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{{出典の明記|date=2024年4月}}
{{Expand English|date=2024年4月}}
{{Redirect|インカ|[[スペイン]]・[[バレアレス諸島州]]の[[ムニシピオ|ムニシピ]](基礎自治体)|インカ (スペイン)}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = インカ帝国
|日本語国名 = タワンティン・スウユ
|公式国名 = ''Tawantin SuyuTawantinsuyu''
|建国時期 = {{Start date and age|[[1438|}}年]]
|亡国時期 = {{Start date and age|[[1533|}}年]]
|先代1 = クスコ王国
|先旗1 =
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|次代5 = ヌエバ・トレド
|次旗5 = Flag of Cross of Burgundy.svg
|国旗画像 = Banner of the Inca Empire.svg
|国旗説明 =
|国旗幅 =
|国旗幅 = 100
|国章リンク =
|国章幅 =
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|国旗=|現在={{ECU}}<br/>{{PER}}<br/>{{CHI}}<br/>{{ARG}}<br/>{{BOL}}<br/></small>}}
 
'''インカ帝国'''(インカていこく、[[スペイン語]]:'''{{lang-es|Imperio Inca'''}}[[ケチュア語]]:'{{lang-qu|Tawantinsuyu}}(''タワンティン・スウユ'''(''Tawantinsuyo'', ''Tahuantinsuyo''))は、[[南アメリカ]]の[[ペルー]]、[[ボリビア]]([[チチカカ湖]]周辺)、[[エクアドル]]を中心に[[ケチュア|ケチュア族]]が築いた帝国。[[文字]]を持たない社会・文明であった。首都は[[クスコ]]。
 
[[世界遺産]]である[[15世紀]]のインカ帝国の[[遺跡]]「[[マチュ・ピチュ]]」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。[[1983年]]12月9日、クスコの市街地は[[世界遺産]]となった。
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{{Main|{{仮リンク|スペインによるインカ帝国の征服|es|Conquista del Perú|en|Spanish conquest of the Inca Empire|label=スペインによる征服}}}}
 
[[1532年]]にスペインのコンキスタドール(征服者)がペルーに戻ってきたとき、インカ帝国はかなり弱体化していた。その原因としては、インカ帝国内戦が勃発したことや新たに征服された領土内に不安が広がったことが挙げられるが、それ以上に[[中央アメリカ]]から広まった[[天然痘]]の影響が大きかったと考えられる。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に順応しているという利点があった。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭と決して抜きんでたものではなかった。そのため、万一、自隊を簡単に壊滅できそうな敵に遭遇したら、その場をどのように切り抜けるかをピサロはいつも説いていた。完全に武装されたピサロの騎兵は、技術面ではインカ軍に大きく勝るものであった。アンデス山脈では、敵を圧倒するために大人数の兵士を敵地に送り込む[[攻城戦]]のような戦闘が伝統的な戦法であったが、兵士の多くは士気の低い徴集兵であった。一方、スペイン人はすでに近代以前に「[[鉄砲]]」([[:es:Arcabuz|Arcabuzアーキバス]])などの優れた兵器を開発しており、[[イベリア半島]]で何世紀にもわたる[[ムーア人]]との戦いを経験し、さまざまな戦術を身につけていた。このようにスペイン人は戦術的にも物質的にも優位であったうえに、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの同盟者を現地で獲得していた。
 
最初の交戦は、現代の[[エクアドル]]、[[グアヤキル]]近郊の島で[[1531年]]4月に始まった{{仮リンク|プナの戦い|en|Battle of Puná}}であった。その後ピサロは、[[1532年]]7月に[[ピウラ]]を建設した。[[エルナンド・デ・ソト]]は内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともに[[カハマルカ]]で休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。