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|name=レミー・ボンヤスキー
|image=Remy Bonjaski.JPG
|realname=レミー・ケネス・ボンヤスキー(Remy Kenneth Bonjask)
|nickname=ザ・フライ・ハイ<br />フライング・ジェントルマン
|weight=[[スーパーヘビー級]]([[K-1]])
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|birth_date={{生年月日と年齢|1976|1|10}}
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'''レミー・ボンヤスキー'''(Remy Bonjasky、[[1976年]][[1月10日]] - )は、[[スリナム|スリナム共和国]][[パラマリボ]]出身の[[オランダ]]人[[キックボクサー]]。バックボーンは[[ムエタイ]]。チームボンヤスキー所属。元[[ABNアムロ銀行]]勤務の銀行員という異色の経歴を持つ。
 
恵まれた体格を持ち、巧みな防御技術と高い身体能力を生かしたフライング・ニー(跳び膝蹴り)、フライング・ハイ([[ハイキック]])などの蹴り技が武器。[[K-1]] WORLD GPで3度の優勝を果たしている。ただし、2004年と2008年のGP優勝については疑惑の判定を経ての優勝であった為、物議を醸す事となった
 
== 来歴 ==
[[スリナム|スリナム共和国]][[パラマリボ]]に生まれ、5歳の時に[[オランダ]]の[[ティルブルフ]]に移住した。
 
[[2001年]]6月24日、日本で初の試合。[[K-1]]参戦後2戦目で[[レイ・セフォー]]に4RTKO勝ちし、脚光を浴びる。
 
[[2002年2]]714日エロル・パリスにKO負け。K-1 WORLD GP 2002年7月、 in 福岡で[[ミルコ・クロコップ]]KO負け。2002年8月パンチの連打でダウンを奪われステファンレコに判定2RTKO負け。
 
[[2002]]年8月17日、K-1 WORLD GP 2002 in ラスベガスで[[ステファン・レコ]]と対戦し判定負け。GP開幕戦への出場は逃したが、2戦連続でベスト8ファイターと互角の勝負を展開した。
 
[[2003年]]8月15日、K-1WORLDGPin1 WORLD GP 2003 ラスベガス最終予選トーナメントに出場。決勝で[[マイケル・マクドナルド (格闘家)|マイケル・マクドナルド]]に判定勝ちし優勝。
 
[[2003年]]10月11日、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦のGP1回戦で[[ボブ・サップ]]と対戦。ダウンを奪うが、ボンヤスキーがスリップして倒れた際にサップの反則攻撃を受け試合続行不可能。サップが反則負けとなったため反則勝ちで準々決勝トーナメントに駒を進め
 
2003年12月6日、WGPK-1 WORLD GP 2003 決勝トーナメント戦のGP準々決勝で[[ピーター・グラハム]]を跳び膝蹴りで1RKO勝ち。準決勝で[[シリル・アビディ]]をまたしても膝蹴りで1RKO勝ち。そして[[決勝]]で[[武蔵 (格闘家)|武蔵]]を判定で破り、WORLD GP初優勝を果たした(WGPにおけるムエタイの<ref>世界最終予優勝者がその年のWORLD GP王者しても初)なったのはボンヤスキーと2001年に王者になった[[マーク・ハント]]の2名のみ</ref>
 
[[2004年]]5月30日、一撃キックルールで[[フランシスコ・フィリォ]]と対戦し、ダウンを奪われて判定負け。フィリォはこの試合の勝利を最後に現役を引退した。
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2004年9月25日、K-1 WORLD GP 2004 開幕戦では、前年度王者ということで1回戦をシードされたため、スーパーファイトで[[曙太郎|曙]]と対戦し、ハイキックで3RKO勝ち。
 
2004年12月4日、アーネスト・ホースト、フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ、武蔵を破り2連覇を果たす。だが、ホースト戦の判定がおかしいと言う意見もあり、この判定については一部の格闘技雑誌でも疑惑の判定として取り上げられた。ボタとそのトレーナーのスティーブ・カラコダはホーストとレミーの試合を控え室で見ていて、レミーが判定で勝った時には驚いていた。 次のボタ戦でも、不可解な判定でレミーが勝利している。特にジャッジのうちの一人である御座岡正人の採点が「27.5-25.5でレミーを支持」という、明らかにボタへの採点が低すぎるものであった(通常、ダウンを奪えずに全3ラウンドで優勢だったとしても10-9が3回続いて30-27、そこにダウンを一つ奪ったのを追加しても30-26となり、ボタの採点は最大でも4ポイント減までが限界のはずだが、ダウン以外の場面は全てボタが完封していたにもかかわらず、4.5ポイント減となっている)。 さらに、決勝戦の相手となった武蔵もレミーと同様に疑惑の判定によって決勝に進出してきたため、ファンや専門家から多くの批判と抗議を浴びた。 優勝後、レミーは「昨年のGPではホーストが欠場していた為優勝出来たのではないかと言われたが、今回はホーストを倒して優勝した事で、真の王者だと証明できて嬉しい。」とコメントした。
そして、次のボタ戦でも不可解な判定でレミーが勝利している。特にジャッジのうちの一人である[[御座岡正人]]の採点が「27.5-25.5でレミーを支持」という、明らかにボタへの採点が低すぎるものであった(通常、ダウンを奪えずに全3ラウンドで優勢だったとしても10-9が3回続いて30-27、そこにダウンを一つ奪ったのを追加しても30-26となり、ボタの採点は最大でも4ポイント減までが限界のはずだが、ダウン以外の場面は全てボタが完封していたにも関わらず、4.5ポイント減となっている)。
さらに、このトーナメントで決勝戦の相手となった武蔵もレミーと同様に疑惑の判定勝利によって決勝に進出してきたため、ファンや専門家から多くの批判と抗議を浴びた。
優勝後、レミーは「昨年のGPではホーストが欠場していた為優勝出来たのではないかと言われたが、今回はホーストを倒して優勝した事で、真の王者だと証明できて嬉しい。」とコメントした。
 
2005年1319日K-1 WORLD GP 2005 IN SEOULで[[レイ・マーサー]]にハイキックで試合開始22秒でKOKO勝ち。
 
[[2005年]]4月30日、K-1ラスベガス大会で[[マイティ・モー]]と対戦。試合は全体を通してレミーが支配していたが、3Rに右フックでダウンを奪われたシーンがあったため微妙な判定で敗れた。
前年に続いて1回戦をシードされて迎えた11月19日の決勝大会の準々決勝では[[チェ・ホンマン]]を判定で下すも、準決勝で[[セミー・シュルト]]に膝蹴りに苦しみ、自らしゃがみこんでダウンをするなどし1RKO負け。試合後、「4週間ぐらい前に怪我をしたところを攻められた。精神面じゃなく肉体面が敗因だ」、「王者のプレッシャーから解放された」とコメントした。
 
