{Seealso|マプチェ族|アラウコ戦争|アラウカニア制圧作戦|{{仮リンク|荒野の征服作戦|en|Desert Campaign (1833-34)}}|{{仮リンク|砂漠の征服作戦|en|Conquest of the Desert}}}}
 
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インカ帝国は滅ぼされた後も、様々な影響を後世に残した。インカ皇族とスペイン人の[[メスティーソ]]だった[[インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ]]は17世紀に『{{仮リンク|インカ皇統記|es|Comentarios reales de los incas|en|Comentarios Reales de los Incas}}』([[1609年]])を著したが、この中で理想化されたインカのイメージは18世紀になってから「インカ・ナショナリズム」と呼ばれる運動の源泉となった<ref>増田編 (2000) p.125</ref>。「インカ・ナショナリズム」はインディオのみならず、[[クリオージョ]]支配層にも共有されて様々な反乱の原動力となり、その中で最大のものとなったのが、1780年の[[トゥパク・アマルー2世]]の{{仮リンク|トゥパク・アマルー2世の反乱|es|Rebelión de Túpac Amaru II|en|Rebellion of Túpac Amaru II|label=反乱}}([[1780年]] - [[1782年]])だった。
 
南アメリカがスペインから独立する19世紀初頭には、[[ベネズエラ]]の独立指導者の[[フランシスコ・デ・ミランダ]]や[[アルゼンチン]]の独立指導者の[[マヌエル・ベルグラーノ]]らにはインカ帝国は新しい国家の立ち返るべき地点の一つと見なされた。特にベルグラーノが主要な役割を果たした1816年9月7日の{{仮リンク|トゥクマンの議会|en|Congress of Tucumán|label=トゥクマン議会}}では、新たに独立する{{仮リンク|[[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|en|United Provinces of the Río de la Plata|label=南アメリカ連合州}}]]でのインカ皇帝の復古、[[ケチュア語]]と[[アイマラ語]]の公用語化などがスペイン語とケチュア語で書かれた独立宣言に盛り込まれたが、実際にはこのような政策は実現には至らなかった。
 
独立後の[[ペルー]]においても、現実に存在する[[インディオ]]が様々な人種主義的被害を受けたのに対し、既に滅びたインカ帝国は理想視され、国民的なアイデンティティの基盤となった<ref>イナミネ/山脇 (1995)</ref>。インカは今でもペルーの国民的な飲料[[インカ・コーラ]]などにその名を留めている。
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{{Main|ケチュア語|アイマラ語}}
 
公用語は[[ケチュア語]]であり、積極的に普及がはかられた。しかし、[[文字]]文化を持たなかった{{efn|現在、[[ペルー]]と[[ボリビア]]においてはインカ帝国[[ケチュア語]]と[[アイマラ語]]は[[公用語]]として認められ、[[エクアドル]]においても公用語にこそなっていないものの、[[ケチュア語]]は初等教育機関で教えられている。この場合[[アルファベット]]により文字化されている。}}(かつては文字を持っていたが、迷信的理由により廃止したという説もある{{誰2|date=2023年7月}})。そのため、口頭伝承がインカ帝国崩壊後に[[布教]]のために入ってきたスペイン人[[修道士]]による[[記録]]([[年代記]])の形でわずかに残されているにすぎず、不明確な部分もあり、今後の研究が待たれる所もある{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第2章、第3章}}。文字の代わりとして、[[キープ (インカ)|キープ]]と呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、これで暦法や納税などの記録を行った。近年になって、このキープが[[言語]]情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第9章}}。
 
== 歴代皇帝 ==
{{See|インカ皇帝}}
 
== 政治 ==
[[Image:Viracocha2Wiener-Tintin-Dieu Soleil.jpg|thumb|right|150px|ビラコチャはインカ神話に出現する創造神]]
インカ帝国は、多言語、多文化、多民族の継ぎ接ぎによって成立していた。帝国の各構成要素は、均一であった訳ではなく、地方の各文化は、完全に統合されていたのでもなかった。政体は[[君主制]]であり、近親結婚によって生まれた一族による[[世襲]][[政治]]である。これは彼らの宗教観から、広く[[交雑]]する事で、皇族の血筋が汚されると考えたためである。「[[サパ・インカ]]([[皇帝]])」は[[太陽神]][[インティ]]の化身としても考えられ、当時の[[官僚]]は、同時に[[神官]]でもあった。臣下が王に謁見するとき、王を直接見ることは禁じられていた。
 
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地方組織とは別に、男女の社会集団が存在した。男性には、ヤナコーナと呼ばれる集団があり、耕作や雑用のため世襲的にインカに仕えた。女性には、アクリャコーナやママコーナと呼ばれる集団があり、容貌の美しいものを徴用して作られた。アクリャコーナは各地の館にかこわれ、[[チチャ]]や織物を作ることに従事した。ヤナコーナやアクリャコーナはアイリュに属さず、中央政府の監督を受けた。
 
それ以外に、鉱山労働や道路の建設などの労役が若干あった。この労役制度は'''[[ミタ制]]'''と呼ばれる<ref name="FRT134">[[# ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、p.134]].</ref>。この労役の成果の一つとして、{{仮リンク|[[チャスキ|es|Chasqui|en|Chaski}}]]と呼ばれる[[飛脚]]による通信網を確立させ、広大な領土を中央集権により統治していた。なお、この通信網の名残として、チャスキという言葉はアンデスのいくつかの場所の地名としていまも残っている。日本で言うところの「宿」のようなものである。
 
== 経済 ==
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海に面した急勾配の土地を利用して段々畑を作り、[[トマト]]や[[トウガラシ]]は低い土地に、寒冷地を好む[[ジャガイモ]]は高地にと、高度に応じた農作物の多品種生産を行っていた。ジャガイモや[[トウモロコシ]]を主な作物とする[[農耕]]と、[[リャマ]]や[[アルパカ]]による[[牧畜]]が行われていた。また、“クイッ、クイッ”と鳴くことから「クイ」と呼ばれた[[テンジクネズミ]]も食用として広く民衆によって飼育されていた。
 
土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は共同体に帰属し、貴族ですら私有を認められなかった<ref name="FRT137-8">[[# ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.137-138]].</ref>。この共同体を[[アイリュ]]と呼ぶ。アイリュの土地はインカ皇帝・太陽神・人民の3つに分割され、インカ皇帝と太陽神の土地に対する労働を行わせ、その生産物を徴収する形態で徴税が行われた。こうして集められた生産物は[[再分配]]され、寡婦・老人・孤児などに支給されたり飢饉などの非常時に放出された。この体制は[[社会主義]]にも類似したものであった。また、アイリュの中には{{仮リンク|アイニ (インカ帝国)|es|Ayni|en|Ayni|label=アイニ}}([[w:Ayni|Ayni]])と呼ばれる[[互酬|相互扶助]]的な仕組みもあった。
 
インカ帝国全体としては、高級品と労働力に対する課税と交換とに基づく経済が存在した。課税方法については、「周知の通り、高地においても平地においても、収税吏に課税された貢納物を支払うことに失敗した村はなかった。住民が貢納物の支払いを肯んじなかった場合、4か月毎に生きているシラミで満たされた大きな羽根を支払うべきであるとの命令をした州さえ存在した。これは貢納物の支払いに関し、教示し馴致させるインカの手法を示している。」という説明がなされている<ref>Starn, Degregori, Kirk (1995)</ref>。
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; [[ビラコチャ]]伝説
 