2005年1253121日、[[K-1 PREMIUMFighting Network K-1 SCANDINAVIA 2005 Dynamite!!]]にて[[リカルドプレデタドストランド]]と対戦、プレデターの圧力に苦戦し劣勢となるも、。3R判定2-1でちを収めた
しかし、この試合についてはK-1ファンのみならず、関係者の間でも明らかにプレデターが勝っていたという意見が多く、会場では、不可解な判定に対して会場の観客からブーイングが起こった。
この試合の判定について、格闘技通信やkamiproなどでも露骨なレミー贔屓の判定だったと指摘されている。
K-1競技統括やレフェリーを務めている角田信朗はブログにて「立場上強くは言えないが、あの判定、ブーイングが出ても致し方ない」とこの試合の判定についてコメントした。
さらに、大会直後の記者会見にてK-1プロデューサーの谷川貞治も「プレデターの勝ちでも良かったと思います」とコメントしている。
数カ月後に[[チェ・ホンマン]]戦の直後に行われたインタビューにて当事者であるプレデターは「あの試合は俺が勝っていたんじゃないか?何度試合を見直しても俺の方が手数で上回っているし優勢だ。まあ仲間は俺の勝ちだと言ってくれているのでそれで良いが」と判定への不満こそ述べなかったが、自分が勝っていたとの見解を示している。
 
2005年9月23日、K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦にて、スーパーファイトで[[アレクセイ・イグナショフ]]と対戦。3R終了時に判定でドローとなったため、延長戦を行い3-0の判定勝ちを収めた。
[[2006年]]5月13日、K-1アムステルダム大会のスーパーファイトで[[ジェロム・レ・バンナ]]と対戦。3Rにバンナの蹴りにより試合後には足を引きずるなど、ダメージを受けていたが、2-0の判定勝ちを収めた。しかしその後、バンナ側の抗議により、6月30日付でレミーの0-3の判定負けと記録が変更された<ref>[http://www.k-1.co.jp/report/20060630r.html 「ジェロム・レ・バンナ選手側からの判定に対する異議申し立てについての回答」] [[K-1]]公式ウェブサイト 2006年6月30日</ref>。同年7月30日、札幌大会では僅差で敗れた[[マイティ・モー]]と再戦を行い、ローキックなどでダメージを与えモーを完封して判定勝ち。リベンジを果たした。開幕戦では[[ピーター・アーツ]]と対戦予定だったが、アーツが病気で欠場したため、試合の2日前に代役で出場が決まった[[ゲーリー・グッドリッジ]]と対戦し、KOで下し決勝大会への切符を手に入れる。決勝GPでは[[ステファン・レコ|ステファン"ブリッツ"レコ]]に2度の金的を受けるアクシデントに苦しみながらも、カウンターでダウンを奪い判定勝ち。だが金的のダメージが残っていたため、準決勝を棄権した。
 
2005年11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦にて、前年に続いてWORLD GP王者ということで1回戦をシードされて迎えたGP準々決勝で[[チェ・ホンマン]]と対戦し、3R判定勝ち。続く準決勝で[[セミー・シュルト]]と対戦し、自らしゃがみこんでダウンするなど、心を折られての1RKO負けを喫した。
[[2007年]]4月28日、K-1 WORLD GP 2007 in HAWAIIのスーパーファイトにて[[グラウベ・フェイトーザ]]と初対戦し、2-0の判定勝ち。
 
2005年12月31日、[[K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!]]にて[[ザ・プレデター]]と対戦、プレデターの圧力に苦戦し劣勢となるも判定2-1で勝利。 この試合は、K-1ファンのみならず関係者の間でもプレデターが勝っていたという意見が多く、判定でレミーの勝ちが告げられた瞬間、観客からはざわめきとブーイングが起こった。 この試合の判定について、格闘技通信やKamiproなどでも露骨なレミー贔屓の判定だったと指摘されている。K-1競技統括やレフェリーを務めている角田信朗はブログにて「立場上強くは言えないが、あの判定、ブーイングが出ても致し方ない」とこの試合の判定についてコメントした。 さらに大会直後にK-1プロデューサーの谷川貞治も「あれはプレデターの勝ちで良いと思う」とコメントしている。<ref name="名前なし-20231105132544">紙のプロレス Kamipro 95</ref> 数カ月後にチェ・ホンマン戦の直前に行われたK-1公式サイトのインタビューにて当事者であるプレデターは「あの試合は俺が勝っていたんじゃないか?何度試合を見直しても俺の方が手数で上回っているし優勢だ。まあ仲間は俺の勝ちだと言ってくれているのでそれで良いが」と判定への不満こそ述べなかったが、自分が勝っていたとの見解を示している。
なお、この試合は不可解な判定だった為か、地上波ではほぼカットされ、エンドロールでわずかに結果と映像が流されたのみとなっている。<ref name="名前なし-20231105132544"/>
 
[[2006年]]5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMで[[ジェロム・レ・バンナ]]と対戦。3R中盤にバンナのミドルキックで明らかにダメージを受け劣勢となるも、2-0で判定勝ちを収めた。しかし、その後、バンナ側の抗議により、K-1公認審判団の日本人6名とアメリカ人2名によって判定の検証が行われた結果、6月30日付でレミーの0-3の判定負けに記録が変更された<ref>[http://www.k-1.co.jp/report/20060630r.html 「ジェロム・レ・バンナ選手側からの判定に対する異議申し立てについての回答」] [[K-1]]公式ウェブサイト 2006年6月30日</ref><ref>[https://www.boutreview.com/data/news05/060513k1wgp-banner.html オランダ大会のバンナ×ボンヤスキー、バンナの勝利に裁定変更] BOUTREVIEW 2006年7月3日</ref>
 
2006年7月30日、K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 IN SAPPOROで僅差で敗れた[[マイティ・モー]]と再戦を行い、ローキックなどでダメージを与えモーを完封して判定勝ち。リベンジを果たした。
 
2006年9月30日、K-1 WORLD GP 2006 開幕戦のGP1回戦で[[ピーター・アーツ]]と対戦予定だったが、アーツが病気で欠場したため、試合の2日前に代役で出場が決まった[[ゲーリー・グッドリッジ]]と対戦し、KOで下し決勝大会への切符を手に入れた。
 
2006年12月2日、K-1 WORLD GP 2006 決勝戦のGP準々決勝で[[ステファン・レコ|ステファン"ブリッツ"レコ]]と対戦。2度の金的を受けるアクシデントに苦しみながらも、3Rにカウンターでダウンを奪い判定勝ち。試合後、金的のダメージで同日の準決勝を棄権した。
 
[[2007年]]4月28日、K-1 WORLD GP 2007 in HAWAIIのスーパーファイトにて[[グラウベ・フェイトーザ]]と初対戦、お互いに蹴りが効いた素振りを見せる接戦となるも、3Rにやや優勢になり、2-0の判定勝ち
 
2007年8月、[[ミルコ・クロコップ]]の[[チーム・クロコップ]]のトレーニングにスパーリング・パートナーとして参加。
 
2007年9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16のGP1回戦にて[[ステファン・レコ|ステファン"ブリッツ"レコ]]とし、右跳び膝蹴りでKO勝ち。ただし、レコはダウンを喫した後、10カウント以内に立ち上がったにもかかわらず、レフェリー試合を止められた為、このKOには疑問の声もあっ物議を醸した。
 
2007年12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALのGP準々決勝で[[バダ・ハリ]]と対戦。3R判定勝ちするも、準決勝で[[ピーター・アーツ]]に3R判定負け。
 
[[2008年]]4月26日、[[K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAM]]のスーパーファイトにて[[メルヴィン・マヌーフ]]にKOハイキックで2RKO勝ち。
 
2008年9月27日、[[K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16]]のGP1回戦で[[ポール・スロウィンスキー]]と対戦し、3Rにスロウィンスキーのラッシュで完全に動きが止まり、ラッシュをクリンチで逃れるなど、ダウン寸前の劣勢となるも判定勝ち。この不可解な判定について試合後、スロウィンスキーは『自分の勝ちか、せめてドローの試合、レミーの判定勝ちになったのは人気選手だからだと思う』と不服を唱えていた。レミーもこの事に関して「彼が不服を唱えたのにもそれなりの理由があるのだろう。」とコメントしている。<ref>[https://web.archive.org/web/20080930022628/http://www.k-1.co.jp/database/080927more/20080927_05.html 『FieLDS K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL -FINAL16-』大会結果] K-1公式ウェブサイト 2008年9月27日</ref>ただし、数日後に行われたインタビューでレミーはこの発言を撤回している。なお、この試合は不可解な判定だった為か、地上波ではほぼカットされ、結果と数秒間のダイジェストしか放送されなかった。
 
2008年12月6日、[[K-1 WORLD GP 2008 FINAL]]のGP準々決勝で[[ジェロム・レ・バンナ]]と対戦。3Rにミドルキックでダウンを奪い、そのままバンナの骨折の疑いによりドクターストップによるTKO勝利。
 
同日、準決勝では[[グーカン・サキ]]に2RKO勝利を収めた。
2007年12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALの準々決勝で[[バダ・ハリ]]に判定勝ちするも、準決勝で[[ピーター・アーツ]]に判定負け。
 
同日、決勝では[[バダ・ハリ]]と対戦。1Rにハリからダウンを奪ったが、2Rに足を掴まれて倒されるとハリの反則攻撃(倒れた相手の頭部へのパンチと踏みつけ)を受けた。反則攻撃を続けるハリをレフェリーが引き剥がし、ダメージ回復のため試合が中断されたが、レミーはダブルビジョン(物が二重に見えること)を訴え試合続行不可能。この反則行為によりバダ・ハリが失格負けとなり、レミーが4年ぶり3度目のGP王者となった。試合後、対戦相手のハリは反則攻撃後のボンヤスキーの一連の行動に対して「演技」の可能性を指摘して挑発した。それに対して当のボンヤスキレミーは、その翌日のインタビューにおいて、一夜を越して起きてもまだダブルビジョンと頭痛が治まっていなかったとう旨のことを述べている<ref>[http://www.sherdog.com/news/pressreleases/K-1-WGP-08-Post-Event-Interview-with-Remy-Bonjasky-amp-Comments-from-Sadaharu-Tanikawa-15428 "K-1 WGP 08 Post-Event Interview with Remy Bonjasky & Comments from Sadaharu Tanikawa"] 2008年12月7日 ''[[SHERDOG]]'' {{En icon}}</ref>。
[[2008年]]4月26日、[[K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAM]]のスーパーファイトにて[[メルヴィン・マヌーフ]]にKO勝ち。
 
[[2009年]]3月28日、[[K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA]]で[[アリスター・オーフレイム]]と対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけ続けるアリスターにペースを握られるも、3Rにフラッシュダウン気味のダウンを奪い判定勝ち。しかし、3R以外のダウン以外は終始アリスターが圧倒しており、この試合の解説者全員が1Rと2Rはアリスターが優勢であると発言する程であったにもかかわらず、1Rと2Rにアリスターにポイントが入らないと言う不可解な判定があり、もし2Rまでにアリスターにポイントが入っていれば、レミーはカウンター狙いの戦法を取れず、アリスターも無理に攻める必要がなかった為、ダウンを奪われるともなく、試合の展開自体が変わっていた可能性が非常に高い為、判定について批判が起こった。K-1プロデューサーの谷川貞治はこの試合について「ほとんどアリスターの勝ちですね。2Rもアリスターのポイントで良いと思いますし、ダウン以外は全てアリスターが勝っていました」とコメントしている。<ref>[httphttps://sportsnavigbring.yahoo.co.jpcom/fightsokuho/k1news/live2009_03/2009/2009032801/120328_k-1_03.htmlhtm 【K-1】谷川貞治EP、メインイベントは「ほぼアリスター総括勝ちだった」] スポーツナビ 格闘技速報ウェブマガジンGBR 2009年3月28日</ref>。試合後の会見で2日前に膝の裏側の筋を痛め歩行も困難な状態になり、試合当日は鎮痛剤を打って試合をしたことを告白した。
2008年7月13日、[[K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEI]]のスーパーファイトで[[ヴォルク・アターエフ]]と対戦し、3RKO勝ち。
 
20082009年9月2726日、[[K-1 WORLD GP 20082009 IN SEOUL FINAL16]]のGP1回戦で[[ポー・スロウィンスキ・マヌ]]と対戦し、3Rにスロウィンスキーのラッシュで完全に動きが止まり、ラッシュをクリンチで逃れるなど、明らかにダメージを受けた素振りを見せ劣勢となるも、判定勝ち。
しかし、この不可解な判定について試合後、スロウィンスキーは不服を唱えていた。レミーもこの事に関して「彼が不服を唱えたのにもそれなりの理由があるのだろう。」とコメントしている。しかし、数日後に行われたインタビューでレミーはこの発言を撤回している。
 