[[ビラコチャ]]伝説では次のとおりである。ビラコチャは、村を建設するためにクスコに近いパカリ・タンプ (Paqariq Tanpu) という所で暮らしていた4人の息子([[マンコ・カパック]](Manqu Qhapaq:ケチュア語で素晴らしい基礎)、アヤ・アンカ(Ayar Anca)、アヤ・カチ(Ayar Kachi)、アヤ・ウチュ(Ayar Uchu))と4人の娘({{仮リンク|[[ママ・オクリョ|es|Mama Ocllo|en|Mama Ocllo}}]](Mama Ocllo)、ママ・ワコ(Mama Waqu)、ママ・ラウア(Mama Rawa)、ママ・クラ(Mama Cura))(彼らは'''アヤル兄弟'''として知られている)を送り出し、旅の途中にマンコとママ・オクリョの間に生まれた[[シンチ・ロカ]]が、自分たちのクスコの谷に仲間を導き新しい村が開かれた。また、兄弟姉妹たちはクスコの谷へ遠征しながら近隣の10の部落を併合していったとも伝えられている。この時、支配者の象徴である金の杖が父ビラコチャによりマンコ・カパックに与えられたとされるが、一説にはマンコ・カパックは兄を嫉妬と裏切りで殺してクスコの支配者になり、[[マンコ・カパック]](Manco Capac)として知られるようになったとされる{{efn|上記説はエルインカ・ガルシラソによるもの。その他にもホアン・デ・ベタンソスによれば四組の夫妻とされており、アヤル・カチとママ・グァコ、アヤル・オチェとクラ、アヤル・アウカとラグア・オクリョ、アヤル・マンコとママ・オクリョ。シエサ・デ・レオンによれば三組の夫妻とされている<ref name="FRT46">[[# ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、p.46]].</ref>。<!--他にも違う部分が多々あるようですが、いずれまた加筆予定-->}}<ref>Urton (1990)</ref>。
 
; [[インティ]]伝説
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; その他伝説
また、別の説では太陽神インティが地上の野蛮な生活ぶりを哀れんだために息子と娘を地上へ使わしたが、チチカカ湖に降り立った後、金の笏を投げるとクスコ盆地のワナカウリの丘で地中深くに沈んだ。そこで兄妹二人でインティの言葉に従い、クスコに都を築いて周辺の未開な人々に文化を与えてインカ帝国の礎を築く事になったとしており、兄の名前がマンコ・カパック、妹の名前がママ・オクリョ・ワコであった<ref name="FRT45-6">[[# ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.45-46]].</ref>。
 
マンコ・カパックとママ・オクリョはチチカカ湖にある太陽の島(Isla del sol)に現れたとも、湖の彼方からやってきたとも、天から降り立ったともいわれる。さらにママ・オクリョは太陽の島ではなく隣の月の島(Isla de la luna)に現れたともいわれる。マンコ・カパックは天の神[[パチャカマック (神話)|パチャカマック]](Pachacamac)の兄弟ともされる。
 
複数の伝承の矛盾に気づかせないために、庶民はビラコチャの名を口にすることが禁じられていたといわれる。これらの神話は、スペイン人の植民者により記録されるまで口伝で継承されたと考えられているが<ref name="FRT51">[[# ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、p.51]].</ref>、[[キープ (インカ)|キープ]]に記録していたのではないかと考える研究者もいる<ref>Gary Urton, Signs of the Inka Khipu: Binary Coding in the Andean Knotted-String Records (Austin: University of Texas Press, 2003).</ref>。
 
なお、伝承に残っているインカ帝国の王(皇帝)のうち、この初代のマンコ・カパックだけは実在しない人物であるという説もある<ref name="FRT50-1">[[# ピース・増田 (インカ帝国)|ピース (1988)、pp.50-51]].</ref>。
 
=== ミイラ信仰 ===
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[[ファイル:Inca road system map-en.svg|thumb|インカ道路網。最大勢力時は北端がキト、南端がサンディエゴまで通じていた。黒線が山側の主要路線、
赤線がCOST SIDE。<!--どなたか最適な意訳をお願いします。-->]]
彼らは神殿、要塞、優れた道路を建設した{{誰|date=2018年1月}}。峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、王は国中の谷に吊り橋を掛け、道路を作った。その道路({{仮リンク|[[インカ道路網|es|Red vial incaica|en|Inca road system}}]])は北部の[[キト]]からチリ中部の[[タルカ]]に至るまで5,230kmにも達した。急峻な地形であるために人力もしくは家畜([[偶蹄目]])によって物資を輸送するしかなく、[[車輪]]を用いた運搬手段は発明されなかった。また野生馬を飼いならし、人や物資の運搬に用いることはなかった。1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、サパ・インカと随行者のために設置されていた。{{仮リンク|[[チャスキ|es|Chasqui|en|Chaski}}]](飛脚)が約8km毎に設置され、1日あたり約240kmの割合で緊急連絡をリレーした。口頭による緊急連絡は、おそらく数に基づく符号を含む[[キープ]](結縄)により補われた。これらはヨーロッパで古くに使用されていた割符と同等の物であった。この道路網は帝国の維持に必要であったが、皮肉なことに[[コンキスタドール|スペインによる征服]]をより容易にした{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第12章}}。
 