2009年912265日、[[K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16FINAL]]のGP準々決勝で[[エローヴィンマン]]と対戦し、判定勝ち。
2008年12月6日、[[K-1 WORLD GP 2008 FINAL]]の準々決勝で[[ジェロム・レ・バンナ]]に3RドクターストップTKO勝利、準決勝で[[グーカン・サキ]]に2RKO勝利を収め、決勝で[[バダ・ハリ]]と対戦する。1Rにハリからダウンを奪ったものの、2Rに足を掴まれ倒されたところにハリの反則攻撃(倒れた相手の頭部へのパンチと踏みつけ)により、ダメージ回復のため試合が中断され、レミーはダブルビジョン(物が二重に見えること)を訴える。この反則行為によりバダ・ハリは失格負けとなり、レミーが4年ぶり3度目のGP王者となった。
対戦相手のハリは反則攻撃後のボンヤスキーの一連の行動に対して「演技」の可能性を指摘した。それに対して当のボンヤスキーは、その翌日のインタビューにおいて、一夜を越して起きてもまだダブルビジョンと頭痛が治まっていなかったという旨のことを述べている<ref>[http://www.sherdog.com/news/pressreleases/K-1-WGP-08-Post-Event-Interview-with-Remy-Bonjasky-amp-Comments-from-Sadaharu-Tanikawa-15428 "K-1 WGP 08 Post-Event Interview with Remy Bonjasky & Comments from Sadaharu Tanikawa"] 2008年12月7日 ''[[SHERDOG]]'' {{En icon}}</ref>。
 
2009年12月5日、[[K-1 WORLD GP 2009 FINAL]]の準々決勝で[[エロール・ジマーマン]]に判定勝ち。準決勝で[[セミー・シュルト]]と対戦し、ジマーマン戦で受けた足のダメージが響き、1R開始直後に左フックでフラッシュダウン気味のダウンを奪うも、徐々にシュルトのラッシュ返されて2度のダウンを奪い返されてKO喫し1RKO負けし、連覇ならなかった
[[2009年]]3月28日、[[K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA]]で[[アリスター・オーフレイム]]と対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけ続けるアリスターにペースを握られるも、3Rにフラッシュダウン気味のダウンを奪い判定勝ち。しかし、3R以外のダウン以外は終始アリスターが圧倒しており、この試合の解説者全員が1Rと2Rはアリスターが優勢であると発言する程であったにも関わらず、1Rと2Rにアリスターにポイントが入らないと言う不可解な判定があった為、この試合の判定について批判が起こった。K-1プロデューサーの谷川貞治はこの試合について「ほとんどアリスターの勝ちですね。2Rもアリスターのポイントで良いと思いますし、ダウン以外は全てアリスターが勝っていました」とコメントしている。<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/k1/live/2009/2009032801/12.html 谷川貞治EPの総括] スポーツナビ 格闘技速報</ref>。試合後の会見で2日前に膝の裏側の筋を痛め歩行も困難な状態になり、試合当日は鎮痛剤を打って試合をしたことを告白した。
 
2010年9月6日、[[オランダ]]・[[アルメレ]]にキックボクシングジム「ボンヤスキー・アカデミー」を開設。
2009年9月26日、[[K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16]]で[[メルヴィン・マヌーフ]]と対戦し、判定勝ち。
 
[[2010年]]8月、[[網膜剥離]]の手術を受け、成功した<ref>[http://gbring.com/sokuho/news/2010_09/0919_k-1_02.htm 【K-1】10・2バダ・ハリが暴行容疑を晴らすため、ボンヤスキーが網膜はく離のため欠場] 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月19日</ref>。以後は自身が経営するボンヤスキー・アカデミーで[[ダニョ・イルンガ]]ら後進の指導をしつつ、欧州のキックボクシング団体である[[IT'S SHOWTIME]]のリポーターなどを務めながら、あと1試合で現役を引退することを表明し、引退試合をK-1かIT'S SHOWTIMEのどちらかで行うべく、両天秤にかけて契約交渉を行っていたが、IT'S SHOWTIMEのCEOサイモン・ルッツが「誰も彼の要求額は支払えない」と語るほど巨額なファイトマネーを要求したため、結局引退試合を行わないまま一度目の現役引退となった<ref>[http://www.boutreview.com/2/news/itsshowtime/item_6520.html ルッツ会長インタビュー「我々は『K-1後』を考えていますよ」] - boutreview・2011年1月26日</ref>。
2009年12月5日、[[K-1 WORLD GP 2009 FINAL]]の準々決勝で[[エロール・ジマーマン]]に判定勝ち。準決勝で[[セミー・シュルト]]と対戦し、1R開始直後に左フックでフラッシュダウン気味のダウンを奪うも、シュルトのラッシュにより、2度のダウンを奪い返されてKO負けし、連覇ならず。
 
[[2012年]]に入り、IT'S SHOWTIMEを買収した[[GLORY (格闘技)|GLORY]]と契約し、同年[[10月6日]]にブリュッセルで開催のGLORY 2にて2年10ヶ月ぶりの現役復帰戦で[[アンダーソン・ブラドック・シルバ]]と対戦し、延長戦の末に4-1の判定勝ち<ref>[http://mmaplanet.jp/archives/1725369.html 【Glory02】復活レミーは苦しみ抜いて、シウバを延長判定で下す] MMAPLANET 2012年10月7日</ref>。なお、試合後の談話にてブラドックは判定に対して不満を述べた<ref>[http://mmaplanet.jp/archives/1725765.html 【Glory02】レミー・ボンヤスキー、グーカン・サキらの試合後の談話] MMAPLANET 2012年10月8日</ref>。
[[2010年]]8月、[[網膜剥離]]の手術を受け、成功した<ref>[http://gbring.com/sokuho/news/2010_09/0919_k-1_02.htm 【K-1】10・2バダ・ハリが暴行容疑を晴らすため、ボンヤスキーが網膜はく離のため欠場] 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月19日</ref>。以後は自身が経営するボンヤスキー・アカデミーで[[ダニョ・イルンガ]]ら後進の指導をしつつ、欧州のキックボクシング団体である[[IT'S SHOWTIME]]のリポーターなどを務めながら、あと1試合で現役を引退することを表明し、引退試合をK-1かIT'S SHOWTIMEのどちらかで行うべく、両天秤にかけて契約交渉を行っていたが、IT'S SHOWTIMEのCEOサイモン・ルッツが「誰も彼の要求額は支払えない」と語るほど巨額なファイトマネーを要求したため、結局引退試合を行わないまま一度目の現役引退となった<ref>[http://www.boutreview.com/2/news/itsshowtime/item_6520.html ルッツ会長インタビュー「我々は『K-1後』を考えていますよ」] - boutreview・2011年1月26日</ref>。
 
2012年12月31日、[[DREAM.18 & GLORY 4]]のGLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012にて、1回戦でフィリップ・ヴェルリンデンに2分3R判定143-142で判定勝ち。
[[2012年]]に入り、IT'S SHOWTIMEを買収した[[GLORY (格闘技)|GLORY]]と契約し、同年[[10月6日]]にブリュッセルで開催のGLORY 2にて2年10ヶ月ぶりの現役復帰戦で[[アンダーソン・ブラドック・シルバ]]と対戦し、延長戦の末に4-1の判定勝ち<ref>[http://mmaplanet.jp/archives/1725369.html 【Glory02】復活レミーは苦しみ抜いて、シウバを延長判定で下す] MMAPLANET 2012年10月7日</ref>。なお、試合後の談話にてブラドックは判定に対して不満を述べた<ref>[http://mmaplanet.jp/archives/1725765.html 【Glory02】レミー・ボンヤスキー、グーカン・サキらの試合後の談話] MMAPLANET 2012年10月8日</ref>。
 
2012年12月31日、[[DREAM.18 & GLORY 4]]のGLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012にて、1回戦でフィリップ・ヴェルリンデンに2分3R判定143-142の1ポイント差で判定勝ち。準々決勝で[[ジャマール・ベン・サディック]]と対戦、サディックのリーチ苦戦し、2分2R判定90-100で判定負けを喫した
 
[[2013年]]3月23日、GLORY 5 LONDONにて[[タイロン・スポーン]]に2RKOと対戦、2R右ストレートでキャリア初となる失神KO負け<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/fight/all/2013/columndtl/201303250005-spnavi レミー・ボンヤスキー、世代交代マッチで失神KO負け 3.23グローリーロンドン大会] スポーツナビ 2013年3月25日</ref>。
 
2013年12月21日、[[有明コロシアム]]で行われた[[GLORY 13 TOKYO]]にて、日本で最後となる試合を行い[[アンダーソン・ブラドック・シルバ]]と再戦。蹴りを使い試合を有効に使勧めてシルバを攻めるが、物議を醸す判定により判定負け、会場では判定が発表されるとざわつきが起こった。レミーは判定に苦笑いをしながらもファンに日本語で感謝の気持ちを伝えた。
 
2014年3月8日、[[アレナ・ザグレブ]]で行われた[[GLORY14 ZAGREB]]にて、[[ミルコ・クロコップ]]と再戦。お互いに見せ場を作れず、精彩を欠いた内容となったが、2-0で判定勝ち。
 
2017年10月29日、[[アルメレ]]で行われたWFL: Manhoef vs. Bonjaskyにて[[メルヴィン・マヌーフ]]と4度目の対戦し、3R判定負け。過去にマヌーフには3勝しているが、4度目の対戦で初めて敗れた。この時点でレミーは41歳となり、以降は試合を行っていない。
 
== 人物・エピソード ==
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*2003年に結婚するが、2005年に離婚。2004年2月に長男が生まれ、[[モハメド・アリ]]の本名から取って「カシアス」と名付けた。
*2004年に[[アーネスト・ホースト]]に疑惑の判定で勝利した後、疑惑の判定負けに納得しないホーストに対して『諦めろ』とコメントしている。
*2006年に[[ジェロム・レ・バンナ]]に疑惑の判定により勝利した後、バンナ陣営の抗議によって裁定が覆った事について、レミーは『ファイターならば、会場で判定が言い渡された時点で負けを受け入れるべきだ。真のファイターは判定に文句を言わないものだ。』とコメントし、判定に抗議をしたバンナを批判したている。しかし、実はレミー自身も2005年の[[アレクセイ・イグナショフ]]戦前後のインタビューにて、過去にイグナショフに判定で敗れた事について、判定が正当な物ではなかったとして自分が勝っていたと主張している。また、2006年の[[ステファン・レコ]]戦前のインタビューでも、過去にレコに判定負けした試合についても、自分が勝っていたと主張している
*[[セミー・シュルト]]については『シュルトは王者だったけど、それがファンに伝わっていなかった。ルックスも王者らしくないし、トークもできない。しかもファイトスタイルはつまらない。』と酷評コメントている。
*2007年の開幕戦後のインタビューでは『セミー・シュルトと戦いたい』、『今ならシュルトに勝てると思う』とコメントしている。しかし、2008年のシュルト不在時に優勝した後には、『GPで十分に自分の強さは示したと思うし、今更セームと戦いたいとは思わない』とコメントしている。この事について、K-1携帯公式サイトにて、『レミーはシュルトから逃げているのではないか?』という質問を受けたK-1プロデューサーの谷川貞治は『僕もレミーはシュルトとの対戦をかなり嫌がっていると思いますよ。』とコメントし、レミーがシュルトから逃げたということを肯定する発言をしている。
*武蔵によると、『レミーはK-1WGPで優勝した時期から天狗になっており、オランダのファイターや周囲の人間ほぼ全員から嫌われ、日本で試合をする際、セコンドすらおらず、武蔵のトレーナーのフランクにセコンドについてほしいと頼むほど孤立していた時期』があった。そして、『その雰囲気は最後まで残っていたが、ピーター・アーツだけはレミーを露骨に嫌わずに気を遣って接していた』と西山茉希は語っている。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9bzOPoGg81E 5代目格闘ビジュアルクイーン登場!当時のK-1の裏側をぶっちゃける。] 魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ! 2021年7月24日</ref>。
 
== 評価 ==
* 他の歴代K-1王者と比べると、K-1ファンのみならず選手や関係者の間でも王者としてのレミーの実力を疑問視する声は非常に多く、格闘技ウェブマガジンGBRでも、『かつてのアーツやホーストのような高い評価を得られていないのも事実』と評されている<ref name="名前なし_2-20231105132544">[http://gbring.com/sokuho/result/result2009_12/1205_k-1_02.htm 【K-1】セミー・シュルトが大活躍のバダ・ハリをKOし、史上最多タイ4度目の優勝] 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月5日</ref>。
 
*初優勝した2003年のGPでは[[ジェロム・レ・バンナ]]、[[アーネスト・ホースト]]、[[マーク・ハント]]、[[ミルコ・クロコップ]]、[[ステファン・レコ]]らの多くのトップファイターが欠場していた為、GPトーナメントの対戦相手は、[[ピーター・グラハム]]、[[シリル・アビディ]]、[[武蔵 (格闘家)]]と有力選手と対戦しないまま優勝したため『レミーが優勝できたのは有力選手らが欠場していた為ではないのか』とレミーの実力を疑問視する声が上がった。[[アーネスト・ホースト]]はレミーの2003年の優勝後、このトーナメントについて『トップ選手が出ていない楽なトーナメントだったから優勝出来た』と評価している。<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2004_12/1203_koshin.htm 【立ち読み】レミー・ボンヤスキーGP決勝直前インタビュー] 格闘技ウェブマガジンGBR 2004年12月3日</ref>
 