道中のタンボには、食物の備蓄庫も置かれた。収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得ることが出来た。この平等な徴収及び分配活動も、スペイン人が食料の補給に困ることなくインカを侵略できてしまった結果を生んだ。
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=== 美術・工芸 ===
; 金属加工
[[ヨーロッパ]]の技術が伝わるよりも前から、プレ・インカ時代の伝統を受け継いで[[金]]や[[トゥンバガ]](金と[[銀]]・[[銅]]あるいは[[錫]]の[[合金]])を精錬する技術を持っていた。いわゆるインカ帝国の金製品は実は合金製であり、そのためヨーロッパ人の侵略により、その大部分が溶かされて純金の延べ板にされてしまった([[ワッケーロ]]も参照)。一方、[[鞴]]を用いた高温の炉を作れず、[[鉄]]の製錬技術は無かった。[[鉄器]]と[[火器]]を持たなかったことは、スペインによる征服を容易にした{{Sfn|島田, 篠田編|2012|loc=第10章}}。  
 
; 陶芸
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{{節スタブ}}
 
== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
[[ファイル:TupacAmaruII.jpg|thumb|right|170px|トゥパク・アマル2世<br />最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔と自称した]]
304 ⟶ 312行目:
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[網野徹哉]]|authorlink=網野徹哉|year=2008|title=インカとスペイン帝国の交錯|publisher=講談社|isbn=|ref=I)}}
* [[フアン・ハルオ・イナミネ]]・[[山脇千賀子]]|「ペルー人とは何か その起源・アイデンティティ・国民性」中川文雄/三田千代子編『ラテンアメリカ人と社会』、[[新評論]]、1995年。
* {{Cite journal|和書|author=[[大貫良夫]] |title=アンデス高地の環境利用--垂直統御をめぐる問題 |url=https://doi.org/10.15021/00004567 |journal=国立民族学博物館研究報告 |publisher=国立民族学博物館 |year=1978 |month=dec |volume=3 |issue=4 |pages=p709-733 |naid=110004692917 |doi=10.15021/00004567 |issn=0385180X}}
* {{Cite book|和書|authoreditor1-first=泉|editor1-last=島田|editor1-link=[[島田泉 (考古学者)|editor2-first=謙一|editor2-last=篠泉]]・[[|editor2-link=篠田謙一]]編|year=2012|title=インカ帝国 - 研究のフロンティア|publisher=東海大学出版会〈国立科学博物館叢書〉|ref= {{sfnref|島田, 篠田編|2012}}}}
* {{Citation| 和書
| author = [[ジョージ・G・ジョーゼフ]]
326 ⟶ 334行目:
| isbn =
}})
* {{Cite book|和書|authorauthor1=[[フランクリン・ピース]]|authorlink1=フランクリン[[ピース|author2=増田義郎|authorlink=増田義郎]]|year=1988|title=<small>図説</small>インカ帝国|publisher=小学館|isbn=4-09-680451-7|ref=ピース・増田 (インカ帝国)}}
* {{Cite book|和書|author=増田義郎|year=2000|title=<small>世界各国史26</small>新版 ラテンアメリカ史II|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田 (ラテンアメリカII)}}
* Starn, Degregori, Kirk, ''The Peru Reader: History, Culture, Politics; Quote by Pedro de Cieza de Leon'', Duke University Press, 1995.
* Gary Urton, ''The History of a Myth: Pacariqtambo and the Origin of the Inkas'' , Austin: University of Texas Press, 1990.
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<!--インカ以前、神話伝承-->
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== 外部リンク ==
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[[Category:インカ帝国|*]]
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[[Category:かつて存在した南アメリカの君主国]]
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