*2度目の優勝を果たした2004年のWGPでは、前年度王者ということで開幕戦を免除され、決勝大会からの出場となり、1回戦をシードされた。(なお、翌2005年も1回戦をシードされており、K-1史上全てのトーナメントにおいて開幕戦を免除された選手は2004年と2005年のレミーのみである。)決勝大会では、前述のように準々決勝のホースト戦、準決勝のボタ戦疑惑の判定勝利によって決勝に進出し、さらに決勝の対戦相手の[[武蔵 (格闘家)]]もレミーと同様に準々決勝と準決勝で疑惑の判定勝利によって決勝に進出してきたため、大会終了後には、K-1のジャッジに対する批判が相次ぎ、K-1公式サイトで、疑惑の判定の検証が発表されると言った異常前代未聞の事態となった。<ref>[https://web.archive.org/web/20041229002635/http://www.so-net.ne.jp/feg/report/20041217r_11.html 『アルゼ K-1 WORLD GP 2004 決勝戦で判定に関してのお知らせ] K-1公式ウェブサイト 2004年12月17日</ref> ホーストはこの時点で39歳で、年齢的にも引退が近いと思われており、衰えていたホーストに疑惑判定で辛勝するのがやっとだった『レミーは王者になるような実力ではないのではないか』という声がさらに強まる結果となった。またその年のオランダ格闘技界の年間MVPは[[エロル・パリス]]、[[アジス・カトゥー]]、[[グーカン・サキ]](この時のサキは無名であり下積み時代であった)、[[ゲーリー・ターナー]]と言った無名選手にしか勝利していない[[バダ・ハリ]]となっていなど事からも本国オランダでもこの優勝は果たしたものの、『レミーは王者になるような実力ではなが評価されてのではないか』という声さらに強ま窺え結果となった
 
*3度目の優勝を果たした2008年のWGPでは開幕戦の[[ポール・スロウィンスキー]]戦で3Rに追い込まれながらも、またしても疑惑の判定勝ちを収めた事。そして、WGP決勝では準々決勝の対戦相手のバンナが試合前から左腕を負傷していた為(左腕に水が溜まっており強いパンチが打てない状態)<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2008_12/1211_dynamite_04.htm 【Dynamite!!】12・31バンナ、左腕は問題なし「ハント、激しく殴り合おうじゃないか」] 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年12月11日</ref>[[ピーター・アーツ]]、[[エロール・ジマーマン]]と言った強豪と対戦して消耗していた[[バダ・ハリ]]に比べて、明らかに組合せに恵まれていた面もあり、更に決勝の[[バダ・ハリ]]戦での勝利が反則による決着であった為、またしてもレミーの実力を疑問視する声が上がった。
 
*[[アレクセイ・イグナショフ]]は2005年のパリ大会前にボンヤスキー何かに2連覇させてしまった事を後悔していると発言している。また2005年の開幕戦前のインタビューでは『レミーの事はチャンピオンだとは思っていない。レミーが優勝した2003年と2004年、特に2003年は強い選手がいなかったんだ』と述べている。
 
*[[ステファン・レコ]]は2007年の開幕戦前のインタビューで、レミーが優勝したトーナメントはレベルが低かった為価値がないと述べている。
*初優勝した2003年のGPでは[[ジェロム・レ・バンナ]]、[[アーネスト・ホースト]]、[[マーク・ハント]]、[[ミルコ・クロコップ]]、[[ステファン・レコ]]らの多くのトップファイターが欠場していた為、GPトーナメントの対戦相手は、[[ピーター・グラハム]]、[[シリル・アビディ]]、[[武蔵 (格闘家)]]と有力選手と対戦しないまま、優勝したため『レミーが優勝できたのは有力選手らが欠場していた為ではないのか』とレミーの実力を疑問視する声が上がった。
 
*[[バダ・ハリ]]『レミーは2回優勝しているが、トップファイターが揃ったトーナメントで優勝したのではない。果たして彼がふさわしいチャンピオンなのか、疑問だね。みんな気付いていると思うけど、言わないだけだろう。』と2007年のGP決勝トーナメント前にコメントしている<ref name="#1">[https://gbring.com/sokuho/news/2007_12/1206_k-1_04.htm 【K-1】12・8バダ・ハリ、レミーに挑発返し!「彼はフェイクチャンピオンだ」] 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年12月6日</ref>。
*2度目の優勝を果たした2004年のWGPでは、前年度王者ということで開幕戦を免除され、決勝大会からの出場となり、1回戦をシードされた。(なお、翌2005年も1回戦をシードされており、K-1史上全てのトーナメントにおいて開幕戦を免除された選手は2004年と2005年のレミーのみである。)決勝大会では、前述のように準々決勝のホースト戦、準決勝のボタ戦と疑惑の判定勝利によって決勝に進出し、さらに決勝の対戦相手の[[武蔵 (格闘家)]]もレミーと同様に準々決勝と準決勝で疑惑の判定勝利によって決勝に進出してきたため、大会終了後には、K-1のジャッジに対する批判が相次ぎ、K-1公式サイトで、疑惑の判定の検証が発表されると言った異常事態となった。その為か、その年のオランダ格闘技界の年間MVPは[[エロル・パリス]]、[[アジス・カトゥー]]、[[グーカン・サキ]](この時のサキは無名であり下積み時代であった)、[[ゲーリー・ターナー]]と言った無名選手にしか勝利していない[[バダ・ハリ]]となるなど、優勝は果たしたものの、『レミーは王者になるような実力ではないのではないか』という声がさらに強まる結果となった。
 
*[[エロール・ジマーマン]]は『レミーはK-1で3度チャンピオンになっているけど、強い選手だとは思わない。彼は運が良かっただけだ。』と評している。<ref>[https://gbring.com/sokuho/news/2009_12/1203_k-1_10.htm 【K-1】12・5エロジマンが豪語「全試合KOで終わらせて六本木だ!」] 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月03日</ref>。
*3度目の優勝を果たした2008年のWGPでは開幕戦の[[ポール・スロウィンスキー]]戦で3Rに追い込まれながらも、またしても疑惑の判定勝ちを収めた事。そして、WGP決勝では準々決勝の対戦相手のバンナが試合前から左腕を負傷していた為、[[ピーター・アーツ]]、[[エロール・ジマーマン]]と言った強豪と対戦していた[[バダ・ハリ]]に比べて、組合せに恵まれていた面もあり、更に決勝の[[バダ・ハリ]]戦での勝利が反則による決着であった為、またしてもレミーの実力を疑問視する声が上がった。
 
*レミー本人は、こういったレミーの実力を疑問視する声について、2009年のジマーマン戦前のインタビューにて『私が優勝するといつも文句が出る。』とコメントしている<ref>[http://gbring.com/sokuho/result/result2009_12/1205_k-1_02.htm 【Kname="名前なし_2-1】セミー・シュルトが大活躍のバダ・ハリをKOし、史上最多タイ4度目の優勝] 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月5日<20231105132544"/ref>。
 
== 2度にわたる名誉賞の受賞 ==
130 ⟶ 156行目:
== 戦績 ==
{{Kickboxing recordbox
|total=9598
|wins=7778
|KOwins=40
|decwins=3736
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|KOloss=5
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{{Fight-start}}
{{Fight-header}}
{{Fight-cont|×| [[メルヴィ・マヌソン・ブラドック・シルバ]]| 3R終了 判定| GLORYWFL: Manhoef 13vs. TOKYOBonjasky| 2013201712102129日}}
{{Fight-cont|○| [[ミルコ・クロコップ]]| 3R終了 判定2-0| Glory Glory 14: Zagreb| 2014年3月8日}}
{{Fight-cont|×| [[アンダーソン・ブラドック・シルバ]]| 3R終了 判定0-3| GLORY 13 TOKYO| 2013年12月21日}}
{{Fight-cont|×| [[タイロン・スポーン]]| 2R 2:02 KO(右ストレート)| GLORY 5 LONDON| 2013年3月23日}}
{{Fight-cont|×| [[ジャマール・ベン・サディック]]| 2R終了 判定90-100| [[DREAM.18 & GLORY 4]]<br />【GLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012 準々決勝】| 2012年12月31日}}
{{Fight-cont|○| [[フィリップ・ヴェルリンデン]]| 3R終了 判定143-142| [[DREAM.18 & GLORY 4]]<br />【GLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012 1回戦】| 2012年12月31日}}
{{Fight-cont|○| [[アンダーソン・ブラドック・シルバ]]| 3R+延長1R終了 判定4-1| GLORY 2| 2012年10月6日}}
{{Fight-cont|×| [[セミー・シュルト]]| 1R 2:28 KO(2ノックダウン:右ストレート)| [[K-1 WORLD GP 2009 FINAL]]<br />【WORLD GP 準決勝】| 2009年12月5日}}
158 ⟶ 186行目:
{{Fight-cont|○| [[ジェロム・レ・バンナ]]| 3R 1:46 TKO(ドクターストップ:左上腕負傷)| [[K-1 WORLD GP 2008 FINAL]]<br />【WORLD GP 準々決勝】| 2008年12月6日}}
{{Fight-cont|○| [[ポール・スロウィンスキー]]| 3R終了 判定2-0| [[K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16]]<br />【WORLD GP 1回戦】| 2008年9月27日}}
{{Fight-cont|○| [[ヴォルク・アターエフ]]| 3R 0:33 KO(右跳び膝蹴り)| [[K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEI]]<br />【スーパーファイト】| 2008年7月13日}}
{{Fight-cont|○| [[メルヴィン・マヌーフ]]| 3R 2:32 KO(右ハイキック)| [[K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAM]]<br />【スーパーファイト】| 2008年4月26日}}
{{Fight-cont|×| [[ピーター・アーツ]]| 3R終了 判定0-3| K-1 WORLD GP 2007 FINAL<br />【WORLD GP 準決勝】| 2007年12月8日}}
{{Fight-cont|○| [[バダ・ハリ]]| 3R終了 判定2-0| K-1 WORLD GP 2007 FINAL<br />【WORLD GP 準々決勝】| 2007年12月8日}}
{{Fight-cont|○| [[ステファン・レコ|ステファン"ブリッツ"レコ]]| 1R 2:50 KO(右跳び膝蹴り)| K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16<br />【WORLD GP 1回戦】| 2007年9月29日}}
{{Fight-cont|○| [[グラウベ・フェイトーザ]]| 3R終了 判定2-0| K-1 WORLD GP 2007 in HAWAII<br />【スーパーファイト】| 2007年4月28日}}
{{Fight-cont|○| [[ステファン・レコ|ステファン"ブリッツ"レコ]]| 3R終了 判定3-0| K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦<br />【WORLD GP 準々決勝】| 2006年12月2日}}
{{Fight-cont|○| [[ゲーリー・グッドリッジ]]| 3R 0:52 KO(左ハイキック)| K-1 WORLD GP 2006 IN OSAKA 開幕戦<br />【WORLD GP 1回戦】| 2006年9月30日}}
173 ⟶ 201行目:
{{Fight-cont|○| [[アレクセイ・イグナショフ]]| 3R+延長R終了 判定3-0| K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦<br />【スーパーファイト】| 2005年9月23日}}
{{Fight-cont|○| [[リカルド・ノードストランド]]| 3R終了 判定3-0| K-1 Fighting Network K-1 SCANDINAVIA 2005| 2005年5月21日}}
{{Fight-cont|×| [[マイティ・モー]]| 3R終了 判定1-2| K-1 WORLD GP 2005 IN LAS VEGAS<br />【スーパーファイト】| 2005年4月30日}}
{{Fight-cont|○| [[レイ・マーサー|レイ"マーシレス"マーサー]]| 1R 0:22 KO(右ハイキック)| K-1 WORLD GP 2005 IN SEOUL<br />【スーパーファイト】| 2005年3月19日}}
{{Fight-cont|○| [[武蔵 (格闘家)|武蔵]]| 3R+延長2R終了 判定3-0| K-1 WORLD GP 2004 決勝戦<br />【WORLD GP 決勝】| 2004年12月4日}}
{{Fight-cont|○| [[フランソワ・ボタ|フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ]]| 3R終了 判定3-0| K-1 WORLD GP 2004 決勝戦<br />【WORLD GP 準決勝】| 2004年12月4日}}
{{Fight-cont|○| [[アーネスト・ホースト]]| 3R+延長R終了 判定3-0| K-1 WORLD GP 2004 決勝戦<br />【WORLD GP 準々決勝】| 2004年12月4日}}
{{Fight-cont|○| [[曙太郎|曙]]| 3R 0:33 KO(右ハイキック)| K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦<br />【スーパーファイト】| 2004年9月25日}}
{{Fight-cont|○| [[アジス・カトゥー]]| 2R 1:59 TKO(レフェリーストップ:左手首負傷)| K-1 WORLD GP 2004 in SEOUL<br />【スーパーファイト】| 2004年7月17日}}
{{Fight-cont|○| [[フランソワ・ボタ|フランソワ"ザ・ホワイトバッファロー"ボタ]]| 3R終了 判定3-0| K-1 WORLD GP 2004 in NAGOYA| 2004年6月6日}}
{{Fight-cont|×| [[フランシスコ・フィリォ]]| 3R終了 判定0-3| 一撃 〜極真 vs K-1 全面対抗戦〜<br />【一撃キックルール】| 2004年5月30日}}
187 ⟶ 215行目:
{{Fight-cont|○| [[ピーター・グラハム]]| 1R 2:58 KO(2ノックダウン:右上段膝蹴り)| K-1 WORLD GP 2003 決勝戦<br />【WORLD GP 準々決勝】| 2003年12月6日}}
{{Fight-cont|○| [[ボブ・サップ]]| 2R 1:20 反則失格(倒れた相手への攻撃)| K-1 WORLD GP 2003 開幕戦 ALL STARS<br />【WORLD GP 1回戦】| 2003年10月11日}}
{{Fight-cont|○| [[マイケル・マクドナルド (格闘家)|マイケル・マクドナルド]]| 3R+延長R終了 判定2-1| K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス<br />【世界最終予選トーナメント 決勝】| 2003年8月15日}}
{{Fight-cont|○| [[ジェフ・フォード]]| 1R 1:28 TKO(レフェリーストップ:右肩負傷)| K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス<br />【世界最終予選トーナメント 準決勝】| 2003年8月15日}}
{{Fight-cont|○| [[ヴァーノン・ホワイト|ヴァーノン"タイガー"ホワイト]]| 1R 1:55 KO(右フライングハイキック)| K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス<br />【世界最終予選トーナメント 1回戦】| 2003年8月15日}}
{{Fight-cont|×| [[セミー・シュルト]]| 5R終了 判定0-3| K-1 WORLD GP 2003 in 福岡| 2003年7月13日}}
{{Fight-cont|○| [[ビヨン・ブレギー]]| 3R 1:29 TKO(タオル投入)| K-1 WORLD GP 2003 in さいたま| 2003年3月30日}}
{{Fight-cont|○| [[アントニー・ハードンク]]| 5R終了 判定3-0| IT'S SHOWTIME 6 "As Usual"| 2002年9月29日}}
{{Fight-cont|×| [[ステファン・レコ]]| 5R終了 判定0-3| K-1 WORLD GP 2002 in ラスベガス<br />【スーパーファイト】| 2002年8月17日}}
{{Fight-cont|×| [[ミルコ・クロコップ]]| 2R 2:06 TKO(レフェリーストップ:パンチ連打)| K-1 WORLD GP 2002 in 福岡<br />【スーパーファイト】| 2002年7月14日}}
{{Fight-cont|○| [[ピーター・マエストロビッチ]]| 4R 0:27 KO(右ハイキック)| K-1 WORLD GP 2002 in パリ| 2002年5月25日}}
{{Fight-cont|×| [[エロル・パリス]]| 1R 1:20 KO(左ボディフック)| K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 オランダ大会<br />【オランダ地区予選トーナメント 準決勝】| 2002年2月24日}}
{{Fight-cont|○| [[メルヴィン・マヌーフ]]| 3R終了 判定3-0| K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 オランダ大会<br />【オランダ地区予選トーナメント 1回戦】| 2002年2月24日}}
{{Fight-cont|○| [[セルゲイ・アルヒポフ]]| 5R 2:00 TKO(タオル投入)| K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 マルセイユ大会<br />【スーパーファイト】| 2002年1月25日}}
{{Fight-cont|○| [[レイ・セフォー]]| 4R終了時 TKO(タオル投入)| K-1 SURVIVAL 2001 〜JAPAN GP 開幕戦〜<br />【スーパーファイト】| 2001年6月24日}}
{{Fight-cont|×| [[ジェレル・ヴェネチアン]]| 3R終了 判定1-2| K-1 WORLD GP 2001 世界地区予選 オランダ大会<br />【オランダ地区予選トーナメント 1回戦】| 2001年2月4日}}
{{Fight-cont|○| [[ピーター・ヴァルガ]]| 1R 2:57 KO(跳び膝蹴り)| IT'S SHOWTIME 4| 2000年12月12日}}
{{Fight-cont|×| [[ジェレル・ヴェネチアン]]| 5R 判定0-3| IT'S SHOWTIME 3 - Exclusive| 2000年10月22日}}
{{Fight-cont|○| [[アティラ・カラチ]]| 1R KO| Battle of Arnhem II| 2000年9月3日}}
{{Fight-cont|○| [[スタニスラブ・バチェバノフ]]| 2R KO| Thaiboxing - Thrill of the Year!| 2000年5月20日}}
{{Fight-cont|×| [[アセルゲハンオズチェリカ]]アルヒポフ| 2R5R終了 TKO(レフェリーストップ)判定|Night IT'S SHOWTIMEClub 1"Reaktor"| 199920001032413日}}
{{Fight-cont|○| [[ピーターアイハンオズチルスキューレン]]リカ| 1R2R KOTKO(レフェリーストップ)| Battle of ArnhemIT'S I<brSHOWTIME />【決勝】1| 1999年910524日}}
{{Fight-cont|○| [[フランクピーターオットフェルスキュ]]レン| 1R TKO(レフェリーストップ)KO| Battle of Arnhem I<br />【1回戦決勝】| 1999年9月5日}}
{{Fight-cont|○| [[ンクベルバオットチ]]| 2R1R KOTKO(レフェリーストップ)| 不明(オランダ)Battle of Arnhem I<br />【WPKA世界ムエタイスーパーヘビー級タイトルマッチ1回戦】| 1999年6965日}}
{{Fight-cont|○| ラニ・ベルバーチ| 2R KO| 不明(オランダ)<br />【WPKA世界ムエタイスーパーヘビー級タイトルマッチ】| 1999年6月6日}}
{{Fight-cont|×| [[アレクセイ・イグナショフ]]| 3R終了 判定0-3| WPKL Muay Thai Fight Night<br />【WPKA世界ムエタイスーパーヘビー級タイトルマッチ】| 1998年}}
{{Fight-cont|×| [[ロイド・ヴァン・ダム]]| 3R終了 判定| KO POWER Tournament<br />【決勝】| 1998年4月14日}}
{{Fight-cont|○| [[ピーター・フェルスキューレン]]| 3R終了 判定| KO POWER Tournament<br />【1回戦】| 1998年4月14日}}
 
{{Fight-cont|×| Achille Roger| 3R終了 判定| Kickboxing Tournament Prague 1997 <br />【準決勝】| 1997年10月}}
 
{{Fight-cont|○| [[ヴァレンタイン・オーフレイム]]| 2R TKO(タオル投入)| 不明(オランダ)| 1995年}}
{{Fight-end}}
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{{Commonscat|Remy Bonjasky}}
* [http://www.remybonjasky.com/ Remy Bonjasky AKA The Flying Gentleman] - 公式サイト
* {{Instagram|remybonjasky|Remy Kenneth Bonjasky}}
* [http://www.k-1.co.jp/jp/fighter/player.php?index=bonjasky K-1 選手データ]
* {{Facebook|remybonjasky|Remy Bonjasky}}
* {{YouTube|handle= remybonjasky8762| Remy Bonjasky}}
* [{{Wayback|url=http://www.k-1.co.jp/jp/fighter/player.php?index=bonjasky |title=K-1 選手データ] |date=20110720021900 }}
 
{{Championshiptitle2||[[K-1]] WORLD GP 2003||アーネスト・ホースト|レミー・ボンヤスキー|2003年12月6日}}
{{Championshiptitle2||K-1 WORLD GP 2004||レミー・ボンヤスキー|セーム・シュルト|2004年12月4日}}
{{Championshiptitle2||K-1 WORLD GP 2008||セーム・シュルト|セーム・シュルト|2008年12月6日}}
 
{{K-1 WORLD GP歴代王者}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほんやすきい れみい}}
[[Category:オランダのキックボクサー]]